いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

生徒会長

2018-01-30 21:08:29 | 日記
以下は、2017年4月21日に書いたものです。

今は、みな、どう考えているかわからないが、
まだ、中学校で、教師優位の頃、
生徒会長とか、クラス委員とかいうのは、名誉ある存在だった。
わたしが生徒会長に立候補したのは、中学2年生のときである。
男の友人に勧められ、親に勧められ、
締め切りギリギリに立候補の届け出をした。
選挙活動を始めて、最初の難関は、クラスの女子たちであった。
「なぜ、事前にわたしたちに相談しなかったのか」
と、怒ったのである。
それでも、選挙戦が進むにつれて、男子はもちろん協力してくれたし、
陸上部の先輩も、そして、はじめは怒っていた女子たちも、協力してくれた。
女子たちは、涙ぐましいことに、看板をもって学校中をまわってくれた。
選挙演説の時の、一発逆転のギャグが受けたのが幸いしたか、
2人の立候補者を破って、当選してしまった。
「しまった」と書いたのは、それが、幸だったのか、不幸だったのか、いまでもわからないからである。
いろいろな活動のうち、もっとも笑える仕事があった。
毎月曜日、校長に代わって、壇上で週の初めの講話をするのである。
今思い出しても、おかしい。何のとりえもない少年が。
詳細は忘れたが、ある教師とけんかになってしまったことがある。
教師は、赤くなったり青くなったりして怒った。
職員室中がわきたった。
けんかの「つもり」だったのである。
あとで、ある教師が授業中にその話をした。恥ずかしくて肩をすぼめた。
広島市中の学校のてっぺんに登ろうと思った。
それで、広島市の生徒会長を全部集めて、会議を開いた。
広島市は、独特の歴史を持っているから、校長は政治に巻き込まれないよう、注意を促してきた。
校長は許してくれたが、大した成果がなかったのは、当たり前である。、
この行動は、後年、ある専門家に「かわいいいね」と評された。
他の生徒とは違った扱いを受けるので、ちょっと、行動に可愛げのないところがある。
昔の悪ガキには、わかると思うが、風の強い日、何人か悪ガキがささっと集まって、2階を見上げる。
何かを見たくて。
そういう、笑えるいたずらの楽しみを知らないまま、高校生になってしまった。
今でも、残念である。
だから、皆に合わせて動くのが苦手で、いじめられた(らしい)。
今のいじめとは比較にならないだろうが、これは、結構苦痛だった。
自分を素直に出せないので、クラスメートに理解されない。
繊細で感じやすい少年だということを。
柔道の有段者だったせいもあるが。
こうして、ちょっとへそ曲がりな大人になってしまった。
仕事の行きがかり上、道徳を説いていたのは、恥ずかしい顛末である。
悪ガキたちと一緒に、風の強い日、つるんで2階を見上げたかった。
今でも心残りである。
(2017年4月21日*記)



おかえりなさい

2018-01-30 21:04:49 | 日記
以下は、2017年4月25日に書いたものです。

電話がかかってきた。
なじみのない番号だ。だれだろう。
声の主は、低く、不機嫌そうに語った。
「ごぶさたしております。Iです。」
はじめは何のことかわからなかったが、すぐ思い出した。
高校同窓のI君である。
「はい、Yです。」
わかった、という声を出したら、電話の向こうの声も、すぐ高くなった。
「4月〇〇日の観戦の待ち合わせ時間、わかりますか?」
高校同窓の有志で、スポーツ観戦に行く約束をしていたのだ。
あらかじめ記憶していた時間と待ち合わせ場所を告げ、確認。
連絡、確認を求めるメールに返信がないので、業を煮やしていたらしい。
すぐに話は終わった。
「よろしくお願いします。」
実は、あることにかまけて、日常生活がおろそかになっていた。
メールのチェックはしない、資源ごみの缶は捨てない、剃れなくなった電気カミソリの刃はそのまま。
正気に返った。
懐かしい声に、
「おかえりなさい」
と言ってもらった気がした。
誰にもいつでも帰るふるさとがある。
誰かの歌ではないが、そう思った。
だれかに、なつかしい声で言ってあげようと思う。
「おかえりなさい」

(2017年4月25日*記)

