縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

●魔除け●鬼瓦●道祖神●「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」

2012年09月09日 23時35分58秒 | 色んな情報
●魔除け●鬼瓦●道祖神●「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」
★魔除け(まよけ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
外部から襲ってくる魔物を退散させること。もっとも一般的な方法は、家の門口(かどぐち)に神仏の御札(おふだ)を掲げることである。そのほか各地に多くみられるものに、イワシの頭、蹄鉄(ていてつ)、ハチの巣、花火の殻、ニンニク、ヒイラギの小枝などがあり、門口の御守りとされている。変わったものでは、東京の郊外などにもみられた「鎮西(ちんぜい)八郎為朝(ためとも)御宿」と書いた札を家の入口に貼(は)っておき、風邪(かぜ)の予防とした。また、「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」と書いた木片を護符とする例もある。ほかに地方的な特色のあるものとして、岡山県真庭(まにわ)郡中和(ちゅうか)村では、旧暦12月8日日本海沿岸に打ち上げられたハリセンボンという魚を、入口の鴨居(かもい)に吊(つ)るすという。鳥取県南東部(八頭(やず)郡を中心とした地域)では、家の入口に四十鰒(ふぐ)を「始終福」といって吊るし魔除けにする。岡山県総社(そうじゃ)市では、小児の着物の背に小猿の形代(かたしろ)を縫って背負わせて魔除けにする。背守(せまも)りは他地方でもみられる風習である。兵庫県西宮(にしのみや)市では、門口にアカメバルという魚を掲げ百日咳(ぜき)除けのまじないとする。また、シャクナゲの葉はトベラの木と同じく戸口に吊るしておくと魔除けになるとされている。兵庫県下では、12月1日に「カラスの仲間」といって、カラスより先に起きナスの漬物を食べると、水難にあうことはないという。この風習は、期日を異にして他所にもある。以上は個人の家での魔除けであるが、村全体の魔除けとして、村の入口に縄を張り、それに大きな草履(ぞうり)を下げ流行病の侵入を防ぐまじないとすることがある。[ 執筆者:大藤時彦 ]

★石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)http://p.tl/1o0v
石敢當などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当、泰山石敢當、石敢東、石散當、石散堂、石厳當と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県で見かける。
★鬼瓦(おにがわら)http://p.tl/NZ3X
和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「鬼」とも呼ばれる。厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つ。鬼瓦を題材にした狂言の演目「鬼瓦」のこと。
★(くくり猿から転送)http://p.tl/OI5b さるぼぼ
さるぼぼは、飛騨高山など岐阜県飛騨地方で昔から作られる人形。
★庚申堂(こうじんどう) (奈良市) http://p.tl/JZM6
奈良市のならまちの中心にあり、「庚申さん」と呼ばれる。庚申信仰の奈良の拠点であり、青面金剛像を祭祀する祠である。また、青面金剛の使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、町内の家々の軒先に吊るされている。大きいのが大人、小さいのが子どもとされ、家族構成に合わせて吊るされている。また、町内から転出した家族の分の猿は、庚申堂に預けられて、転出者と町との精神的な絆を保っている。町内の住民の災いを代わりに受けることから、「身代わり猿」と呼ばれ、また、背中に願い事を書いて吊るせば願いが叶うとされ、「願い猿」とも呼ばれ、岐阜県飛騨地方のさるぼぼが頭を垂れて体を屈曲させたような形状である。
★シーサー http://p.tl/K_DQ
沖縄県などでみられる伝説の獣の像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられ、家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持つ。
名前は「獅子(しし)」を沖縄方言で発音したものである。八重山諸島ではシーシーともいう。
★鯱(しゃち)http://p.tl/WH68
姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物。それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種。一字で鯱(しゃちほこ)・鯱鉾とも書かれる。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されている。
★セーマンドーマンまたはドーマンセーマン http://p.tl/Y6ma
三重県志摩地方(現 鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けである。
★多度の弾き猿(たどのはじきざる)http://p.tl/_Kwi
三重県桑名市多度町の郷土玩具で、三重県指定伝統工芸品。
明治時代中頃から、多度大社門前町の土産物として売られている。
「はじきざる」の名称が「(災難を)弾き去る」という言葉と語呂が合うことから縁起物として親しまれている。
★岐の神『ウィキペディア(Wikipedia)』http://p.tl/7zMl
岐の神(ふなどのかみ、くなどのかみ)、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とは、日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。道祖神、塞の神(さえのかみ)とも[1]。
岐(ちまた、巷とも書く)または辻(つじ)とは、道路が分岐・交叉する場所のことである。このような場所は、人だけでなく神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神・悪霊もおり、これらの侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。
神話の中では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。
後に、中国から伝来した道路の神である道祖神と習合した。そこから、道祖神もサルタヒコと同一視されるようになった。また、仏教の地蔵菩薩とも同一視された。
★道切り(みちきり)http://p.tl/dE1F
村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。
辻切り(つじぎり)とも称される。
日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、あるいは村と村の境(サカイ)には古くから魔や疫病をはやらせる神などが出入りすると考えられ、出入り口にあたる道には魔を防いだり、追い払うために道祖神が祀られたり、注連縄(または藁で作った蛇)を張ったり草履や草鞋が供えるなどの道切り行事が行われていた。
なお、この行事の行われる時期については、地域によって異なるが定期的に行われるか、時により臨時に行われることがある。
★中野木の辻切り http://p.tl/VmFC
★道祖神(どうそじん、どうそしん)http://p.tl/K2NE
路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
★柊鰯(ひいらぎいわし)http://p.tl/6rls
節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう。

★門守りのサイト 1) 柊鰯(ひいらぎいわし)  節分に門口につける魔よけ http://p.tl/HedE
★節分 柊鰯(ひいらぎいわし)デビュ~ http://p.tl/oaWy
★鰯の頭と柊 http://p.tl/kVzf


