今年、ひっそりと一部の方にだけお見せしてきたはなしです。まだ当事者がご存命ですから、こちらも武士の情けではないけれど、全部は出しません。しかし、どうしてこういうことになってしまったのか、自分自身のためにも、他の人の深く関わるところは抜かして、これまでを表にだしてみます。肝心のところが出せないのが口惜しかったりもしますが人を苛める趣味はないので、適当にいきます。
前書き省略
さて、今までのことを説明するにはどうしても自分の生い立ち、父についてを話さないわけにはいきません。父の存在こそは自分の今の土台だったと思っているからです。そしてまた、生まれ育った土地の影響も決して無視することの出来ない要素でしょう。
本題に入ります。
私が生まれ育ったのは、千葉県市川市の若宮というところでした。今も本籍は同じ場所です。先祖代々の地ですから。日蓮宗の歴史などに詳しい方はその昔、日蓮上人が松葉が谷の法難にあった時、若宮の領主、富木常忍の助けで若宮の地に逃れたという話しをご存知でしょう。富木氏は父方の先祖の仕えていた殿様なのです。そして下総中山にある日蓮宗の中山法華経寺の開基でもあります。
その関係で父方は鎌倉時代以来中山、若宮の住人で、富木氏の家臣として法華経寺の参道域に家屋敷を、若宮に田畑を持って暮らしてきた家でした。時代とともに本家もすっかり凋落したとはいえ、今も親類は中山に住んでいます。私の父は戸籍上は本家の末の子となっているのですが、実際は孫なのです。つまり、実際は両親となっているのは実の祖父母。兄姉となっているのは伯父や実の母ということになります。父の実の父親はお寺さんだったのだそうです。といっても父が生前はなんとなく、死後になってはっきりと聞かされたのでした。
それを聞いても子供のこちらは実はちっとも驚きませんでした。なぜなら長女で一番上でお父さんっ子だった私にとっての父は他所のお父さんに比べると非常に不思議な存在だったからです。他所のうちのお父さんたちとはどうもかなり違う。そんじょそこいらにいくらでもいる人たちとは全然違う。父のような人は滅多にいないことは大人になってからも実感していました。ただ、どうしてそうなのかが分からなかったのがそれではっきりしたわけです。
父は学歴もないし、大きな会社に勤めていたわけでもありません。けれども非常な読書家で、物知りで、冗談や人を面白がらせることが大好きで、普通の人が目も止めないようなものを面白がり、本当に働き者で家族を大事にしていた人でした。父が生まれてまもなく実母、私には実の祖母は、赤ちゃんだった父を残して他所の人と結婚し、父は祖母(私には祖々母にあたる)と若かったころの伯母の手で育てられたために、寂しがりやで、いたずらや悪さばかりする男の子だったようです。
遠藤周作先生は子供の時、教会でさんざん悪さをしたそうですが、うちの父も同じようなことをしていたのです。小学校では屋根の上に上って下に向かっておしっこをし、全校生徒の前で、先生から『この者は・・・」と叱られたこともあったと聞いています。父の同級生が元市川市長の高橋さんだし、もしかしたらまだ当時の同級生の方もおいでになるかもしれません。とにかく悪ガキだったそうなのです。
そんなこんなで自分の子たちには自分のような寂しい思いはさせたくないと、家族、家庭はとても大切にする人だったと思います。どちらかといえば逆に甘やかしすぎで失敗したかもしれません。でもそのことはおいて話を進めます。
父がどんなものを子供に与えてきたかという話です。。私が物心ついた時には毎年お正月というと、我が家では一家揃ったところで父が一休禅師の『門松や冥土の旅の一里塚』という歌を持ち出してからでないと始まりませんでした。こちらは小さい時から、お正月といえども、めでたくもあり、めでたくもなしなのだという感覚を植え付けられて育ってきたのです。
・・・・以下、先が長いので、のんびり手直ししながらだしていくことにします。