人はひとりひとりでは、ものわかりがよく、寛容ですが、集団になると、同質化、標準化志向がでてきます。
自分と近い人間であることを求め、差異に不寛容になってゆきます。標準は差別と裏腹な関係にあります。
ではその標準とは何かと言えば、比較検討するために、人為的に決めた基準であり、グリニッジ標準時や、明石標準時が、基準になってるのは、便宜上にすぎません。
また、何を基準にするかというときに、ひとつの方法が、総和平均を採用するということです。
ところが、総和平均とは、個々にあてはめてみると、実際にはそのような要素をもつものは存在しません。それにもかかわらず、困るのは 標準に近いものイコール正常とみなすことなのです。
次ぎに、質としての、正常と異常についてですが、この境目というのははっきりせず、何が正常で何が異常かは、よくわからないもので結局は量できめられているのでしょう。
つまり少数派は常に異常とされてしまうのではないでしょうか?
多数派は常に少数派を排除しようとするので、少数派が、多数派のなかで生き抜くのはたいへん難しい。
社会集団の中で生きるには、ある程度自分を殺し、周囲とあわせられる仮面をかぶらねばならないのが常です。
ひとりの人間のなかにも、それは同居しているように思います。
心の中に生じるユニークなものと自分で勝手に判断をくだすものを表すと、まわりとの軋轢が生じるのではという恐れから、自己規制してしまう傾向がないでしょうか? 結果自分の中に籠ってしまう。 中には、ユニークさを強調しようと、理由もなく、平均だの標準だのを逆に批判しようとしてしまう。
このところ、社会不適応らしきパニックをおこす同居人を扱うのに悩んでいたpersempre、標準とはなにか、平均とはなにか、考えさせられました。
辞書の意味
平均:
高低、多少、大小などの違いが大きすぎないように操作すること。
標準:
基準にするよりどころ
自分と近い人間であることを求め、差異に不寛容になってゆきます。標準は差別と裏腹な関係にあります。
ではその標準とは何かと言えば、比較検討するために、人為的に決めた基準であり、グリニッジ標準時や、明石標準時が、基準になってるのは、便宜上にすぎません。
また、何を基準にするかというときに、ひとつの方法が、総和平均を採用するということです。
ところが、総和平均とは、個々にあてはめてみると、実際にはそのような要素をもつものは存在しません。それにもかかわらず、困るのは 標準に近いものイコール正常とみなすことなのです。
次ぎに、質としての、正常と異常についてですが、この境目というのははっきりせず、何が正常で何が異常かは、よくわからないもので結局は量できめられているのでしょう。
つまり少数派は常に異常とされてしまうのではないでしょうか?
多数派は常に少数派を排除しようとするので、少数派が、多数派のなかで生き抜くのはたいへん難しい。
社会集団の中で生きるには、ある程度自分を殺し、周囲とあわせられる仮面をかぶらねばならないのが常です。
ひとりの人間のなかにも、それは同居しているように思います。
心の中に生じるユニークなものと自分で勝手に判断をくだすものを表すと、まわりとの軋轢が生じるのではという恐れから、自己規制してしまう傾向がないでしょうか? 結果自分の中に籠ってしまう。 中には、ユニークさを強調しようと、理由もなく、平均だの標準だのを逆に批判しようとしてしまう。
このところ、社会不適応らしきパニックをおこす同居人を扱うのに悩んでいたpersempre、標準とはなにか、平均とはなにか、考えさせられました。
辞書の意味
平均:
高低、多少、大小などの違いが大きすぎないように操作すること。
標準:
基準にするよりどころ