またまたあの人が植えてくれた薔薇が咲きました♪輝くように美しい白薔薇・・・昨年もこの時期にお写真のせましたネ♪
昨年は二つか三つしか咲かなかったのですが、今年はたくさん咲いた!
「来年はもっとキレイに咲くよ」と言ってくれたダーの言葉通り♪
うれしい(^_-)-☆
眺めているだけで幸せな気持ちになれるんです(^^♪
ダーのお母さんから甘いポンカンと手作りのブタみそが送られてきました。
ブタみそってのは、ダーの生まれ故郷である奄美大島の郷土料理で、あの人の大好物でもありました。
甘辛くて、ごはんによく合います。
ダーが入院したとき、同級生の有馬さんとみっちゃんが、奄美から送ってくださったのですが、白ご飯といっしょに「おいしいおいしい♪」と食べていたことを想い出します。
ほんと、うれしいことに、終末期に入っても、あの人はちゃーんと口からごはんが食べられたんですよね。
そんなにたくさんは食べられませんでしたけど、フツーはこの時期になると、ほとんどの方は食べられなくなり、栄養剤の点滴だけになっちゃうんです。
しかも、いわゆる終末期には、食べたものの栄養分のほとんどが、がん細胞に奪われるということから
(それによってがんの増大を助長することになるという理屈から)、
最近では、終末期にはできるだけ栄養を与えずにおく・・・ことになっています。
実際、がんの最期は、栄養失調による餓死が多いのです。
栄養をとらなければ餓死。栄養をとりすぎればがんの増大。終末期の進行がん患者たちは、このようなやりきれない問題をも抱えているのです。
わたしのダーも10月の時点で、栄養失調状態でした。ここまでくると、どんな手を使っても、はかばかしい改善は期待できません。
それでも、わたしたちは、食べることに関しては決してあきらめませんでした。
もちろん、最期の手段であるアバスチン投与に向けた体力維持のためでした。
ほとんどををがん細胞にとられる・・・と言っても、多少は本人の体の栄養分となりますから。
どんな医学的理由があるにしろ、一番大切なのは本人の気持ちです。
延命というのは、ただ単に命を永らえるということではゼッタイにないんですよね。
本当の意味での延命とは、本人のやりたいことができる日を一日でも長く作り出すことです。
話を戻しますが、おかあさんは、電話でいつも泣いていらっしゃいます・・・。
時が経つにつれ、さみしさが増していく・・・と。
わたしも同じです。もしまたあの頃に、あの人が元気だった頃に戻れるなら、どんなことでもするし、何を失ってもかまわない。
手にしているものをすべて失っても、それでも、時を戻せるなら、どんなことにも耐えてみせるのに・・・。
愛する人を失うというのは、それほどに苦しいことでありながら(みなさまどうぞそばにいる愛する人を大切になさってください!)、それと同じくらい、生きている意味を再確認させられることでもあるんですね。
T.Sエリオットの言葉通り、『死は無価値ではない。生の何たるかを教えてくれる』なのです。
今日は、それをちょっと書いてみたいと思います。
先日、親しい人が、あることでとても悩んでいて、「ほんま何のために生きてるんやろー」と顔を覆ったとき、
「わたしもよくわかんなくなるんです・・・」と同意しながらも、
思わずこう言ってしまいました。
「ただ、わたしたちは何か使命を持って生まれてきているんやろうなー、ということは信じているんです。
だから、すべてのことに意味があるはずなんや、って。
いえ、そういう、なんて言うんですかね、わたしたちが『マイナス』だと思っているような状態・・苦しいときとか辛いときこそ、そこに
何か大きな意味が隠されていると言いますか・・・。
愛する人を失って半年、それだけはわかるようになったんです」
「意味って何やろね」
「ええ、わたしは・・・ちょっと変な人だと思われそうなんですけど、魂の存在ってのを信じているんですよ。
わたしたちは肉体だけの虚しい存在じゃない、ってことなんですけど。
死んでも本当の意味では死んでなんかいない、ってこと」
「本当に?」
「はい。それと同様に、起こる出来事は、無意味な出来事の連鎖ではなく、つまり運がいいとか悪いとかそーいう問題ではなく、
