12月3日(日)スタニスラフ・ブーニン(Pf)
川口リリアメインホール
【曲目】
♪ ショパン/ノクターン嬰へ長調 Op.15-2
♪ ショパン/ポロネーズ第1番嬰ハ短調 Op.26-1
♪ ショパン/プレリュード第15番変ニ長調 Op.28-15「雨だれ」
♪ ショパン/マズルカ ヘ短調 Op.63-3
♪ ショパン/マズルカ 嬰ハ短調 Op.50-3
♪ ショパン/ポロネーズ第7番変イ長調 Op.61「幻想」
♪ ♪ ♪ ♪ シューマン/色とりどりの小品 Op.99~、第1~4曲、第6~8曲、第11曲、第12曲
♪ メンデルスゾーン/無言歌集第1巻~「甘い思い出」 Op.19-1
【アンコール】
♪ ショパン/マズルカ イ短調 Op.67-4
ブーニンのピアノを98年10月以来、25年ぶりに聴いた。NHKのドキュメント「それでも私はピアノを弾く」を観て、ブーニンが命に係わる病気や怪我に見舞われ、演奏活動を停止して闘病していたこと、今なお大きなハンディを抱えながらも大変な努力で昨年演奏活動を再開したことを知った。25年前に聴いた演奏会の感想を読み返してみたら「(前略)デビュー当時の煌きと切れ味を失うことなく、更に着実に大ピアニストへの道を歩んでいるピアニストだ。刹那的な美しさ、強靭で鋭いタッチの影に見える非常に壊れやすくデリケートな青白い繊細さ。一音に向かって全ての精神が注ぎ込まれる集中力はバラバラになりそうな危うさと隣り合わせのよう。(後略)」と、とても強い感銘を受けたことを綴っていた。けれど何故かその後はブーニンを聴いておらず、これを機に、またブーニンを聴いてみたくなり、期待と不安が入り交じった気持ちでリサイタルを訪れた。
特注の靴を履いて、杖を突いてゆっくり登場したブーニンは温かい拍手に包まれた。ピアノの前で暫く静止し、意を決したように、しかし穏やかに弾き始めたノクターンで、ブーニンは音楽を慈しむように繊細な音を丁寧に紡いでいった。またこうして超満員の大ホールでピアノを弾くことができることへの感謝が込められているようにも感じられた。祈りを込めて曲と向き合い、蕾が静かに花開くようなデリケートで美しい瞬間に立ち会っている感覚。前半のショパンでも、後半のシューマンとメンデルスゾーンでも、ブーニンの音楽への愛と慈しみと感謝が伝わってくるような演奏だった。ときにハラハラする場面もあったけれど、悲しいほど美しかった。
今日のブーニンの演奏からは、僕が以前ブーニンに抱いていた強靭さや厳しさは感じられなかったが、25年前の感想に書いた「壊れやすくデリケートな青白い繊細さ」や「バラバラになりそうな危うさと隣り合わせのよう」というイメージは確かに生きていて、更に深められた印象も受けた。
とは云っても、危なっかしさやタッチのほころびがあったのは事実。もし目隠しをされて、誰が弾いているかもわからずただ音だけを聴いて同じような感銘を受けたか、と訊かれると、ブーニンの境遇や努力への思いを重ね合わせて聴いていることを否定することはできない。けれど演奏から受ける印象とは、特に生身の人間が目の前で演奏しているライブのコンサートで感じる音楽とは、単に音そのものだけでなく、演奏している人の姿や、その人の人生も併せて感じるものではないだろうか。ブーニンは、そうした音以外のメッセージも聴衆に与えるに値する人生を背負っていると感じずにはいられなかった。
57歳という音楽家としてまだまだ深みを増して行ける年齢にあるブーニンは、これまでの苦労を糧として、更に深遠な音楽を奏でるアーティストへと深化していくだろう。
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ブーニンのピアノを98年10月以来、25年ぶりに聴いた。NHKのドキュメント「それでも私はピアノを弾く」を観て、ブーニンが命に係わる病気や怪我に見舞われ、演奏活動を停止して闘病していたこと、今なお大きなハンディを抱えながらも大変な努力で昨年演奏活動を再開したことを知った。25年前に聴いた演奏会の感想を読み返してみたら「(前略)デビュー当時の煌きと切れ味を失うことなく、更に着実に大ピアニストへの道を歩んでいるピアニストだ。刹那的な美しさ、強靭で鋭いタッチの影に見える非常に壊れやすくデリケートな青白い繊細さ。一音に向かって全ての精神が注ぎ込まれる集中力はバラバラになりそうな危うさと隣り合わせのよう。(後略)」と、とても強い感銘を受けたことを綴っていた。けれど何故かその後はブーニンを聴いておらず、これを機に、またブーニンを聴いてみたくなり、期待と不安が入り交じった気持ちでリサイタルを訪れた。
特注の靴を履いて、杖を突いてゆっくり登場したブーニンは温かい拍手に包まれた。ピアノの前で暫く静止し、意を決したように、しかし穏やかに弾き始めたノクターンで、ブーニンは音楽を慈しむように繊細な音を丁寧に紡いでいった。またこうして超満員の大ホールでピアノを弾くことができることへの感謝が込められているようにも感じられた。祈りを込めて曲と向き合い、蕾が静かに花開くようなデリケートで美しい瞬間に立ち会っている感覚。前半のショパンでも、後半のシューマンとメンデルスゾーンでも、ブーニンの音楽への愛と慈しみと感謝が伝わってくるような演奏だった。ときにハラハラする場面もあったけれど、悲しいほど美しかった。
今日のブーニンの演奏からは、僕が以前ブーニンに抱いていた強靭さや厳しさは感じられなかったが、25年前の感想に書いた「壊れやすくデリケートな青白い繊細さ」や「バラバラになりそうな危うさと隣り合わせのよう」というイメージは確かに生きていて、更に深められた印象も受けた。
とは云っても、危なっかしさやタッチのほころびがあったのは事実。もし目隠しをされて、誰が弾いているかもわからずただ音だけを聴いて同じような感銘を受けたか、と訊かれると、ブーニンの境遇や努力への思いを重ね合わせて聴いていることを否定することはできない。けれど演奏から受ける印象とは、特に生身の人間が目の前で演奏しているライブのコンサートで感じる音楽とは、単に音そのものだけでなく、演奏している人の姿や、その人の人生も併せて感じるものではないだろうか。ブーニンは、そうした音以外のメッセージも聴衆に与えるに値する人生を背負っていると感じずにはいられなかった。
57歳という音楽家としてまだまだ深みを増して行ける年齢にあるブーニンは、これまでの苦労を糧として、更に深遠な音楽を奏でるアーティストへと深化していくだろう。
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