大河ドラマ「どうする家康」も豊臣対徳川の争いが描かれ、夏の前に姿を消してしまった
武田氏関係では、久々に真田昌幸登場で信玄公の名前も紹介される場面も描かれました。
そうした中、家康古参の重臣、石川数正が突如出奔して豊臣秀吉に寝返るという
ショッキングな出来事が放送され、その後、先週は天正地震を機に秀吉と家康が和睦し、
臣従する動きを見せたところで終わっています。
石川数正の出奔は、歴史的にも解明されていない未だに謎の多い事件です。
徳川家中でも重鎮として重用され、岡崎城代まで務めていた人物ですから、簡単に裏切る
ということはないと思いますので、知られざるよほどの理由があったのでしょう。
それはさておき、家康を今川氏の人質時代から支え、数多の合戦に従軍して功を挙げた
最古参の数正は、徳川軍の戦術などを体現してきた動く軍事機密だったわけですから、
その武将の寝返りで徳川の軍法は、すべて秀吉の知るところになったのは大きな損失でした。
もちろん、織田・徳川の同盟時代は、ある程度お互いの情報の共有はあったはずですから、
数正一人の寝返りでどこまで影響が出たのかはわかりませんが、ここで戦術変更を迫られた
家康は、かつて辛酸を嘗めさせられた武田氏の軍法を採用することにしたようです。
軍法といってもその時点でどこまでどう変えたのかはよくわかりませんが、石川数正の
おかげで武田氏の遺産が徳川氏に引き継がれる形で再脚光を浴びることになりました。
もちろん、旧武田家臣らも一役買ったわけで、それ以降は徳川軍の軍法は、武田信玄の
遺した軍略に変わり、徳川の世になっても変わることなく採用されていきます。
そして、甲州流軍学として大成された「甲陽軍鑑」が編纂されると、各大名らもそれを習い、
信玄公の事績が全国区となったわけです。
とはいえ、そう上手くトントン拍子で広がったわけではありませんが、甲州流軍学が幕府に
認められた遠因を辿れば、石川数正の出奔になる、ということに。
逆に数正がそのまま徳川家に留まっていたら、軍法の変更もなかったかもしれませんし、
その場合、今ほど武田氏の名声もなかったかもしれません。
歴史にもしもはありませんが、もしもを考えると、信玄ミュージアムもなかったかも・・・。
逆に、石川数正が秀吉の家臣となって松本を与えられなければ、現在の国宝松本城は
存在しなかったかも。
いろいろな意味で石川数正の行動は、後の歴史に大きな影響を与えたと言えるかもしれません。
ちなみに、現在開催中の企画展前期の見どころは、信玄公直筆書状とライバル上杉謙信所用の
軍配団扇ですが、後期展示では10月開催の信玄公祭りに合わせて、信玄公全開の展示で行きます。
「甲陽軍鑑」も久々に展示の出番が回って来る予定ですし、
本物の諏訪法性兜も下諏訪町諏訪湖博物館様のご協力で借用予定です。
展示できる資料数は限られますが、一品を一つ一つ丁寧にご覧いただけます。
次回もぜひ、ご期待下さい!
余談になりますが、瀕死の重傷を負って数カ月行方不明だったお兄ちゃんが姿を見せました。
首筋の傷痕は残っているようですが、見るかぎりは今までと変わりなく元気そうで。
相変わらず、睨むときは鋭い目つきで、まだ目は死んでいないようで一安心。
たまには顔を出して、妹・弟たち新人パトロール隊員を教育してほしいものです。