ひとつひとつに意味があって起こっていることなんや、と。
ある本では、生まれる前に自分でセットしていたことって書かれていますけどね、
もちろん、すべてがセットした通りにいくとは限らないけれど、重要なところでは必ずその通りになっているはずだと思うんです」
「自分でセットって?」不思議そうに訊ねられました。無理もありません。
「あらかじめ自分でカリキュラムを組んで生まれてきたのではないかな・・・
ってことなんです^_^;
『自分の魂の成長を促すため』のもろもろの苦しみを盛り込んでね^_^;
わたしたちは魂の存在として、何度も何度もこの世に生まれ、そこでたくさんのことを学びながら魂を成長させているという・・・。
だから、苦しみこそ、成長の大きな機会であり、逆にそれがなければ成長もなくて。
まあそう言いながらも、苦しいのはイヤですし、一人になると弱音ばっかり吐いているんですけどね^_^;
でも、わたしはいっつも考えているんですよ。
なぜわたしは愛する人を失うっていう・・・たぶん生きている中で一番辛いことを、この歳で経験しなければならなかったのか、って」
このような考え方を、わたしに与えてくれたのは、ダーの死です。
そして、それによってわたしが体験した数々の出来事です(実はわたしの体験を聞かせてほしい、と、びっくりするほどたくさんの方からご連絡いただいているのですが、慎重に下書きしておりますのでもうしばらくお待ちください^_^;)。
わたしがよく言う「オイオイ、死って消滅ちゃうやん」というのは、
何か本当に・・・信じざるを得ないことが自分の身に起こって初めて気づくことだと思います。
ですから、経験もなしに、死後の世界やら魂の永続性やら、これまで迷信みたいに言われてきたことを、信じることなどできません。
特に、科学至上主義で、世界的に見ても信仰心の乏しい日本人として育ってきたのですから、なお更でしょう。
それでも信じたいと思われる人たち、また、自らの体験により信じることができる人たちにとって、魂の存在や、死後の生というのはどういう意味を持つのでしょうか。
そう、わたしたちは肉体のみの存在ではなく、永遠の魂なのだ、と信じることにより、
なぜわたしたちは生きているのか、なぜこんなにも苦しい思いをしてまで・・・。
その疑問を解明する術を見つけることができるんですね。
魂の永続性、わたしたちは決して肉体の死によって消滅するような存在ではない、と信じることにより、得るべきは、
「今生で生きる勇気」に他なりません。
「今を生きる糧」になりえるからこそ、わたしたちは、この問題を、受け入れたいと思い、また、受け入れてほしい、とも思うんですね。
わたしたちは、日々、虚無感に襲われていますよね。
自分の存在のちっぽけさに気づいたとき。苦しいとき。悲しいとき。さみしいとき・・・。
また、生まれたときから死へと向かっている人生を思うとき、言葉にならない不安を感じます。
「なんでこんな一生懸命生きなあかんのやろ。どーせいつか死ぬのに・・・」と、投げやりになることもあるし
死を必要以上に怖がることも多々あります。わたしの知り合いにも、自分、そして愛する人たちの死について考えると、怖くて怖くて眠れなくなる、という人たちがかなりたくさんいます。
わたしもその一人でしたし、今でも、愛する人の死は怖ろしくてたまりません。
なぜなのでしょう?
死を消滅だと、すべての忘却であると・・・死は破壊そのもので忌むべきものだと
信じているからだと思うんですね。
死を必要以上に怖がらないためには、やはり魂の存在を知ることだとわたしは実感しています。
また、何よりも、先に書いたとおり、わたしたちは肉体のみの虚ろな存在ではなく、
目的があってこの世に生まれてきた魂なのだ、と信じれば、
日々襲ってくる虚無感に、勇気を持って立ち向かうことができると思うんです。
「目的があって生まれてきたからには、この不当にも思われるような苦しみも、自分が選んだカリキュラムの一つなのだろう」と。
苦しみに耐えるとき、人は、こんなふうに思いますよね。
「なんでこんな思いせなあかんの? あたしが何をした? もうイヤや。夢も希望もあれへん」
しかし、この苦しみが自分の成長の機会になるんや、と思えばどうでしょう?