★「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」http://p.tl/MCOB
蘇民将来(そみんしょうらい、蘇民將來)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で販売されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県南部では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。

★妙見山 黒石寺蘇民祭 http://p.tl/ROaK
★蘇民将来符 - その信仰と伝承:八日堂蘇民将来符 http://p.tl/qh1n
★民話の駅 蘇民|蘇民とは?|牛頭天皇と蘇民将来 http://p.tl/clhp
★二見町蘇民将来 http://p.tl/hB-N
★蘇民将来の起源はイスラエルの過越祭か ! | 日本とユダヤのハーモニー http://p.tl/IdMR
★「蘇民将来」は、「備後国風土記(逸文)」など説話に登場する人物。http://p.tl/Qbn4
★信濃国分寺、蘇民将来、平将門 http://p.tl/8kat
★伊勢の蘇民将来伝説 http://p.tl/UIOI
★蘇民祭(そみんさい)http://p.tl/t6od
岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りである。1000年以上の歴史を持つと言われる。岩手県内では毎年1月から3月にかけて複数の蘇民祭が行われ、岩手の蘇民祭の名称で国の選択無形民俗文化財として選択されている。その中で最も著名なものは日本三大奇祭ないし日本三大裸祭りの一つに数えられることもある奥州市の黒石寺蘇民祭である。
★牛頭天王(ごずてんのう)http://p.tl/O0H8
日本の神仏習合における神。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、蘇民将来説話の武塔天神と同一視された。インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神である。陰陽道では天道神と同一視された。神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。
★備後国風土記(びんごのくにふどき、きびのみちのしりのくにのふどき)http://p.tl/sp-D
奈良時代初期に編纂された備後国の風土記。
鎌倉時代中期、卜部兼方によって記された釈日本紀に、「備後国風土記逸文」として「蘇民将来」の逸話が伝存している。
釈日本紀より「備後国風土記逸文」
★素戔嗚尊様と蘇民将来 http://uenokouen.com/somin/

