りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




平賀源内の墓に行ったよ!門の外だけだけど。

 

 

 
 

あ、平賀源内って、夏にうなぎを食べるといいと言った人でしょ。うなぎに恨まれてそうだよね!

 冒頭の写真は、吉原大門。今やただの街です。特殊浴場は並んでいますが、きらびやかな花街の風情はありません。

 見出し画像に載せたのが、東禅寺の江戸六地蔵。宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造のお地蔵様です。

 江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得、京都の六地蔵に倣って、江戸の出入口6箇所に作ったものとのこと。

 ということは、当時ここは江戸の出入口というイメージだったわけですね。

 街道としては、奥州街道だそうですから、大川を渡って、一つ目の宿場、千住というイメージだったんですかね。

 左の写真は、お化け地蔵。なぜ、お化けかというと、かつて大きな笠かぶっており、笠の向きを変えたからとか、ただ単に大きいからとか諸説あるそうです。

 このお地蔵様は、台石には、享保六年(紀元2381仏暦2265キリスト暦1721)に建立だそうです。

 地蔵菩薩は、釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされ、菩薩は如来に次ぐ高い見地だが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を退し、六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けているそうで。幼い子供が親より先に死ぬと、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされていますが、賽の河原に率先して足を運んでは、鬼から子供達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話があるとのこと。地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となっていた。

 六地蔵というのも、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたとも言われるそうで、6体並んでいるようなパターンのものはそれですね。

 隅田川も近くなってくるとある平賀源内の墓。

 平賀源内は、江戸時代の蘭学者。エレキテルで有名ですね。あるとき、うなぎやから、夏の時期、売れないと相談された平賀源内。うなぎ屋の主人に「明後日、土用丑の日」という看板を掲げるよう指示します。聞かれても御贔屓にとしか答えるなと指示し、土用丑の日を迎えると、閑散としていたうなぎ屋が大繁盛。江戸時代のコピーライターのような才覚を示したといいます。

 これは、風雲児たちという漫画に掲載されていたエピソードですが、今でも影響を及ぼしているといえますね。

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