自由の哲学14章の「類と個」を読んでいて、
日本という類に属している私が、
個として自由になっていくにはどうしたらいいのかな、
と考えていました。
日本がイヤだから海外に行ってみるってのもアリだけど、
日本のことを知らないのに海外に行って、
「イギリス、すごい~」とか
「ニュージーランドすごい~」とか言ってても、
全然自由になれないな、と思って。
それならば、日本を知って、そこを消化していく過程で、
それはすでに日本を外から見ることになり得るのかな、
「日本」という文化の影響から自由になっていけるのかな、
と思ったりしました。
自分の家庭で考えたらわかりやすいかな。
私は18歳で家を出て進学し、自由になれた気がした。
(ちなみに15歳の頃、尾崎豊が好きだった。
ローンで買ったバイクで夜のとばりも走った^^)
自分を知る人が誰もいない~っていう解放感。
何をしても、心配されたり文句言われることもない!
で、そこから約30年。
子どもの頃の家庭での経験が、人の行動を左右するのを
たくさん見てきました。自分も含めて。
50になっても60になっても、子どもの頃にどう扱われたかが、
いまだにその人の行動を規定している。
家庭という自分が所属していた「類」の影響は、
好むと好まざるとに関わらず、受けているものだ。
めっちゃ心配性の親だったとか、
なんでも挑戦しろって言われたとか、
人様の言うことにはありがたく聞け、とか、
人の数だけ、いろいろあると思うけど。
その影響をゼロにすることはできない。
たとえ、そこから出て自由になった気がしたとしても、
実は、そうなってなかった、ってことは
誰でも思い当たるのではないかしら。
それよりは、むしろ、
親がどう自分を育てたのか、
どういう家庭環境だったのかを理解していくことで、
そこから自由になっていける。
類の影響を受けつつ、
個として自由になっていくってのは、
そういうことなんだろうな。
家庭でも、会社でも、地域でも、国でも、
なんとか教でも、なんとかサークルでも、同じ。
自分の所属する社会の中で、
個として自由になっていくには、
その影響を受けないようにしても縛られ続ける。
家庭でも国でも宗教でも学問でも、
自分の所属する社会の文化を受け入れ、
そこを深く理解していくこと。
そこから、類に属する自分の自由が始まるんだろうな。
▼本日のフォルメン 76/100
とことん法則に従って、そこを体験してみた後は、
そこから自由になっていきます。
ルール通りではなくて、アレンジを加えてみます。
※「何コレ?おもしろそー」という方は、
コチラをどうぞ。
私にとっては、
心を整えるヨガであり、瞑想の時間です。
私もオキツさんの言う類、そうですね、遺伝と環境、それが私的であったり公的であったりなんかから地震考えます。
それよりもオキツさんの乗っていた単車に興味津々。
単車は…オフロードもちょこっと乗りましたが、やはりホンダの穏やか4ストが、性に合ってました。