かわらけ君の世界(その2)

2020-04-30 13:00:47 | 紹介
戦国時代、戦は絶え間なく、社会、もちろん人々の生活も不安定なものでした。
大名家の内部もおそらく同様。主従の絆も、どこまでどうだったのやら。
そんな不安定さを少しでも確かなものにしたいと、
信玄含めた、各地の武将たちは望んだのではないでしょうか。
そこで、鎌倉時代以降、武家社会で発達したもののひとつが
儀式であり、その進め方を定めた作法でした。
その儀式の中で、脇役ながら大切なお役目を担ったのが「かわらけ」。
非日常を創出する、必要不可欠なものでした。

なぜ、「かわらけ」にそんな力があったのでしょう。
当時の人たちは、「かわらけ」を通して何を見ていたのでしょう。

武田氏館跡から出土する「かわらけ」は、ざらざらした素焼きの茶色いお皿。
見かけはどうあれ、一度だけ使われる「かわらけ」は、
誰も使っていない清いもの、まっさらなものとしてとらえられていたようです。

また、「かわらけ」と「かりそめ」って似ていると思いませんか。
言葉遊びのようですが、”その時その場かぎり”が二つの言葉の共通点。
儀式の一回性という性質にも重なります。

そんな「かわらけ」こそが、神仏を前にした儀式の盃として、
また、縁起物を盛り付ける皿として使用されていたのではないでしょうか。
ハレ(=非日常)の日を演出するもののひとつとして。

現代を生きる私たちには、
「かわらけ」に日常を超える力を見出すことは、少々難しいけれど
「ふしぎ~」とも単純に言い切れない、何かに特別なもの、いつもと違うものを見出す感覚、
何となくわかるような・・・気がしませんか?

この「かわらけ」、信玄ミュージアムの特別展示室にて展示しております。
「戦国時代・体感!」のさわれる「かわらけ」もございます♪
ウイルス感染の心配がある間は、ごめんなさい。さわれません。
けれど、新型コロナウイルスの感染の心配が去った暁には、
ぜひ、信玄公の時代の「かわらけ」を手に取りに、当館にお越し下さい。
お待ちしております😊
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かわらけ君の世界(その1)

2020-04-27 16:06:12 | 紹介
信玄ミュージアム
非(!?)公式ゆるキャラの「かわらけ君」
本名「かわ田らけ信」
武田菱が輝く鎧に身を包み
右手に山梨名産のぶどう🍇
左手に甲州金✨

ミュージアムお手製のキャラクターです。

かわらけ君の「かわらけ」とは素焼きの器のこと。

歴史系ドラマで、
合戦を前に「出陣じゃーー!」と総大将が声を上げ、
小さなお皿を地面に投げつけ、割るシーン🏁
見たことあるかと思います。
その小さなお皿が「かわらけ」。
ドラマや神社で売られているものは、白くてつるつるしていますが、
武田氏館跡から出土する「かわらけ」は、
うわぐすりも塗らない、ざらざらした質素な茶色いお皿。

この「かわらけ」、実は武家の儀式には欠かせないものでした。
例えば、「式三献」(しきさんこん)という儀式。

「式三献」とは、
主従の間で酒を3度勧めることを一献と数え、これを3回繰り返すこと。
もちろん、「かわらけ」を使って。
「まままっ、まず一献🍶」なんていうやりとりは、こうした儀式の名残です。
儀式の進め方は、お酒と一緒に出される酒肴のご膳も含めて、
全部、作法に従って行われていました。
この作法は、宮廷で発達したものがもととなり、武家で発展したもの。

儀式では主従の間でお酒を酌み交わし、上下関係を再確認。
つづく饗宴では、確認し合った関係を、お酒の力でちゃらにして(!!)
そして、更にゆるぎない関係、つまり望ましい日常に戻る。
ここでの「かわらけ」のお役目は、儀式・饗宴を非日常たらしめ
かつ、「ハレ」(非日常)から「ケ」(日常)への橋渡しをすること。
大役(!?)を果たす「かわらけ」は一度しか使いません!

「かわらけ」で非日常を演出!?
次回、「かわらけ」の知られざるパワー(!?)に迫ります。
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旧堀田古城園のお庭から

2020-04-24 16:47:31 | 紹介
4月も下旬になりました。
ゴールデンウイークのことが、ちらちら頭をかすめます。
非常事態宣言がどうなるのかな、とも。

それでも、旧堀田古城園の木々花々を見ていると
あるもののかわいさに心浮き立ち、
別のものには、「本当に本当にきれいだね。」と
声を掛けずにいられない気持ちになります。

オトコヨウゾメ(左)と紫蘭(右)

ヒメウツギ(左)とクルメツツジ(右)

シャクナゲ

新型コロナウイルスの感染防止のため
テレワークされている方も多いと思います。
オフィスで仕事をする時よりも
パソコンとにらめっこの時間もきっと増えているはず。
だからこそ、
休憩時間はお日さまの光を浴びて、
新緑や花々に目を向けてみませんか。
花開かんとする姿に
元気をもらえるかもしれません。

