女性用トイレのコラムも新たになりました!テーマは「山梨の歌人×信玄公の娘たち💕」

2021-09-22 20:55:31 | 紹介
9月12日(日)まで臨時休館中の信玄ミュージアムでしたが、
再開後、女性用のトイレのコラムもリニューアルされました( *´艸`)

テーマは、「山梨出身の歌人・山崎方代×信玄公の娘たち」です。

信玄公には6人の娘がいたと伝えられておりますが、
トイレの個室は5つなので、今回は5人の姫さまにご登場いただきます。
戦国最強とも畏れられた父を持った彼女たちの人生に、「望郷の歌人」山崎方代の歌を重ねます。
ちなみに、残りのお一人、松姫さまは、トイレのコラムがスタートした時から、
信玄公の奥さまたちと一緒に紹介されておりますので、今回はご容赦いただきました🙇

今回の5名様は・・・
💛黄梅院さま 
信玄公と三条夫人の長女
甲相駿三国同盟のために、北条氏政に嫁ぐも、同盟は破綻。翌年死去。
甲府に帰されたとも、小田原城に留め置かれたとも言われ、終焉の地は不明。

💖見性院さま
信玄公と三条夫人の次女
有力な国人領主であり、武田親族衆筆頭の穴山信君(梅雪)と結婚。
夫は本能寺の変後、横死するも、その後、家康に保護され、
2代将軍・家忠の息子(保科正之)を、異母妹・信松尼(松姫)と共に養育。

💚万理姫または真理姫さま 
信濃の大名、木曽義昌の正室に。
長篠の戦い後、夫が織田方に通じたため、離縁。
最終的に木曽山中に隠棲。98歳の天寿を全うする。

💗桃由童女(とうゆどうじょ)(早世)
4,5歳で亡くなる。菩提を弔うため、信玄公は大泉寺に寄進。

💙菊姫さま(大儀院さま)
母は油川夫人。甲越同盟締結のために、上杉景勝に嫁ぐ。
質素倹約を奨励した、才色兼備の賢婦人として慕われたとか。

お嬢さんたちのこと、実際、あまりよくわかっていません。
それでも、父はあの武田信玄公。
ざっくり、ですが、どんな人生を送られたのかがある程度わかっています。

そこから見えてくるのは、戦国大名の家に生まれれば、男の子であろうと、女の子であろうと、
お家のための政略結婚は免れることはできなかった、ということ。
そして、嫁ぎ先で良い関係を築き、それなりの影響力をもち、
実家の繁栄に貢献することも期待されていたワケで・・・
単にパパが偉いだけのお姫さまにならないため、それなりの花嫁修業も必須。
歌に茶道、書道、何らかの芸事だけでなく、有職故実といった礼法も学んだとか。
ルイス・フロイスをはじめとする宣教師の日記などにも、
身分は不明ですが、日本人女性たちの教養の深さが驚きとともに記録されています。

一歩間違えば、いつ命を奪われてもおかしくない厳しい世の中。
とりわけ父君は、同盟を組んだり解消したり忙しい😨
実際、父や夫の判断一つで、人生180度変わってしまってますから。
お姫さま✨というのは聞こえは良いですが、ご心労絶えない日々だったのではないかと思います。

時代に翻弄されながらも、それでも信玄公のお嬢さんたちは、
例えば、織田信長の妹・お市の方のように歴史に名を残す政治的な、ある意味派手な働きは記録されていないにしても、
経済感覚が堅実であったり、嫁ぎ先でも慕われたり、ちゃんと期待に応えていらしたのではないかと。
見性院さまは、隠し子とは言え、将軍の息子の養育を託されているワケで、
これはもう、単なる親の七光りではなく、ご本人の教養やお人柄に因るところが大きかったのではないかと想像できます。

信玄公だって、子どもたちを単なる政治の道具とは思っていなかったんじゃないかと。

長女・黄梅院さまには特に心を掛けていらして、
自らの権力誇示もあったとは思いますが、輿入れには1万人(!)もの共の者を同行させたとか、
懐妊したとわかれば、安産の神さま、富士御室浅間神社に、安産祈願の願文を奉納したり。
黄梅院さまだけでなく、早世した子どもたちの菩提もちゃんと弔って。

だって、武田氏を率いる戦国武将であると同時にやっぱりお父さん。
そして、嫡男義信、黄梅院を見送り、妻・三条夫人までも後を追うように旅立って・・・
その悲しみ故かはわかりませんが、信玄公ご自身も少しずつ体調を崩し始めていくのです。

