イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

画面の「インプロビゼーション」

2024-05-19 18:20:44 | 日記

 

みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
よろしくお願いいたします。
 
さて、
 
ここのところ、わたしは「メチエとイマージュの稽古」
 
を一生懸命にやっていて、
 
それは今回もまったく同じです。
 
しかし、「即興」というものが、わたしの稽古のなかにはいつもあって、
 
これを、ここでよく考える必要があるなと気づきます。
 
改めて考えると、
 
「メチエのある即興」、「基本のある即興」は、音楽では「インプロビゼーション」と呼ばれていますが、
 
わたしもわたしなりに、「画面のインプロビゼーション」をしています。
 
こういう「即興」の考え方は、以前からあり、
 
いまよりずっと素朴な考えでしたが、
 
これを「リバティ・バランス・セッションズ」、などとも呼んでいました。
 
一種の「アドリブ稽古」です。
 
必要だと思う場合、
 
いまでも「らくがき」的なやり方をしています。
 
そして「自由」というものが、わたしの大きな課題で、
 
さしあたりそれは「画面の自由」です。
 
これがどうあるべきか考えてみます。
 
 
 
 
 
 
 
「メチエ」と「即興」が
 
どう関係するかというと
 
それは、おそらく「イメージだし」と「アイデア・デッサン」の問題になると思います。
 
「イメージだし」とは、
 
以前書いたことのくりかえしになってしまいますが、
 
まず「手を動かして、具体的」に、つまり即興的に、
 
画面を育ててゆくことです。
 
これをしてゆくことが「アイデア・デッサン」です。
 
とはいっても、画面というものは、ひとつの「秩序」を持っているもので、
 
そうでないと、いい画面にはならず、
 
「イマジネーション・トレーニング」
 
の場合はとくにそうですが
 
自分の持っている固有の「画面パターン」(「プリミティブ・パターン」)があり
 
これはそんなにころころ変わりません。
 
また、色構成とか、画材や紙の特徴などを考えてみて、
 
ジャズの「インプロビゼーション」に、
 
ハーモニーやリズムの勉強が、実用できるかたちで求められるように
 
「画面の調和やバランス」というものを、それなりに把握できないと
 
なかなか魅力的ないい「画面」はできてゆかず、
 
そういうことを、「イメージ」というものを使って勉強してゆく必要があります。
 
それがつまり「イメージだし」という作業の具体的な内容になるかと思います。
 
つまり「メチエの勉強」を、「イメージだし」と「アイデア・デッサン」という形で、具体的にやっています。
 
試行錯誤の試みを毎日繰り返しています。
 
これが「テクニック的な意味でのインプロビゼーション」です。
 
 
 
 
 
 
そして、「メチエと自由」がどう関係するかを考えますが、
 
それは「自分が自分らしくあることの追求、方法論」だと思います。
 
深く無邪気で陽気でありたいと願っています。
 
「自己探求」ということ、「自分を掘り下げること」
 
それはつまり、禅でいう「悟り」に類似し、
 
わたしは瞑想も座禅もしませんが、
 
いまのわたしなりの勉強の範囲では、「もののあはれをしる道」
 
という本居宣長の「紫文要領」での指摘、藝術観に、一番共感を覚え、
 
自分をよくしてゆくものとして、
 
日々画面に取り組んでいます。
 
これがわたしなりに考えてみた「画面のインプロビゼーション」というものです。
 
 
さて、今回は「インプロビゼーション」としての「イマジネーション・トレーニング法」
 
について、
 
原則的な話しをまたしてみました。
 
こういう風にして、
 
毎日のように
 
こつこつ勉強して稽古しています。
 
これが、藝能や稽古、また「道の脩養」に志しているみなさんの
 
なにか参考になればと願います。
 
ではまた次回お会いしましょう。
 
読んでくださり、ありがとうございました。
 
 
( つづく )

メチエとイマージュの稽古

2024-05-07 17:46:46 | 日記

 