●ススキはイメージで枯れすすき   そんな時期に

2012年09月09日 20時27分52秒 | 色んな情報
●ススキはイメージで枯れすすき   そんな時期に
★枯れすすき(かれすすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
 枯れすゝき(中山歌子) http://p.tl/w2rb
流行歌の曲名。野口雨情(うじょう)作詞、中山晋平(しんぺい)作曲。1919年(大正8)楽譜出版。演歌師が歌い始めたが、22年のレコード化(第一号は京都・東洋蓄音器か)によって流行の端緒が開ける。そこで松竹蒲田(かまた)撮影所は、伊藤大輔(だいすけ)脚本、池田義信(よしのぶ)監督により、この歌に基づいた映画『船頭小唄(こうた)』を製作し、23年1月、東京・麻布松竹館で封切ったところ大当り。「小唄映画」のはしりとなり、また主演女優栗島(くりしま)すみ子のレコードが10万枚以上ヒットするなど、ここに歌の流行が決定づけられた。しかし卑弱哀傷の詞曲のため、関東大震災の起こる原因になったとうわさされた。のちに『昭和枯れすすき』(1975)という作品も生まれている。[ 執筆者:倉田喜弘 ]
★『昭和枯れすゝき』(しょうわかれすすき)http://p.tl/cjke http://p.tl/JSRc
さくらと一郎のシングル。1974年7月21日発売。発売元はポリドールレコード。150万枚を売り上げ、1975年オリコン年間ヒットチャート1位を記録した。
★ススキ(すすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/-no7
【薄】Chinese silver grass
[学名:Miscanthus sinensis Anderss.]
イネ科の多年草。花穂を尾花といい、秋の七草の一つ。稈(かん)は株立ちし、高さ1~2メートルに達する。8~10月、稈頂に花序を出す。花序は主軸が詰まって短く、多数の細長い小花序を散房状につける。小穂は披針(ひしん)形で長さ5~7ミリメートル、2小花をもち、同形同大の対(つい)をなして小花序の節につき、小穂の基盤の毛は淡褐色で長さ7~12ミリメートル。小穂が脱落しても花序軸と小穂柄は残る。第2護穎(ごえい)には、長さ8~15ミリメートルの芒(のぎ)がある。平地または山地の日当りのよい地に普通に群生し、北海道から沖縄、および朝鮮半島、中国に分布する。
★アブラススキ(あぶらすすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【油薄】
[学名:Eccoilopus cotulifer (Thunb.) A. Camus]
イネ科のやや大形の多年草。稈(かん)は株立ちして高さ0.8~1.2メートル。根出葉は短柄がある。9~10月、頂端に長さ20~30センチメートルの円錐(えんすい)状の花序をつけ、多数の下垂する枝が輪生状につく。小穂は長さ約6ミリメートル。対をなして花序の枝につき、2個の小花をもつ。包穎(ほうえい)の脈は顕著で、基部に短束毛があり、第1護穎(ごえい)から芒(のぎ)が出る。和名は、ススキに似るが油状の光沢をもつことによる。日本全土の日当りのよい丘陵地に生え、朝鮮、中国、インド北部にかけて分布する。[ 執筆者:許 建 昌 ]
★コメススキ(こめすすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【米薄】
[学名:Deschampsia flexuosa (L.) Trin.]
イネ科の多年草。根茎は短く、稈(かん)は株立ちして大きな株をつくり、高さ20~60センチメートル。葉は糸状、葉舌(ようぜつ)は約2ミリメートル。7~8月、稈の先にまばらに小穂をつける円錐(えんすい)花序をつける。小穂は淡紫色を帯び、2~4個の小花があり、包穎(ほうえい)は同形で大きく、護穎を包む。護穎は背面が円く、上端はやや平らで少数の歯牙(しが)があり、中央脈は背面基部近くから細い芒(のぎ)となる。基盤(小穂の基部にある結節)に毛束がある。北海道、本州、四国、九州の亜高山、高山の岩地に生え、北半球、南アメリカ、アフリカの高山にも広く点在する。名は、小穂の形をススキに例え、小形のススキの意味である。近縁のヒロハノコメススキD. caespitosa (L.) Beauv.はコメススキに比べて葉が広く、葉舌が3~7ミリメートルあるが、分布はコメススキと同じである。[ 執筆者:許 建 昌 ]
★すすきみみずく(すすきみみずく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
ススキ製の土産(みやげ)物玩具(がんぐ)。東京都豊島(としま)区雑司(ぞうし)ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)境内で、お会式(えしき)(10月12~18日)のころをはじめ、常時売られている。ススキの穂でミミズクの姿をつくり、きびがら製の目、経木の赤い耳、竹のくちばしがついている。ススキの材料は、かつてこの付近が武蔵野(むさしの)原であった名残(なごり)を示している。江戸以来の東京の代表的郷土玩具として知られている。江戸期には、このほか風車や麦藁(わら)製の角兵衛獅子(かくべえじし)、紙と竹製の蝶(ちょう)なども、同じく鬼子母神名物として売られていた。[ 執筆者:斎藤良輔 ]
★トキワススキ(ときわすすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【常磐薄】
Japanese silver grass
[学名:Miscanthus floridulus (Labill.) Warb.]
イネ科の多年草。根茎は短く、稈(かん)は株立ちしてススキより大きく、高さ0.7~3メートルに達する。7~9月、稈頂に大形の円錐(えんすい)花序をつける。主軸は長く、分枝の小花序より長い。小穂は約3ミリ。海岸近くの陽地に群生し、関東地方以西の本州から沖縄、および中国、太平洋諸島に分布する。名は、冬も葉が枯れないことに由来する。[ 執筆者:許 建 昌 ]
★ヒメアブラススキ(ひめあぶらすすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【姫油薄】
scented golden beard
[学名:Capillipedium parviflorum (R. Br.) Stapf]
イネ科の多年草。稈(かん)は株立ちし、基部近くで分枝して高さ0.5~1メートル。7~10月、稈頂に円錐(えんすい)花序をつける。花序の枝は細く、数回分枝し、分枝の先端に1センチ未満の花穂がある。小穂は2個ずつ花が対(つい)をなし、1個は有柄で小さく、1個は無柄で長さ約3ミリ。名は、全体がアブラススキに似るが、より小形であることによる。丘陵地、草原に生え、関西地方以西の本州から沖縄、小笠原(おがさわら)、および中国、インド、オーストラリアに広く分布する。[ 執筆者:許 建 昌 ]
★すすき【▽薄/×芒】
1 イネ科の多年草。山野に群生し、高さ約1.5メートル。秋、茎の頂に十数本の枝を出し、黄褐色から紫褐色の大きい花穂をつける。これを俗に尾花といい、秋の七草の一。葉・茎を屋根をふくのに用いた。かや。《季 秋》「山は暮て野はたそがれの―かな/蕪村」
2 紋所の名。1の穂と葉を図案化したもの。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]
★薄(すすき)の穂にも怯(お)・ず
ほんのわずかなことにもびくびくすることのたとえ。薄の穂にも怖じる。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]
★ススキ(芒、薄)http://p.tl/44i0
イネ科ススキ属の植物。萱(かや)、尾花ともいう。野原に生息し、 ごく普通に見られる多年生草本である。
★ススキ Miscanthus sinensis (イネ科 ススキ属)http://p.tl/-l2u
★薄 (すすき)http://p.tl/hlfU
★ススキ 新・花と緑の詳しい図鑑 http://p.tl/euiZ
★ススキ(薄)  イネ科  http://p.tl/xvtG
★ススキとオギは、似て非なる物です。http://p.tl/HlbB
★仙石原のススキの見頃情報は9月中旬頃から http://p.tl/lPz9 ススキ草原 今昔物語 http://p.tl/r1fL
★ススキ・薄・芒(すすき)の意味・語源・由来を解説。
【意味】ススキとは、イネ科の多年草。山野に群生する。高さ約1.5メートル。茎の頂につける花穂は「尾花」と呼ばれ、秋の七草のひとつ。カヤ。
【ススキの語源・由来】
「スス」は「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ササ(笹)」の変形。
「キ」は「木」「茎」「草」など「K」の音に通じ、この場合は「草」か「茎」の意味であろう。
ススキの「スス」には、すくすく(直々)と生い立つ意味など他にも多くの説があるが、「ササ(笹)」「ささ(細小)」より有力な説はない。
★秋(あき)の意味・語源・由来を解説。
【意味】秋とは、四季のひとつで、夏と冬の間の季節。太陽暦では九月から十一月まで。陰暦では七月から九月まで。二十四節気では立秋から立冬まで。天文学上では秋分から冬至までをいう。
【秋の語源・由来】
秋の語源には、空の色が「清明(あきらか)」な時期からとする説。
穀物などの収穫が「飽き満ちる(あきみちる)」季節からとする説。
紅葉などに使われる「紅(あか)」が転じたとする説がある。
★夏(なつ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】夏とは、四季のひとつで、春と秋の間の季節。現行の太陽暦では六月から八月まで。陰暦では四月から六月まで。四節気では立夏から立秋の前日まで。天文学上では夏至から秋分の前日までをいう。
【夏の語源・由来】
朝鮮語の「nierym(夏)」、満州語の「niyengniyeri(春)」など、アルタイ諸島で「若い」「新鮮な」の原義の語と同源などの外来語説。
「暑(あつ)」が転じたとする説。
「生(なる)」が転じたとする説。
「熱(ねつ)」が転じたなど諸説あるが未詳。
★春(はる)の意味・語源・由来を解説。
【意味】春とは、四季のひとつで、冬と夏の間の季節。現行の太陽暦では三月から五月まで。陰暦では正月から三月まで。二十四節気では立春から立夏の前日まで。天文学上では、春分から夏至の前日までをいう。
【春の語源・由来】
春の語源は、草木の芽が「張る(はる)」季節からとする説。
田畑を「墾る(はる)」季節から、「春」になったとする説。
気候の「晴る(はる)」が転じて、「春」になったとする説がある。
★冬(ふゆ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】冬とは、四季のひとつで、秋と春の間の季節。現行の太陽暦では十二月から二月まで。陰暦では十月から十二月まで。二十四節気では立冬から立春の前日まで。天文学上では冬至から春分の前日までをいう。
【冬の語源・由来】
「冷(ひゆ)」が転じたとする説。
寒さが威力を「振う(ふるう)・振ゆ(ふゆ)」が転じたとする説。
寒さに「震う(ふるう)」が転じたとする説。
「殖ゆ(ふゆ)」が転じたとする説がある。
★旬(しゅん)の意味・語源・由来を解説。
【意味】旬とは、魚介類・野菜などが出盛りで最も美味な時期。物事を行うのに最適の時期。季節的に最盛である時期。
【旬の語源・由来】
「10日」を意味する言葉で、本来の読みは「じゅん」であるが、漢音で「しゅん」と読むのが習慣であった。
古くは、毎旬の初め(1日・11日・21日)と月の後半の初め(16日)に、天皇が臣下から政務を聞き、宴を催す儀式を「旬」と称した。
平安中期以後、この儀式は4月1日と10月1日だけになり、4月を「孟夏の旬」、10月を「孟冬の旬」と称し、二つを合わせて「二孟の旬」といった。
孟夏には「扇」、孟冬にはアユの幼魚である「氷魚(ひお)」を賜ったことから、最盛の時期・魚介類や野菜などの最も美味しい時期を表すようになった。
★時(とき)の意味・語源・由来を解説。
【意味】時とは、過去から未来へ移り流れゆく現象。時間。時刻。時点。季節。時候。時勢。時代。好機。
【時の語源・由来】
とどまることなく流れることから「とこ(常)」の転とする説と、速く過ぎることから「とき(疾)」の意味とする説がある。
「年」の語源が「疾し(とし)」にあるとすれば、それよりも速く過ぎる「時」の語源が「とき(疾)」でも不自然ではない。
また、「常」は「とどまることなく」の意味からとされるが、「常にあるもの」は「停滞」を意味し、「流れる」という意味が弱いことから、「とき(疾)」とした方が良いであろう。
漢字「時」の「寺」は、「寸(て)」と音符「之(あし)」の会意兼形声文字で、「手足を働かせて仕事すること」を意味する。
その「寺」に「日」が加わり、「日が進行すること」を表している。

