最後の海軍大将、井上成美。
終戦直前の5月15日まで、海軍大臣米内光政のもとで、
海軍次官を務めた。
終戦に向けて、海軍次官として実力を発揮したのだが、
なぜか、その3か月前に海軍大将に任ぜられたのと引き換えに、
次官から更迭され、軍事参事官となった。
米内光政とは相性が良く、けんか別れではなかったらしい。
そもそも、彼は、広島県江田島の海軍兵学校で校長を務めていたのを
米内光政に懇請されてしぶしぶ海軍次官に就任したのである。
終戦に向けて鈴木貫太郎首相が時局の収拾に向けて動き、
昭和天皇も、日本降伏の意向をもっていた。
井上成美は、1989年生まれで、海軍兵学校を首席で卒業し、
エリートとして勤務にあたっていた。
当時の海軍兵学校に入学するのは、
現在、東大に入るより、はるかに難しかっただろう。
その、首席だから、
はやくから注目された。
米内光政は、日本の降伏を決意し、
鈴木貫太郎首相のもとで作業を進めていた。
その一環として井上成美海軍中将が次官に起用されたのである。
井上成美は、終戦への道を照らすために、
海軍の高木惣吉に秘かに終戦の方法を研究させた。
こうして、1945年8月15日の玉音放送がラジオで流され、
日本は、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をする。
次官時代、終戦を目指す米内光政大臣をつきあげ、
「もっと厳しくやってください」と叱咤し続けていた。
次官になる前の江田島海軍兵学校の校長を喜んで務め、
その仕事に打ち込みたいと言い張るのに、
海軍大臣の米内光政に懇請されて折れたのは、
前述のとおりである。
終戦時、物騒な雰囲気の中、
米内光政が、自ら暗殺されたときに
井上成美を海軍大臣にしたい、
と次官を辞めさせ、
大将にさせてしまったという説もある。
井上は、
大将になるためには
人格
健康
識見
功績
使い道
が必要で、自分には務まらない、
と2500字にのぼる意見書を米内光政に提出したが
米内光政がきかなかったのだという。
戦後は、三浦半島の長井で隠遁生活を送った。
戦前、
米内光政、山本五十六と組んで、対米戦争を避けるために精魂を傾けたひとである。
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