楡野 鈴愛(にれのすずめ) 「先生、私左の耳が聴こえません。小さい頃の病気で…。」
秋風 羽織 「だから?」
鈴愛 「へ?」
羽織 「私は左の耳が聴こえないから人と違ったものが描ける、人と違った世界を知っているからオリジナルなものが描ける…とでも?」
鈴愛 「はぁ?」
羽織 「いいか!そう言うことに甘えるな!
経験があるからあるから描ける、ないから描けない、自分の境遇は描ける、そうじゃないものは描けない…だと、描くものは狭まる。
要は想像力だ!それさえあれば何だって描ける。
想像の翼はどこまでも翔びたつっ!(エコー)」
鈴愛 「………(唖然)」
羽織 「あっでも、片耳聴こえないなんて言うのはいいフックになるな。うん。
いつか、そんな話描いてもいいだろう。
(間髪いれず)あ、次…小宮、原稿…」
(連続テレビ小説“半分青い”より抜粋)
幼い頃からハンディキャップだと思っていたものがこの人ったら、一つの才能、個性としか認識していない。
天才肌の方ってぶっ翔んでるなぁ~
と感じたシーンでしたf(^_^;
手がない脚がない、目が見えない、耳が聴こえない…etc
不便だろうなぁ~、自分に当てはめたらどんなに辛いだろう…とマイナスにしか思えないんだけど、もしかしたらそれって、今の若者の「スマホなかったらどうしたらいいんだ」みたいのと同じなのかもしれない。
初めから人間がそう言う形態だと思えば不便ではないのかもしれない。
パラリンピック観ていても、五体満足の私なんかより全然できちゃってる。
私が幼い頃は、インターネットもパーソナルな電話もなかった。
友達に電話するのも、親の目の前でかけなくてはならなかったし、長いと注意された。
ましてや異性など、あちら様の親が出たらどうしよう…
恐る恐るかけたものだ。
デートも待ち合わせの時間と場所をちゃんと決めておかないと、不慮の出来事が何かあれば会えなかったり、仕方なく帰るしかなかったり。
電話がない、手紙が届いてるのかも分からない時代もあったわけだしね。
便利な状態を普通だと考えての“不便”。
五体満足を普通だと考えての“ハンディキャップ”。
何かのせいにしたいところだけど…
言い訳できなくなっちゃうね(  ̄▽ ̄)