いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

ボランティアはさせていただくもの~13年の老人ホーム訪問~

2018-09-30 18:14:34 | ボランティア
月1回、最初の月曜日にボランティアをしている。
ご老人たちと、将棋を指す、囲碁を打つ。
現在、スタッフは5名。
男性3名(四段、四段、参段)
女性2名(初段、初段)
グループの名称は、将友会南湖支部(仮称)。
数人のご老人の将棋と囲碁のお相手をする。
楽しみにしてくださっているメンバーも多い。
交通費は、ホームにお願いして、なしにさせていただいている。
車、電車、バス、徒歩、と、メンバーの行き方が違う。
また、ボランティアはさせていただくもの、
という理念がある。
ボランティアを通じで得られるものは多いのだ。
実際、老人福祉施設では、お金を払って登録した上で活動する人も多い。
精神的に、癒される。
いろいろな方と触れ合える。
交通費を払っていただくことなど、恥ずかしくてできない。
毎回、ホームからお茶をだしていただく。
年1回は、ホームかつくる、ステキなカレンダーをいただく。
もう13年になる。
明日が、ボランティア誕生日である。

歌に私は泣くだろう~1000首の相聞歌~

2018-09-30 11:18:59 | 文学
前回、「家族の歌」(河野裕子、永田和宏、永田淳、永田紅著)
のことを書いた。
河野裕子の死の直前344日の記録である。

河野の10年間の闘病記は、
京都大学名誉教授で歌人の永田和宏が、
「歌に私は泣くだらう」
で公にしている。

2人は、永田20歳、河野21歳の時、
短歌を通じて知り合った。
6年ののち、結婚。
2人の子ども淳、紅も歌人である。
2人の間に交わされた相聞歌(恋文)
は、500首ずつ。
40年間で1000首つくられたことになる。
54歳で、河野裕子乳癌発病。
64歳逝去。
死に至るまで、2人は、一緒にふろに入った。
悲しむ河野を支える永田。
夫の老年をを気遣う裕子。
悲しむ永田は、河野の胸にうずくまって、泣く。
ふたりで抱きしめあう。
河野の諦念。
最期は、自宅で息をひきとった。
壮絶な場面もあったが、最期は静かに逝った。
最期の歌。

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

家族の歌~河野裕子の死を見つめた344日~

2018-09-30 09:35:59 | 読書
戦後短歌の開拓者、河野裕子。
歌人で京都大学名誉教授の永田和宏の妻である。
河野は、21歳で永田和宏と出会い、26歳で結婚。
2児を設けた。
長男と長女も歌人である。
54歳で乳がんとなり、10年間の闘病ののち、
2010年、64歳で逝った。
10年間の闘病生活は、
永田和宏著「歌に私は泣くだらう」に詳しい。

死の直前の344日、
4人が、交代で、エッセイと短歌を新聞に載せた。
それぞれの思いと苦労がしのばれ、
涙なしには読めない。

俵万智の感想。

「家族というものの素晴らしさを、ひとつの普遍的な形で示してくれた一冊として、
本書を抱きしめたいと思った」