・・・
信玄ミュージアムにお立ち寄りの際は、ぜひおトイレのコラムも忘れずに( *´艸`)

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お月見と里芋🌕

2021-09-21 12:48:09 | 紹介
一年でも、とりわけ月が美しく感じられる季節になりました。

北半球での話になりますが、
太陽と月の角度から、月の、地球から見た位置がお月見に最も適しているとされるのが旧暦8月15日。
2021年の今年は9月21日(火)がその時🌕

信玄ミュージアム内、旧堀田古城園でもささやかながら、
お月見のお供えを用意いたしました。
秋分のころの満月を、日本では「中秋の名月」と言いますが、別名ハーヴェスト・ムーン、収穫月とも。
この時期の満月が特別なのは、作物を収穫する時期と重なったこともありそうです。

月と収穫の古くて深い関係は、「古事記」や「日本書紀」に登場する
天照大神を姉に持ち、須佐之男命を弟に持つという、月読命(つくよみのみこと)、
夜の食国(おすくに)を司る神さまからも感じられるところ。
月を読みながら、収穫すると良いよ。というメッセージでしょうか。

ちょうど食べごろ😋ということで「栗名月」「豆名月」と言ったり、
お米の収穫に合わせてお団子はもちろんですが、
里芋の収穫にも重なって、お祝いに里芋を食べる習慣が、日本だけでなく東アジアにも残っているそうです。
美味しそうな里芋😋

当館にお越しの際は、旧堀田古城園のお庭もご覧ください。
主屋の南側廊下に、中秋の名月のお団子などを、
9月23日まで、お供えしております。

・・・
「月はあんまり見るものではないよ」
「竹取物語」の中で、月を見て物思いにふけるかぐや姫に、翁がかけた言葉です。
そういう考え方があったのでしょうか。
平安時代などは、盃に注がれたお酒や、池に月を映して愛でたとか。

月を見て何を感じるか・・その人、その時次第かもしれませんが、
今年も美しい月を愛でて、お月さまに感謝✨
そして、おいしいお団子を食べたいですね( *´艸`)🍡
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秋の気配と狂い咲き!?

2021-09-20 10:39:39 | 日記
本州を西から東に一直線、という珍しいルートが予測された台風14号。
実際には、途中から太平洋に出ていきましたが、皆さまのお住いの地域はいかがでしたでしょうか。
浸水被害に遭われた地域もあったかと思います。
復興が少しでもスムーズに進みますこと、お祈り申し上げます。

こちら甲府は、土曜日まで、降ったり止んだりを繰り返しておりました。
朝も小雨が降りましたが、時間がたつにつれて、気温も上昇してきました。
三連休の中日ということもあり、お子さまの声も聞こえ、久しぶりににぎやかにな日曜日でした。

台風上陸前、旧堀田古城園では、ずっと気になっていたワタを収穫しました。
ワタの実が、雨で地面に落ちないとしても、泥はねしちゃう😨と残念なので。



ワタならではのフワフワが気持ちいい😊 
中には、しっかりした丸い種が入っていて、これを取るのが大変だとか。
昔から「綿繰り機」なるものが使われてきたようです。

大阪の大東市歴史民俗資料館のブログで「綿繰り機」の写真がありました。

・・・
旧堀田古城園の光景も、ずいぶん秋らしくなってきました。
暑い暑いといっても、夏の暑さは過ぎ去って。
ススキに🌕🍡( ̄ー ̄)ニヤリ(安直過ぎますかね💦)

コムラサキに

秋明菊(しゅうめいぎく)・・でも実はアネモネの仲間だそうです。

あれ?ツツジは4月から6月あたりに咲く花では?
人にとっても植物にとっても、感覚的にいつもと違う夏で・・狂い咲き!?