苦しみにさえも、希望があることに気づきます。
わたしは実際、ダーを亡くしてから、筆舌しがたい喪失感、そして虚無感と向き合うことになり、
未だ現在進行中です^_^;
ダーの意識が、生前と変わらずいつもわたしのそばにいてくれていることを確信していても、
肉体が恋しく、ひとつひとつの想い出が恋しいのです。
誰にも言えないしわかってもらえない・・・口にはできない心の痛みに打ちひしがれるとき、
わたしはいつもこの考え方により救われてきましたし、今後も救われることでしょう。
「あたしは目的を持って生まれてきたんやから、しんどくても自分の持ち時間を精一杯使いきること。その後、安らぎの場所へ、亡くなった愛する人たちのところへ帰るんだ」と。
まあ、以上わたしの個人的な想いであり、わたしにとっての真実なのですが、
このような問題を語ったり、聞かされたりするとき、注意しなければならないことがあります。
ブライアン・L・ワイス博士が言うように、
『常に論理的・理性的な心を持ち続けることが大切』なのですね。
博士は、『よく考えもせずにすべてを受け入れることは、何も考えずにすべてを拒否するのと同様に愚かなことです』と言っています。
ワイス博士は、退行催眠によって過去生の記憶を取り戻させることにより、患者の心の病(うつや躁うつ、恐怖症など)を完治させることで有名な精神科医なのですが、
数々の超常現象に出逢いながらも、常に科学の目(公平で偏見のない目で物事を観察する技術)を忘れていません。
『私は死後にも生命があることを、信仰の問題として受け入れるようになりました。
そしてこれまで検証してきたような現象は、来世の生命の明示であると信じています。
しかし、死が頭から離れないのではなく、私は生をまっとうしたいのです。
私の研究対象となった人たちもみな同じです。死後を体験したことにより、彼らの眼は生きることに向けられたのです。
私たちはこの研究で学びえたことを、この人生に利用したい願っています。
そして私が懸念することは、死後の体験が誤った用い方をされないか、ということです。
新しい宗教教団を作る口実、自殺の口実、私たちは誰一人、そのような社会現象を赦してはいけません。
死後の世界は世に知られるようになってきましたが、その複雑性に対処していくには様々な観点に立って展望する事が要求されます』
つまり、誰もが興味を持って止まない『死後の世界』を掲げることで、
悲嘆に暮れる人々を食い物にするようなシステムも存在するわけで、
安易にそのようなシステムに巻き込まれてはいけない、ということですよね。
もちろん、自ら命を絶つための口実にもなりません。人は命を絶ちたいと思うとき、この苦しみから何としてでも逃れたい、自分の存在を消してしまいたい、と
思うわけですが(わたしはダーの病気が発覚し余命まで告げられたとき、生まれて初めてこの心境になりました)、
死後にも意識が続くと仮定すれば、命を絶つことは消滅になりえず、かえって苦しみは増すことになります。
博士が言うように、わたしたちにとって重要なのは、
死後にも意識が存続する、終わりではない、ということを知ることで「今生を生き抜く術・勇気」を得ることだと思うんです。
死は決して消滅でも、無になることでもありませんが、今生での生活は一度きり。
もう二度と、この顔でこの名前でこの環境で生きることはないのです。
また、わたしのように、愛する人を失い、激しい喪失感・虚無感と向き合わざるを得ない人たちにとっては、愛する人は決して消滅したわけではなく、今生での学びを終えて「ただいま休息中♪」であり、
またかならず会えるんだ、という希望を持つことにつながるのです。
その希望がもたらす効果は絶大です。
そして、ややこしいシステムに巻き込まれたり、お金を払ったりしなくても、
旅立った愛する人に再び会う方法はあるのです。
それはただ一つ。「自分の生を全うすること」
自分の人生の持ち時間を、最期の一滴まで使い果たしたあとに、かならずまた会えるのです。
わたしはそう信じており、それが生きる原動力にもなっています(*^^)v
そしてできれば・・・今生で何か世のため人のためになるようなことを一つでも・・・できたらいいなあ・・・と希望しています。
今までは自分のことばかりで本当に何にもしていませんから。
アブラハム・リンカーンは言ったそうです。
『次の世界で着る服を、人は人生の中で織り上げている。わたしはそう信じている』
次の世界・・・つまり、死後、たどり着く場所を、わたしたちは今生の行いで決めている、ということですよね。
