お料理ではなく、音楽のことをかける日がきた。少し、気持ちが動くことがあったから、書いてみたい。
この事態になってからも私は多分ちょっとツイてたはずだ。有難いことだった。6月に人前で演奏させていただく機会があった。合わせ(練習)から本番まで、何か「昔みたい!」な感覚を得て、嬉しかった。(終わったら感極まって...という美しい話ではなく、終わったら反省に包まれまくった自分に、通常運転だなという実感を持ったというのが実際のところ)
そのうち少しずつホールでのオーケストラの演奏会などが再開され、その活動に(ちょっぴりの羨ましさを持ちつつも)音楽関係者であるからにはご心労とご苦労にエールと、そして、どんどんうまく事が進むよう祈っている。そんなところに、聴きに行かねばならない!と思える演奏会の情報が入ってきて、心を決めてチケットを購入した。内容も変更があっての演奏会だった。演奏会に行くのは3月末以来だ。
久しぶりのホールは入り口から徹底した防犯・ならぬ防菌?のアイディアに溢れており、チケットは自分でもぎって箱に入れる(それも座席で区分けされているのである意味その後効率的)。もちろん手指のアルコール除菌の確認、センサーで検温もある。プログラムは机に置かれていて自分で取る。大した手間ではない。
使える座席は1つ置きに設定されているようだが、その限られた座席はほぼ満席だった。が、私は多分一番人気のないエリアの座席を買っていたので(音はいいと思っているんだけど)私のいるエリアは私を含め2人しかいない贅沢な貸し切りだったので、失礼ながら見やすいようにちょっと浅く腰掛けるなど(浅く座るのは得意な私)パーソナルスペースも広々と自由に鑑賞させていただいた。
演奏会のアナウンス後、しばらくして開演。チューニングが終わって少しの静寂。
ソリストが登場した時、慌ててプログラムを膝に置いて、拍手を送ったとき、泣けた。
もともと泣く覚悟で来ていたんだが(笑)自分でもびっくりした。早いな、泣くの。
何にって、尊敬するソリストが出てきたからだけではなく、それよりも自分の手が「拍手をしている」ことが泣けた。
以前、友人の結婚式に参加した時、新郎新婦が祝福の拍手を浴び、参列者が皆心からの拍手を送っているのを見ながら、ぼんやりと私たち演奏家はなんて幸せな職業なんだと思ったことがあった。毎回ステージでいただく拍手が、結婚式の祝福の拍手と重なったからだ。また、こんなに拍手を浴びている姿を皆さんに見ていただけるなんて幸せなことは普通人生の中で多くないのだ。(ん?ちょっと意味合いが違うんじゃない?と気を悪くされた方がいるなら謝っておく)
それと同時に、普段から私たちは拍手を「いただく」だけではなく、たくさん拍手を「している」人種なのではないだろうか。だから拍手に意味を込めるテクニックも知っている気がする。ただ単に手を叩いているのではなく、我々は「お疲れ様!」「おめでとう」「ありがとう」も、「すごいよかった!」「よくぞ頑張った...」「今後も期待しているよ!」などのメッセージを込めたり感じ取ったりすることが日常に組み込まれていたのではないか。演奏後に演奏者に会える機会もあるが、直接声をかけられない時、相手だっているから、演奏後の拍手にうんとメッセージを込めているはずだ。思い出してみよう、めちゃくちゃいい演奏会に1人来てしまって誰ともこの感動を言葉で分かち合えない、でも感動で胸がいっぱい!という時に演奏者に送る拍手の腕と手のひらの疲れと言ったら、言葉以上の感動が体に残る。それを私の手は思い出したらしい。私は感動を、したかったんだ。
だから、心から泣けた。
ポジティブなことだっていくらでも言える。まだ、大丈夫。ただ、ネガティブな気持ちだって吐かないと、ちょっと無理だ。
今だからではない気もするが、この状況下で人は前向きな気持ちを伝えたり逆に弱音を吐いたり、希望を持ったり不安を持ったりしている。ただずっとどちらかの気分でいるほど人類は暇じゃない、って感じだろうか。
私の気持ちは、何か翼を切れと言われたから切って待機。でも切られても羽って生えるんですって。そこに安心しつつも羽がお家仕様になってしまったらどうしようって心配している。
とはいえ、自分でできることを探していかなければ羽も生えて来なくなっちゃうんじゃないか。でも翼が生えてもいつ使えるの?考え始めたら全て否定的になるから希望が持てない日だってある。
ただ自分でも面白いのは、時間があるから考えて考えて1周してもまだ時間があるので、冷静になって自分でつっこめるくらい、このネガティブとポジティブの間を行ったりきたりしてはニュートラルに戻って日常を送っている。皆もそうかもな、とか仲間の顔を思ったりしてね。(...皆は違うかもしれない、と思うとまた1周できるよ)
ただ、この間にも私のようにグルグルしないで真っ直ぐな光を与えてくれるような演奏家の方もいて、結論 いい演奏、いい音楽には救われる自分がいた。(この場合の「いい」は自分の心にフィットするという意味でいかがでしょう)
私もアホみたいなこと考えていないで何かやるか...と正気に戻らせてくれたその方々には感謝している。お家で。
私は、これから何ができて、何をしたいのか。その立派な方のようにはなれなくても。
そうしてまたネガティブとポジテイブの間をグルグルサーキットし続けるだろう、なぜなら「私」だから。
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