チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「70俵5人扶持の御家人大田直次郎」

2008年06月24日 00時34分56秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
6月26日まで、神宮前の「森」の裏にある太田美術館で
「蜀山人 大田南畝 大江戸マルチ文化人交友録」という特別展が催されてる。
大田南畝、蜀山人、四方赤良、寝惚先生、などの号で知られる大田覃は、
江戸時代中期の幕臣である。が、幕臣といっても、
御目見以下、領地を与えられてない蔵米取りである。
大政奉還の4箇月前に幕臣に昇格したときの土方歳三の俸禄がこれと同じである。
今の感覚でいえばおよそ年収600万円前後である。といっても、
使用人(中間一人と下女一人)の人件費が年間4両(100万円ほど)だから、
正妻一人と子三人、それに隠居の親二人もいたら、妾もろくに抱えれない収入である。
(中間という下男、それに下女、妾、という言葉に目くじらを立てたいむきもあろうが、
当時は当たり前の認識だったのだからしかたない)
故笠智衆が愛唱してたという、
「早蕨の、握りこぶしを、振りあげて、山の横面、春風ぞ吹く」
が蜀山人のもっともポピュラーな狂歌かもしれない。が、
松平定信の極端すぎる倹約政策・文武奨励が、
「世の中に、カほどうるさき、ものはなし。ブンブといひて、夜もねられず」
「白河の、清きに・魚の、棲みかねて、もとの濁りの、田沼恋ひしき」
と落首により知れ渡り、あるいは、居酒屋などで大合唱されると、
こんなに巧みな狂歌を作れれるのは「あの大田」しかいない、
と疑われて、これ以降、直次郎は腰が引けてしまうのである。そして、
定信が始めた人材登用試験「学問吟味」の第1回を直次郎は
齢44にもなって受験するのである。ところが、成績自体は申し分なかったものの、
身分が低いくせに文学の才能があって時代の寵児だった直次郎を
かねがね快く思ってなかった試験官に「品格不適格」として
「落第」にされてしまうのである。が、
直次郎は2年後の「第2回」にまた再チャレンジし、このときは
「御目見以下部門」の一等賞で合格するのである。このとき、
「御目見以上部門」の首席が遠山の金さんの実父である。ともあれ、
この「合格」によってもなお、直次郎はさらに2年、
冷や飯を食わされつづけるのである。
「五月雨の、日もたけ橋の、反古調べ。今日も古(ふる)帳、明日も降るてふ」
幕府の竹橋櫓で毎日まいにち新聞、文書整理をさせられたのである。が、
せっせと生真面目に勤めた甲斐あって、ついに
100表5人扶持に昇給されたのである。
無役の御徒から役職にも就いた。出役(出張)の中で
大阪の銅座に就いたことがあって、直次郎の若い時の名声を聞き及んでた
大阪の文化人らから請われ、この頃からまた狂歌の虫が騒ぎだした。
中国の四川にある貢嗄山(ミニヤコンカ)は蜀山という異名を持つが、
その北東は銅の産地である。これと自分の幕吏としての「殖産」をかけて、
直次郎は「蜀山人」という名でまた狂歌を詠みはじめたのである。
「世の中に、絶えて女の、なかりせば、男の心は、のどけからまし」
直次郎の母の名は利世(子)、正妻の名は里与(子)であり、ともに
「りよ(こ)」である。直次郎が74歳で死んだ12年後に
神田の護持院原(ごじいんがはら)で果たされた仇討の討手
山本利世(子)と同じ名である。この時代の
ポピュラーな名だったのだろう。ちなみに、この原っぱは、
享保年間に火災で焼失した護持院を音羽の護国寺に統一して、
火災時の火止め・避難所として空き地にされてたところである。
学問吟味に受かったものの2年間を埃にまみれた文書整理をさせられた
竹橋の櫓からは目と鼻の先の場所である。気象庁も近くである。

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