東京マラソンで森元首相に大ブーイング
「真央ちゃんがかわいそうだろ!」
森喜朗発言録(シンキロウ発言録)
座右の銘は「滅私奉公」
●「大阪人は金もうけばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」
(1988年4月、京都市内のパーティーで)
●「横浜の寿警察署管内には1500人くらいの韓国から来た労働者がいる。ベトナム戦争に参加しているから銃を撃つことは不慣れではない。まとまれば大変な軍事行動ができるくらいになる、というおそれがあると言われている」
(92年6月、早稲田大学での講演で)
●「(農業団体の有力者が対立候補にいて)私が『立候補のあいさつに参りました』と行くと、農作業をしている農家の方が全部家に入っていきました。なんかエイズが来たように思われちゃってね」
(2000年1月、福井県内の講演で。97年7月、遊説先の神戸市内でも同様の発言をしている)
●「君が代斉唱の時、沖縄出身の歌手の1人は口を開かなかった。恐らく、知っていると思うが、学校で教わっていないのですね。沖縄県の教職員組合は共産党が支配していて、何でも政府に反対、何でも国に反対する。沖縄の2つの新聞、琉球新報、沖縄タイムスもそうだ。子供もみんなそう教わっている」
(2000年3月、石川県内の講演で)
●「夜も朝も総理番記者から『何時に寝て何時に起きたのか』と電話が来るので困っている。家内がホテルの方が楽だと言っている。ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」
(2000年4月、取材陣に対して)
●「私も小渕さんと同じ昭和12年生まれ、ちょうど支那事変がぼっ発したときに生まれました」 (2000年4月5日、就任会見)
(注)『支那』は中国を指すが、歴史的経緯から侮べつ語であるとされる
●「戦争については時代の背景によっていろいろな問題意識があったと思う。日本が侵略戦争をしたかどうかは、歴史の中でみんなが判断していくべきことだ」
(2000年4月24日の衆院予算委員会)
●「教育勅語はいいところもあった」
(2000年5月8日、桜内義雄元衆院議長の後援会総会で)
(注)教育勅語:皇国史観に立ち、天皇の名において教育理念と実践道徳を規定しており、天皇に「忠良な臣民」を育てることに眼目が置かれている。1948年には「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、国会が失効確認を決議している
●「教育基本法には大事な愛国心がない。家族愛もない。日本人としてのありかたもない」
(2000年5月11日、教育改革国民会議で)
●【神の国発言】
「(懇談会は)昭和の日の制定や先帝陛下60年の即位(の式典)とか、政府側が若干及び腰になるようなことを前面に出して、日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかりと承知していただくという思いで活動をしてきた」
(2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会(会長・綿貫民輔代議士)の結成30周年記念祝賀会で)
その後、陳謝すれども撤回せず。
●(民主党は)そういう政党(共産党)と(組んで)どうやって日本の安全を、日本の国体を守ることができるんだろうか。
(2000年6月3日、講演で)
(注)国体:一般的には国家の主権がどこにあるかを区別する国家形態の意味だが、天皇主権を規定した明治時代の大日本帝国憲法下では、万世一系の天皇が統治権を総覧する国家体制を表した。 文部省は1937年、「国体の本義」とする見解をまとめ、天皇への絶対従順を説いた。敗戦後、新憲法に盛られた象徴天皇制や国民主権に対し、戦前の体制派が「国体護持」を唱えて抵抗した経緯もある。(朝日新聞の解説より抜粋)
その後、失言と認めたような発言を行ったが、改めて「失言でも何でもない」と言明した
●(共産党が連立政権に加わる可能性にふれて)「小沢(一郎自由党党首)さんもどうするのか。小沢さんは我々よりはるかにもっと強い国粋主義者だ」と、自分も「国粋主義者」だと認めるような発言
(2000年6月13日、神奈川県内の街頭演説で)
●(共産党を批判して)「(共産党)綱領には『君主制を認めない』と、つまり『天皇制を認めない』と書いてある」と、首相自身が「天皇制=君主制」と考えていると受け取れる発言
(2000年6月13日、東京都内の街頭演説で)
●(北陸新幹線の整備計画について)「このことを、どう取り扱うかということについて、この地域を代表する与党の政治家がいないとだめです」と衆院小選挙区の与党候補の当落で、整備新幹線の計画の進め方を判断するかのような発言
(2000年6月14日、福井県敦賀市の街頭演説で)
●総理、態度未定者の棄権を期待?
