五計

2009-10-20 19:03:39 | Diary
最近イチロー選手を育てた、メンタルトレーナーの本を読みました。

そこで紹介されていたのが 『人生の五計』

五計の中身は・・・
 
1 生計 いかに人としていきるか?
2 身計 いかに身を立てるべきか、世に処すか、志
3 家計 家庭生活、夫婦・親子関係はどうあるべきか
4 老計 いかに老いるか、どのように年を重ねるか
5 死計 いかに死ぬべきか、死生観

<家計>
今日は、誰か芸能人の遠距離恋愛の末の結婚がニュースになっていました。

コメントが生かしていて、「お互いの成長に不可欠」。

良いですね~。こういう夫婦像は。これは家計に入るのでしょう。
お互いが1人でいるよりより成長するために相手がある、1+1は2以上って感じですね。
単純に羨ましいです。長距離恋愛ということは一緒にいるだけがニーズでは
ないわけです。一緒にいないと嫌というのは、愛ではなく、本人が人寂しいだけではないでしょうか?一緒にいてうれしくない夫婦はいないでしょうが、
どんな事情にも同居が勝さるというのは少しおかしいような気がします。
そういう人が”愛している”はずの親と同居しているかというとしていなかったり
しますから、そういう人が語る愛は怪しいものです…

<生計>
いかに人として生きるべきか・・・?わたしは偽りがある生き方は絶対嫌です。
誠実に生きる、それは他人にも大してもですが、自分にもです・・・
西洋的には自分に誠実であるというのは神様に誠実であるということです。
悪いことをしたら、他人には隠し通せても自分には隠し通せません。そういう意味で神様には隠し通せませんね?それです。

例えば何かを手を抜くと、後悔するのは自分です。ストイックすぎるのとの違い
ます。ただ自分との約束を守るということなのです。

こないだ読んだ、エドガー・ケイシーの理論によるダイエット本によると
大抵の人がダイエットに失敗するのは、自分のためにやっていないのだからだそうです。
例えば、今年こそ痩せてビキニを着ようと思う。結局夏になっても痩せていなくて着れない。これは良く問いただすとビキニを着て注目を集めている自分を
夢見てダイエットを決意するわけです。でも自分に正直になると、そんな注目が
どれくらい自分に価値ありますかね?実は3か月分の努力に見合うほどの価値はないわけです。だから正直になるならば、そういうダイエットはそもそも必要がなかった、と言うことなのですね。これも正直、誠実の一例です。かなり瑣末な
例ですいません…

<身計>
身計というのは、要するに、職業のことです。
職業を持つ、仕事をするというのは社会に貢献するということだけでなく、内面的にも大切なことです。
一体何が大切か?というと、自分が努力をしたことに対して、
反応がある、ということなのだと思います。自宅でどれだけ素晴らしいパンを
焼いても、誰からも認められることはありませんが、パン屋になれば
日々認められて生きていくことができます。これは収入になる、というより
重要なポイントでないかと思います。

最近、結婚もせずバレエ教育一筋に人生をささげてこられた方と知り合いに
なったのですが、数ある教授法の中から、その方の教授法をわたしが
選んだことは、その方にとってはとても大きなことのようです。
それはやはり人生がかかっていたからでしょう。
悲しいことは、そんなに素晴らしい仕事をされるのに、仕事を持つことで、
結婚や子供を持つことが犠牲になってしまったということです。このような
二者択一の要求をするような社会は変わっていかないといけないなと本当に思います。五計とあるくらいですから両立できるはずのことなのです。

<家計>
家庭というのは、日本では犠牲を強いるためにあるもの、のようです。
わたしは犠牲ではなく、協力こそが必要なのだと思いますが。
家族は犠牲を強いていい人たちではありません。お互いのニーズが
1人でいるより家族でいたほうが満たされるのでなければ、なぜ
一緒にいる価値があるでしょう? 
まったく逆です。他人に強いることができないような厚かましいお願いは、
家族にこそ決して頼んではいけない。頼んでいいのは協力だけです。
それに協力のお礼は経済的なもので済ませようとする傾向も強い。 
親が子供に”誰のおかげで大学へ行ったんだ?”なんて言う…。
これはまったくの大誤解ですから!一家の稼ぎは全員の稼ぎ。得たものを
すべて分け合うのが家族です。そんなの太古の狩猟時代からそうですから。
ついでに分け合うのは受益者に自分が入っていますから、お礼になっていない。
お礼は無形の逆の協力でするべきなのだと思います。 