●既存農薬農法の潜在的な怖さと、「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則氏に学ぶ

2012年09月09日 13時14分44秒 | 色んな情報
●既存農薬農法の潜在的な怖さと、「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則氏に学ぶ
★『●火防木(ひふせぎ) ネットにはコレット言って辞書には意味が出てない』 http://amba.to/TCCiGU
★8要素臭を用いたりんご臭の記録・再生 http://p.tl/NXDe
★荒廃したりんご畑が雑穀を栽培する畑に復活(岩手県軽米町)http://p.tl/gwmB
★UR都市機構 東日本都市再生本部 「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則氏に学ぶ、奇跡を起こすためのヒント http://p.tl/acAq http://p.tl/55ar

★既存農薬農法の潜在的な怖さと、自然栽培(農法)の可能性 http://p.tl/wfFY 木村秋則氏
★奇跡のりんご 木村秋則 × べてる @ 弘前市岩木町 http://p.tl/ud_4
★映画「降りてゆく生き方」のモデル「奇跡のリンゴ/木村秋則」さん http://p.tl/0zAX
★自然農種の蒔きかた http://p.tl/BHji
★福岡正信 自然農法家 http://p.tl/Vcai
★佐々木義秋 福岡正信さんと自然農法を愛する会 in 栃木1/4 http://p.tl/kUMO
★自然農の畑 浅野農園 茨城県阿見町 http://p.tl/R3CO
 