みなさま、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
よろしくお願い致します。
 
さて、
 
前回、わたしは「メチエのトンネル」のなかで悪戦苦闘していました。
 
ここでわたしは「線」の重要性に改めてはっきり気づき、
 
「ステンドグラス」のような「強い線」を、ここでまた画面に採用することにしました。
 
そのような「メチエ(技術)」の工夫を通して、「新しい方向性」への目が啓け、
 
それをとりあえず、「メチエとイマージュの稽古」と呼んでいます。
 
ほぼ毎日のように、こつこつ稽古をしてきて、
 
「制作」と呼んでいいものが、だんだん、できあがりはじめました。
 
これはかなり大きい「開眼」だと感じていて、
 
「イメージ」や「イマジネーション」というより、「イマージュ」という言葉が適切だと感じ、
 
それは、新しい「メチエ(技術)の広がり」と、それに呼応する、「イメージの深まり」です。
 
嬉しかったです。
 
 
 
 
 
どの作品も、ある一連のいくつかの「メチエの追求」を土台としていて、
 
それを基に「イマジネーション・トレーニング」をしています。
 
「メチエの追求」というものを手掛かりにして
 
イマジネーションを考え、
 
イメージや感覚を手掛かりとして、メチエを考えています。
 
課題としては、たとえば
 
「紙の選びかた」、「即興の画線」、
 
画材の選択と「色構成」の課題、「線の展開」、そして「仕上げ」
 
 
など、かなり多くありますが、
 
どれもが「メチエとイマージュの稽古」で、
 
細かいメチエのテーマをここで具体的に考えています。
 
画面を構成する上での「アルゴリズム」を、かなり細かく検討してゆき、
 
また、画材の選択がかなり多様になりました。
 
「使えるものはみんな使う」という感じで、
 
画いている「パターン」自体は、以前からそう変わっていないのですが、
 
これらの「メチエ」なくしては得られない「画面の「質」」というものができてきて、
 
これは「あたらしいイメージの展開」といっていいかと思います。
 
それをとりあえず、フランス語の「イマージュ」という言葉で呼んでいます。
 
厳密に考えたわけではないのですが、
 
言葉の「使われ方」のようなものの違いを意識しています。
 
 
 
 
ある「画面の質的成長」のようなものを
 
これらの写真から、感じていただけたら、
 
すごく、ありがたいと思います。
 
最近の稽古の報告でした。
 
 
いつも報告を読んでくださる皆様には、
 
深く感謝しています。
 
稽古は、山あり谷ありで、
 
いいときばかりではないですが、
 
こういう風にして、ちょっとずつ、
 
勉強して、稽古しています。
 
それでは、
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
( つづく )

メチエのトンネルより

2024-04-20 18:16:15 | 日記

 

みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
みなさまおかわりないでしょうか。
 
よろしくお願い致します。
 
 
ここのところわたしは「紙」のバリエーションを増やしたいと感じていて
 
いつもお世話になっている「世界堂」さんの
 
「洋紙」コーナーに頻繁に伺っていました。
 
そこでいろいろな紙を吟味して、
 
「ゴンドラパステル」向きの紙はないかなと探していました。
 
微妙な中間色の構成の映える、
 
少しグレードの高い紙を探していました。
 
その結果
 
名前だけ挙げても仕方ないかもしれませんが、
 
「マーメイドの白」や「シリウス」などという紙に出会い、
 
大きさは、A4、B4、A3などです。
 
色味や紙の目などに惹かれて、
 
すこし大きめの紙などもいいなと思っています。
 
それと関係しているのかもしれませんが、
 
これでゆっくり稽古してゆくうちに
 
「色構成」の必要を強く感じ、
 
ゴンドラパステルや水彩色鉛筆、
 
などでの構成が始まり、
 
そのせいか、
 
わたしはすっぽり「メチエのトンネル」に入ってしまいました。
 
これはある意味ではおそらく「成長」でしょう。
 
 
 
画面としての「必然性」を追ってゆくうちに、
 
ずーっと「彩色分割」のような作業を繰り返しやり続けています。
 
これは達成感の低い「きつい」作業ですが、
 
いまはこれをするしかないと思います。
 
おそらく、ようやくここでわたしは成長を始め、
 
「メチエ」の面から、
 
この「トンネル」のなかで「画面の稽古」を成長させたいと願っています。
 
また「イマジネーション」の面でも、
 
なにか成長があるといいなと願っています。
 
たとえば「マチエール」の点などです。
 
 
 
