信玄公のご命日に思うこと。

2021-04-12 11:39:21 | 紹介
4月12日は、武田信玄公の命日です。

享年53歳。その死因は、ガンだったとも、
山梨県など一部の地域で見られた感染症だったとも言われています。

元亀4年(1573)、足利義昭による「信長包囲網」の中心にいた
信玄公が病に倒れることがなければ、天下は・・と、いまだに推測されたりしますが、
いずれにせよ、「甲斐の虎」、戦国最強とも言われた武将です。
影武者も少なからずいたのではないかと言われたり、
トイレを「山」と敢えて呼び、不意を突かれないように備えていたり、
戦国の世を生きたその他の人々同様、死は常に身近なものだったと想像できます。
もともと結核を患っていたとか、どちらかといえば病弱だったとも言われており、
「死は隣り合わせ」という感覚は人よりも強かったのかもしれません。

けれども、実際に、その死に直面した時の心情はどうだったのでしょうか。
信玄公は若くして亡くなった訳ではありませんが、恐らくは「志半ばの死」であり、
「甲陽軍鑑」に記された遺言からは、自らの死後の憂いがダイレクトに伝わってきます。

いくつかある遺言の中でも、「自分の死は3年間秘すこと」は、多くの方がご存知かと。

それ以外にも、「自分の跡を継ぐのは勝頼の嫡男・信勝であり、
勝頼はあくまでも信勝の後見人」と遺言したとか。

勝頼公は、上杉謙信や織田信長にも、武将として「油断ならぬ相手」として認められており、
新たなお館さまとして遜色なかったはずですが、敢えてスルー。
これって、やっぱり、諏訪家の血を引く勝頼公を当主とは認めない(!)的な、
一部の家臣たちの間に流れる、微妙な空気を感じてのことだったのでしょうか。
遺言は、勝頼公に対するものであると同時に、家臣たちに対して、
「家督は信勝が継ぐようにするから、引き続き武田家を支えてほしい!」という、
お館さまの最期のお願いだったのかも?

・・・
今年3月、信玄公にまつわるニュースが話題になりました。
それは、現在恵林寺(甲州市)に安置される「不動明王坐像」のこと。
この坐像、館内の不動堂に安置するために、信玄公自らをモデルに制作されたと伝えられていて・・・
今回、体内にファイバースコープを入れて調査が行われました。
その結果、鼻と顎の内側に発見された墨書きにより、
伝承によれば、京の仏師・康清(こうせい)に作らせたということでしたが、
実際には、その弟・康住(こうじゅう)が、
信玄公の亡くなる1年前(!)に制作したことが確認されました。

不動堂建立の理由は定かではありませんが、「甲陽軍鑑」よると、
ある時、信玄公は、1569年から1570年にかけて、夜空にでたという
煙の出る星の吉凶を易者に占わせたとか。

占いの結果が、なんと、(近くはないが)日本古来の名族の滅亡😨

そこで、自らの死後も家を守らんと館の北東・鬼門に建立したのが「不動堂」。
大きな鏡も作らせて、自ら、坐像のモデルになったとか。
その胸部には、信玄公の毛髪を混ぜた漆が塗られたとも、
頭髪は、信玄公の毛髪を焼いたもので彩色したとも伝えられています。

亡くなる1年前ですので・・・
そんな予感があったのか、なかったのかは知る由もありません。
ましてや、煙の出る星、彗星(?)のことも、不動堂の存在もはっきりしたことはわかりません。
それでも確かに、戦国において、東日本最大級の館の跡ががここに残され、
「不動明王坐像」は、その菩提寺に安置されています。
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家という、伝統ある家を背負う者として、
家、領国を何としても守らなければならないという強い思い、・・やっぱり感じずにはいられません。


信玄公、今はこちらのご祭神✨
新緑のきれいな、武田神社拝殿📷

信玄公モデルと言われる「不動明王坐像」をご覧になりたい方に💌
坐像は、山梨県甲州市の恵林寺に安置されておりますが、
現在開催中の、山梨県立博物館の企画展
「生誕500年 武田信玄の生涯」(3月13日~5月10日)
後期展示(4月14日~5月10日)で「不動明王座像」も展示される予定です。
この間、恵林寺をお留守にされますので、どうぞご注意ください。
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