 
色んな人のやり方があるがあるようなので自分で探して下さい。

●はちまきの話イロイロ   自分で見つけて

2012年09月09日 10時48分13秒 | 色んな情報
●はちまきの話イロイロ   自分で見つけて
★折口信夫 はちまきの話 http://p.tl/fGPQ
はちまきの話は、ちようど此を説明するに、よい例になるだらうと思ふ。
さて、はちまきは、どういふ処から出たか、と今更らしくふまでもないが、被りものゝはちまきに到るまでに、幾度かの変遷を経てゐる。
★鉢巻の起源 http://p.tl/DgxI
★鉢巻【はちまき】世界大百科事典 第2版の解説.
はちまき【鉢巻】
頭の鉢に手ぬぐいその他の布を巻く習俗。古くは抹額(まつこう)または末額(もこう)といったが,後世はもっぱら鉢巻と呼んでいる。手ぬぐいなどを細長く折りたたんで,頭の鉢に巻き,前額部で結ぶのを〈むこう鉢巻〉,後頭部で結ぶのを〈うしろ鉢巻〉といい,折りたたまずにしごいてよりをかけ,前額部にはさみ込むのを〈ねじり鉢巻〉という。きれで頭部を包むことは,もともと頭髪の乱れを防ぐために行ったものであろうが,やがて他人の面前ではこれが礼儀となり,ついには長く習俗となったもので,鉢巻の起源もこれにつながるものと考えられる。
★はち‐まき 【鉢巻(き)】デジタル大辞泉の解説.
1 額や後頭部のあたりを布・手拭いなどで巻くこと。また、その布。
2 昔、武士が武装の際、兜(かぶと)の下の烏帽子(えぼし)がぬげ落ちるのを防ぐため、ふちを布で巻いたこと。また、その布。
3 帽子のふちを細布で巻いたもの。
4 土蔵造りで、防火用に粘土と漆喰(しっくい)を厚く塗り込めた軒下部分。
★はち‐まき 【鉢巻(き)】百科事典マイペディア
頭の横まわり(鉢)に手ぬぐいなどの布を巻く習俗。向う鉢巻,ねじり鉢巻は労働用。伊豆大島の紫縮緬(ちりめん)や新島の赤手ぬぐいの鉢巻,祭礼の稚児(ちご)の鉢巻は礼装用。
★後ろ鉢巻【ウシロハチマキ】デジタル大辞泉
頭の後ろで結んだ鉢巻き。⇔向こう鉢巻き。
★向こう鉢巻【ムコウハチマキ】デジタル大辞泉
結び目が額の前にくるようにして締めた鉢巻き。⇔後ろ鉢巻き。
★捩り鉢巻【ネジリハチマキ】デジタル大辞泉
[名](スル)手ぬぐいをねじって頭に巻き、額で結んだ鉢巻き。ねじはちまき。「―して御輿(みこし)をかつぐ」「-した若い衆」「捩り鉢巻き」に同じ。「―の男」〈中勘助・銀の匙〉

★抹額(まつこう)【抹▽額/末▽額】末額(もこう)
《「まっかく」の音変化》古代、冠のへりに紅の絹で鉢巻きをして後ろで結んだもの。下級の武官が用いた。もこう。


★雷太鼓:はちまきの作り方.AVI http://p.tl/W4I4
★太鼓練習 11月7日(1)女子ハチマキしめ方 http://p.tl/lAwk
★バッタ式:和手ぬぐいの巻き方  http://p.tl/Wf1i
★手ぬぐい、こんなコトにも使えます  http://p.tl/M7zi
 
手ぬぐいイロイロ使えそう。
日本人以外では中々使えそうにないかな。
日本人を自分なりに楽しめそう。
 
女は男よりも得しそうだな。

ハチマキ

2012年09月09日 09時22分44秒 | 色んな情報
ハチマキ
★鉢巻(はちまき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
手拭(てぬぐい)かぶりの一種。頭の鉢に手拭などの布を巻く習俗。古くは抹額(まっこう)または末額(もこう)ともよんだ。『源平盛衰記(じょうすいき)』に那須与一(なすのよいち)が「薄紅梅の鉢巻しめ」とみえるように、鎌倉時代以降は、武士が軍陣に際して、精神を引き締めると同時に、烏帽子(えぼし)の脱げ落ちるのを防ぐために鉢巻を締めたので、鉢巻は長く武装の一種と考えられていた。江戸時代になると、額のところに金具をつけたり、内部に鎖を仕込んだ鉢巻もつくられている。これに対して庶民は、ありあわせの手拭を利用して鉢巻を行い、細長く折り畳んで頭に巻き、額のところで結ぶのを向こう鉢巻、後頭部で結ぶのを後ろ鉢巻といい、しごいて撚(よ)りをかけ、結ばずに額に挟み込むのをねじり鉢巻といった。このほか、鉢巻をする習俗は、ごく近年まで各地に行われていたが、たとえば、端午(たんご)の節供に男児がショウブの葉を鉢巻にしたり、頭痛その他の病気や出産に際して布の鉢巻をしたりした。またヒッシュ、アカテヌグイなどといって、伊豆諸島の婦人たちは儀式や神仏の参拝に際して、赤、紫、浅葱(あさぎ)などの六尺(約1.8メートル)の布を二つに折った鉢巻をした。これらの習俗は、いずれも鉢巻に一種の霊力を感じているといえよう。なお現在も祭礼、芸能、生産の場において、鉢巻は重要な意義をもっているといえる。[ 執筆者:宮本瑞夫 ]

★狂乱物(きょうらんもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .病鉢巻(やまいはちまき)をする
能および歌舞伎(かぶき)舞踊の分類上の一系統。能では四番目物の一種で、「物狂い能(ものぐるいのう)」ともいう。主人公は「物狂い」、すなわち物思いのあまり心の均衡を失った人物が一時的に興奮しておもしろく戯れ舞うもので、女物狂いとして子供を捜す母親の『百万(ひゃくまん)』『三井寺(みいでら)』『隅田川(すみだがわ)』、恋人を尋ね求める若い女の『班女(はんじょ)』『花筐(はながたみ)』、わが身の不幸による『蝉丸(せみまる)』、死霊のとりつく『卒都婆小町(そとばこまち)』など、男物狂いとして『高野物狂(こうやものぐるい)』『土車(つちぐるま)』『弱法師(よろぼし)』など、また『雲雀山(ひばりやま)』『芦刈(あしかり)』は物狂いを物売りの芸として演じている例である。
歌舞伎舞踊では一般に真の狂乱に近く、その奔放な動きで舞踊的効果をあげるものが多い。女中心のものに『賤機帯(しずはたおび)』『鞍馬獅子(くらまじし)』『お光(みつ)狂乱』『お夏狂乱』『隅田川』など、男中心のものに『椀久(わんきゅう)』『保名(やすな)』などのほか、主役がなんらかの目的でわざと狂乱を装う『仲蔵(なかぞう)狂乱』『団十郎狂乱』などがある。扮装(ふんそう)のうえで、これらのうちの多くの役が右肩を脱ぎ笹(ささ)を手にして登場するのは能の「物狂い」の影響で、ほかに紫縮緬(ちりめん)の病鉢巻(やまいはちまき)をすることや、男の狂乱で『保名』のように長袴(ながばかま)をはいて、そのさばきに技巧を要するものの多いのも一つの特色といえる。[ 執筆者:松井俊諭 ]

