10月28日(水)アンドレ・プレヴィン指揮 NHK交響楽団
《2009年10月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
2.モーツァルト/交響曲第39番変ホ長調K.543
3.モーツァルト/交響曲第40番ト短調K.550 (3~4楽章は
)
待ちに待ったプレヴィン/N響のモーツァルトプロ。前回来日時のモーツァルトプロまで遡るまでもなく先週Cプロでモーツァルトのコンチェルトの素晴らしい伴奏を聴いたばかりだし、自ずと期待するのは名演ならぬ超名演。
「プラハ」の序奏がゆったりと始まる。余分な力が抜けたユニゾン、柔かな弦の歌から短調に転じ、緊張感のある反復進行へ、そして小刻みな弦の反復に導かれて第1主題が活き活きと奏でられ… こうした場面場面ごとに感動が呼び起こされるはずだったのだが、何だか今日の演奏は違う。力みはなく穏やかではあるが、いつもみたいにそれが宙に舞い、天上に羽ばたいて行こうとしない。色彩感や光や、モーツァルトには欠かせない要素のひとつである活き活きした躍動感も伝わってこない。弦にもN響らしからぬほころびが… はっきり言って精彩が感じられない。
次の39番ではクラなど楽器も入れ替わりがあって気分も一新すればいいのだがと思ったが、いいところもあったがうーんやっぱり基本的にはあまり変わり映えしない。辛うじて第4楽章は少しばかり息を吹き返し、N響らしい端正でクリアな弦と躍動感が出てきた管が活きの良いアンサンブルを奏でるのを聴けたが。
どうしたんだろう、プレヴィンとN響の間に何かあったんだろうか?あまりに期待し過ぎたせいでいい演奏をしても「まだまだこんなもんじゃあ…」と変な壁を自ら作ってしまったなんてことはないと思うのだが…
後半の40番もこうなると心配の方が先に立つ。演奏が始まり、「うん、ここはいい!」と何だかいいところを一生懸命探している自分に気づく。いつもなら探そうとなんてしなくてもいいところはどんどん向こうからやってくるのに… それに探し当てたいいところより、「ここは違う…」と思ってしまうところの方が多い。例えばひとつあげれば第2楽章の開始、跳躍の幅を広げながらモチーフがヴィオラ、セカンドヴァイオリン、ファーストヴァイオリンと重なって行く場面、ヴィオラの柔らかな奥ゆかしい表情に重なるセカンドヴァイオリンのあっけらかんとした響き…
このままの気分で終わってしまうのだろうか… と思っていたら、第3楽章で魂が入ったかのようにテンションがぐぐぐっと上がった。響きが豊かになり、演奏に光が差した。厳しく気品に溢れたポリフォニックな世界と、トリオの柔らかい天上的な美しさ。そしてこれは幸い第4楽章まで続く。余分な力が加わることなく気高く落ち着いた足取りで深く澄み切った世界を描いて行く。第2主題の透明感と空気のような軽さも絶品だ。展開部に入っても主題労作が全く「労」を感じさせないシンプルさでさり気なく心を揺する。これこそプレヴィンの真骨頂だ。そうした高いテンションを保ったまま曲を閉じた。心からの拍手喝采を送ることができた。
最後の曲の第3楽章になって天からミューズが降りてきたような変わり様に出くわして思ったのは、プレヴィンのモーツァルトのような余計な力を入れず、恣意的な細工や表情付けもせず、それでいて極上のものが作られる世界というのはきっと、「これをこう工夫すればいい演奏になる」という次元とは全然違う、呼吸のほんのわずかなズレとかが関係してくる紙一重の世界なのでは、ということ。例えば皆既日食帯で日食を体験するのと、そこからちょっとでも外れた場所で日食を体験するのとでは世界が全然違ってしまうような、ごく小さな違いで世界が大きく変わるのと似ている。プレヴィン/N響はそうした「皆既日食的な」超名演をこれまで何度も味わわせてくれたわけだ。
今日の演奏の最後のほうでそれをまた実現できたことで、明日の演奏は最初から絶好調に転じるかも知れない。そう思うとちょっと悔しいが、2日目を聞いた方、感想を報せてください。
終演後、同じ演奏を聴いていた友人の「テクノ」は「素晴らしかった」と言って感激していた。こんな風にひねくれた感想を持ってしまったのは僕だけだったのかな…?
