オリジナルインテリア「Rose Party~Since 2003~」マキとスタッフのブログ♪RueRueと薔薇♪

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シスターのお話

2009-08-24 | 想い
昨日お会いした、「兵庫 生と死を考える会」会長、聖トマス大学名誉教授、
シスター高木のお話です。

ある年配の女性が、シスターに向かい、
「神を信じたい。だけど信じられない。
人は死んだら無になるし、神様なんているわけない、どうしてもそんなふうに思ってしまう。
だけど信じられるものなら信じて、心を楽にしたい」
というようなことを言われました。

シスターは、
「『信じる』ということは、そんなに生易しいものではないんですよ」と前置きしてから、
ご自分の体験を話しはじめました。


「わたしは大学を卒業してすぐに修道女となりました。
わたしが生きる道は、神におつかえし、神の存在を確信することで、
様々に苦しむ人たちの手助けをすることだと、かたく決心したからです。

そうとは言え、あのころは、一度修道女になったからには、もう二度と親きょうだいにも会えない、と思っていたので、
両親とのさよならがどんなにつらかったか・・・
もし、あのとき、別れのさみしさに泣き続けたわたしを、ぎゅっと抱きしめてくれるシスターがいなければ、
わたしは走って両親の元へ戻っていたかもしれません。
実際は、修道女になったからといって、二度と家族に会えないということはありません。
だけど、本当にせつなく、さみしく、つらかった。
それから50年間、神へおつかえしています。
そんなわたしが今、感じることは、心からの幸せ、神への感謝のみです。

この50年間、特に若い頃には
たくさんの誘惑がありました。
異性からの誘惑、お金に関しての誘惑、物欲、本当にさまざまな誘惑がありました。
それらの誘惑を断ち切ることは、実際、大変なことでした。

わたしは女性としての幸せをすべて投げ打ちました。
結婚することも、子供を育てることも、着飾ることも。
すべては自分との闘いでした。
本当に、つらく激しい自分自身との闘いでした。

多くの方は、目に見えるものしか信じようとしません。
なぜなら、目に見えないものを信じること、確信することは、本当に大変なことだからです。
目に見えないものを心から信じ、確信するために、
わたしは、すべてのものを棄てて、修道女になったのです。
言うならば、それほどのことをしなければ、「確信」など得られないということです。

わたしは神を信じているというより、確信しています。
そう、信じるということは、誰が何と言っても、信じることなのです。
自分の中で、「わたしは信じるのだ」とかたく決心し、揺るがないことです。

そのためには、目に見えないものを信じる力が必要です。
その力は、様々な苦労、特に自分自身との闘いによって得られるものだと思います。

ですからあなたの言うように、「信じたいけれど信じられない。でも信じて楽になりたい」
そんなどっちつかずでは、確信することなどできません。そんな生易しいものではないのです」

チャララーン・・・(ナニ、この音楽? ふざけているわけではありません)
厳しいお言葉(>_<)

「信じたいけれど信じられない。でも心を楽にするために信じたい」と言った年配の女性は、
うなだれ、そして、小さくうなづきました。

シスターの言葉は、一見、厳しく思えますが、
これは真実だと思います。

ただし、誰もがシスターのように生きてはいけないのもまた事実です。
わたしはどんなに苦しくても、
すべてを棄てて神につかえることはできないと思う。
今の俗的な暮らしの中にも小さな幸せをたくさん見出しているし、
それでいいと思う。
死別の苦しみと、この俗社会の中で向き合い、この俗社会の中で自分自身と闘っています。

シスターは、神から選ばれた人。
凡人ではないからこそ、わたしたちを教える立場に立たれているのです。
みんながみんなシスターのように、
すべてを投げ打って神につかえることができれば、そもそも宗教も神も、信じる力も必要ありません。

