あれが欲しい、これが欲しい、そう思えるエネルギーって大切だな...
そんなことをこの年になるとつくづく思う。
あれを買って、これを買って・・・
そんなことがあと何回出来るのか、あと何年楽しめるのか
悲観的、感傷的になっているつもりはないけれど、
少ない所得でやりくりしていると現実的な計算を頭でしてしまって
けっこう凹ませてくれる。
たとえば物欲の王『車』。
あと何台買うことができるだろう?
今の車はもう数年は乗るだろうから、そのあと買い替えるとして
あと1回?多くて2回か。
たぶん3回目はとにかく取り回しの良い「足車」になるだろうから
好みで選ぶ車はあと1、2回だろう。
実は、正直な所、車への情熱はほとんどなくなってしまったから
次から足車で良いんだけど。
でも、車中泊できる大きさは欲しいんだよね、この辺が欲張りで面倒な所。
スキーのギア。
あと何年楽しくスキーができるだろう?
それこそ、滑走神・三浦敬三様のように99歳ぐらいまでできるのだろうけど
体に無理掛けながらガツガツ滑れるのって、個人的には55歳くらいまでかな
なんて思ってる。
そして全コース滑れるのは、65歳くらいまでだろうか。
なんとなく60歳くらいからは急なアイスバーンは徐々に滑れなくなりそうな気がする。
(↑いや、それ、いまも滑れないから)
そうなっちゃうと、板もウェアも新調する気力なんて、ぐっと下がっちゃうんだろうなあ。
まあ、そんなわけで、今は「あれ欲しい」「これ買いたい」と思うものは多いけれど
それと同時に「あと何回これを買えるだろう」って、先のことを想像すると
ちょっと寂しいような気持になるんだよね。
その一方で、「あと何回も買えないんだから、少しぐらい無理しても欲しいものを買おう」って
いう気になるんです。
なんというか、年寄りになってからのブランド信仰、ミーハー路線(笑
いま買わずに3年我慢した後、もっとお年寄りになった自分にそれが似合うのか?
ふさわしいのか? 今ですらかなり微妙なのに。
いつ買うの?今でしょ! (死語)
物欲の賞味期限は短い。
急げ。
そんなことをこの年になるとつくづく思う。
あれを買って、これを買って・・・
そんなことがあと何回出来るのか、あと何年楽しめるのか
悲観的、感傷的になっているつもりはないけれど、
少ない所得でやりくりしていると現実的な計算を頭でしてしまって
けっこう凹ませてくれる。
たとえば物欲の王『車』。
あと何台買うことができるだろう?
今の車はもう数年は乗るだろうから、そのあと買い替えるとして
あと1回?多くて2回か。
たぶん3回目はとにかく取り回しの良い「足車」になるだろうから
好みで選ぶ車はあと1、2回だろう。
実は、正直な所、車への情熱はほとんどなくなってしまったから
次から足車で良いんだけど。
でも、車中泊できる大きさは欲しいんだよね、この辺が欲張りで面倒な所。
スキーのギア。
あと何年楽しくスキーができるだろう?
それこそ、滑走神・三浦敬三様のように99歳ぐらいまでできるのだろうけど
体に無理掛けながらガツガツ滑れるのって、個人的には55歳くらいまでかな
なんて思ってる。
そして全コース滑れるのは、65歳くらいまでだろうか。
なんとなく60歳くらいからは急なアイスバーンは徐々に滑れなくなりそうな気がする。
(↑いや、それ、いまも滑れないから)
そうなっちゃうと、板もウェアも新調する気力なんて、ぐっと下がっちゃうんだろうなあ。
まあ、そんなわけで、今は「あれ欲しい」「これ買いたい」と思うものは多いけれど
それと同時に「あと何回これを買えるだろう」って、先のことを想像すると
ちょっと寂しいような気持になるんだよね。
その一方で、「あと何回も買えないんだから、少しぐらい無理しても欲しいものを買おう」って
いう気になるんです。
なんというか、年寄りになってからのブランド信仰、ミーハー路線(笑
いま買わずに3年我慢した後、もっとお年寄りになった自分にそれが似合うのか?
ふさわしいのか? 今ですらかなり微妙なのに。
いつ買うの?今でしょ! (死語)
物欲の賞味期限は短い。
急げ。
あとで後悔するなら今やるべきです
物欲>>>>>所得
になってしまうとバランスが悪い。
物欲>>所得
くらいがちょうど良いのかも?
っていうこのバランスも個人の主観によるものですけれども