★廓文章(くるわぶんしょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)、歌舞伎(かぶき)劇。世話物。通称「吉田屋」。成立は1780年(安永9)という。人形浄瑠璃では1793年(寛政5)5月、大坂・大西(おおにし)芝居で『曲輪文章』の名題(なだい)により初演。近松門左衛門作『夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)』(1712)の上の巻「吉田屋」の改作。新町(しんまち)扇屋(おうぎや)の遊女夕霧になじんで勘当された藤屋伊左衛門が、師走(しわす)のある日、うらぶれた紙衣(かみこ)姿で吉田屋を訪れる。夕霧が阿波の大尽の座敷にいたと知り、その不実を怒った伊左衛門も、やがて女の真情を知って心が解け、おりから勘当が許され身請けの金が運ばれる。歌舞伎では、1808年(文化5)初めて『廓文章』の名題で演じられたといわれ、のち義太夫と常磐津(ときわず)(または清元(きよもと))を使った舞踊風の情緒劇として完成した。おかしさ、哀れさ、気骨を兼ね備えた伊左衛門の和事芸が中心で、恋にやつれた病鉢巻(やまいはちまき)の夕霧との色模様など、見どころは多い。[ 執筆者:松井俊諭 ]

★小町踊(こまちおどり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸時代の初・中期ごろ、京都で七夕(たなばた)の日に踊られた娘たちの風流踊(ふりゅうおどり)。七夕踊ともいった。娘たちの年齢は、年代によって一定していないが、7、8歳から17、18歳までの間で、はでな扮装(ふんそう)で身を飾った。たとえば、美々しい中振袖(ちゅうふりそで)の着物を着、左肩に光綾綸子(こうりょうりんず)の幅広の襷(たすき)を掛け、造花を挿した髪頭に緞子(どんす)の鉢巻(はちまき)を巻き、手には締(しめ)太鼓を持ってたたきながら、「二条の馬場に 鶉(うずら)がふける なにとふけるぞ 立寄ってきけば 今年や御上洛(じょうらく) 上様繁昌(はんじょう) 花の都はなお繁昌」などと小歌を歌って、ときには輪になり、ときには行列をして踊り歩いた。
のちには踊らずただ歌い歩くだけになったというが、掛踊(かけおどり)の性格が濃い。鉢巻に襷という道具だてに古来の巫女(みこ)の名残(なごり)がうかがえるが、多分に遊戯化していた。七夕は盆に接近しており、盆踊りの前哨(ぜんしょう)にもなったが、もとは娘たちの成女戒(せいじょかい)の物忌みの盆釜(ぼんがま)から発して芸能化したものといわれる。[ 執筆者:西角井正大 ]

★ナツハゼ(なつはぜ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【夏櫨】
[学名:Vaccinium oldhami Miq.]
ツツジ科の落葉低木。高さ1~2メートル。若枝は赤褐色で、短毛と腺毛(せんもう)がある。葉は互生し、卵状楕円(だえん)形で長さ4~6センチメートル、両面に粗い毛と腺毛がある。5~6月、若枝の先に長さ5~7センチメートルの総状花序をつくり、鐘形の淡黄赤褐色の小花を下向きに多数開く。花冠は長さ4~5ミリメートル、先は浅く5裂し、萼(がく)には短毛と腺毛がある。果実は表面に白い粉があり、球形、径約8ミリメートルで、穂になって多数つく。秋に赤褐色から紫黒色に熟し、食べられる。丘陵、山地に生え、北海道から九州、および朝鮮半島南部、中国に分布する。果実の上部に萼の跡が大きな輪のようになって残るため、これを鉢巻に見立ててハチマキイチゴ(中国地方)、ハチマキブドウ(東京西部、山梨地方)などの方言がある。[ 執筆者:小林義雄 ]

★はち‐まき【鉢巻(き)】
1 額や後頭部のあたりを布・手拭いなどで巻くこと。また、その布。
2 昔、武士が武装の際、兜(かぶと)の下の烏帽子(えぼし)がぬげ落ちるのを防ぐため、ふちを布で巻いたこと。また、その布。
3 帽子のふちを細布で巻いたもの。
4 土蔵造りで、防火用に粘土と漆喰(しっくい)を厚く塗り込めた軒下部分。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

★3.はちまき‐いし【鉢巻石】-日本国語大辞典
〔名〕石の周囲を白や黒の筋が一周している石。家に置くと病人が絶えないとか、親を巻き殺すとか、死目に会えないなどといって忌む。

★鉢巻(はちまき)http://p.tl/78vq
主に日本において精神の統一や気合の向上のために用いられる、頭に付ける細長い布あるいは紐である。
通常は赤や白の綿の布が用いられることが多いが、カラー鉢巻と呼ばれるものもある。通常、幅約5cm、長さ120cm程度のものが多い。
鉢巻には一般的な鉢巻紐(棒鉢巻)のほか、最初から環状に結い付けてある結上鉢巻もある。
鉢巻紐の結び方としては、布を堅くよじってロープ状にした「ねじり鉢巻」、結び目を額に置く「向こう鉢巻」と呼ばれるものがある。 サラシ地の和手拭やタオル、バンダナなどを代用品にする場合も多い。
       ●★鉢巻★たすきはかならず対いで使うもの
★たすき(襷、手繦)http://p.tl/FGj6
主に和服において、袖や袂が邪魔にならないようにたくし上げる為の紐や布地を指す。通常、肩から脇にかけて通し、斜め十字に交差させて使用するが、輪状にして片方の肩から腰にかけて斜めに垂らして用いる方法もある。交差させて使用した場合を綾襷(あやだすき)とも言う。襷は国字である。
★玉襷【タマダスキ】デジタル大辞泉の解説.
たま‐だすき 【玉×襷】

