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女神 額田王

2008年11月08日 05時29分29秒 | 懐かしいとき
 


いつの頃だったでしょう?

私は、初めて、額田王の名前を見た時
言葉にならない数々の想いが 心から溢れるように出て
止まらなかった。



万葉集随一の女流歌人 謎の歌姫

実は、額田王は、日本武尊の妃
日本女性の鏡といわれる 弟橘媛の分霊です。
(分霊:一つの魂が別々の個性を持って独立した魂になること)
      ↑
これは、日本神道系での表現方法で 本来は、魂の兄弟・分身のことの意です。


弟橘媛は、夫の安全の為に 海神を沈めるために
自ら海に身を投げ、侍女10人が媛に従って入水しています。


これは、弟橘媛の愛の人柄と、身を捨てても夫を救おうとした
祈りが感じられる 入水に当たって詠ったとされる辞世の歌です。

「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火の中にたちて 問いし君はも」
(相模の国の野原で火攻めにあったときも、私の身を気づかってくださった
 あなたの心は忘れません)


霊査によれば・・・
弟橘媛は、極めて清楚で美しく、少し気が強く、しっかりした
頭のよい女性で その魂の本質は、竜宮界の女神

竜宮界の住人となれる条件は・・・
澄み切った心、常に美しい感情・感性を保ち
美しい言葉を発すること。



7世紀、和歌は 現代では信じられないほど重要なものでした。
見事な歌は、ときに神の怒りを鎮め、ときに人に幸せをもたらすものでした。

特に、額田王は 言魂の宿る歌を詠む力を持っていると信じられており
額田王には、神が宿ると思われ、公の行事でも天皇に代わって
歌を作った(御言持ち) 並ぶ者なき優れた女流歌人です。

御言持ち:天皇の心を歌を通じて広く民に伝える役

又、神と交信する巫女的性格を備えていて
その力は、政治を仕切る権力者たちにとって、大きな魅力であったことは
想像に難くありません。



大和朝廷は
天皇家と物部氏の「和」=連合によって成り立っていた。

天皇は、物部氏より妃を得て即位する。

妃は、神事を行い、神の意を受信し
その神意に基づいて天皇が政治を行う
そういうシステムであったといいます。




額田王も、物部氏の最高位に位置する女性だったらしいのです。
単なる巫女や後宮の一女性ではなく、「王」の名の示すとおり皇族であり
連合政権の要であったらしいのです。


額田王につながる物部氏の勢力は、天智天皇が「大化の改新」で
やりきれなかった土地改革を藤原不比等と組んでやり抜いた
持統天皇によってその膨大な土地を召し上げられる事で消滅しました。


そして、天皇家の地位を強調する正史「日本書記」が成立し
この過程で、額田王の出自は、物部氏と天皇家との
関わりが消されていくと共に抹消され
天智天皇と天武天皇とのロマンスの謎が残ったようです。




運命に翻弄されたかのような額田王の人生ですが
どんな立場に置かれようとも 毅然とした女らしさ
美しい心を失わず、澄み切った心を大切にする女神らしく
執着とも縁が無いと感じ取れます。


せつない恋や詩を詠っていても、すぐれて論理的であり
いつも透明で澄み切っていた明るさがあります。

又、詩の背景には時代が歴史的事実が 必ずと言っていいほど
読みこまれていました。




  近江天皇を思ひて作る歌

「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の
 すだれ動かし 秋の風吹く」 額田王

近江天皇とは、天智天皇・・・
あなたが恋しくて恋しくて、心待ちにして恋い慕っていると
 すだれが動いて、あなたと思ったら、それは秋の風でした。



弟橘姫の分霊ならば、ひとすじの愛を全うする魂であり
この歌は、万葉集 編者の間違いか意図的作為ではないだろうか?
と言われる方もいらっしゃいます。

けれども、私は 編者の間違いでもなく、意図的作為でもなく
額田王は、天智天皇を 愛していたと思います。



天智天皇(626~672年1月7日)

中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害
叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。
そして大化という元号を制定し、様々な改革を行なった。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため
朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し百済復興を図った。
百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが
661年、斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず称制したが
663年、白村江の戦いで大敗を喫した後大津へ遷都してそこで即位した。


大海人皇子から額田王を奪ったので
罪滅ぼしとして(自分の)娘4人を大海人皇子の元に妃として
送り込んだと言われている。




天智天皇が長く即位しなかったことは
7世紀の政治史における謎の一つです。

このことについて議論されている説がいくつか存在します。

天武天皇を推す勢力への配慮。
即ち、従来定説とされてきた
天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤り

『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される
天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば
天武が年長となってしまいます。

聖徳太子が十七条憲法を制定して、日本を仏国土にしようとしていた時
光の菩薩の出城は、天皇家にありました。
蘇我入鹿に魔が入り、国政を壟断しようとしていた時に
天智天皇は、立ち上がりクーデターを起こされました。

皇子ともあろうものが、祭りの際に 政府の高官を斬って捨てられました。
天皇家の方が 家臣を斬って捨てるというのは 前代未聞のことでした。
これだけのことをして日本の国政を守られたのです。




藤原 鎌足(614~669)
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)

飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。
大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し
藤原氏繁栄の礎を築いた。

「藤原」姓を賜ったのは、わずか死の一日前



藤原氏は中臣鎌足が賜姓してからの一族と云われます。
初代が藤原鎌足です。
ところが、中臣氏はその後も別系で存続しているのです。

中臣氏と藤原氏は別系ではないかと考えられます。
鎌足は、中臣氏に一旦入り婿し、その後、賜姓して分派したと。
中臣氏は、元来男覡として祭祀を司る一族ですが
藤原氏にはその様な例が見られません。

韓半島南部の伝承で、藤原氏は
百済 朴(パク)氏の出自であると云うものがあります。

おそらくこれが、藤原氏の出自を正しく伝えていると考えられます。
百済滅亡前後に渡来した一族だと思われます。

賜姓については、一般に、公的文書への署名には用いますが
通称では用いないことが多いのです。

賜姓後の藤原氏は中臣姓を一切を用いていないことが
上記推察の裏付けにもなります。

無論、百済は唐に反抗し、滅んでいますから
朴姓を用いるはずもありません。

おそらく、百済王族に近い一族であったため
その後日本においても王権に近い位置を
占めているのだと、考えられます。



 

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