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大した人生ではないけれど,それでも読み返せば思い出されるあのときのこと。消えないように,そして生きた証になるように

2024年夏 北海道経由東北 車中泊の旅 「東日本大震災津波伝承館」「奇跡の一本松」「陸前高田ユースホステル」「陸前高田市立気仙中学校」「黒崎仙峡温泉」 道の駅「高田松原」

2024-11-29 00:19:30 | 2024年夏 北海道、東北車中泊の旅 

8月14日 タピック45(旧道の駅「高田松原」)のあと。

ここ「津波復興祈念公園」内にある「東日本大震災津波伝承館」に行ってみることにした。

 
 
 
 
 
 
入館料は無料。
中高生向け説明パンフレット「震災津波伝承ノート」を小学生用に再編した「震災津波学習ノート」が用意され、それを見ながら
館内を見て回れる。

 
 
 
 
 
 
展示はいくつものパートに分けてあり説明展示がしていた。
「1 歴史をひもとく」

 
 
 
 
 
 
 
地中を柱状に引きぬいて地層のように積み重なった堆積物から過去に起きた津波を紐解くという展示物。
幾重にもある地層から過去この地方にいくつもの津波が押し寄せてきたかが分かる。

 
 
 
 
 
 
「2 事実を知る」
 
公園内の西の端に流れる気仙川。
この展示物はその気仙川の河口から500m上流に架かる気仙大橋の橋桁の一部。
二つに分断された橋桁(重量は2.5トン)は上流307mまで流されたところで見つかったとあった。

 
 
 
 
 
 
 
消防団員たちは地震直後から消火活動、避難誘導に尽力されていた。
津波襲来直前まで使われていた消防車両も津波に流されてしまった。(消防団員は無事だったと記されていました)。




 
 


 
 
 
 
 
 
被害額の比較。
生活、文化の発展は被害額の増大にもつながる。
 
犠牲者の多さは災害の規模の一つの尺度としてあらわされるけど、その数の中の一人ひとりの事を想うとき、亡くなられた方の家族、友人知人は
悲しみ絶望感に苛まれ、生きる意味さえ見いだせなくなっているのではと思う。
生きていることのありがたみは忘れてはいけないと改めて思い知らされる。



 
 
 
 
 
 
 
閉館時間まで見た後、屋外にでて他を見に行くことにした。
伝承館の裏もまた美しく緑が映えて整地ているが、その先には高い防潮堤が続き、その美しさの分だけ自然の脅威が潜んでいるように思えてならない。



 
 
 
 
 
 
 
 
ポツンと生えている一本松が見えた。
これがテレビで見た「奇跡の一本松」だと分かった。
 
右に見える水門が伝承館の説明に橋桁が流されたとあった「気仙川」。
 



 
 
 
 
 
 
防潮堤の先に虹が見えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
幹にはワイヤーが張られていた。
台風接近に伴う処置と書いてあったが、最初見たときそのワイヤーの固定箇所に目がいった。
パっとみるとワイヤーの留め具が松の木に食い込んでいた。
成長に伴い食い込んだのかと思い、その固定はダメだろうなんて思ったりしたけど、そうではなかった。
 
生きた松と思っていたそれは海水で枯死し倒木のおそれがあるためレプリカとして生まれ変わっていた。
土台はコンクリートででき、残せる部分は防腐処理をしたり、幹にカーボン製の心棒を入れ枝葉は原木をかたどりして
作り直されたもので、今は「モニュメント」と称されている。
 
正直これはどうなんだろうかと思った。そこまでする必要はあったのだろうかと何度も思った。
 
でもそれは見る人によってまた違う思いなのかもとも思った。
この地に住んでいた人や震災復興でそこに来た人が一本だけ残った松の木を見たらそれは希望の光に見えたかもしれない。
自分たちのようにテレビでしか見たことの無い人とは解釈や見方は当然違う気がする。
自分たちもレプリカになったと知ってから見たらまた違った気持ちになったと思う。
 
いろんなことを考えさせられる「奇跡の一本松」だった。
 
陸前高田市の公式サイトに「奇跡の一本松保存プロジェクト」というのがあって再生行程が説明されています。
興味がある方は見てみてください。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
「奇跡の一本松」の奥にある倒壊した建物は「陸前高田ユースホステル」
鉄筋コンクリート造りの建物も基礎の部分が流されると耐えられない。

 
 
 
 
 
 
 
「奇跡の一本松」が残った理由の一つにこの建物があったからと言われている。



 
 
 
 
 
 
 
防潮堤に上ってみた。

 
 
 
 
 
 
 
 
穏やかな広田湾が見渡せた。



 
 
 
 
 
 
 
「気仙川」を渡った先にある「陸前高田市立気仙中学校」。



 
 
 
 
 
鉄筋が入ったコンクリート製の手すりも折れ曲がってしまっている。



 
 
 
 
 
気仙川の河口付近にあるため堤防を越えた津波はすぐに押し寄せ建物屋上まで飲み込んだ。
幸いにして生徒はみな事前の避難で無事だった。
一般は外からの見学だけだけど、高田松原津波復興祈念公園パークガイドの同伴だと内部も見学できるとあった。
津波の威力がよく分かると書いてあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
震災のあとあちこちに「がんばろう日本」と書かれた看板や植樹が見られた。
ここだけでなく日本のみんなが何とかしなければと思った震災だったと思う。
 
今回の東北の旅はここに来れたことが一番の出来事だと思う。
亡くなられた方々の冥福を心よりお祈り申し上げます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「陸前高田市立気仙中学校」を後にしたのが午後6時半過ぎ。
近くのお風呂を探すがこの付近は最終受付が7時までのところばかり。
探している間も無情にも時刻は過ぎていく。
 
唯一見つかったのが最終受付7時半までの温泉で、ここから広田湾をぐるっと東に回った岬の先端で距離にして約17キロ。
微妙な距離。
電話でやっているかの確認と入館時間をきいたけど7時半は変らない。
 
急ぎ車を走らせる。といってもスピード出す根性がないのでそんなにスピードは出せない。
幸いにも岬に通じる道は信号もなく意外と早く着いた。
 
午後7時15分 「黒崎仙峡温泉」到着 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8時閉館で最後の一人だった。

 
 
 
 
 
 
窓の外は真っ暗で何も見えない。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
外に出ると打ち付ける波の音が聞こえてくる。
早い時間なら窓からは美しい太平洋を眺められたと思う。

 
 
 
 
 
 
入館料大人500円、小学生300円。
良い温泉でした。



 
 
 
 
 
 
晩御飯の調達に再び陸前高田の市街地に戻ってイオンのお世話になった。
「安定のイオン」


 
 
 
 
 
 
 
何が残っているか運命の分かれ道。
この瞬間はいつもハラハラする。

 
 
 
 
 

 

残り物半額品にありつけました。

酢入りフレーバーのプロテインと夕食後の大腸まで届くビフィズス菌のビヒダス。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
ありがたく晩御飯にありつけました。



 
 
 
 
 
 
今日の寝床は「津波復興祈念公園」内の「東日本大震災津波伝承館」がある駐車場。伝承館の隣は現在の道の駅「高田松原」。





本日の走行距離 138.5Km
 
 
 
 
 
続く
 
 
 
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