若狭高浜ウォーク・若州一滴文庫・岸壁の母
若狭高浜ウォーク
朝早く起きて、若宮海水浴場から城山公園まで、ご主人に案内されて、「波打ち際ゆったりウォーク」を楽しんだ。
彼は高校時代、棒高跳びの選手で 「若狭のブブカ」で名が通っていたそうだ。卒業時に関西の幾つかの大学から誘われたが、関東を希望していたので東京の大学に入ったとのこと。舞鶴などの中学で体育の教師を長年勤め、数年前に退職。現在は海を友として悠々自適の生活を送っている。妻とともに我々の訪問を大歓迎してくれ、この日は早朝ウォークのガイドをしてくれた。
城山公園では、右側の⑦から岩礁地帯を歩いて②の灯台へと、時計と逆周りに歩いた。この地域はリアス式海岸で小さな入り江が複雑に入り組んでいて、「あぶないな」と強く感じた。どこでも、小型船で夜陰に乗じて上陸されてしまう。地村夫妻、山下さん、渡辺さんなど、北朝鮮特殊工作員により、小浜各地の海岸で拉致されているからだ。
小雨がぱらついてきたので雨具を取り出す。
先頭の岩に立っているのは「若狭のブブカ」
若州一滴文庫 リンク→若州一滴文庫(水上 勉)おおい町岡田
若州一滴文庫は水上勉の故郷・若狭本郷の奥まった山間の田園地帯にあった。
残念ながら建物の中は撮影禁止で、貴重な展示物などは、ここに紹介はできない。
人形座の建物の中に、芝居で使う竹人形たちが沢山あった。すべてが竹製で頭の顔などは「竹紙」で作る独特の製法も展示されている。そうした竹の人形群には圧倒されたが、前かがみになって互いの肩に手を置き、編み笠の五人のゴゼが一列になって雪の中を進む姿は鬼気迫る雰囲気で、圧倒させられ、また、感動した。なんとしても撮影したかったのだが---。cf.→ひこね市文化プラザ :: 若州人形座 竹人形文楽「はなれ瞽女おりん」
ここから入るのだが、敷地内は幾つかの建物があって広い。
人形館には、竹粘土から始まり、すべてが竹製品の人形群が所狭しと並んでいる。
永六輔も筑紫哲也も石川さゆりも加藤登紀子も宮城まり子も----、この建物に泊まり、大家族のように食卓を囲んで夜遅くまで語り合ったのであろうか。
帰りの電車に時間が合わず、敷地内にあるこの中で蕎麦を注文し、時間調整をした。 小浜線の駅はどこも設計・デザインが立派で、よくこんな金があるのかと思ったが、翌日その謎が解けた。
若狭本郷駅
岸壁の母と引揚記念館
東舞鶴駅からタクシーで約15分かかる所に引揚記念館があり、脇の小高い山の上が公園となっていて港が良く見える。公園にはオブジェや歌碑がある。
モデルとなった母親は、新幹線の無い時代に、東京の大森から通ったと知り、ただただ驚くばかりであった。
記念館の中には沢山の資料があった。
ソ連という国は汚い国だ。アメリカと異なり、ほとんど自国民の血を流さず、関東軍壊滅状態を見てソ満国境から進入し、戦勝国になってしまった。当時の満州は、現在の中国でソ連領ではない。つまりソ連にとっては外国だ。だから、事実上、日本の植民地であったとは言え、完全な侵略と言える。
無抵抗の関東軍をシベリアに連れてゆき、極寒の地で強制労働をさせた。これが、ジュネーブ協定に違反する、捕虜の奴隷扱い。人間として扱わず、栄養失調・過労・凍死などで死者が続出したと聞いている。
北方四島返還交渉などという言葉があるが、間宮林蔵の名を出すまでも無く、樺太まで分捕ってしまい、居座っている。第二次世界大戦で大量の血を流したアメリカでさえ、(不完全ではあるが)沖縄諸島を日本に返還しているではないか。
記念館にはシベリアでの捕虜生活の記録が沢山残っている。それらを見るにつけ、同胞がいかに酷い扱いをうけたかを思い、怒りが湧き出てくる。
三波春夫もシベリア帰りだ。生きて故国の地を踏めたのはわずかであろう。
引揚者の関係者も高齢となった。この地を訪れても丘の上まで上るのは困難な年齢となった。この杖を見ると、そうしたことが分かり、引揚の歴史も風化させてはならない。岡上の公園の各所に右上のような記念樹がある。
舞鶴枯木浦
電車の時間に間があったので、東舞鶴駅から港まで歩いた。