良かった!この子はちゃんと育ってます(=^・^=)
少し離れた場所から撮影したので、「みっけ!」のようになってしまいましたが、
なかなか愛嬌のあるかわいいお顔の猫さんに会いました💛

台風が来るというので、心配しておりましたが・・・
翌朝、旧堀田古城園のお庭でばったり!
元気そうでなにより♬
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信玄公の慧眼と「六文銭」が化学反応を起こしたら?(その2)

2021-09-17 13:36:56 | 紹介
真田ファミリーの人気のヒミツを探っています💡

真田という小大名家。その礎を築いた真田幸綱。
信玄公の父・信虎公の時代に、信濃小県を追われ、にもかかわらず、若き当主・信玄公に仕えることに。
そして、いつ復讐されるかわからない「昨日の敵」をあえて迎え入れたお館さま。
それなりの計算もあったでしょうが、その後の幸綱の働きから、
信玄公はなかなかの慧眼力、人や物の能力を見抜く力をお持ちだったことがわかります。

信玄公の目に、一回り年上の真田幸綱はどんな風に映ったのでしょうか・・・。

幸綱なりの勝算があったのでしょう・・、管領上杉氏に頼る本家と決別、
「六文銭」の覚悟を決めて(?)、信玄公のもとに参上します。

※真田氏が、いつ、戦時の旗印を「六文銭」としたか、実は定かではありませんが、
 もともとは本家・海野一族が、遅くとも室町中期には使用していた家紋と言われています。
 真田氏は「六文銭」の他に、平時は「結び雁金」や「州浜」を家紋としました。

「六文銭」=三途の川の渡り賃として、棺に納められるお金のことですが、
これを家紋・旗印として掲げることは、まさに「不惜身命」、
仏教でいう六道・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上、
いつでも、どこの世界にでも堕ちる覚悟の表れ。

珍しい「銭紋」をシンプルかつ大胆に家紋としたところにも、潔さとしたたかさを感じます。
この時代は、商業にしろ、流通にしろ、経済活動がますます重要となった時であり、
「きれいごとは必要ない」という幸綱の声まで聞こえてきそう。
調略をするにしたって、それなりの資金が必要だったはずですから。

信玄公はもちろんですが、幸綱もまた政治的工作を駆使するタイプ。
孫子の兵法。戦力温存優先。戦わずして勝利する、です。
そんな二人が出会ったとき、何か通じ合うものがあってもおかしくなく。

・・・
幸綱が兵法を、どこでどのように学んだのかはわかりません。
武士の教養として、「孫子」「呉子」「六韜」(りくとう)、「三略」あたりは読んでいたかもしれません。
ただ、孫子の兵法などを深く学んだと伝えられる信玄公も、
そうした書は、あくまでも古代中国を背景とするもので、
現実の合戦や築城には取り入れがたいと語ったように(「甲陽軍鑑」より)、
あまり現実的なものではなかったようです。
それでも、兵法書が読まれたのは、どうやら「戦時の人間とはどういうものなのか」を学ぶため。

幸綱の活躍を見るに、人間というものに通じ、合戦においては敵の心理をついて、謀略していく。
さらにその裏付けに、地縁を駆使して収集した情報が、重要な役割を果たしていって。

知謀・知略を総動員させた幸綱の戦い方は、自然、子どもたちにもインストールされたに違いありません。
幸綱の次男・昌輝は、信玄公の小姓から、お館さまの戦時の伝令役「百足衆」に抜擢され、
三男・昌幸に至っては、外様ながらも信玄公の奥近習衆に登用され、
父に加え、信玄公の薫陶を受け、平時・戦時に必要な知識を学び得たと言われています。

そして、父・昌幸の持てる知識のすべては、長男・信幸、次男・信繁(幸村)に伝授されたはず。
幸綱には、信虎に国を追われた後、上野での亡命時代がありましたが、
信繁(幸村)も、滝川、上杉、豊臣での人質時代に加え、
関ケ原合戦後は、昌幸と共に、高野山の麓の九度山で長きにわたる蟄居を余儀なくされました。
まさにこの間、来るべき時に備え、武士としての学びを熟成させたことは想像に難くなく。

・・・
武家が本領にこだわるのは、当時としては当たり前。
家の大義はお家存続であり、主従関係は契約的なもの。
真田氏の面白さは、その知謀と知略を何よりの武器として、
家の大義と主への恩義を、真田流に両立させたところでしょうか。

例えば、勝頼公の武運に見切りをつけた昌幸は、
北条氏に書状を2通も送り、織田信長には馬のプレゼントまでして、
それぞれに恭順の意を示し、天正壬午の乱 の嵐をうまく乗り切っています。

関ケ原合戦の際には、もともとの主従関係や縁戚関係により、
昌幸と信繁(幸村)は豊臣方に、信幸は徳川方に、
さっくりと(かは、わかりませんが)東西に分かれ、双方協力、真田家維持に努めます。

