月末近くになりましたが、今年は日本各地で厳しい寒さが続いています。
物価高に加え、燃料費高騰で日々の生活も厳しい冬が訪れていますので、
安心して生活するには難しい時代になってしまいました。
戦国の世もまた、いわずもがな厳しい時代。
そんな時代に思いを馳せると・・・、
戦から一族を守らなくてはならなかった武将たちに、
心の安らぎって、どこまであったのでしょうか。
いつ裏切るかわからない親族に家臣たち。
結婚相手も、政略結婚。
時にそれは、自分が討ち取った武将の娘で、いつ喉を掻き切られるか!?
男子が無事に生まれれば、どこの娘(=国)を嫁(=同盟)にしようか、
女子であれば、どこの家に嫁がせようかと頭の中で勢力図を描き・・・
最終的に信じられるのは神さま仏さまだけだったりして!?
実際、戦国の武将たちはさまざまな神仏を熱心に崇敬しましたが、
もうひとつ、神道、儒教、仏教、道教などの思想や信仰全体の
軸となるような考え方が、広く受けれられていました。
それが星の通る道、自然の摂理、さらには因果応報や運命を想起させる「天✨道」。
天道=易・占いという捉え方から「何事も天道次第」とか、
「天道おそろし」と天の理に違うことによる「自業自得」とか、
「お天道(てんとう)さま=太陽」と拝んでみたり。
「天道」は、捉え方はさまざまでも、
現代を生きる私たちでも、理屈なしで納得できる、一種の運命論。
戦国武将たちも、戦をするなら、戦術、戦略、外交、調略、もちろん神仏も総動員。
勝つためにできることは全部して、・・・後は、天に任せる。
厳しくも、理にかなった「天道」に、
裏切りのない世界を見出していたとしても、なんら不思議はありません。
・・・
室町・戦国期は、戦い方が大きく変わった時代でもありました。
少し意外かもしれませんが、戦国時代の特徴のひとつが人口の増加。
鎌倉幕府が開かれた12世紀末から約400年の間に、なんと倍増。
16世紀末には、1200万人に達したのではないかと言われ、
開発によって生産力が上がったことなどが主な要因と考えられているようです。
自然、戦への動員規模も増大し、個人戦から足軽による集団戦法が中心に。
接近戦から長距離戦となり、武器も弓矢や長柄の槍などに変化。
もちろん鉄砲導入の影響は大きく、戦場での効果が認められるや否や、
鉄砲が伝来した16世紀前半よりわずか半世紀で、全国で使用されるようになります。
攻防の拠点も、地の利を活かした山城から、多くの兵を動かしやすい平地へ。
身を守る甲冑だって、大きく変化しました。
より高い防御性と動きやすさが、甲冑に求められ、
例えば、胴を守る部分は、
革か鉄の小片を組糸や革ひもでつづり合わせていましたが、
弓矢だけでなく、槍も通さない一枚の鉄や革の板で胴を巻き、
右脇で、組糸や革ではなく、鋲などで前後合わせるなどして閉じるようになりました。
西洋の甲冑を再利用した、南蛮胴と南蛮兜も登場。
西洋の甲冑はオーダーメイドが基本。
地形などの違いから、日本の合戦に対応するため、改造する必要もあり、
重いだけでなく、高価。
しかし、鉄砲の攻撃にも強く、徳川家康などに愛用されました。
家康は家臣にも南蛮胴を分け与えていて、
関ヶ原の戦いの前に徳川四天王と呼ばれる榊原康政(1548−1606)に与えた
南蛮胴具足は、東京国立博物館に所蔵されています。
ただ、こうした堅牢そのものの鎧はどうしても地味。
そんなわけで、具足に意匠をこらしたり、陣羽織をはおるようになったとか。
さらに、留具などの部品には、家紋や縁起の良いもの、
自らの信条を表現するモチーフなどがほどこされました。
「勝負に勝つ」の「菖蒲」であったり、
「決して退かない」「トンボ」であったり、
「長寿と繁栄」を意味する「菊唐草」など。
また、『甲陽軍鑑』によれば、信玄公の「諏訪法性兜」には、
神号「諏訪法性上下大明神」と記された前立物が付けられたといいます。
「どうなる家康」信玄公の等身大パネルなら、信玄ミュージアムです!
※3月17日まで、当館総合案内でご覧いただけます。
戦場で、最後の最後に頼りになるのは、
自分を”本当に”守ってくれる甲冑?
それとも天道?
皆さまなら、なにを頼りにされますか?