(衆院選世論調査で、態度未定の人が4割近くあることに触れて) 「そのまま関心がないといって寝てしまってくれれば、それでいいんですけども、そうはいかないでしょうね」
(2000年6月20日、新潟市での演説で)
●(沖縄全戦没者追悼式に触れ)「英霊の御霊に哀悼の念をささげてきました」
(注)「英霊」は、通常おもに戦死した軍人、軍属を指す
同日夜の演説では、「戦闘員、非戦闘員」と言い換えたが、戦前体質が身に染み付いているのか?
(2000年6月23日、名古屋市内での街頭演説で)
●「皆さんがいじめるから委縮する。」「テレビのニュースはビデオで録画して見ているが、ほめたことなんかないじゃないか」
記者とのやりとりを拒否したり、かねてから自分のことは棚に上げマスコミ不信を募らせている森総理。何か勘違いしていませんか?
(2000年8月11日、静養先の箱根で記者団に対して)
●【第三国で発見案発言】
(2000年10月20日の英ブレア首相との会談で)
「(拉致疑惑の北朝鮮側に)『行方不明者ということでいい。北京やバンコクにいたという方法もあるのでは』と言ったが明確な返事はもらっていない」
外交上の内幕を軽々しく表に出したことで、「この問題の解決が難しくなった」「日本の国益を危うくする」などの批判が相次いだ。直後には中川長官が「『第三国で発見』という案は中山氏の個人的な発言」と言い訳するも中山氏に事実に反すると抗議され謝罪した。その後も説明は右往左往し、とうとう記者団の質問に
「何の責任だよ。君らの責任じゃないか」
と責任はマスコミ報道にあると激怒する始末。
●「『いつクビになるかわからないが、できれば在任のうちに』と思って来た」
「私は1937年生まれで大東亜戦争の前、支那事変が起こったときだ」
「太平洋戦争」を「大東亜戦争」と「日中戦争」を「支那事変」と表現するのは戦前回帰指向の歪んだ愛国主義者か、戦前の教育が身に付いたお年寄りだが、さて森首相は? いずれにせよ政治家としては失格。ましてや首相なぞ。
(2001年1月9日(日本時間10日未明)、南アフリカ・ヨハネスブルク市内で行われた在留邦人会レセプションにて)
●【えひめ丸沈没時かけゴルフ問題】
2001年2月10日ハワイ沖で高校生を乗せた漁業実習船えひめ丸が米原潜に衝突され沈没、9人の不明者を出した事件で、ゴルフを楽しんでいた首相は連絡を受けた後もプレーを続行
(ゴルフ場内で問いかけた記者をとがめて)「どうして、ここまで入ってくるの。ここはプライベートですよ」
事故への対応に批判が高まっていることについて
「私自身が右往左往したら命令できないし、報告も受けられない」
「これがどうして危機管理なのか。事故でしょ。私はリーダーシップをきちっと発揮したと思っている」
その後、衝突時にプレーのゴルフ場会員権は知人のメーカー社長が4000万円で買ったものを購入時点で自分名義にし、事実上無償で譲り受けていたことが判明。閣僚の資産公開などでこの会員権を報告しておらず、このような名義の書き換えは税法上贈与とみなされるが贈与税の支払いもなかった。
「譲りうけたんじゃないです。いつも使えるようにしてもらっているだけです。」
さらにその後、問題のゴルフはかけゴルフだったことが明らかになり
「かけゴルフなんかするはずないでしょう」と一旦は否定
しかし森事務所の発表した「いわゆる『チョコレート』程度のもの(少額の金額)をやりとりすることはある」とのコメントを記者に指摘され一転してかけゴルフは認めた
●「何でもかんでも悪いのは首相だというのは僕で最後にしてほしい」
えひめ丸事故、ゴルフ会員権問題の発覚で内閣支持率が急落の最中、いつものマスコミへの責任転嫁