わたしのような弱い人間、また、先述のような、信じたくても信じられないどっちつかずの女性がいるからこそ、
神の力は活かされるのだと思います。

女性が言った「信じたいけれど信じられない」というのは、
わたしたち・・・宗教心の乏しい日本人の代表的意見だと思います。

だって、「信じることは生易しいことではない」シスターにしてこの言葉ですよ。
だからこそ、多くの人たちは、最初から、「目に見えないものを信じる」ことを拒否するのです。
クリスチャンだ、仏教徒だ、と言いつつも、
本当に、何のためらいもなく、神の存在を信じられる人など
極僅かしかいないのではないでしょうか。

今では神の存在も、肉体と心は別だ、つまり肉体滅びても心までは死なない、と信じているわたしだって、
つい二年前までは、神の存在など信じてはいませんでした。
「信じたい」とすら思っていなかった。そんなものはどうでもよかったし、目の前の問題だけがすべてでした。

10年以上も前に、洗礼を受けていますが、
それだって、ダーに連れられて仕方なく、といった感じで、心の中ではアホらしさを感じていました。
ダーに、「マキ、目に見えないものにこそ、真実が隠れているんだよ」と幾度となく言われましたが、
「は?」って感じでした。
ああ、またクリスチャンがわけのわからんことゆってるわ、みたいな^_^;

詳細は省きますが、わたしはダーが旅立つ一週間前に初めて
神の存在をはっきりこの目で、この体で確認し、
それをダーにもちゃんと伝えることができたのですが、
なぜ、そのときになってようやく、神の存在に気づけたのでしょうか。
わたしが思うに・・・
たぶん、わたし自身が初めて「謙虚」になれたからだと思うんです。

目の前にいる、誰よりも愛する大切な人が、
もう何をしても助からない。もうダメなんだ。と、本気でわかったとき、初めて、
心の底から、神に祈りたいという気持ちが沸き起こったんです。
彼を生かして! 助けて! と祈りたかったんじゃあないんです。
彼をお願いします、どうか今からそちらにいく彼を抱きとめてください、と
お祈りしたのです。
そうやって謙虚な気持ちになれたからこそ、
神の存在に触れることができたんだろうな、と思います。

「神」とは言いますが、
宗教なんてはっきり言ってどうでもいいのかもしれません。
たまたまキリスト教がとっつきやすかった、あるいはたまたま家が浄土真宗だった、
はたまた、○○教というのはよくわからないけれど、わたしは神様を宇宙をつかさどる偉大な力・存在として信じている、でもいいのではないでしょうか。

大切なことは、
シスター高木や、うちのダーが言ったように
目に見えるものだけがすべてではない、と知ること。つまり「謙虚」に生きることなのかな、と思います。
目に見えるものしか信じない、という、以前のわたしのような考え方は、
結局、傲慢さの表れだと思うから。

目に見えるものだけがすべてだと思っている人は、
日常生活でも、様々な失態を演じています。
耳の聴こえない人に話しかけ、答えが得られなかったときに、「ナニ、この人、失礼ね」と、怒った人がいます(これは実際にあった話です)。
目に見えるものしか見ていないから、
相手は耳が聴こえない、ということを、察してあげられないのです。

いつもニコニコしている人に「あなたは悩みがなくていいわね」と平気で言う人も、目に見えることしか理解しようとしない人です。
その人が、どんな過去、現在を抱えているか、など、背景については一切考えようとしない人です。
いつもニコニコしているのは、その人の努力の賜物であるにも関わらず、
悩みがなくてのほほんと生きているからいつもニコニコしているのね、などと、表面的なことだけで決め付けるのです。

相手のミスを執拗に責める人も、
相手の言葉を言葉通りにしか受け止められずに泣いたりわめいたり怒ったりする人も、
目に見えるものだけがすべて、だと思っている人だと思います。

わたしも過去にはそういう人間だったのです。
目に見えるものしか見ていないから、相手の背景、つまり相手の心の中、を思いやってあげることができず、たくさんの人を傷つけたのです。

そして、自分にはもうどうしようもできないことが起こったとき、
不思議な力で助けられていることを感じるようになって初めて、
目に見えないものを信じること、目に見えないものを知ろうとすることが
どんなに大切なことなのかを知ったのです。