●タスキ 襷(たすき)

2012年09月09日 08時17分44秒 | 色んな情報
●タスキ 襷(たすき)
★襷(たすき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和装用具の一つ。着物の袂(たもと)を紐(ひも)でからげて、仕事の能率をあげるために用いられるもの。「襷」は国字で、古くは手繦とも書いた。現在では袂を始末する用具の一つであるが、古墳時代の人物埴輪(はにわ)の女子像には筒袖(つつそで)の小袖に掛けている姿がみられるところから、神事の際の神に奉仕する意味が含まれていたことを物語るものであろう。後世になって、小袖の袂が長く大きくなるにつれて、本来の意味は失われ、仕事の能率をあげることへ、つまり儀礼から実用へと変わったのである。襷の材料は、古代には木綿(ゆう)があり、江戸時代には縮緬(ちりめん)、木綿(もめん)などの絎(くけ)紐、あるいは絹糸、木綿糸を編んでつくった組紐、よしの竹を約15ミリメートルに切ったものを糸で通した竹襷や、ガラス玉を通した水晶襷、数珠(じゅず)玉を通した玉襷などがある。農家では多く藁(わら)襷をする。襷の掛け方は、1本の紐の両端を結んで、一ひねりして左右の袖を通すか、さらに一ひねりして、8字形の中に通したりする。また紐を結ばずに首に掛け、両わきの下を通してから、首の紐を上から通して左右に出してこれを花結びにした例が『法然上人(ほうねんしょうにん)絵伝』の絵巻や名古屋城の屏風(びょうぶ)のなかにみられる。そのほか、襷の一端を口にくわえて袖下を通して別の袖の上から下に回して襷の両端を結ぶ方法、また京都壬生(みぶ)狂言では、踊りながら目にも留まらぬ速さで結ぶ方法などもある。[ 執筆者:遠藤 武 ]
★襷文(たすきもん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
広義に解釈すれば格子模様の一形式。縦・横の筋(すじ)が直角に交差する一般の格子に対して、斜めに交わるものをとくに襷とよんで区別することがある。わが国では櫛歯(くしば)状の用具を使用して、土器の表面に施文した弥生(やよい)時代の素朴な襷文や銅鐸(どうたく)にみられる袈裟襷(けさだすき)文から始まり、奈良時代の染織に表された襷文へと展開していく。とくに奈良時代に流行した羅(ら)という、4本の経糸(たていと)を1組としたからみ織では、組織の線が斜めに走るため、自然と襷模様が織り出されていく。奈良時代以後はこうした織模様の系統の襷に、物差しを使って割り付けた種々の襷模様が加わって、その形式をしだいに整えていった。[ 執筆者:村元雄 ]

★角兵衛獅子(かくべえじし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
少年少女たちの演ずる軽業(かるわざ)の獅子舞。昭和に入ってからは新潟県西蒲原(にしかんばら)郡月潟(つきがた)村の郷土芸能となったが、もとは門付(かどづけ)の巷間(こうかん)芸能であった。親方が数名の獅子の児(こ)を連れて一年中諸国を巡って歩き、6月25日の月潟村の地蔵祭には帰村して奉納した。親方だけが月潟または近隣に籍を置き、獅子の児は他所(よそ)の孤児などもらい子だった。扮装(ふんそう)は、小さな赤い獅子頭(がしら)を頭に頂き、筒袖(つつそで)の着物に襷(たすき)を掛け、卍(まんじ)紋の入った胸当てをし、裁着袴(たっつけばかま)をはき、白い手甲をつけ、日和下駄(ひよりげた)を履いて、腹に腰鼓をつける。芸には、金の鯱(しゃちほこ)、蟹(かに)の横這(よこば)い、獅子の乱菊、淀(よど)の川瀬の水車などの一人芸と、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越(かわごし)、唐子(からこ)人形の御馬乗りなどがある。由来譚(たん)は水戸浪人角兵衛の伝授など数種あるが、その存在が宝暦(ほうれき)期(1751~64)まではさかのぼれる。越後(えちご)獅子、蒲原獅子、月潟の獅子ともいう。江戸風俗を飾り、地歌、富本節(とみもとぶし)、長唄(ながうた)舞踊劇、下座(げざ)音楽などの題材となった。[ 執筆者:西角井正大 ]
★懸帯(かけおび) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
公家(くげ)女性の衣服の付属物。
(1)中世公家女性が社寺に詣(もう)でるとき、袿(うちき)や被衣(かずき)の上に、胸から背に懸けた絎紐(くけひも)状の赤い帯。古代の襷(たすき)の名残(なごり)といわれる。
(2)中世末、近世の女房装束(十二単(じゅうにひとえ))の裳(も)につけられた帯。元来裳は、腰で締めて着装するものであって、平安時代中期以降の裳が、単に威儀を正し、装飾的なものとなって後方に引くだけのものとなってからも、腰の位置で締めることに変わりはなかった。しかし、服装の簡略化によって、室町時代末ごろから、裳に懸帯とよぶ紐を左右に結び付けて肩から背面、裾(すそ)にかけて垂らすようになった。江戸時代になると、懸帯は唐衣(からぎぬ)の地質と同じものを用い、刺しゅうを施したものとなった。[ 執筆者:高田倭男 ]
★あやとり(あやとり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
1本の糸や紐(ひも)を輪にして両手に掛け、おもに指を使って糸のつくりだす形を変えていく遊び。「綾取り」などとも表記される。二人あるいは数人で互いに糸を取り合って、次々と形を変えていく「ふたりあや」や、「はしご(橋とも)」「ほうき(松とも)」など一人で形をつくりあげたり、手指や腕に絡めた糸を引き抜く手品のような遊び方がある。
江戸時代の「あやとり」(江戸)、「いととり」(京、大坂)は、「ふたりあや」だけをさす呼び名であったが、今はこの糸遊びの総称となっている。三都以外の地方には「ちどり、たすきどり、かせとり、とりこ」などいろいろな呼び名があった。「あやとり」の語源については諸説あるが、「あや(綾、文)」には「X状に交差した形」の意味があり、「ふたりあや」で二本の糸の交差を取り上げることに由来するという説が有力である。
あやとり紐には、麻糸、木綿糸、毛糸などが使いやすい太さにして用いられてきた。裕福な家庭の子女が、組紐のような太さのある紐で遊んでいたことは、江戸中期以降の木版絵本や錦絵(にしきえ)などにみえる。彩りの美しい紐で楽しむ「ふたりあや」は日本人好みの優雅な遊びのイメージでとらえられ、日本固有の遊びと思われがちであるが、実際には広く世界に分布している。
1880年代からの調査で、世界各地で3000種を超えるあやとりが伝承されていることが明らかになった。大昔、人間が紐類を手にしたときから、自然発生的にあやとりが始められたと考える研究者もいる。「ふたりあや」はアジアや欧米で、「はしご」は世界各地で、どちらもさまざまな呼び名で知られており、その発祥地は不明である。
日本のあやとりの起源を古代の宮中の神事や風習に求める傾向があるが、今のところ、江戸時代以前にあやとりが存在したことを示す証拠は発見されていない。海外のあやとりの場合は、オーストラリアや北米の先住民の儀式のなかで大人が神話の一節を歌い語りながらあやとりをしたり、パプア・ニューギニア先住民や極北地方のイヌイットが呪術(じゅじゅつ)目的のあやとりを伝えていた例がある。
世界各地のあやとりがインターネット上で見られる時代となり、一人で取り方を習得することもできるようになった。しかし、この遊びのベースには、家族・友人だけでなく初対面の人であっても、取り方を教え教わるうちに互いに打ち解けていく心の交流の喜びがある。小学校の昔遊びの時間のような、人から人へじかに伝える機会を増やすことが、この糸遊びの存続の鍵(かぎ)を握っている。[ 執筆者:シシドユキオ ]


