オリジナルインテリア「Rose Party~Since 2003~」マキとスタッフのブログ♪RueRueと薔薇♪

20周年!オリジナルインテリアと大人可愛いファッション、高橋真琴の生活用品を少女のココロを忘れない女性たちへ。

神とは。

2009-03-21 | 想い
うっほー!(最低なご挨拶)

ある有名人のブログを、たまたま閲覧していました。
先日判決の出た、卑劣極まりない殺人事件を例にとり、
「神様などいるものか」とその有名人は豪語していました。
「本当に神様がいるのなら、被害者を助けてくれたはずだ」

つい最近も、似たようなことを、聞きました。
近しい人が、ある災難に見舞われたときのことです。
「神様なんて信じない。世の中は不公平ばかりだ」

富む者あれば、貧困に苦しむ者あり。
いくら努力をしてもちっとも楽になれない者がいる反面、努力もせず楽々と生きている者がいる。
発展途上国の子供達は、腹水で大きくなったお腹を張り出しながら飢えた目を向けているのに、
日本では、嫌いな食べ物を平気でゴミ箱に棄てる子供がいる。

どこを向いても、世の中不公平ばかり。
それは確かな現実で、
神様などいるものか、と言いたくなる気持ちもわかります。
神など、人間の作った虚像だ。
もし本当にいたとしても、信用に値しない。

あの人の病気がわかったとき、わたしは、神を恨み、罵倒しました。
わたしの知っているあの人は、
愛と勇気と信念を持ち、自分を犠牲にしてまで世のため人のために尽くす人でした。
なぜこのような人をこんな目に遭わせるのか。
彼が敬虔なクリスチャンであったことが、わたしの怒りに拍車を掛けました。
神様を信じていたのに裏切られた、というわけです。

反面、彼は、どんなことが起ころうとも、神を恨むようなことはありませんでした。
それどころか、日増しに、神への感謝の想いが強くなるようでした。
わたしはわけがわからず、信仰心とは一体なんなんだ? と、半ば呆れ、イライラしていました。

今では、あの人の気持ちがわかります。

なぜなら神というのは、人間の願いをすべて叶えてくれる魔法のような存在ではないからです。
神は、そのような存在ではないのです。
神が虚像なのではなく、
「人間が、人間の都合のいいように仕立て上げた神」こそが虚像だということに気づいたからです。

神は、不治の病に罹った人たちを「その病気の治癒」という形で助けてくれるようなことはほとんどありません。

わたしだってもちろん祈りました。
どんなに祈っても、願いが叶うような気配がなかったため、最終的にはやぶれかぶれとなり、
「わたしの命を差し出しますからあの人の命を助けてください」と、取り引きまで持ちかけましたがダメだった。

たとえば、不治の病に罹った100人の中の1人が治癒したとします。
しかし、その人だけが特別に神に愛され護られているわけではないのです。
その人は、死ぬ時期ではなかったから生き延びた、だけのことではないかな、と思います。
人間は、持って生まれた使命を果たすまでは、死にたくとも死ねないのだと思います。
逆説すれば、死ぬということは、役目を果たした、ということになるのかもしれません。
それは、どんな形の死であっても。
誰も決して、俗に言う犬死などしないのです。
その死によって、周囲の誰かが必ず、非常に価値のある大きなことを学んでいるはずだから。

「不治の病を治してください」と祈るのは、おかしなことでも何でもなく、
無力なわたしたちにとっては切なる願いです。
けれどもそれは、極論すれば、「一億円をください」と願っていることと同様なのかもしれません。
「こんなに願ったのに治してくれなかった」と神を罵倒することは、
「こんなに願ったのに一億円をもらえなかった」と怒ることと同じようなものなのかもしれません。

だって、神は、そのような存在ではないのです。
大きな奇跡を期待しすぎて、小さな奇跡に気づかないのは、大きな奇跡を起こさない神ではなく、小さな奇跡に気づかないわたしたちの問題だと思います。
与えられた小さな奇跡に気づき、それに感謝することは、心の平安につながります。

「神は、イエスや釈迦というような個人ではなく、宇宙を司る偉大な力なんだよ」とダーはわたしに教えてくれました。
「心の瞳を開いてごらん。そうしたら見えるかもしれないよ。
心の耳を澄ましてごらん。そうしたら聴こえるかもしれないよ」と。

クリスチャンであり、狐狸庵先生としても有名だった遠藤周作さんも、
『私にとって神とは』の中で、このように書いています。

『私たちは、神を「対象」として考えがちだが、神というものは対象ではありません。
その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。
あるいは、その人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。
私は目に見えぬものに背中に手を当てられて
こっちに行くように、と押されているな、と感じることがあります』

よくわかる表現ですネ。
みなさまも、きっと、一度や二度ならず、振り返れば何度となく、
「何か人知を超えた力が働いて自分を導いてくれた」と感じたことがおありではないでしょうか。

わたしはわたしで、いろいろな経験をした上で、「神とは?」に自分なりの答えを見つけました。
「神とは、どんな人にもどんなときにも、無償の愛を与えてくれる存在」

そして、ここが肝心なところです。
神の愛に気づくか気づかないかは、わたしたちの問題です。
自分自身の責任です。
神は、不公平ではありませんから、誰にでも同じように、深い愛を与えてくれるけれども、
それに気づくか気づかないかは、わたしたちの問題なのです。

ダーは、それに気づいており、自ら神へと歩みを進めていたので、神の愛を感じることができたのだと思います。
だから、神へは感謝の想いしかなかったのでしょう。
あの人の祈りは、常に、神への感謝のみ、でした。