外国人初の将棋棋士誕生

2018-01-30 20:57:40 | 日記
以下は、2017年2月20日に書いたものです。

ステチェンスカカロリーナさん(女流3級・ポーランド出身)が、貞升南女流初段を破って、真の意味でのプロになった。
この勝利で、女流2級に昇級したのである。
女流3級は、プロとしては、いわば仮のプロであり、一定の条件を満たさないと、プロ資格を剝奪される。
今年6月にその日を控え、待ちに待った昇格である。
振り返ると、糸が絡まるように、縁があった。
師匠にあたる片上大輔六段は、同郷で、学校の後輩にあたる。
その師匠森信雄七段には、古くから指導を受けている。最近は、フェイスブックで近況を知らせていただいている。
片上大輔さんは、「聖の青春」の村山聖さんの弟弟子にあたる、とお気づきの方も多いだろう。
つまり、カロリーナさんは、村山聖さんの、姪弟子である。
カロリーナさんは、年齢的には、娘といってよいくらいである。
しかし、先生だから、フェイスブック等で、いろいろと指導してくださった。
だから、今回の昇級は、とても他人事とは思えない。
一般にも、政治の領域の話ではないから、外国人プロの誕生を歓迎する声が多い。
男女を通じて、初めての将棋プロ棋士が誕生した。
ポーランドから、単身来日して、一人で暮らされていた。言葉の壁も大きかったと思うし、
カルチャーショックを受けたことも多いだろう。
それらを乗り越えて、今回の快挙となった。
心から、お祝いを申し上げる。
カロリーナさん、次は、初の外国人タイトルホルダーを目指して、研鑽を積んでください。
応援しています。
(2017年2月20日*記)

父と指していた将棋

2018-01-30 20:13:44 | 日記
~2014年10月23日に書いたものです。~


79歳で亡くなった父と、よく将棋を指していた。
将棋を教えてくれたのは若い頃の父で、当時わたしは10歳であった。
いろいろといじわる(?)をされた。雪隠づめ、都づめ、ただ取り、王手飛車、桂のふんどし、ダンスの歩、などなど。
年を経て私も強くなるのだが、本格的に教えてくれる人もなく、良い本も見つからず、勝ち越せるようになれない。
ただ、父との最良のコミュニケーションが将棋だったので、その意味では幸せであった。
そうして20年。わたしが将棋を本格的に勉強するようになたったのは、30歳くらいである。
30歳当時、父とは指し分けだった。
将棋をよく指す人はご存じだろうが、将棋は、若い人ほど徹底的に勉強した時の上達が早い。
佐伯九段の経営する湘南将棋道場(佐伯九段将棋サロンの前身)に通うようになって5年後、
2段になったわたしは、父と指して負けることはなくなった。
将棋を指して負けると、父は、笑ってしまうほど悔しがるのである。
しかし、わたしもヘボなので、相手にわからないように負けてあげることができない。
そうこうしているうちに父も老いて、将棋を指す意欲がなくなった。
こうして、「父と指していた将棋」も終わりを告げた。
先ほど、熱心に将棋を勉強している友人から、
「初段の父に2連敗してしまいました。居飛車に勝つ方法を教えてください」
とのメールがあった。
答えようがないのだが、父に向かって勝負を挑むアマチュア棋士にエールを送りたい。
「父と指していた将棋」を思い出しながら。
(2014年10月23日*記)

オヤジとオレとプロレスと将棋(2015年版)

2018-01-30 15:35:06 | 日記
~注~
以下の文章は、2015年1月21日に書いたものです。


10年前、父が亡くなった。79歳であった。死因は、大腸がんと、その全身転移。
その父は、プロレスの大ファンだった。
今は、プロレスはマイナーなショーになってしまったが、
その頃(1950年~1960年代)は大人気のスポーツであった。
わたしもその影響で、プロレスファンのひとりになった。
父は、外では立派な公務員だったはずだが、家で見る限り、それはとても信じがたいことであった。
テレビでプロレスを見ながら、力道山に拍手喝采。
「おおー」と叫び、体を、腕を、振りまわす。顔は満面の笑み。
「やれー、やれー!」とテレビに向かって大声をあげる。
まるでガキである。
時の大スターは、力道山。アメリカ人の悪役プロレスラーを空手チョップで次々となぎ倒す。
1961年といえば、第二次世界大戦終結から16年目。
学校では、アメリカは神のような国、と教えられていたから、10歳のわたしは、
すなおにアメリカは素晴らしい国、と信じていた。
しかし、力道山の強さは、まぎれもない。
強いものにあこがれるのであった。
はじめ、父が、なぜたいへんな応援をするのか、よくわからなかったが、一緒に叫んでいた。
謎が解けたのは、父と将棋を指すようになってからだった。
父は、負けると途端に不機嫌になり、ぶすっとして、口をきかなくなるのである。
それでわかった。負けると怒る、悔しがる。
終戦時、父は海軍の将校であった。
玉音放送で敗戦を知り、やけになって酒を3升飲んで自殺を図った。
ところが、3日後、気が付いてみると、病院の中であった。
そんな歴史があるから、アメリカの憎さは、恨み骨髄に達していたであろう。
しかし、1961年頃、アメリカを批判することは許されるような雰囲気ではなかった。
そう、父は、その悔しさを胸に、プロレスを見て、ストレス発散していたのだ。
将棋で負けて悔しがる父を見て、10歳のわたしには、それがよくわかった。
45歳で早逝し、将棋を指さなかった兄には、その頃の父の狂喜乱舞が理解できなかったらしく、
いつも批判していた。
それは、死の直前まで変わらず、父の真意がわからぬまま、死んでしまった。
もし、兄が父と将棋を指していたら、父の気持ちは体でわかっていたはずなのである。
そのことが、かわいそうでならない。
そう、日本の子供たちは、将棋を指すべきなのである。
そのことによって、多くのことが理解できるようになる。
オヤジとオレとプロレスと将棋。
どれも、決しておろそかにしてはならないものであった。
少年、少女よ、将棋を指したまえ!
(2015年1月21日*記)

