土佐のくじらです。
今日、3本目の記事です。
暑くて外に出られないので、古代の記事を書いています。(笑)
拙ブログは今、日本の古代の歴史にスポットを当てておりますが、私は歴史の一ファンであって、専門家ではありません。
また、一般常識を余り考慮せず、つじつまが合うか否か・・・ということだけ(笑)を重視した、実況見分的な見方しか、私はいたしませんので、
「くじらさ~ん、ここは違うでェ~。」
というご意見などございましたら、コメント等でお教え願えればと存じます。m(_)m
さて、邪馬台国(やまたいこく)は、日本の古代史の最大の謎であります。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)出てくる、【倭・わ】の女王とされる、卑弥呼(ひみこ)にまつわる国家ですね。
江戸時代に、福岡県の志賀半島で見つかった金印も、謎が謎を呼ぶキーワードをたくさん持っております。
有名な”漢の倭の奴の国王”印ですね。
”魏”から贈られたとされるのに、その前政権である”漢”の国号ですね。
まあ、当時の魏は、漢王朝から玉座を禅譲された形式で発足しておりますので、対外的には、【漢】を、名乗っていたかも知れません。
劉備の【蜀。しょく】も、正式国号は【蜀漢。しょくかん】ですのでね。
【倭】というのは、当時の中国から見た、日本地域の俗称でしょうね。
他民族の国名に対しては、必ず”けものへん”を使う中国人が、当時の日本に対してだけは、珍しく”にんべん”を使っています。
これから推測するに、当時の日本(倭)は、結構文化的に高く、人間の暮らす国らしい、秩序だった形態をしていたことが伺われます。
中国人の俺様ぶりは、【奴・な】という文字に込められています。(笑)
北方の蛮族のことを、匈奴(きょうど=モンゴル人のやつら)と言ったように、倭奴と扱ったんでしょうな。
奴・・・という地域があったのではないと、私は思います。
つまりこの、奴という文字は、いわゆる、蔑称ですね。
国王というのは、”中国が任命した代表者”と言う意味ですね。
つまり、このまま読み取るとしたならば、卑弥呼の邪馬台国は、当時の中国、【魏】の属国となったことになるのですね。
さて、この邪馬台国の場所が問題です。
魏志倭人伝には、邪馬台国の場所が記載されているのですが、これが読みようによって、場所が数箇所出てくるように読めるのが、とても難儀なところですね。
この邪馬台国は、一体どこにあったのか・・・が、日本古代の最大のミステリーなのです。
通常ですと、遺跡などからわかることは、当時の日本の文化程度の最も進んだ地域は九州地方ですから、邪馬台国九州説が、最もスンナリくるのです。
しかし、当時の魏からの贈り物であるとされるものが、実は九州のみならず中国四国地方、東海~東北まで出土いたします。
いわゆる、”卑弥呼の鏡”です。
そしてその”卑弥呼の鏡”は、実は近畿地方から、最も大量に出土するのですね。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・さんかくえんしんじゅうきょう)というのですが、これは銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡です。
名前は音読みで、中国製っポイですけど、これは近年学者がつけたものでしょうね。
当時日本は、”大和言葉”オンリーでしょうから、このような名前では呼んでいなかったでしょう。
ただ、様式は完全な大陸ものです。
この俗称”卑弥呼の鏡”と、その後この地に大和朝廷樹立されたことが、邪馬台国近畿説の有力な根拠になっています。
卑弥呼の出自は、正確にはわかっていないのですが、”魏志倭人伝の時期”と、その後の、”大和朝廷の原型が近畿にできている時期”とでは、実はそれほど、期間が開いていません。
せいぜい100年位しか、期間がないのですね。
古代の時間軸から言えば、これはほぼ同時期と言えますね。
ですから、邪馬台国近畿説にも、説得力は十分にあるのです。
以上のこと、そしてこれまで綴ってきた私の記事を踏まえて、私なりの邪馬台国の見解を述べさせていただくとするならば、
ずばり、
邪馬台国は2つ存在した ということになります。
そして、もう一つ付け加えるとするならば、
卑弥呼の邪馬台国は、囮(おとり)であった ということも、言えるのではないか・・・と思います。
おぉぉぉぉ、またまたミステリアスなことを言ってしまいました。(笑)
このように古代日本は、謎が謎を呼ぶ、大変面白い時代なのです。
では、続きはまた次回に。 (^^)/
(続く)
土佐のくじらです。
本日2本目の記事です。(笑)
前回記事では、奈良盆地の地形的条件から、神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にある・・・ということを述べました。
要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られた・・・ということです。
奈良要塞都市説と言っても良いですね。
今日は、神武東征伝説の最終章なんですが、私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか・・・? と、考えています。
今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、揶揄されるものかも知れません。(笑)
卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也・・・と、お怒りになるやも知れません。
しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。
たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その顕著な例ですね。
イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありませんね。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。
これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのですね。
イエス様の誕生日が、12月25日というのも、かなり怪しいです。
恐らく、冬至=イエス様ご生誕日・・・と、キリスト教伝道者が、勝手に決めたんじゃないでしょうかね。(笑)
仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムですが、これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。
お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が一堂に集まるとさすがに臭いので(笑)、それで香を焚く工夫がなされていたはずです。
ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道背景などにも、かなり影響されているはずなのです。
日本神道と言えば、建築物は神社ですね。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。
”森”というのは、手付かずの木々の集まりです。
一方、”林”というのは、人工的に整備された、木々の集まりです。
大抵、森の中に神社はあります。
そして祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。
一般的な神社では、柏手は2回で、出雲大社だけは拍手4回です。
この一連の、神道の儀式、建築文化は、神武東征という名の、ヤマト国の使者と他の国々の代表者との、”極秘の打ち合わせや交渉で使われた儀式”なのではないでしょうか?
つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。
奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
私なら諦めます。(笑)
地元での、何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと私は考えます。
つまり、東征・・・という軍事行動ではなく、大部分は交渉・・・だったはずなのです。
交渉の場所や打ち合わせ方法、交渉成立の後の打ち上げの宴が、日本神道における宗教儀式に繋がったのではないでしょうか?
その様子は、このようなものではなかったでしょうか?
ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?
それが、日本神道における最高の司祭としての天皇・・・という位置付けの原型につながると思います。
そしてそこに、縄文系の代表者が、ヤマト国の使者に会いに来た時の”合言葉”的なものが、
まず鈴を鳴らし、拍手2回(出雲国の使者には4回)だったのではないでしょうか?
交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。
今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。
4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く 【お手まき】 5月下旬に【お田植え】、そして、10月上旬に【お稲刈り】をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の【新嘗祭】という、収穫を感謝する祭儀で使われます。
また今でも、お祝い事の際には、赤飯が炊く習慣があります。
めでたいから赤い色を着けるのかと、私も最近まで思っていましたが、どうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのですね。
その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。
さて、神武東征伝説は、ひとまずこれにて。
次回からはいよいよ、古代ミステリーハンター土佐のくじら歴史館のメインイベントです。
そうです。
古代日本最大の謎、邪馬台国の謎解きのチャレンジに挑戦いたします。(笑)
(続く)
土佐のくじらです。
今日の記事は、前回に引き続き、”神武東征伝説”に関する考察です。
神武東征の正体は東征と言われるような軍事行動ではなく、中心は米と酒による外交であり、それにより、”出雲の国”や”吉備の国”などが、ヤマト国と同盟合意したのが、有名な”国譲り神話”となった・・・のではないでしょうか。
また、前回の私は、謎めいた言葉を最後に終わりました。
九州ヤマト国の人たちは、東方の縄文系の国々に、「かくまって欲しい。」と、依頼したかも知れない・・・と。
当時の、朝鮮半島情勢を踏まえた上でシュミレーションするとするならば、この神武東征外交は、仮想敵国である朝鮮半島諸国には、”絶対に、知られては困る”内容だからなのです。
あくまで、九州にヤマト国は存在しているように見せながら、秘密裏に、東方縄文系諸国との外交を成功させなければ、朝鮮諸国に付け入られ、攻め込まれる危険が大きいのですね。
私がそう考えるに至ったのは、神武東征が成功し、ヤマト国が都を構えた場所が、”奈良盆地”であったからなんです。
なぜヤマトの国は、奈良盆地を都に選んだのでしょうか?
新たな都を構え、全国にお触れを出す土地として、奈良盆地は果たして、的確な場所なんでしょうか?
