女として大阪で暮らす。(朝鮮婆ではないよ)

自然を愛する人です。
そして動物を愛する人です。
植物も大好きです。
ニコ生すき、日本の糞ばばですよ。

しのぶの100のお話(2)名古屋の話。

2011-01-27 | 日記
猫がいいました。
「みゃあみゃあ」いいよるところがあるんですって。

猫がこたえました。
「なにいっとるのー、おみゃあさん、」

中部地方のなまりでしょうか、これが不思議に人間界のなまりに、
猫までが、なまっていました。

なごやは、いっぺんよりゃせ?!
やっとかめだなも。

など、などわかりますか。
猫が、なまるんです。

標準語(東京弁)をしゃべるのは、東京の猫です。
名古屋の猫は、名古屋弁で、”みゃあみゃあ”言うわけなんですがね。

日本の小さな国で、名古屋の猫はみゃあ、みゃあという。
しかし、東京の猫は、にゃんというのかというと、わかりません。

ぜんたいに、なごやのねこは、猫らしいなまりなのですが、
落ち着いてきいておると、猫はこういいました。

「私は、なまってなんかいないよ。たださあ。ご主人様のことばをまねているのさ。
 だから、東京に行ったら、標準語にもどるだけさ」

さて、猫はほんとうに、なまりなどないのでしょうか?!
あります。猫にはふたとうりあるのです。

人間の言葉の分かるへんなやつと、ひたすら猫語だけをしゃべるやつ。
そのうちに、賢い猫が名古屋弁などを、まねするんですわ。

じゃあ。名古屋弁でしゃべるねこは、かしこいのか?!
う~~~~~~~~~~ん。

たまたま、猫の鳴き声に名古屋弁がにているからなので、はっきりわかりませんが、
たしかに、人間のマネのできる猫がいるのは確かなんです。

でもわたしは、なごやにすんでいましたが、なまりはありません。
いいえ、名古屋ことばが、わたしにとっては、標準語ですから。

顔と同じで、見えないところで差別はしないのです。
なまりとは、初めてほかの土地にすんでわかるのですが、わたしは、
生まれたところが、標準語として、考えるへんなやつなのです。

どうか、このしぶとい、強いおんなを、ご容赦くださいね。
おわり。

しのぶの100のお話(1)おにぎりの話。

2011-01-27 | 日記
ある日あるとき、私はこの世をはかなんだ、浮浪者をみました。
「僕はしごともないし、いまさむくって、たべるものもないんだ」

わたしは、彼に小銭をあげて教会にいくように、案内図を渡しました。
彼はわらをもすがる思いで、小銭をにぎりしめて、教会にいったのです。

「こんにちは、おなかがすいて、ご飯をたべさせてください」
牧師先生は、
「それは、それはおなかがすいていそうですね。おにぎりをつくります。たくさんたべてください」

牧師婦人は、その男に暖かい、寝袋と、ジャンバーをわたしました。
「よく、きてくださいました。どうか今日はこの洋服でがまんしてください。」

おにぎりを10個も、食べて男は満足して、こういいました。
「牧師先生、恩返しをしたいのですが、どうしたらいいのですか?!」

「いいんですよ。あなたが元気でいてくれたら、もし望むなら困った人々をつれてきてほしいのです。」
男は、仲間たちを教会に招いて、たくさんのおにぎりをいただいたのです。

それから、男は牧師先生の一番出子になり、信徒になりました。
男が、始めてきたときの風貌は、まるで貧乏神と死神をひきつれているようでした。

荷物の重さより、心の重さをひきずりながら、あと少しで死神にあの世へ案内させるところでした。
牧師先生は、「いのります。死神さん、この男からはなれなさい。この人は、私をたすけるひとです。」と
ずっと、お祈りしたんです。

男は、今では、教会の一番出子ですから、はりきって、いきています。
貧乏神は、まだついていますが、それとは仲良くやっているようです。

死ぬ前にたべたいものは、男にとってはごちそうではありません。
たくさんのあいのこもった。

「おにぎり10個」が最後の晩餐になると、信じて疑わないのでした。

おわり。