今泣いたカラスがもう笑う

2010-12-18 15:42:27 | インポート

一昨日はピーピー騒いでいたカラスは、昨日は別口の年末の納会ミサとパーティーに行って、機嫌を直して戻ってきました。付き合いの年月も違うので、ここでわびしい思いをするとダメージもさらに大きいのですが、さすがにそうはならず、いつもグループがお世話になっている番町のセブン本社社員食堂、ファミールさんのご好意、ご協力もあって昨夜も良い納会になりました。

というわけで、本日は夕方のミサの聖歌隊に行き、練習も今日はサボれないので、真面目に歌ってきます。本番は24日が8時半のミサ。金曜会の指導司祭の司式なので知り合いもみんなこの時間を狙っているようです。7時には並んでいないと座れません。

25日は土曜聖歌隊はいつもの夕方18時。この日は新垣先生が指揮をしてくださいます。

いずれにしても来週、再来週はさすがに忙しくなり、書き物に手をつけるのは年明け以降になると思います。あ、そうそう、祈りの互換性ということから、カルメルではなく、フランシスコ会の方に勉強にいくようになって、どうも自分の心にピンと来るのはフランシスコの方だと思うようになりました。

昔、イエズス会のリバス師が当時の黙想学校という会で、観想は大きく分けると心の中に入っていって神と出会おうとするカルメル会的な観想と、自分の周囲の世界の中で神に、あるいは神の働きに出会うフランシスコ会的な観想があるとうかがいました。この二つは、本当は別々のものではなくて一つのものなのですが、入り口の違いがあるというわけです。

これも昔、カンガス師に講座できいたはなしですが、人間と神の関係はスポンジと海のようなもので、海の水の中にあるスポンジは海がわからないけれど、自分の内側も外側も海の水でいっぱいにみたされているように、人間も、他の全ての存在も実感できなくても神様の中で生きていて、内側からも外側からも神様で満たされているのだと言います。であれば、カルメル的観想もフランシスコ的観想も行き着くところは同じということになります。

そして、そうだからこそ、高い壁の中の修道院にこもらなくても、世間の中でも祈りの生活は可能ではないかと思っているのです。神との一致といっても、さまざまなレベルがあるのです。日本人の霊性にぴったりくる祈りの生活というのがあってもいいはずです。ヨーロッパ、アメリカの真似をしたところで、本物にはなれません。日本で生まれ育った日本人のセンスを持った日本人の祈りの生活を求めます。

というわけで、フランシスコ会の在世会に行き始め勉強してみると、どうもこちらの方が自分にはぴんと来るなあと思ったのでした。

ただ、今の自分の状況というのが、望んだわけでもなくいやでも流されてここにきたという気持ちがあるので、その辺が少々不本意であります。まだ断じて納得できません。まあ、こちらは書き物を続けながらいきますが、そのへんももっと上の責任者の方々には考えていただきたい。