2年前に書いた「将棋人口2000万人」は、もう歴史的文書になりましたが……

2018-01-30 14:16:19 | 日記
以下に、2年前に書いた文章を引用します。
その間、将棋界にも著しい変貌があり、
古くなってしまった部分もありますが、
すでに、インターネット上に流出してしまっていますので、
誤解が生じる可能性があります。
そこで、そのことを明らかにしなければならない、という責任を感じました。
藤井四段のデビュー、羽生永世七冠の誕生、と、めざましい出来事があり、
予感が当たった、という自負もありますが、
所詮は、2年前、頭の中で考えたことです。
現実の状況をよくわきまえて、
考え直さねば、と思っています。
そうした意味で、冒頭に述べたように、
2年前に書いた文章を再録します。
事情を踏まえたうえで、歴史的文書を再検証していただければ、
と思います。
みなさま、よろしくお願いいたします。


私が本格的に将棋を始めたのは、30歳の頃である。
それから、30年以上続けている。
当時は、激務の中、必死の思いで勉強した。
上司は、何か含むところがあったのだろう、
「将棋はやめろ」と、いつも言っていた。
しかし、ほかのことはともかく、将棋だけは決してやめなかった。
この選択は、間違ってはいなかった、と、今も思う。
メリットが、限りなくあるのだ。
気分転換になる、友人ができる、世の中の事情がわかるようになる、
など、挙げればきりがない。
同年齢の人だけでなく、年上の方、年下の人、子どもとも友達になれる。
年上の方からは、情報を得る、知恵をいただく、など。
このころは、現役の大学生などとも話すことがあり、
現代の世相、世の中の情報が伝わってくる。
大学生と話すと、私のクラスメートの講義をとっている、というケースもある。
子どもと指すのは、楽しい。童心にかえる。
勉強方法は、定跡を覚える、プロの実戦棋譜を並べる、詰将棋や必死問題を解く、
など、いろいろ工夫している。
週1回は、実戦を指し、勘を鍛える。
子ども、学生、社会人、主婦、引退後の人、と仲間は多様である。
道場の1級から始め、今は3段で指している。
月に1回は、4人のスタッフで、老人ホームでのボランティアをする。
数名の方が参加して、楽しんでくださっている。
先だって、総務省の調査で、日本の将棋人口は670万人、と発表された。
子どもを含めれば、その時点で、将棋人口1000万人だったろう。
今は、学習指導要領(児童・生徒がいつ、何を学ぶか決めた基準)で
「伝統を重んじる」という内容が盛り込まれ、小、中、高校で将棋を教える学校が増えた。
加えて、大学教育にも取り入れられ、東大ではプロ棋士を兼ねる客員教授が
教鞭をとっておられる。もちろん、単位が取れる。首都大学東京でも法学部に
将棋の講座が開設された。
他にも、将棋を教育に取り入れた大学も多い。
また、インターネットで将棋を指せるサイトも増えた。
それらを考慮すると、日本の将棋人口は、1200万人くらいになった、といってよいと思う。
それだけでなく、プロ棋士の海外での普及活動も盛んだ。
普及のために外国を訪れるプロ棋士も多い。
女流棋士の中では、北尾まどか2段、中井広恵6段などが有名である。
また、外国でも、自宅でインターネット将棋ができるようになった。
だから、将棋人口は2000万人と言っていい状態になった。
実際、最近、外国の人が(プロの)女流棋士になった。
日本将棋連盟の、ステチェンスカ・カロリーナ3級(ポーランド出身)である。
将棋には、集中力が付く、考える訓練になる、実戦を通じた交友ができる、
など、メリットは多い。
将棋の考え方は、哲学、法学と似ている面がある。
実際、元竜王の糸谷8段も、哲学の専門家である。
今や、将棋は、日本文化の1ジャンルといってよい。
老若男女を問わず、質の高い文化に触れられる日本人は、幸せだ。
2000万人の将棋。将来の楽しみな文化領域だ。
(以上、2016年1月12日にアップした文章)