 
最後に、
 
今回の「メチエのトンネル」の
 
なかから
 
もう一点紹介したいと思います。
 
これは「うまくいっているな」と感じた貴重な一枚です。
 
 
 
 
 
 
いつまで、この「トンネル」が続くかはまったくわかりませんが、
 
次回の報告は
 
もうちょっと明るい、前向きなものにできることを祈り、
 
今回の筆を擱きたいと思います。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
( つづく )
 

「なにかがそだつ」こと

2024-04-02 16:24:32 | 日記

 

おはようございます。
 
櫻も咲き、よい季節になりました。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
よろしくお願い致します。
 
ここのところでは、
 
例によってわたしはこつこつと勉強して、
 
また画面に取り組んでいました。
 
そして、
 
ここで取り上げたいなというテーマがあり、
 
「なにかがそだつこと」です。
 
わたしは「イメージやパターンの探求」として画面を稽古していて、
 
それが要するに「イマジネーション・トレーニング」です。
 
その「イメージやパターン」について、
 
繰り返しになることも多く、
 
うまく書けるかわかりませんが、
 
そろそろ書いてみたいなと思っています。
 
よろしくお願いします。
 

 
 
わたしのしている「画面の稽古」は
 
「コンポジション」などの意図はほとんどなく、
 
もちろん「稽古育て」や「メチエ」は、いろいろ工夫していますが、
 
これを「絵」とよんでいいか、ちょっとためらいます。
 
それで「画面の稽古」と呼んでいて、
 
即興的に、
 
ある「イメージだし」を具体的な「パターン」で行っています。
 
「パターン」というものの、考えと方して、
 
「ベーシック・パターン」や「プリミティブ・パターン」があり、
 
「画面」、「記録」というものの宿命として、
 
はっきりした「すがた」というものを通して「イメージ」を探求しています。
 
またそういう「具体的」なかたちにしてみないと
 
「イメージ」というものを捕まえるのはかなり難しいと感じます。
 
これは「音楽」が「楽譜」という「パターン」を使っているのと同じで、
 
「瞑想でビジョンを見る」
 
などとははっきり違うやり方です。
 
 
 
 
 
ここでおもいだすのは、
 
これは仏壇屋さんかなにかの看板で読んだのですが、
 
「こころはかたちを求め、かたちはこころをすすめる」
 
という有名なことばです。
 
わたしの感覚としてはこつこつと稽古してゆくうちに
 
ひょいひょいと「気づき」や「思いつき」
 
が重なって、
 
「かたち」がだんだん育ってゆき、
 
画面の仕事が進むような感じです。
 
だいたいいま、
 
一日3枚程度の画面を稽古していますが、
 
具体化したものとわたしのなかのなにかが触発され育ってゆき、
 
それは「こころ」といっていいのかもしれません。
 
わたしもときに「脩養」というものを考えますが、
 
この稽古を通して、
 
「人間的な成長」があるなら、すごく嬉しいと思います。
 
理想を言えば「境涯」のようなものが、
 
将来、あらわせたらいいと願っています。
 
 
 
 
 
 
以前にも「展開」という用語を使って、
 
このプロセスを書きましたが、
 
「イメージだし」とか「展開」とかは
 
理屈でうまく説明するのは難しく
 
実際、やってみないとよくわからないのではと思います。
 
「イメージだし」とは
 
要するに「具体的にかたちにしてみる」ことで、
 
たとえば、文章のこういう原稿でも、
 
ある程度は書いてみないと考えも進みません。
 
それが「イメージ」といえば「イメージ」でしょう。
 
つまり、
 
これがわたしなりの「イメージとパターンの探求」
 
ということになります。
 
ですから「知的生産の技術」として、
 
「思考してゆく方法」としての「ある一般性」があると思います。
 
だいたい誰でもこういうことは、
 
多かれ少なかれ、やっているのではないかと思っています。
 
 
そういうわけで、わたしの場合、
 
イメージとパターンは同時に即興的に育ってゆき、
 
モーツァルトの場合には
 
交響曲の全体が一瞬で見渡せたそうですが、
 
わたしの場合、そういう「離れ技」とはぜんぜん違うわけです。
 
毎日の勉強や稽古の日々で、「なにかが育っているな」
 
と感じられる瞬間があり、
 
それが一番楽しみな感覚です。
 
 
 
