給食費の無料化や子供医療費の無料化などが、政策のテーマによく取り上げられるが、日本人の「誇り」「伝統文化」を失いかねない政策であることに少しは気配りをしてほしい。
特に「給食費の無料化」などは軽々に言うべきものではないと思います。
先日の参院選で大敗を帰した民主党のマニフェストにあるような大盤振る舞いが、これからの寄居町と重ね合わせてみても、いかに「無知」な政策であるか。このときにも少しマスコミが取り上げていましたが、「給食費」を払わない親に免罪符を与えるようなものではないでしょうか。給食、給食費を払う親、これは長い給食の歴史の中で振り返り見れば、「親の慈愛」であり、子供に感謝を学ばせる絶好の教育手段なのです。まさに現代の「食育」そのものなのです。
「食育」とは。
…石塚左玄(いしづか さげん)が明治時代に提唱。
「体育智育才育は即ち食育なり」
「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり(食本主義)」
心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄 にするには食物を清浄にすることである。
「食育」としての給食を考えた場合、具体的には
◆給食のレベルを上げなくてはならない。
◇そのためには優秀な「栄養士」さんを雇わなくてはならない。
◆地産地消・身土不二の考え方をひろく教育現場、給食施設、食材の生産現場、生産者に広げていかなくてはならないという大変手間ひまのかかる事業だと思います。
・・・フードマイルの抑制減少策。
・・・【身土不二】居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、
副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。
などの施策を総合的に展開していかなくてはならないのです。
「給食は教育」の一環です。参考書はありません。
地域にあった給食を栄養士さんとともに考えていかなくてはならない大事業なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昭和30年代から始まった「高度成長」。全国津々浦々で小学校の学校給食が始まりました。
しかし、高度成長期とはいえ、まだまだ、都会と地方の貧富の差は激しく、給食費の払えない子、修学旅行をあきらめる子も多くいたのも事実です。親は子供のために働き、中学の義務教育が終われば地方から多くの少年少女が「集団就職」で都会に出て行った時代でもありました。「ああ、上野駅」の時代です。店主が店を継いでいた昭和50年代の東京の問屋街にはそうした地方から出てきた苦労人のかたがたがたくさんいて、商品のことや商いのことをいろいろと教えていただいたことが今でも忘れない思い出として残っています。
書きかけです。
特に「給食費の無料化」などは軽々に言うべきものではないと思います。
先日の参院選で大敗を帰した民主党のマニフェストにあるような大盤振る舞いが、これからの寄居町と重ね合わせてみても、いかに「無知」な政策であるか。このときにも少しマスコミが取り上げていましたが、「給食費」を払わない親に免罪符を与えるようなものではないでしょうか。給食、給食費を払う親、これは長い給食の歴史の中で振り返り見れば、「親の慈愛」であり、子供に感謝を学ばせる絶好の教育手段なのです。まさに現代の「食育」そのものなのです。
「食育」とは。
…石塚左玄(いしづか さげん)が明治時代に提唱。
「体育智育才育は即ち食育なり」
「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり(食本主義)」
心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄 にするには食物を清浄にすることである。
「食育」としての給食を考えた場合、具体的には
◆給食のレベルを上げなくてはならない。
◇そのためには優秀な「栄養士」さんを雇わなくてはならない。
◆地産地消・身土不二の考え方をひろく教育現場、給食施設、食材の生産現場、生産者に広げていかなくてはならないという大変手間ひまのかかる事業だと思います。
・・・フードマイルの抑制減少策。
・・・【身土不二】居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、
副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。
などの施策を総合的に展開していかなくてはならないのです。
「給食は教育」の一環です。参考書はありません。
地域にあった給食を栄養士さんとともに考えていかなくてはならない大事業なのです。
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昭和30年代から始まった「高度成長」。全国津々浦々で小学校の学校給食が始まりました。
しかし、高度成長期とはいえ、まだまだ、都会と地方の貧富の差は激しく、給食費の払えない子、修学旅行をあきらめる子も多くいたのも事実です。親は子供のために働き、中学の義務教育が終われば地方から多くの少年少女が「集団就職」で都会に出て行った時代でもありました。「ああ、上野駅」の時代です。店主が店を継いでいた昭和50年代の東京の問屋街にはそうした地方から出てきた苦労人のかたがたがたくさんいて、商品のことや商いのことをいろいろと教えていただいたことが今でも忘れない思い出として残っています。
書きかけです。
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