早起きは三文の徳

何気ない喜びや驚き、発見は日常の中にある

好きだったのよ、石川ひとみさん

2023-08-29 17:47:39 | 日記

 最近、何の脈略もなく昔や今の歌が頭の中で鳴り続けることがある。童謡であったり、CMのバックソングだったり、子供のころの歌謡曲だったり。きょうは、昼休みの散歩中に、石川ひとみの「まちぶせ」が響いてきた。

「夕暮れの街角、のぞいた喫茶店。微笑み見つめあう見覚えあるふたり。あのコが急になぜかキレイになったのはあなたとこんな風に会ってるからなのね」

「気のない素振りして仲間に加わった。テーブルをはさんであなたを熱く見た」

「あのコがフラれたとうわさに聞いたけど、私は自分から言い寄ったりしない。ほかの人がくれたラブレター見せたり、偶然を装い、帰り道で待つわ」

「好きだったのよ、あなた。胸の奥でずっと。必ず、わたしきっと、あなたを振り向かせる」——

 昼明けにちょっとネット調べすると、彼女がこの歌を歌ったのは昭和56年だった。彼女が当時何歳だったかまでは追わなかったが、当時、とってもかわいかった。そして、彼女の歌うこの歌も好きだった。透き通った声で情感たっぷりに歌い上げていた。でも歳を経るにつれ、歌詞のすごさがわかってきた。作詞は荒井(松任谷)由実さんだという。女子高生が主役の歌に聞こえるが、オレがその世代だったころに、女のコたちはそんなこと考えてたのかと恐ろしささえ感じた。いい意味でだよ。ほかの人からもらったラブレター見せるかね? オンナの情念は暴れん坊将軍が生きた江戸時代、いやもっと昔から変わっていないのだろう。

 オレが当時心配したのは、紅白歌合戦の本番で泣いてしまうのでは、ということだった。それくらい純な女のコに見えていたのだ。やはり彼女は歌唱中に泣いた。オレはそれをまちぶせてしていたのかもしれない。ここ十数年は紅白を見ていないが、歌っているときに泣いた歌手を見たのは最初で最後だった。

 石川さんは、その後はヒット曲は出していないと覚えているが、国営教育テレビの「ニャンちゅうのおねえさん」役を何年も務めたりしていたね。

 と、思い出にふけって、家に帰ってからもう一度ネット検索したところ、石川さんが101日にデビュー45周年記念コンサートをするという案内を見つけた。また、泣いちゃうんだろうな。

 急にアタマに浮かんできたあの曲は、彼女が見も知らないオレをまちぶせしていたのかもしれない、と勝手に思っている。

 


日本語、大丈夫か?

2023-08-29 12:40:04 | 日記

「〜〜だよねって話で」「ほぼほぼ」「いまいま」「すぐすぐ」・・・いい歳したオッサンが、職場で連発する言葉だ。若いヒトたちが使う現代語というか隠語はカンボジア語を聞いているのと同じレベルなので別に分からなくてもいいが、オッサンたちの言葉は何言ってるのか、言ってることは聞き取れるだけに、最近の流行りことばを使っていると勘違いしているふうに見えてたまらなく不快だ。

 特に「だよねって話」は、まとめているふうで、話題の事象やヒトをバカにして自分が優位な立場にいることを”言いたいんだよねって話”。

「ほぼほぼ」は「ほぼ」より、強い意味なのか、「ほぼ」とは言い切れないのか、わからん。言葉を重ねるのは、「しばしば」「そこそこ」「いろいろ」などたくさんあるが、それは、「しば」や「いろ」では意味を成さないからで、「いまいま」とは、種類が違う重ね言葉だ。

 あと、これは近年頻繁に使われるようになった言葉だと思うが、「勝ち切る」「勝ち切った」が気になる。以前からある言葉ではあるが、「リードしていた展開から追い上げられたが、なんとかしのいでそのまま逃げ切ることができた」という意味と捉えていた。例えば「前の試合ではせっかくリードしていたのに逆転負けしてしまったので、きょうは勝ち切れてよかった」とか。

 しかし、このところ、極端な例では「格下相手に逆転サヨナラで勝ち切った」とか、試合前に「この試合は大切なので、しっかり勝ち切りたい」などと「流れに棹さす」レベルの意味の取り違いがあるのではと思ってしまう。

 「ことばは時代とともに変わる」という理屈もよく聞くが、やはり言葉は大切に使いたい。この、”日本語について考えるシリーズ”も随時書いていきたいと思う。