それでは、神は、現実的にはわたしたちを助けてはくれないのでしょうか。
いいえ、助けてくれるのです、絶対に。
神は、弱い人、苦しむ人、悲しむ人に、その優しい手を、いつもそっと差し出してくれているのです。
それもまた、わたしたちが、その差し出された手に気づくか気づかないかが問題なのです。

わたしのダーは、「神への祈りは感謝だけだった」と書きましたが、
小さな願いは幾つかしていたように思います。

「与えられた使命を全うできますように」

この願いは叶えられました。
病気が発覚してから2年間、生きましたが、ベッドの中で生きていたわけではありません。
最期の1ヶ月を除き、ずっと、細かな神経の要る仕事を続けていました。
化学療法がうまくいっていたので、それまでの暮らしと何ら変わりない暮らしを続けていたのです。
癌性の疼痛が一切なかったのも幸いでした。
彼がそのすべてをかけていた仕事は、彼の持って生まれた使命だったに違いありません。
彼の対象は、年金暮らしのお年寄りと体の不自由な方で、
お金持ちの元気な人には他の病院を紹介していたくらいでした^_^;
なぜなら、この人たちのところへ往診に行くことにより、本来の対象に割く時間がなくなるからです。

「感謝の想いで旅立つことができますように」

この願いも叶えられました。
旅立つ4日前からいつもにも増して、周囲の人たちへの感謝の想いを口にするようになりました。
わたしへは、何度も何度も、「マキ、愛してるよ、ありがとう」と言ってくれました。
これらの言葉が、遺されたわたしにとってどれほどの慰めになっているかは、言葉では言い表せません。
息絶える数秒前までしっかりと意識があり、話ができたため、主治医も驚いていました。
まさに、あの人は、感謝の想いだけで旅立ったのです。
その顔には、少年のような笑みが湛えられていました。
肉体は朽ち、本当のあの人は、わたしたちの故郷である「神の元」へと一足先に帰ったのです。

わたしは、この最期の4日間で、神の存在を心から信じるようになった、と言っても過言ではありません。
愛する人の肉体を完全に失う、という、怖ろしい状況の中で、
わたしは、あの人が、神から愛され護られていることに気づき、それによって、
本当に救われました。
あの人が信じていた神様の存在を確かなものとして、捉えることができたのです。
悲しくてやりきれない、という自分の感情とは全く別のところで、
わたしは神様に心から感謝していました。

あの人が旅立って1年と5ヵ月。
毎日毎日、神の愛を感じています。
まだまだ未熟なわたしを、愛をもって導いてくれているのがわかるのです。
泣いたり悔やんだりは、未だ続けています。一生続けることでしょう。
それでも、神の愛に感謝の日々です。

失ったものはあまりに大きすぎて、言葉にできるようなものではありませんが、
失っただけではなく、得るものも様々あることを実感しており、
それらはすべて、悲しみと引き換えに手渡された神からの贈り物です。

まずは、真実の愛を知りました。
傲慢だった自分を省みることができるようになりました。
他人の痛みがわかるようになりました。
死を忌み嫌うことがなくなりました。
人間は肉体だけの虚しい存在ではないことに気づきました。
同じ悲しみを持つ、ケアのメンバーたちとの出会いは、かけがえのない財産であり喜びです。
具体的なことはまだまだあります。
書き出したらキリがありません。

まあ、確かに、これらのものを得られなくても、あの人を失いたくなかった、というのが本音です。
きっと、神は、わたしに、「失って気づく大切なもの」を与えたかったのだと思います。
わたしの成長のために。試練から学ばせたかったのだと思います。
この辺りはうまく言葉にできません。

わたしが神を信じる、と言うと、驚く人たちがいます。
ちょっとバカにしているような言葉を投げかけられることもあります^_^;
「病気を治してくれなかったじゃない」
「そんなに若くで遺されちゃったじゃない」
誰に、何度、そのように言われても、わたしの神への感謝、信頼の気持ちは揺るぎません。
そのように言う人たちとは、神に対する考え方が違うのだと思います。

神はどんなときにも、愛を与えてくれているのです。
気づくか気づかないかは、受け入れるか否かは、わたしたちの責任なのです。

神の愛を感じるのに、信仰心は関係ないと思います。
個人的には、信仰心によって人はさらに救われる、と思っていますが、
信仰心がなくたってかまやしません。
大切なのは、神の愛に気づけるかどうか、ただそれだけだと思います。

「世の中は不公平だ」と言う人は、なぜそうなるのか、を考えてはくれません。
また、人間は、常に不公平や悲劇から学ばせてもらっていることも忘れています。
「神などいるものか」と豪語する人は、実は、神がいるという前提に立って怒っており、
すべてを神のせいにしようとしています。
神は魔法の存在ではないのですから、わたしたちでできることをしなくてはならないのではないでしょうか。
卑劣な犯罪を食い止めるにはどうすればよいのか。
貧困をなくすにはどうすればよいのか。
わたしたちは必死で考えなければなりません。
また、現に、必死で考え、個人的な活動をしている方々もたくさんいますから、
そのような方々のお手伝いをしなければなりません。


狐狸庵先生の「私にとって神とは」を再び引用します。

『だれだって、神の存在について、目に見えないそんな非合理的なものを
どうして信じるのかという疑問を抱くでしょう。
しかし私の場合は先にも言ったように、神の存在は対象として見るのではなく、
その「働きによってそれを」感じるのです。
神が存在するという前に、神でも仏でも、自分の心の中にそういうものが
「働いているか」どうかということが問題です。
くり返して言うと、
「神の存在ではなく、神の働きのほうが大切だ」ということなのです』

珍しく時間があったので
長々と書いてしまいました。夜の夜中に^_^;
最後までお読みくださってありがとうございました。

みなさま楽しい週末を!