元来、奈良盆地に居を構える豪族が、全国制覇したのならいざ知らず、遠方から来た侵入者が、わざわざ奈良を拠点するのは、どうもつじつまが合わないのです。
なぜなら、奈良は、交通の便が悪すぎるのです。
邪馬台国近畿説から言えば、元来大和朝廷の原型が奈良発祥ということになるのでしょうが、私はそれはありえないと思います。
なぜなら、奈良盆地で発見される都市群全てが、完全な計画都市だからです。
奈良盆地の都市群は、すべて計画があって新しく作られた痕跡があります。
これは、自然発祥的な都市ではない証拠です。
通常ならば、首都機能を持つような都市を造ろうとすれば、もっと”交通の要所”になる地を、選択するのが常なのではないでしょうか?
たとえば、出雲の国(島根県)ですね。
ここには西から海流が流れており、当時朝鮮から貿易などには、とても適した便利な土地ですね。
もしも、アジア大陸など、当時の先進国家群との交流を、まず念頭に置いた国づくりをするとしたならば、首都機能は、絶対に日本海側にないといけないのです。
朝鮮からの影響力が嫌ならば、吉備の国(岡山県)でもいいですね。
ここには当時、結構大きな”くに”があったようです。
自然災害も少ないですし、東西南北、そして海運の拠点には最適です。
しかし、ヤマト国の新たな都は、奈良盆地でした。
なにわ(大阪府)ではなく、更に奥深い奈良まで入っています。
しかも、最初に居を構えたであろう、纏向(まきむく)と言うところは、奈良盆地の奥の奥、山裾の地です。
当時の都市水運には欠かせない、大きな川(大和川)も、遺跡からは微妙・・・・な場所にあって、これは川を運搬に使っていた・・・というよりは、堀として防御に使っていたように、私には思えますね。
和歌山県側からの進入ルートに使えそうな紀ノ川は、奈良纏向(まきむく)の地の近くでは、川幅も狭くなり激流となります。
運搬輸送の交通ルートとしては使えず、むしろ侵入者を阻むような地形構造です。
ヤマト国の新首都が奈良盆地・・・。
これは、”隠れ住んでいた”・・・とか、篭城した・・・としか、私には見えないのです。
そうであるならば、納得が行くのですね。
奈良の地は、朝鮮半島から見ればどういう位置づけになるのでしょうか?
九州には、ヤマト国の正規軍が残っていますね。
海流に乗り、山陰地方に向かえば、同盟国である”出雲の国”が控えます。
出雲を破り、中国山地を南下すれば、そのには同盟国”吉備の国”が待ち受けます。
九州ヤマト軍を切り抜け、関門海峡を通り抜けて、瀬戸内海から東征すれば、これまた同盟国の吉備の国が迎え撃ちます。
瀬戸内海は島に囲まれ、海流の流れが複雑な、海の難所です。
当時であれば、地元民以外、東西への通り抜けなど不可能です。
縄文系の、優れた航海術を持つ水軍を整備すれば、瀬戸内海での朝鮮軍船の東進を十分阻止できます。
たとえ、朝鮮軍が大阪湾に辿りついたとしても、今度は、奈良盆地の周囲の山々が、”防御壁”となって立ちはだかります。
盆地は山があるので、”陸路の進入経路を限定”することができますのでね。
また、海軍として来るであろう朝鮮軍は、そのまま大和川に入ることはできません。
川が微妙に小さく、また河口から奈良盆地にいたるまでには、必ず急流があるので、船を小さく作り変える必要が出てきます。
盆地ならば、大量の軍隊の侵入は、絶対にできないのです。
また盆地のような山岳地帯は、地元民が絶対に有利です。
盆地は巨大な城ですから、攻め込むのに大量の軍隊を要するのですが、その軍隊の進入ができないし、無数の抜け道があり、いくらでもゲリラ戦法による防衛が可能です。
新首都が奈良盆地・・・そうです。
奈良盆地は、朝鮮半島からの攻撃に対する、鉄壁の防御が可能な土地・・・なのですね。
この事実は、
ヤマト国の東征は、弥生化が遅れていた、東国への陣略目的ではなく、当時の朝鮮半島国家軍からの、防御を目的とした大規模な遷都。
これが、奈良の地理的な条件を加えた、私なりの歴史考察です。
(続く)