(2001年2月15日)
●(2000年9月衆院予算委員会で)「(政権が)私生児のように生まれたと言われると大変不愉快だ」
翌日「今の時代、言葉遣いは慎重にしなければと改めて痛感した」と述べて発言を取り消したが、
(2001年3月12日参院予算委員会で)「『密室だ』『密室だ』とマスコミが決めつけて、どっかのガード下から拾われてきた赤ん坊のように言われる。私はきちんとした民主主義のルールで選ばれた」
懲りない人なのか、根本から間違った人なのか
●「腰が痛いから寝てたんだよ!」(2001年3月28日、首相官邸の廊下で、質問した記者団に気色ばんで罵声を浴びせた)
前日の27日夜、予定していた国賓であるノルウェーのハラルド5世国王主催行事への出席を急きょ取りやめ、代わりに自民党森派の若手議員らとすし屋で会食していた。首相が国賓主催の行事に欠席するのは異例
(寸評-神の国発言-) 「神の国」について「地域社会においては、その土地や山や海や川などの自然の中に人間を超えるものを見る考え方があったことを申し上げた」などと説明しているが、「天皇を中心とする神の国」なる言葉が呼び起こすのは明らかに戦前の皇国史観に基づいた体制である。彼の年齢でそれを知らないわけはなく、おそらく戦前回帰の本音がでた発言だったのだろう。百歩譲って復古主義的なものではなかったとすれば、今度は彼の言葉の持つ重みに対する自覚の無さと言葉の歴史に対する無知が糾弾されるべきであろう。「国体」や「教育勅語」にも同じことが言える。いずれにせよ彼は、一国の総理はもとより政治家としての資質に欠いていると言わざるを得ない。
「真央ちゃんがかわいそうだろ!」
森喜朗発言録(シンキロウ発言録)
座右の銘は「滅私奉公」
●「大阪人は金もうけばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」
(1988年4月、京都市内のパーティーで)
●「横浜の寿警察署管内には1500人くらいの韓国から来た労働者がいる。ベトナム戦争に参加しているから銃を撃つことは不慣れではない。まとまれば大変な軍事行動ができるくらいになる、というおそれがあると言われている」
(92年6月、早稲田大学での講演で)
●「(農業団体の有力者が対立候補にいて)私が『立候補のあいさつに参りました』と行くと、農作業をしている農家の方が全部家に入っていきました。なんかエイズが来たように思われちゃってね」
(2000年1月、福井県内の講演で。97年7月、遊説先の神戸市内でも同様の発言をしている)
●「君が代斉唱の時、沖縄出身の歌手の1人は口を開かなかった。恐らく、知っていると思うが、学校で教わっていないのですね。沖縄県の教職員組合は共産党が支配していて、何でも政府に反対、何でも国に反対する。沖縄の2つの新聞、琉球新報、沖縄タイムスもそうだ。子供もみんなそう教わっている」
(2000年3月、石川県内の講演で)
●「夜も朝も総理番記者から『何時に寝て何時に起きたのか』と電話が来るので困っている。家内がホテルの方が楽だと言っている。ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」
(2000年4月、取材陣に対して)
●「私も小渕さんと同じ昭和12年生まれ、ちょうど支那事変がぼっ発したときに生まれました」 (2000年4月5日、就任会見)
(注)『支那』は中国を指すが、歴史的経緯から侮べつ語であるとされる
●「戦争については時代の背景によっていろいろな問題意識があったと思う。日本が侵略戦争をしたかどうかは、歴史の中でみんなが判断していくべきことだ」