仏教のことは、よく知らないのですが
たまたま浄土真宗派の人からもらった、薄い冊子(法話)があります。
タイトルは『死別の悲しみと生きる』

愛する人を亡くされた方々に読んでいただきたい内容ですが、
その中にも、離別の悲しみは、目に見えないものを信じることで癒される(他力の仏法)と書かれています。

愛別離苦を経験し、悲しむ人々に対する親鸞聖人(しんらんしょうにん)の姿勢を、
著者の鍋島直樹さんという方がこう書かれています。

1 悲しいときには涙を抑えなくてもよい。悲しみは自然な感情。
また、悲しみは亡くなった人との関わりに応じてそれぞれ異なっている(比べようは無い)。

2 しかし悲しみを深めるばかりにならず、心を少し休めてみる。

そして3です。
「悲しみは確かに心の拠りどころが確立されることによって、徐々に乗り越えられていく」
(乗り越える、ではなく、共存でもよいのではないでしょうか)

『たもつところの他力の仏法なくは なにをもって生死を出離せん』

悲しみは、死を超えた拠りどころが心の中に確立されると
乗り越えてゆける(共存してゆける)ようになる、という、親鸞聖人の姿勢だそうです。

「この死を超えた拠りどころとは、
死によっても消えることのない真実、心のつながりです。
愛する人は死んでも死なない。いまも心に生きているというような確かなつながりが心に育ってくることです」
と書かれています。

「死を超えた拠りどころ」は目には見えません。心の中に在るものです。
だから、目に見えるものがすべて、だとかたく信じて疑わない人には、見つけることはムツカシイのではないでしょうか。

たとえば親鸞聖人は、亡くなる前に、
門弟に対し、
「浄土であなたを待っているよ」と書き送られたそうです。
死に別れてもまた会えるという浄土の世界、ひとりぼっちのわたしを引き取って捨てないという「み仏」の『他力』が心の拠りどころだったそうです。

親鸞聖人は、「み仏の他力」は、いかなる激しい悲しみにも壊されない、負けない、ということを強く示されています。

仏教は、ちょっと言葉遣いがムツカシイのですが、
とにかく、愛する人は死んでも死んでいない、と信じることができれば、死別という人間にとって一番苦しい悲しみをも乗り越え、負けないでいられる、ということ。
そして、たちまち喪失感は半減します。
半分残っただけでもつらいけれど、それは抱えて生きていくしか仕方ありません。
開き直ればよいのです。

そして作者は
「自分の悲しみを受け入れる姿勢、相手の悲しみをとがめずにそばで共感しようとする態度は、この他力に支えられて生まれてくる寛容さといってよいでしょう。
悲しみを切り除いて明るいことばかりを考えようという、ただのブラス思考とは大きく異なります」と
記しています。

浄土でも天国でも何でもいいからとにかく、最愛の人はあの世で未だ生きている、と心から信じることで、
悲しみに蓋をして、無理して笑うような、痛々しい前向きさではなく、
「最愛の人は神の元にいる」という安心感にたった上での、本当の意味での前向きな姿勢が得られるのだと思います。

愛する人を亡くしたとき
人は、誰でも、自分の無力さに打ちひしがれ、
また、愛する人を奪い取られた不条理に怒り、
愛する人のいない現実のさみしさに悲嘆します。

それらの苦しい感情は、実際、わたしたちの手には負えません。
自分や周囲の人間の力だけでは、この悲嘆はゼッタイに解決しない、と、経験から断言してもよいかと思います。

そんなとき、
「本願他力」をもって、このどうしようもない悲嘆から救い出される、ということなのだと思います。


愛するお母さん、夫、子供・・・
あなたの大切な人は、肉体が滅びたからといって、本当に死んだのでしょうか?
本当に、まったくの無になっちゃったのでしょうか?
もしそうなら、
わたしたちの愛する人は何のためにこの世に生まれてきたのかな。
お母さんの、あるいは夫の、子供の、やってきたことは一体なんだったのでしょうか?