大坂冬の陣、夏の陣で、最期まで豊臣方として勇猛果敢に戦い、
権現様まで震え上がらせた(!?)真田幸村。
幸村が思いのままに奮戦できたのは、兄・信之によって家の大義が守られていたから。
猛将・幸村の姿は、真田幸綱・昌幸・幸村の「真田三代記」(江戸中期~末期)などで、
幕藩体制下における理想的な忠義の姿として、エンターテイメント性抜群に描かれました。

「六文銭」の覚悟を見せた幸綱と、「昨日の敵」を受け入れた信玄公。
全ての始まりはこのお二人の出会いから。
どちらか一方でも欠ければ、今も多くの人を魅了する「真田流」は日の目をみなかったはず・・・。

・・・
特別展示室、逸品展示コーナーでは、
「真田氏赤地六文銭旗」(韮崎市教育委員会所蔵)を展示中。(10月4日(月)まで)
幸綱の覚悟の「六文銭旗」、ぜひご覧にいらしてください🙇
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信玄公の慧眼と「六文銭」が化学反応を起こしたら?(その1)

2021-09-16 12:38:54 | 紹介
「武田二十四将」は、武田家家臣の中でも、選りすぐりの23将+信玄公のこと。
これは、戦国時代に使われた呼び名や役職ではなく、
江戸時代以降の講談や軍記物で人気を博し、高く評価された方々のこと。
なので、「武田二十四将図」には、信玄公に仕えた方も、勝頼公に仕えた方も一緒に描かれて、
ある意味、時空を超えた図像になってます。

24将✨ 信玄公はもちろんですが、そうそうたる顔ぶれなんです。

そんなメンバーに、唯一、親子で選出されているのが真田ファミリー。
真田家の礎を築いた真田幸綱、その長男、真田信綱、
兄・信綱と共に、長篠の戦いで戦死する次男、真田昌輝、
三男、真田昌幸は(武藤喜兵衛)、ご存じ真田信繁(幸村)の父。
※23将は、図像によって変動します。
 幸綱、信綱は常連ですが、他の二人は図像によりけり・・のようです。
※昌幸の弟、真田信尹(のぶただ)は、当館主催、昨年度の「武田24将総選挙!」で、
 武田ファン💛の厚いご要望にお応えして、緊急エントリー。
 今年度の「武田二十四将 ドラフト会議」にも、もちろん参入。
「前線部隊」の投票エリア。右側1列目はみ~んな真田氏。
そんなお家は、他にはありません。

・・・
真田家は、どうしてこんなに人気なんでしょう。

織田信長などの戦国の三英傑、上杉謙信、伊達政宗、
そして我らが信玄公✨といった戦国大名よりも下のランク・・にもかかわらずこれだけの人気。
幸綱、昌幸、そして信繁(幸村)の生き様と死に様に、
多くの人がノックアウトされてしまった・・ということでしょうか。
その英雄像は、あくまでも創作・・でも、真田氏はお家存続のため、
持てるもの全てを注ぎ込み、戦国時代を小気味良いほどにサバイバルした方々であったことは確か。

・・・
真田氏は、信玄公の代から武田氏に仕える家。言わば外様です。
おそらく、かなり古い時代から、信濃の真田郷を本拠地としていた土豪のようですが、
信虎とその同盟軍による信濃侵攻で敗北、親族を頼り、上野国(現在の群馬県)に逃れています。

家族共々、武田氏に国を追われた幸綱ですが、天文11年(1542)以降、
信虎を追放して間もない信玄公に仕えるようになり、信州先方衆として活躍。
仕官して、わずか4,5年後には、東信濃の佐久一帯の支配を任されます。
幸綱が、武将として、いかに優れていたかは、
天文20年(1551)、信玄公に辛酸をなめさせた戸石城を、たった一日で(!)攻略したことでも明らか。
北信濃から村上義清を排除できたのは、
幸綱の地縁、諜報、謀略なくして成しえなかったと考えられていますし、
川中島の戦い後、今度は西上野侵攻でもしっかりと役割を果たしています。

順調に築かれた主従関係のように見えますが・・・
信玄公は、「昨日の敵」を家臣として召し抱えたわけですから、
おそらく、周囲の反対を押し切った、かなり思い切った決断だったに違いありません。

その後のことは、ざっとご紹介した通りですが、
次は「六文銭旗」をヒントに、真田氏の人気のヒミツを探ってみたいと思います。
続きもどうぞ、お付き合いください🙇
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