OCTAVEBURG 外伝

ピアニスト羽石道代の書きたいことあれこれ。演奏会の予定は本編http://octaveburg.seesaa.net へ

なぜエレジーは書かれ なぜそれに胸を心打たれるのか

2024-11-11 | 日記

エレジー 哀歌 挽歌 死者を悼む音楽。
乱暴な言い方だが、名曲揃いだ。
タイトルがエレジーであったりそうでなかったりするが、最近そのような曲を取り組む機会が続き、触れる毎に発見と感動が止まらない。私は一音も作曲して表すことができないので、なぜ作曲家はエレジーを書くのか、書くに至るのか(考えるのも野暮ってもんだが)「書けないけど弾く私」として改めて1人で考えたり、友人と話したりしてきた。

まず。もう、この曲と出会って感じた心の震えを忘れない。フォーレのエレジー作品24。(ピアノで始める責任重め。)主和音が鳴り渡り、その瞬間から1小節間のうちに8回エコーのように繰り返されディミニエンド。チェロの旋律が2小節目から歌い出す時には背景に回り込んでいる。どんな前奏より効果的。シンプルだけど胸が打たれる。そう、心臓に直接ダメージが来る。
下降するラインがこんな悲しみを与えるなんて。音の高低が感情をこんなに表現するなんて。それを和音で支え続ける、痛み。
次の主題は優しい思い出か天国の響きだろうか。ピアノが高音域で主題を提示した後チェロがもう一度繰り返す。
そして激しい慟哭の後、天国の響きが風の中から聴こえるような、そして暗闇に閉じていく。
...泣かない人、います?

つぎ。先程述べた通り私は一音も作曲できないので、プーランクのオーボエソナタがプロコフィエフのオマージュであることに感謝している。プロコフィエフはプーランクの友人だった。私はプロコフィエフに青春時代の友人のような気持ちがあるので(実際会ったこともないけど)、私もこれでプロコフィエフに伝えられる!という勝手な都合の良い気持ちになっている。
第1楽章がエレジー。プーランク作品に時折あらわれる「遠い呼びかけ」(おーい...みたいな)が曲の世界観の扉を開ける、(すごいフレーズですね。)穏やかな暖かい世界。
これもやはり和音の連打の伴奏で、優しくポツポツと話し始める旋律は次第に雄弁に、ピアノの右手とゆったり対話を重ねていく。その対話は温かいようで逆に寂しさを深めるようで、最後の空虚な響きは心にぽっかり穴が空いたような気持ちになる。
第3楽章は古い時代の祈りの歌を借りて、死者に想いを伝える。
静かに震える背中。ああ、さようなら 友よ 君がいない事が今とても、孤独。

そしてエレジーと名乗りはしないが、これは同じ気持ちかも。
展覧会の絵。ムソルグスキー。
いやー難し過ぎて(色々)ソロでは一生弾かないと決めていたのに。正確にはソロではないけどほぼソロ。サクソフォンとピアノのアレンジ(編曲:長生淳氏)を取り組むことになってしまった。これまでにアンサンブルやオケ中チェレスタは経験させていただいていたが、まさか。

ムソルグスキーが画家のハルトマンの個展を見て、インスピレーションを受けて、という成り立ちであることは知っていたが、急死してしまった大事な友人へのエレジーと言っていいのではないか。特に、カタコンブの後のプロムナード 死者と共に死者の言葉で。(右手 高音でずっとトレモロという泣きたくなるようなテクニックも要求される)元気いっぱいだったプロムナードの旋律がすっかり肩を落として。暗い部屋ですすり泣いている。
あの時彼の具合が悪くなったのに(一緒にいた時に急にうずくまる出来事があったらしい、心臓発作の予兆)気がついてあげられなかったのは自分のせいだろうとか、ああもっと... でも苦しみが長くなかったのなら、いくつもの救いの方向に無理矢理転換させたくも所詮時計の針は戻せず、進めることは止められない現実を生きる「自分」が辛い。

何かに書いてあった(記憶で書きます)言葉で、これは私の気持ちをまとめてくれた言葉だから書かせてください。

「好きな人との別れは、本人との別れと同時に、一緒にいた自分、愛されていた自分という愛しい自分自身との決別になる。自己との別れだからこそ人は苦しむ」

そうか、愛されていた自分、愛していた自分、それまでも取り返せないのか。
そういう事だったのか。

エレジーってどうして書くのかな、の質問に、どうしようもない気持ちが溢れ出て衝動的にその行為になるのでは、という答えもあったけど、もちろんそのエネルギーがすごいのは想像できる。(作れる人の気持ちが想像しきれないのでアレですが)そうなんだと思うけど、きっと溢れるものというよりは
「これしか できない」
なのかなと。作ることしかできない。だから衝動的というより計算されてる。いまや伝えられない人に伝えたいから一番いい形にしたいという、意気込み、いや覚悟とでも呼ぶのがいいのか。

「これしか できない」
だから聴く人は強く共感するし、弾く人間は弾きたいと思うのだろう。弾く私たちも「これしか できない」からそれは分かる。だが本気で考えるとその曲たちのこの域に行くのは結構大変で、「こんなの できない...」も思ってしまう。
思いを膨らませて感動を高めて一緒に泣いてあげるみたいな時期も必要だけど、心がグリッとえぐられる喪失感に辿り着くのは、文字通りえぐって削ぎ取って減らないといけない気がする。息すら入れることができない 苦しい ああ ここしかない ってとこまでいけると分かる世界が見えるのかもと思っている。

生きてる時間が長くなれば出会いも別れも機会が増える。私もこの先曲に出会えばまた違う色で見えるだろう。
音楽は人生を教えてくれる。やっぱり人間がしてきたことだから。

伊藤洋夢サクソフォンリサイタル ピアノ:羽石道代
teket でチケットはご案内できます。
・東京公演 2024年11月13日(水)19:00-
五反田文化センター音楽ホール
https://teket.jp/10833/37139

・七ヶ浜公演 2024年12月7日(土)19:00-
七ヶ浜国際村ホール
https://teket.jp/10833/37177

写真はいただいた時になぜか「羨ましい ...」(双方において ボトルも花も)思ってしまった素晴らしいプレゼント。
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