 
 
 
今回は「なにかがそだつ」
 
という出発点から考えて
 
「文章の即興」のようなことを行ってみました。
 
うまく行ったかあまり自信がないのですが
 
読んでいただき
 
ほんとうにありがとうございました。
 
ぽつぽつ書いてゆきます。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
( つづく )

せぬひま

2024-03-21 14:24:11 | ことばまなび

 

おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
よろしくお願い致します。
 
今回は「稽古」全般について、
 
あるいは人生全般について、
 
「せぬひま」というテーマで考えて行きたいと思います。
 
よろしくお願い致します。
 
「せぬひま」という言葉を
 
わたしが、いつ、どのようにして学んだか、
 
わたしはよく覚えていず、
 
本来の意味と違ってとっているのかもしれませんが、
 
かなり「東洋的」な考え方なのはたしかです。
 
いろいろなものを稽古してゆき、
 
さまざまなメソッドを考えてゆき、また工夫して、
 
わたしの「イマジネーション・トレーニング」にもそういう危険が多くあるのですが、
 
あまりに、「トレーニング中心」、
 
「作為中心」に考えがゆきそうになったとき、
 
この「せぬひま」ということを改めて思いだし、
 
反省することはままあります。
 
あまりにいろいろしすぎることの反省です。
 
 
 
 
いわゆる「間(ま)」という考え、
 
あるいは、「あいだ」という言葉で考えておられる方もいるようですが、
 
「せぬひま」とは、行為と行為に、時間が空くことに大きな意味があるという考えで、
 
その「ひま」の営みに意味を感じることで、
 
つまり、それは「生活に適切なリズムを刻んでゆくこと」です。
 
生活の中の「テンポ」のようなことをおおまかに調節してゆく考え方になります。
 
わたしは以前、この連載が始まって、一年目ぐらいに
 
「待つ」こと、を一回テーマに取り上げていて、
 
それは「祈る」こととペアになる、とたしか書きました。
 
つまり妊婦さんやお百姓さんと似たことをすることで、
 
「待つ」ということは、
 
やってみるとなかなか難しいことだとわかりますが、
 
根本に「待つ」という態度や姿勢があると、
 
稽古に自然と新しい「展開」のようなものが生まれてきて、
 
つまり「創造」とか「知的生産」のようなことが起きてくるのはたしかで、
 
それが人間の成長の自然な「根」のようなものだと思います。
 
植物のように成長してゆくことで、
 
いつも何かを追い続けてばかりの暮らしというものは、
 
ときどき反省した方が良いと、自分なりには考えさせられました。
 
 
 
 
 
 
ときに「ぽかんとする」時間が必要で、
 
また、喜びとかたのしみという面でも、
 
「待つ」ということが生活の中にあった方が、
 
得られるものが大きいような気がします。
 
それは、なんでもかんでも、詰め込めばいいというのと
 
はっきり違う考え方だと思います。
 
そこに「努力」とは違う、一つの「可能性」の種があるのではないでしょうか。
 
このブログ原稿も、
 
月、一回前後の更新と、
 
みなさんをかなり多く「待たせて」いるわけですが、
 
ゆっくりした丁寧な勉強や、
 
時間をかけた稽古の日々から、
 
何かを発信する意味があると思い、
 
ちょっとずつ頑張っています。
 
楽しみにして待ってくださる方もいくらかいらっしゃるようで、
 
嬉しく思っていて、
 
また、やってゆこうと思います。
 
そういうわけで、
 
これからもよろしくお願い致します。
 
読んでくださりありがとうございました。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
(つづく)