それだけじゃない。
わたしたちだって、いつか肉体が滅びたときにすべてが無くなるのなら、
何のために生きているのでしょうか。
誰かを何かを愛したり愛されたり助けたり助けられたりすることすべて、
その場限りでやっているだけのことなのでしょうか。

家族や友人など、大切な人たちとも、偶然に出会っただけなのでしょうか。

果たして、本当に、わたしたちは、そんな無意味なことを、くりかえしているのでしょうか。
ゼッタイに違うと思うな。

この世でやったことはすべて、
浄土か天国か知らんけれど、あの世にも持っていくのだと思います。
家族や大切な友人とは、今生限りの縁ではなく、未来永劫、関わっていくのだと思っています(わたしの場合は、大切なお客様方との関係もそのように思っています)。

決して、消滅なんてしないんです。
ただ、姿が見えなくなっただけ。
オンボロの肉体を、まるで着古した服のように脱ぎ捨て、本来の姿(心とか魂とか意識とか呼ばれるもの)に戻っただけ。
わたしたちだっていつかそうなるんですよ。
誰一人、そうならない人はいないのです^_^;

愛する人は、目には見えないけれどちゃーんと生きていて
またいつか再会できる。
再会したとき、
愛する人に何て言ってほしいかな。
わたしは、ダーに、「マキ、よくやったね!」と抱きしめてほしい。
ああ、あの人の、あの優しい笑顔をぜひとも! もう一度見たい!
だからこそ、自分の人生を大切に生きていきたい(そーいう強い思いはあるのだけれど、それを忘れてしまったみたいに深く落ち込んでしまうこともありますよ^_^;)。
亡くなった愛する人たちは、遺してきた人たちに何を望んでいるのでしょうか。
先立った愛する人たちは、遺されたわたしたちの「幸せ」だけを望んでいると思います。

もし、わたしが死んだら、
遺してしまった大切な人たちに、こんなふうに言いたい。
「わたしのことは胸の片隅にちょこんと覚えていてくれるだけでいい。
それよりも、少しでも早く、あなた自身の人生を歩んで欲しい。
欲を言えば、思いやりの心をもって人を愛すことのできる人になってほしい。
なによりも、あなた自身に幸せになってほしい」

ま、神様とか目に見えないものとか、ゼッタイそんなの信じない、と言う方もいらして、
そーいう方々は信じなくても生きていける人なので
それはそれでその強さを尊敬しますし、無理強いしてはいけませんね(*^_^*)

死別の悲しみに苦しむ大切な方々に、
そして、願わくば、わたし自身にも、
目に見えないものを信じる力が、与えられますように。


えっと、シスター高木が名誉教授をつとめる
兵庫県尼崎市にある「聖トマス大学」では、毎年、日本グリーフケア研究所公開講座・JR西日本財団寄付公開講座として『悲嘆について学ぶ』が開かれております。
今年で五回目になるというこの講座は、10/2より週一で、15回にわたり開催されます。
聖トマス大学は閉校が決まっているそうなので今年でラストかもしれません。そのへんはよくわかりません。

元京都大学教授のカール・ベッカー博士、
聖路加国際病院名誉院長、確か94歳か96歳かの^_^; 日野原医師(2005年に文化勲章を受けられているすんごい現役医師のおじいちゃん ←なんと失礼な言い方^_^;)、
絵本作家の永田萌さん、神戸連続児童殺人事件の被害者である山下彩花ちゃんのお母様など、そうそうたるメンバーにより、
毎週金曜日、「悲嘆」「生と死」をテーマに講座が開かれます。
参加費は無料です。
定員は300名限定、大変な人気らしいので、すでに定員オーバーかもしれませんが
ご興味のある方は、
聖トマス大学にお問い合わせください。
06-6491-7161

ちなみに、10/2カール・ベッカー博士の講座タイトルは
『臨死体験からみる 死後の可能性』
↑わたしこれがどうしても聞きたくて参加します^_^;

また、来年2/5の神戸赤十字病院心療内科部長村上典子先生の講座タイトルは
『突然愛する人を失った方たちへのグリーフケア』

2/19のシスター高木の講座のタイトルは
『亡き方との再会の希望はあるか』

こんなタイトルの講座、著名な科学者などから、直接聞く機会など、なかなかありませんよ(*^_^*)