今、アメリカの人生相談ラジオを聴きながら書いていますが(笑)、家族の話をしています。
そこでも”you need to ask for help”と言っています。大体、日本人は言葉を
尽くしませんが、アメリカ人でさえ同じような傾向があるのですね・・・
家族こそ無言で済ませず、言葉に出すことが必要だと思います。そして
困ったときに困っていると告げられたら、すべてを投げ出してでも助けて挙げる。それが家族ではないでしょうか?わたしは友人にだってそうします。
”Don't allow anybody to victimize yourself ”(誰かの犠牲になるのはダメ)と言っていますが、日本でも犠牲ばかりが尊いことのように言われますが、
犠牲や愛を強いる人たちは、なんとなく大上段から言っていて支配層の
都合がいい押し付けなんではないか?と思います。犠牲を払った母親たちが
”ありがとう”以外報われた例はあまり見たことがありません。感謝されることは
大きな報いではありますが、一方では無償の償いであり、一番安いものと
言う事実は否めません。犠牲を強いて、それに無償で報いるというのは
美名に隠れた非情です…必要なのは、協力であり、互いの尊敬であり、
相手を尊重することだと思います。そうすれば同等に報いようということになるはずです。

<老計>
人は100%年をとり、100%死にます。これ以上確実なことはないのに、なぜ老いについて
準備したり、死について準備をしないのでしょう?生命保険は入るのに、いかに老いるか
いかに死ぬかについて無計画な人が多いのには驚かされます。

84歳の祖母にどう死にたいか聞くと、そもそも死にたくないという答え…(^^;)。
それはさすがに無理ってもんです。”いつまでも長生きしてね、おばあちゃん♪” で本人は
大満足なのでしょうが、そんな見え透いたごまかしで、あと何年ごまかしていくのでしょうか?

<死計>
わたしはフォレストガンプの母のように、自宅の暖かいベッドで静かに誰かと話しながら
旅立つのが一番の幸せだと思います。しかし、現代はそのような人間としての
尊厳がある死が叶わない時代・・・ 偶然に任せると病院でチューブだらけで逝くことに
なりそうです。あるいは必要の無い延命装置に最後を看取ってもらうとか・・・
そういった最後の人間としての望みも考えておかないと決して叶うことはありません・・・

欧米では、生まれるときは自分が大泣きで周囲が笑っているが、死ぬときは周囲が大泣きで
自分が笑っているのが理想、とも言うそうです。
確かに、心穏やかに死を迎えられるということは、裏を返せば、
生を十分生きたためです。満足な人生を生きたかどうか、そこで分かるともいえます。

そんな大事な瞬間をどう過ごしたいかも計画がないなんて…それも人生長く
生きてきて…。むしろ年ととって死期が遠くないからこそかもしれませんが
わたしなどまだ30代でも突然死も親族にあり、死など誰にでも起こりうる
ことだと分かっています。まして戦争を経験した世代ならば、戦争で死ななかった
ことがまさに運によるわけで誰もが避けれないものである、というのは
わかっているはずです…。なぜ死について語ることが日本ではそんなに
タブーなのでしょうか?それがそもそも今の人生が十分でない理由ではないでしょうか・・・?死ぬときは笑っていたいと思えば、それなりの人生を今現在の
この時点でも、生きようとするはずです・・・よね?

こうした点はわたしにとっては謎ばかりですが、わたしも若さを手放しつつ
ある年齢に…。わたしが愛したサンフランシスコでお世話した子供たちは
もう成人するくらいになりました…恐ろしい…自分が当時子供を生んでいれば
その子達も大きくなっていたはずって訳です。自分の中身は全然変わらないのに。
20歳のわたしも今のわたしと同じどころか覚えている限りでは14歳から
一緒です。ということは、80のわたしも14歳のわたしと同じだという可能性が
高い…結局、人の老いは外見だけなのですね。中身は一緒…これは本当に
この20年で学んだことです。老いは別名成長ともいいますから、成長していない
ともいえますが…(^^;)

つまり中身と外見は違う。若さは美しいですが、美智子様をみていると、
人生には他にも美しさは一杯あるのだから、年を重ねていくことも素敵な
ことだろうと思います。
年を重ねた人だけが分かる人生の不思議を味わえる、それは年を取ることの
ありがたい点ですね。

中学生や高校生とレッスンしながら改めて思います。


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