時に、こんな発見も😊 

新しい葉の誕生✨
垂れ下がった紫っぽいのが若葉。
まさに葉🍃になる準備中。


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武田氏館跡で新緑散歩🍃(つづき)

2020-04-22 15:09:40 | 紹介
現在の武田神社
武田信玄の館跡は
新緑🍃を楽しむには
うってつけの場所のひとつ。


武田氏館跡は
土塁と堀で囲まれた「曲輪」(くるわ)
8つで構成されています。

南側の堀

その中のひとつが
武田神社の西側にある
西曲輪。
武田信玄の嫡男・義信と
今川義元の娘との婚儀が調った時に
新居として増設されました。

義信は
足利将軍と清和源氏の通字「義」と
武田家当主に受け継がれる「信」を名に持つ
疑うべくもない武田家の跡取り。
「甲陽軍鑑」によれば
義信は武功にも優れていたようです。

その運命をガラリと変えてしまったのが
永禄7年(1564年)の信玄暗殺計画
いわゆる「義信事件」。
暗殺は計画が事前に漏えいしたため
未遂に終わります。
その中心となっていたのは
義信ではなく、
その守役の飯富虎昌だったとか。
武田軍の赤揃えを率い
信玄の信任も厚く、
ゆえに義信の守役も務めた武将でしたが、
この事件により、切腹。
翌年、
義信は東光寺(甲府市)に幽閉され、
その2年後自害します。
享年30歳。

当初、
信玄は、義信の命まで
奪うつもりはなかったようです。
それでも、このような結末になったのには
いかんともしがたい
戦国大名家ゆえの理由があったとされています。

まず、武田家の外交戦略の方針の転換。
桶狭間の戦いで失速した
今川氏の領国、駿河への侵攻策。
義信の正室は桶狭間で命を落とした
今川義元の娘。
奥さんの実家を攻めるというのは・・・。
また、四男の勝頼を高遠城主としたことや
川中島合戦がらみでも
父である信玄に
不満をもっていたと言われています。
暗殺計画に関わる(?)ほどの
事情が他にもあったのでしょうか。

そんな理由で
父親の暗殺計画!?
どんな理由があれ
息子を死に追いやっちゃうの!?
現代では考えられないことですが
時代は戦国時代。
当の信玄も、父である信虎を追放しています。
その他にも、一筋縄ではいかない親と子の関係は
歴史上、多く散見されるところ。

単なる親子の不仲で終われないのは、
家臣たちの派閥問題までも絡んだからでしょうか。
武田氏ほどの大名家であれば
無視できない問題だったことは
想像に難くなく。
加えて、
今川氏との関係が良好で得する人もいれば
損する人もいたと考えれば・・・
単なる派閥問題で済みそうにありません。
そんな複雑な状況が
義信を追い詰めた・・のでしょうか!?

義信の死後、
信玄は家臣たちに
信玄への忠誠を誓わせる起請文を書かせ
生島足島神社(現在の長野県上田市)に奉納していますが、
「義信事件」が
武田家や家臣たちにいかに大きな動揺を与えたかを
この起請文奉納が物語っているように思えます。

その後、
西曲輪がどのように使われたか
はっきりしたことはわかりません。
それでも、館が廃城になるまで
この曲輪の増強は
他の曲輪同様、続きます。

西曲輪の虎口跡


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ブログでお花見~右左口町・敬泉寺の観音堂~

2020-04-21 10:54:09 | イベント
右左口(うばぐち)町にある敬泉寺(きょうせんじ)は、
阿弥陀仏を本尊とする浄土宗のお寺です。
創立は、慶長10年(1604)といわれていますが、
それより前、天正10年(1582)に徳川家康が中道往還を使い、
甲斐へ入国した際に当地に滞在した記録があることから、
創立はこれよりもさかのぼるのではないかという説もあります。
境内はソメイヨシノが多く、地域の皆様に愛されています。
墓地は本堂の東にある小高い丘に広がっています。
そして墓地の上は平坦になっており、観音様をまつる「観音堂」があります。
(眼下に盆地が広がり、徳川軍の見張り場であったという伝承もあります。)
 
この観音堂の中にまつられているのが『甲斐国志』に
「行基作」として紹介されている木造十一面観音立像(市指定文化財)です。
高さ127センチ、肩幅33センチ。この像の伝来等は不明ですが、
古道「中道往還」の要所-右左口宿-にあり、江戸時代には大規模に補修され、
脇侍や台座、光背が施されました。
「災害や流行り病のときは多くの村人が拝んだものだ」とは古老のことば。
このような歴史的背景を総体的に考えても昔からこの観音様にすがり、
力を注いだ地域の住民の「思い」を感じ取ることができます。
(この観音様は秘仏です。)
観音堂の階段下には、甲府市出身の望郷歌人・山崎方代の生家跡が
広場として整備されています。新型コロナウイルス感染症の終息後、
文化と歴史を探訪していただきたい甲府の名所です。
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