(2000年4月24日の衆院予算委員会)
●「教育勅語はいいところもあった」
(2000年5月8日、桜内義雄元衆院議長の後援会総会で)
(注)教育勅語:皇国史観に立ち、天皇の名において教育理念と実践道徳を規定しており、天皇に「忠良な臣民」を育てることに眼目が置かれている。1948年には「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、国会が失効確認を決議している
●「教育基本法には大事な愛国心がない。家族愛もない。日本人としてのありかたもない」
(2000年5月11日、教育改革国民会議で)
●【神の国発言】
「(懇談会は)昭和の日の制定や先帝陛下60年の即位(の式典)とか、政府側が若干及び腰になるようなことを前面に出して、日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかりと承知していただくという思いで活動をしてきた」
(2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会(会長・綿貫民輔代議士)の結成30周年記念祝賀会で)
その後、陳謝すれども撤回せず。
●(民主党は)そういう政党(共産党)と(組んで)どうやって日本の安全を、日本の国体を守ることができるんだろうか。
(2000年6月3日、講演で)
(注)国体:一般的には国家の主権がどこにあるかを区別する国家形態の意味だが、天皇主権を規定した明治時代の大日本帝国憲法下では、万世一系の天皇が統治権を総覧する国家体制を表した。 文部省は1937年、「国体の本義」とする見解をまとめ、天皇への絶対従順を説いた。敗戦後、新憲法に盛られた象徴天皇制や国民主権に対し、戦前の体制派が「国体護持」を唱えて抵抗した経緯もある。(朝日新聞の解説より抜粋)
その後、失言と認めたような発言を行ったが、改めて「失言でも何でもない」と言明した
●(共産党が連立政権に加わる可能性にふれて)「小沢(一郎自由党党首)さんもどうするのか。小沢さんは我々よりはるかにもっと強い国粋主義者だ」と、自分も「国粋主義者」だと認めるような発言
(2000年6月13日、神奈川県内の街頭演説で)
●(共産党を批判して)「(共産党)綱領には『君主制を認めない』と、つまり『天皇制を認めない』と書いてある」と、首相自身が「天皇制=君主制」と考えていると受け取れる発言
(2000年6月13日、東京都内の街頭演説で)
●(北陸新幹線の整備計画について)「このことを、どう取り扱うかということについて、この地域を代表する与党の政治家がいないとだめです」と衆院小選挙区の与党候補の当落で、整備新幹線の計画の進め方を判断するかのような発言
(2000年6月14日、福井県敦賀市の街頭演説で)
●総理、態度未定者の棄権を期待?
(衆院選世論調査で、態度未定の人が4割近くあることに触れて) 「そのまま関心がないといって寝てしまってくれれば、それでいいんですけども、そうはいかないでしょうね」
(2000年6月20日、新潟市での演説で)
●(沖縄全戦没者追悼式に触れ)「英霊の御霊に哀悼の念をささげてきました」
(注)「英霊」は、通常おもに戦死した軍人、軍属を指す
同日夜の演説では、「戦闘員、非戦闘員」と言い換えたが、戦前体質が身に染み付いているのか?
(2000年6月23日、名古屋市内での街頭演説で)
●「皆さんがいじめるから委縮する。」「テレビのニュースはビデオで録画して見ているが、ほめたことなんかないじゃないか」
記者とのやりとりを拒否したり、かねてから自分のことは棚に上げマスコミ不信を募らせている森総理。何か勘違いしていませんか?
