つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

勝龍寺城@京都府

2023-12-10 12:00:00 | その他城
2023年12月10日

またしても関西方面の城巡りにやってきました。12月10日〜12月12日の2泊3日。

12月11日は設計の打ち合わせがある為、動けるのは12月10日丸一日と、12月12日の午後のみ。

これは行く城とルートを念入りに考えないと効率よく動くことができないので、数日前から計画を練りました。



その時に役に立つのが、こちらの本。
城の本はたくさんありますが、地理感が分からないエリアでは、城と城の距離感が分からず計画するのに苦労します。

こちらの本は、まず100名城や続100名城以外の城の掲載も多く、県によって城の位置が分かるように地図で記載されているので、個人的には最強アイテムです。
線路が乗っているのもありがたい。

話は逸れましたが、最初に訪れた城は京都にある勝龍寺城です。



京都駅から京都線に乗って長岡京駅で降ります。4駅10分程度です。



駅を降りてすぐ案内があるので分かりやすいです。
街をあげての歓迎ムード。

こちらのお城は明智光秀の娘である玉(後の細川ガラシャ)が嫁いだ細川藤孝、忠興が近世城郭に造り替えた城です。


そう!勝龍寺城は明智光秀、最期の城。

城までの道には、のぼりがずっと続いています。こういった街全体のムードは凄く大事だと思っています。



案内図通りに進むと、まず最初に見れる遺構は土塁と空堀の一部です



立派な空堀です。
中央にあるのは土橋といわれる、土で作られた通路。
この土橋が勝龍寺城の入り口となります。

土橋の幅は1m。
つまり大軍で攻めてきても、一度に城内に入ることができない仕掛けとなっています。


発掘調査では高さ6mもあったようです。

遺構の保存の仕方が素晴らしく、しっかりと整備されています。



観光者目線の説明看板も充実しています。



こちらから見ると迫力ある空堀なのが分かります。



空堀の遺構から約3分ほどで本丸跡に到着です。
本丸を水堀が取り囲み、角には隅櫓が復元されています。



この堀は土塁の上と下に石垣が積まれています。

水際の石垣は腰巻き石垣。土塁が崩落することを防ぐ役割があります。

逆に土塁の上に乗った石垣は鉢巻石垣。
土塁の上に石垣を積むことで、
上部の耐久性が増強し、建築物を建てることができます。



城自体はコンパクト。
水堀のまわりを道なりに進むと、逆側に模擬門があります。



堀には橋が架り、城内の入り口は枡形の虎口になっています。



門の形状は高麗門です。



日本の本柱から、切妻屋根を架けた形状を高麗門といいます。

江戸城の桜田門なども高麗門です。



高麗門を抜けると天守風の資料館があります。
中には無料で入ることができ、御城印は資料館内で売っていましたので購入。
しかし、売っている日が限られているようなので、事前に確認が必要かと思います。



京都はちょうど紅葉の時期なので、晴天と赤く色づいた紅葉と城郭は絵になります。



土塀、高麗門、天守風資料館のコラボショット。



本丸跡。勝龍寺城は織田信長の命で近世城郭に生まれ変わりましたが、瓦・石垣・天主などを用意た先進的なお城だったようです。

安土城築城より5年早いことを考えると、先駆けの城となります。

安土城築城を想定した、試験的な要素もあったものかもしれません。



細川忠興とガラシャが婚姻を上げた城なので城内には銅像があります。



隅櫓。土塁となっていて本丸より高くしています。隅櫓と繋がっている土塀は、当時は多聞櫓だっようです。



勝龍寺城で使用された石造物。
不足した石材物を補う為に、石仏や地蔵菩薩も使用されています。

信長の時代に石垣を多く使用することになり、琵琶湖一帯の水路を抑えるために城を多く築城しました。

築城ラッシュによって石材が不足したものと思われます。



資料館の裏側には、小高い土塁の上にテラスの案内板があります。


こちらは明智光秀出陣テラスがあります。
この場所に天主が建っていたとされています。



このテラスから見える景色は、明智光秀が織田信長を打った後、羽柴秀吉と戦った山崎合戦で両軍が陣を張った一帯を見渡せます。

ちなみに、明智光秀はこの勝龍寺城の目と鼻の先に本陣を構えました。

羽柴秀吉は先の山の麓に陣を張りました。



出陣テラスの反対側には北門跡枡形虎口を上から見下ろすことができます。

水堀を渡った先の階段を登ると四角いスペースがあり、クランクしています。
これが枡形の虎口です。

石垣の形を見る限り、櫓もしくは櫓門があったように思います。



テラスを降りて、外部から北門を眺めます。
土塁と石垣で防備した北門。

この門跡を見ても、勝龍寺城が先進的であったことが伺えます。

なぜこの城が明智光秀の縁ある城なのか?
それは山崎合戦の際に明智軍は羽柴軍におされこの勝龍寺城に退却します。

羽柴軍4万、明智軍1万6千

当然、そんな大軍に耐えることができる大きな城ではなかったので、勝龍寺城で最後の夜を過ごして少数で脱出します。

その際、この北門から脱出したと言われています。

しかし、その後落武者狩りによって討ち取られ最後を迎えます。

2020年に大河ドラマ、麒麟がくるで明智光秀が主役となったことで観光客は圧倒的に増えたようです。

資料館でも大河ドラマのオープンニング主題歌が流れていました。

ちなみに、ワタクシの朝の目覚ましも同じく麒麟がくるのオープンニングです。この音楽は心が鼓舞されます。

戦国最大のミステリーと言われる本能寺の変。
天下統一に王手をかけた信長による激動の時代だった中、仲睦まじい細川忠興とガラシャの幸せな瞬間が反映されたかのように、勝龍寺城跡は非常に穏やかな時の流れを感じました。



時代背景を考えるとすごく貴重な城です。







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