今回は、ペン立てでした。
外側はうさぎ柄のリバティの布、内側はスキバルを貼っています。
これも娘用に。ペン立てではなく、眼鏡入れにしました。
いつも眼鏡をあちこちに置いて、学校に行くときになって「眼鏡どこ~?」となるので。
6月は用事と重なりカルトナージュのレッスンをお休みしてしまいました。
そして忙しくて復習をおろそかにしたら、やっぱり立体の箱の手順が頭から抜けてしまっていました・・・
今はまだ初級ですが、時間は三時半までかかるので、レッスンの日は子どもは学校でお預かりを頼んでいます。住んでいる市では、学校で無料の放課後のお預かり制度があるので助かっていますが、
うちのむすめっこは、実はあまりお預かりが好きでないのです。
家でマイペースで遊んでいるか、いつもの遊び友達と遊んでいたいらしい。それはそうですよね・・・
でも、まだ一人で留守番はどうかな~と思って、お預かりにしているんですが。
なので、なるべく早めに帰るために、慌てて作ろうとして、先生が他の方を見ているときは、自分で勝手に先に進んであとから先生に「それ違うわよ~」と言われることになったり^^;
そして作るのに精一杯で、作り方をメモできなかったり。
だから、手順をおぼえているうちに復習で自分で作って、作り方をメモしていかないと、基礎の部分も忘れちゃうんですよね。
反省。
いやでも、中国語の宿題が忙しかったしね・・・と言い訳。(でも、こちらも暗記しきれなくて、そういう自分の記憶力の低下が非常に悲しい今日この頃)
自分の能力がそんなに手広くできるほうではないとわかっているのに、色んな物に手を伸ばしてしまっている感があります。
中国語、カルトナージュ、シュタイナー教育の勉強会、アートワーク、バイオグラフィーワーク、あとはボランティア・・・結構忙しいです。
前にも書いたかもしれませんが、自分だったら死ぬときにどうしたら後悔しないかと考えたとき、「私が興味あることに取り組み、もし結果を出さなくとも努力した」という感覚があれば、「いい人生だった」と思えるかなあと。
以前は結果を出したくてしようがなかったんですが、今はその経過をどう過ごしたかというのが大切かもしれないと感じるようになりました。(私の言う結果というのは、ある能力を職業で使える程度のレベルまで獲得するということ←これが本当に難しい・・・)
ある程度まではうまくいっても、ここから先に進むというときにいつもやりきれないのが私の悩みどころですね~
中国語にしても、仕事していたときは、日本語があまり話せない中国人の先生と会話するのはできましたが、
(先生だと発音がきれいで、なおかつやさしい表現をつかってくれるからわかりやすい)
通訳や翻訳・・・となると全然できるレベルに達していない。
今でもレッスンを受けていても、ああなんでこんなことわからないんだろ、私。と思うことがたくさん。
努力しているといっても、中途半端な努力なんだよなあとわかってるし。
一流の努力ができる人になりたいとつくづく思います。
だけど、中途半端な努力もしないのは、やっぱり嫌なんだよなあ・・・とこの年になって思う訳ですよ。
きっとだらだらペースだけど、自分が身につけたいと思ったことは、続けていきたいと思います。
例え、自分が望むように上手にならなかったとしても、ね(笑)
外側はうさぎ柄のリバティの布、内側はスキバルを貼っています。
これも娘用に。ペン立てではなく、眼鏡入れにしました。
いつも眼鏡をあちこちに置いて、学校に行くときになって「眼鏡どこ~?」となるので。
6月は用事と重なりカルトナージュのレッスンをお休みしてしまいました。
そして忙しくて復習をおろそかにしたら、やっぱり立体の箱の手順が頭から抜けてしまっていました・・・
今はまだ初級ですが、時間は三時半までかかるので、レッスンの日は子どもは学校でお預かりを頼んでいます。住んでいる市では、学校で無料の放課後のお預かり制度があるので助かっていますが、
うちのむすめっこは、実はあまりお預かりが好きでないのです。
家でマイペースで遊んでいるか、いつもの遊び友達と遊んでいたいらしい。それはそうですよね・・・
でも、まだ一人で留守番はどうかな~と思って、お預かりにしているんですが。
なので、なるべく早めに帰るために、慌てて作ろうとして、先生が他の方を見ているときは、自分で勝手に先に進んであとから先生に「それ違うわよ~」と言われることになったり^^;
そして作るのに精一杯で、作り方をメモできなかったり。
だから、手順をおぼえているうちに復習で自分で作って、作り方をメモしていかないと、基礎の部分も忘れちゃうんですよね。
反省。
いやでも、中国語の宿題が忙しかったしね・・・と言い訳。(でも、こちらも暗記しきれなくて、そういう自分の記憶力の低下が非常に悲しい今日この頃)
自分の能力がそんなに手広くできるほうではないとわかっているのに、色んな物に手を伸ばしてしまっている感があります。
中国語、カルトナージュ、シュタイナー教育の勉強会、アートワーク、バイオグラフィーワーク、あとはボランティア・・・結構忙しいです。
前にも書いたかもしれませんが、自分だったら死ぬときにどうしたら後悔しないかと考えたとき、「私が興味あることに取り組み、もし結果を出さなくとも努力した」という感覚があれば、「いい人生だった」と思えるかなあと。
以前は結果を出したくてしようがなかったんですが、今はその経過をどう過ごしたかというのが大切かもしれないと感じるようになりました。(私の言う結果というのは、ある能力を職業で使える程度のレベルまで獲得するということ←これが本当に難しい・・・)
ある程度まではうまくいっても、ここから先に進むというときにいつもやりきれないのが私の悩みどころですね~
中国語にしても、仕事していたときは、日本語があまり話せない中国人の先生と会話するのはできましたが、
(先生だと発音がきれいで、なおかつやさしい表現をつかってくれるからわかりやすい)
通訳や翻訳・・・となると全然できるレベルに達していない。
今でもレッスンを受けていても、ああなんでこんなことわからないんだろ、私。と思うことがたくさん。
努力しているといっても、中途半端な努力なんだよなあとわかってるし。
一流の努力ができる人になりたいとつくづく思います。
だけど、中途半端な努力もしないのは、やっぱり嫌なんだよなあ・・・とこの年になって思う訳ですよ。
きっとだらだらペースだけど、自分が身につけたいと思ったことは、続けていきたいと思います。
例え、自分が望むように上手にならなかったとしても、ね(笑)