(2000年8月11日、静養先の箱根で記者団に対して)
●【第三国で発見案発言】
(2000年10月20日の英ブレア首相との会談で)
「(拉致疑惑の北朝鮮側に)『行方不明者ということでいい。北京やバンコクにいたという方法もあるのでは』と言ったが明確な返事はもらっていない」
外交上の内幕を軽々しく表に出したことで、「この問題の解決が難しくなった」「日本の国益を危うくする」などの批判が相次いだ。直後には中川長官が「『第三国で発見』という案は中山氏の個人的な発言」と言い訳するも中山氏に事実に反すると抗議され謝罪した。その後も説明は右往左往し、とうとう記者団の質問に
「何の責任だよ。君らの責任じゃないか」
と責任はマスコミ報道にあると激怒する始末。
●「『いつクビになるかわからないが、できれば在任のうちに』と思って来た」
「私は1937年生まれで大東亜戦争の前、支那事変が起こったときだ」
「太平洋戦争」を「大東亜戦争」と「日中戦争」を「支那事変」と表現するのは戦前回帰指向の歪んだ愛国主義者か、戦前の教育が身に付いたお年寄りだが、さて森首相は? いずれにせよ政治家としては失格。ましてや首相なぞ。
(2001年1月9日(日本時間10日未明)、南アフリカ・ヨハネスブルク市内で行われた在留邦人会レセプションにて)
●【えひめ丸沈没時かけゴルフ問題】
2001年2月10日ハワイ沖で高校生を乗せた漁業実習船えひめ丸が米原潜に衝突され沈没、9人の不明者を出した事件で、ゴルフを楽しんでいた首相は連絡を受けた後もプレーを続行
(ゴルフ場内で問いかけた記者をとがめて)「どうして、ここまで入ってくるの。ここはプライベートですよ」
事故への対応に批判が高まっていることについて
「私自身が右往左往したら命令できないし、報告も受けられない」
「これがどうして危機管理なのか。事故でしょ。私はリーダーシップをきちっと発揮したと思っている」
その後、衝突時にプレーのゴルフ場会員権は知人のメーカー社長が4000万円で買ったものを購入時点で自分名義にし、事実上無償で譲り受けていたことが判明。閣僚の資産公開などでこの会員権を報告しておらず、このような名義の書き換えは税法上贈与とみなされるが贈与税の支払いもなかった。
「譲りうけたんじゃないです。いつも使えるようにしてもらっているだけです。」
さらにその後、問題のゴルフはかけゴルフだったことが明らかになり
「かけゴルフなんかするはずないでしょう」と一旦は否定
しかし森事務所の発表した「いわゆる『チョコレート』程度のもの(少額の金額)をやりとりすることはある」とのコメントを記者に指摘され一転してかけゴルフは認めた
●「何でもかんでも悪いのは首相だというのは僕で最後にしてほしい」
えひめ丸事故、ゴルフ会員権問題の発覚で内閣支持率が急落の最中、いつものマスコミへの責任転嫁
(2001年2月15日)
●(2000年9月衆院予算委員会で)「(政権が)私生児のように生まれたと言われると大変不愉快だ」
翌日「今の時代、言葉遣いは慎重にしなければと改めて痛感した」と述べて発言を取り消したが、
(2001年3月12日参院予算委員会で)「『密室だ』『密室だ』とマスコミが決めつけて、どっかのガード下から拾われてきた赤ん坊のように言われる。私はきちんとした民主主義のルールで選ばれた」
懲りない人なのか、根本から間違った人なのか
●「腰が痛いから寝てたんだよ!」(2001年3月28日、首相官邸の廊下で、質問した記者団に気色ばんで罵声を浴びせた)
前日の27日夜、予定していた国賓であるノルウェーのハラルド5世国王主催行事への出席を急きょ取りやめ、代わりに自民党森派の若手議員らとすし屋で会食していた。首相が国賓主催の行事に欠席するのは異例
(寸評-神の国発言-) 「神の国」について「地域社会においては、その土地や山や海や川などの自然の中に人間を超えるものを見る考え方があったことを申し上げた」などと説明しているが、「天皇を中心とする神の国」なる言葉が呼び起こすのは明らかに戦前の皇国史観に基づいた体制である。彼の年齢でそれを知らないわけはなく、おそらく戦前回帰の本音がでた発言だったのだろう。百歩譲って復古主義的なものではなかったとすれば、今度は彼の言葉の持つ重みに対する自覚の無さと言葉の歴史に対する無知が糾弾されるべきであろう。「国体」や「教育勅語」にも同じことが言える。いずれにせよ彼は、一国の総理はもとより政治家としての資質に欠いていると言わざるを得ない。