仏教で言うところの「因果応報」ですね。
『撒いた種を刈り取らなければならないというのは自然の法則である』
キリスト教では『人は撒いた種を刈り取るであろう。神は、その人の行いに従った報いを与えるだろう』
イスラム教では『あなたが撒かないものを刈り取ることはできない。あなたが木を植えれば木が育つだろう』
わたしは、神というのは○○とか△△とかの個人ではなく、宇宙を司る偉大な力、存在、愛、だと思っているのですが、
主要な宗教で、因果応報に限らず同様の教えを説いているということは、
その証明でもあると思っています。
古代の人々は、今よりずっと、神に近しい人だったのでしょう。
このような問題に対して、たくさんの方に興味を持っていただけてとてもうれしいです。
わたしの拙い文章では限度がありますので、ご興味のある方・・・生まれてきた意味を少しでも理解したうえで勇気を持って生きていきたい、と願っていらっしゃる方には、
福島大学経済学部教授の「飯田史彦先生」の著書をおススメいたします。
わたしはたっくさんの書籍で勉強させていただいていますが、
日本人が書いたものでは、飯田先生の書籍が一番わかりやすく、信頼性があると思いますし、押し付けがましいところがまったくありません(*^^)v
飯田先生は、「生きがい研究」の第一人者であり、魂の永遠性、生まれ変わりなどを科学的論法を用いながら
自らのちょっと信じられないような体験をベースに、「生きがい論」を説いています。
わたしのような素人にでもわかることですが、「日本の国立大学の教授」という立場で、このようなスピリチュアルな問題に取り組むというのは、
実際とても勇気のいることなのです。
過去のわたしのような唯物・唯脳論者からの誹謗中傷は元より、一歩間違えば、大学教官という職まで失うことになるのです。
それでも、この問題を世に問い、大いに語るというからには、よほどの事情があるわけです(それは書籍の中で明らかにされています)。
この方のお約束は
「自由でいたいので弟子も秘書も持たない、生涯特定の宗教に属することはない、あくまで科学者として科学的論理に基づいて著する」です。
先生の著書に共感した数百名の医師、看護師など医療従事者が自ら結成した『生きがいメディカルネットワーク』では、
これまで科学的にはタブー視されていた、魂の存在や生まれ変わりなどを含めた「生きがい」という観点を、医療現場にとりいれ、
特に末期・重病患者、その家族の心のケアに役立てているそうです。
世の中には、幸せになる方法やらなんやら、人生の指南書みたいなのがあふれていますが、
これまでその手の本をお読みになっていた方にとっては
まったく違う方面からのアプローチであり、他の本とは一線を画したものであることは間違いありません(*^^)v
飯田先生の著書は多数あるのですが・・・おススメは、
①『生きがいの創造・生まれ変わりの科学が人生を変える』
(最初に発表されたこの文庫版を、加筆・修正した『[決定版]生きがいの創造』単行本・を推奨)
②『生きがいの本質』
③『生きがいのマネジメント』
④『生きがいの創造Ⅱ』
すべてPHP出版・アマゾンでお買い求めいただけます。
この順番に読まれることで、わかりやすく、また著者の信頼性も増すものと思われます。
少なくとも、④を読まれるまでに、他の著書をお読みいただくことをおススメいたします。
また、ブライアン・L・ワイス博士の著書もおススメです。
もともとは、メルヴィン・モースの言葉を借りれば、「科学の色眼鏡」をかけ、ある大きな契機が来るまでは、
ガチガチの科学者として生きてこられた医師なので、
科学者らしく論理的に書かれており、唯脳・唯物論者にとっても非常に受け入れやすいと思います。
おススメは最初の著書。
『Many lives Many Masters』(邦題・『前世療法』)。
『前世療法』と言っても宗教家や霊能師と名乗る方たちが書くものとはまったく違います
(だから邦題はキライなんです^_^; 売るために変なタイトルをつけますから)。
論理的かつわかりやすく丁寧に書かれています。
入り口の白いアーチを薔薇のアーチにするつもりで植えてくれました(^^♪
来年はもっとキレイに咲くだろうなあ・・・^m^
わあ・・・長くなりました^_^;
わたし、書きだすと止まらなくなっちゃうんですよ。食事も睡眠も忘れて書き続けてしまうタイプなんです・・・
今回も、昨夜何時間もかけて書きました^_^; 最近は、このようなことを語るとき、何度も推敲するようにしているので^_^;
最後までお読みくださりありがとうございました♪