エッセイと虚構と+α

日記やエッセイや小説などをたまに更新しています。随時リニューアルしています。拙文ですが暇つぶしになれば幸いです。

日記 6月13日(木曜日)

2013-06-14 01:25:51 | 日記
自分の性格の偏りをすこしでもマシにする為に、原稿用紙にせよWeblogにせよ書き続けることをしなくてはならないと強くきょう思いました。
雨がしとしとと降っていて、ブックオフに行ってきたのですが目当ての本はありませんでした。雨が降ると落ち着く日もあれば、面倒くさいと思う日もあり天気も人の心も変わりやすいと感じ、秋の空のように女性も男性もその心性は無常(常ならぬ)なのだと梅雨を想っても理解させられるわけなのです。
あと5年はこれからも書き続けることをしなくてはならないと強く思いました。書くことになんの意味があるのかわからないけれど自己治癒のアプローチとして選択し続けなくてはならない人間なのだとぼくは自分のことを思います。性格的な偏り(凸凹)を平板化する為には心象風景を文字に書き出して、客体視してみなくてはぼくの場合前に進めない。
それができた時はじめて社会人として本質的な自立ができるような気がする。ぼくはまだまだあまちゃんだし、未熟であり力がないのです。
このままなにもしなくてそのまま死んで行くのも人生ですが、書き出してせめてまともな人間になってから死にたい。でないと駄目な気がする。
絶えず学ぶ事は、センスとは相反することの方が多いかもしれないが、生きるためにぼくは書き続けるし、書かなくてはならない気がする。
Weblogでも原稿用紙でも同じこと。小説でもエッセイでも日記でもとにかくノスタルジーをアイデンティティーへの足掛かりに変換しながら生を推し進めてゆくにはペンにしろ、iPhone4にしろどっちでもいいから書いていくしかない。その先には別に何もないだろうし、目指しているのは日常であり普通の生活である。
惑わされやすいけれど、今後も他人に汲みする事なく自分の為に5年は書き続けなくてはならないと思っています。運命というより宿命に近い事柄がぼくにとって書くことになるのかもしれない。
でもそれで他人への価値が生み出せる訳ではないけれど。
過信はせず、自己卑下もせずやれたらもっと視野が広くなるかもしれない。
つまらないもしくは下手なもしくは駄目な散文であってもそれをしていかなくてはいかないくらい見えない壁に囲まれている。
それらは一見親切なのだが、とても残酷な壁であってぼくはいつもそれにたくさんの事を阻まれてきた。
しかし自己の視野をより解放できたのなら狭い窓からも大きな世界が見えてそれを描写することもできるようになるかもしれない。
とにかくもうあんまり人に期待せずに頑張りたい。
相変わらずの混乱はぼく個人ではなく社会全体に覆っているような気がする。それはぼくの気のせいだろうか?

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