《2009年10月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
2.モーツァルト/交響曲第39番変ホ長調K.543
3.モーツァルト/交響曲第40番ト短調K.550 (3~4楽章は


待ちに待ったプレヴィン/N響のモーツァルトプロ。前回来日時のモーツァルトプロまで遡るまでもなく先週Cプロでモーツァルトのコンチェルトの素晴らしい伴奏を聴いたばかりだし、自ずと期待するのは名演ならぬ超名演。
「プラハ」の序奏がゆったりと始まる。余分な力が抜けたユニゾン、柔かな弦の歌から短調に転じ、緊張感のある反復進行へ、そして小刻みな弦の反復に導かれて第1主題が活き活きと奏でられ… こうした場面場面ごとに感動が呼び起こされるはずだったのだが、何だか今日の演奏は違う。力みはなく穏やかではあるが、いつもみたいにそれが宙に舞い、天上に羽ばたいて行こうとしない。色彩感や光や、モーツァルトには欠かせない要素のひとつである活き活きした躍動感も伝わってこない。弦にもN響らしからぬほころびが… はっきり言って精彩が感じられない。
次の39番ではクラなど楽器も入れ替わりがあって気分も一新すればいいのだがと思ったが、いいところもあったがうーんやっぱり基本的にはあまり変わり映えしない。辛うじて第4楽章は少しばかり息を吹き返し、N響らしい端正でクリアな弦と躍動感が出てきた管が活きの良いアンサンブルを奏でるのを聴けたが。
どうしたんだろう、プレヴィンとN響の間に何かあったんだろうか?あまりに期待し過ぎたせいでいい演奏をしても「まだまだこんなもんじゃあ…」と変な壁を自ら作ってしまったなんてことはないと思うのだが…
後半の40番もこうなると心配の方が先に立つ。演奏が始まり、「うん、ここはいい!」と何だかいいところを一生懸命探している自分に気づく。いつもなら探そうとなんてしなくてもいいところはどんどん向こうからやってくるのに… それに探し当てたいいところより、「ここは違う…」と思ってしまうところの方が多い。例えばひとつあげれば第2楽章の開始、跳躍の幅を広げながらモチーフがヴィオラ、セカンドヴァイオリン、ファーストヴァイオリンと重なって行く場面、ヴィオラの柔らかな奥ゆかしい表情に重なるセカンドヴァイオリンのあっけらかんとした響き…
このままの気分で終わってしまうのだろうか… と思っていたら、第3楽章で魂が入ったかのようにテンションがぐぐぐっと上がった。響きが豊かになり、演奏に光が差した。厳しく気品に溢れたポリフォニックな世界と、トリオの柔らかい天上的な美しさ。そしてこれは幸い第4楽章まで続く。余分な力が加わることなく気高く落ち着いた足取りで深く澄み切った世界を描いて行く。第2主題の透明感と空気のような軽さも絶品だ。展開部に入っても主題労作が全く「労」を感じさせないシンプルさでさり気なく心を揺する。これこそプレヴィンの真骨頂だ。そうした高いテンションを保ったまま曲を閉じた。心からの拍手喝采を送ることができた。
最後の曲の第3楽章になって天からミューズが降りてきたような変わり様に出くわして思ったのは、プレヴィンのモーツァルトのような余計な力を入れず、恣意的な細工や表情付けもせず、それでいて極上のものが作られる世界というのはきっと、「これをこう工夫すればいい演奏になる」という次元とは全然違う、呼吸のほんのわずかなズレとかが関係してくる紙一重の世界なのでは、ということ。例えば皆既日食帯で日食を体験するのと、そこからちょっとでも外れた場所で日食を体験するのとでは世界が全然違ってしまうような、ごく小さな違いで世界が大きく変わるのと似ている。プレヴィン/N響はそうした「皆既日食的な」超名演をこれまで何度も味わわせてくれたわけだ。
今日の演奏の最後のほうでそれをまた実現できたことで、明日の演奏は最初から絶好調に転じるかも知れない。そう思うとちょっと悔しいが、2日目を聞いた方、感想を報せてください。
終演後、同じ演奏を聴いていた友人の「テクノ」は「素晴らしかった」と言って感激していた。こんな風にひねくれた感想を持ってしまったのは僕だけだったのかな…?
N響からあれほど温かく上品な音色が聴けたのは久しぶりでしたし、会場と舞台の親密な雰囲気も特別なものがあったので、それだけは満足した演奏会でした。
プレヴィン/N響はN響定期の枠に留まらず、日本で聴ける最も楽しみな公演のひとつです。「超名演」をいつでも期待するのは酷でもやっぱり「名演」はいつでも聴かせてもらいたい!と思ってしまいます。