★駅伝競走(えきでんきょうそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
道路上を走る長距離のリレー競走。距離、区間、人数にとくに規定はないが、一般的には5~10区間、1人が走る距離は5~20キロメートルとなっている。各走者は自分の区間を走ったあと、たすきを次走者に渡す。たすきはかならず肩からわきの下に掛け、渡すときは投げたりしないで手渡ししなければならない。日本で始まったレースだが、いまでは海外でも行われるようになった。国際陸上競技連盟では「ロードリレーRoad relay」の名称を与え、全体の距離はマラソン(4万2195メートル)と同じとし、6区間6人でリレーすることが望ましいとしている。
日本で初めて行われた駅伝競走は、1917年(大正6)4月27日から3日間にわたった東海道駅伝徒歩競走で、京都・三条大橋から東京・上野不忍池(しのばずのいけ)までの508キロメートル、23区間を走った。このとき主催の読売新聞社社会部長土岐善麿(ときぜんまろ)が、大日本体育協会副会長武田千代三郎(1867―1932)と図り、このレースを東海道五十三次にちなんで「駅伝」と名づけた。
グラウンドを離れ道路あるいは山野を走るクロスカントリー・レースは外国でも盛んだが、これをリレーでつなぎ、しかもたすきを手渡す方式は日本特有のものである。日本では中学、高校、大学、実業団、あるいは一般などに分かれて、小は町単位、市単位から大は全国大会、国際大会まで多くの駅伝が、トラックシーズンが終わる11月から3月にかけて全国各地で行われ、冬の風物詩にもなっている。
期間の長いものでは、九州一周駅伝(51区間、739.9キロメートル)のように8日間もかかるものもあるが、一般的には1日で終わるレースが多い。代表的な大会としては、男子は正月名物といわれる1920年初開催の東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝、1月2、3日)をはじめ、全日本実業団対抗駅伝(1月1日、前橋)、全国都道府県対抗男子駅伝(ひろしま男子駅伝、1月、広島)、全日本大学駅伝(11月、名古屋―伊勢(いせ))、全国高校駅伝(12月、京都)などがあるが、最近では女子や中学生のレースも行われるようになった。女子のおもなレースでは1983年(昭和58)から始まった全国都道府県対抗女子駅伝(1月、京都)をはじめとして全日本実業団対抗女子駅伝(12月、仙台)、全日本大学女子駅伝(11月、仙台)、全国高校駅伝(12月、京都)などが次々と誕生。いまでは男子とほとんど変わらない数となっている。
全国中学駅伝も1993年(平成5)から始まったが、発育途上にある中学生に関してはアスファルトなど固い道路を走るのは足に悪影響を与えるとして、レースの会場は公園周辺などの芝生や土のあるところに限定され、走行距離も男子6区間18キロメートル、女子5区間12キロメートルなど1人3キロメートル程度になるよう配慮されている。しかし、実際には県予選段階では一般の固いアスファルト道路を走ったり、また全国都道府県対抗大会に出る「ジュニアの部」の選手は、一般の選手と同様の固い道路を走ったりなどしており、この配慮はかならずしも守られているとはいえない。
また駅伝は海外にも広がりをみせ、1986年には北京(ペキン)で日中友好万里の長城駅伝が開かれたのをはじめ、ニューヨークでは全米50州対抗駅伝、韓国ではソウル国際女子駅伝などが開かれている。日本国内でも国際千葉駅伝(男女混合、11月)などに多数の外国チームが参加しており、いまや駅伝は「EKIDEN」の名でも海外に知られるようになった。[ 執筆者:加藤博夫 ]

★たすき【×襷/手×繦】
1 和服の袖やたもとがじゃまにならないようにたくし上げるためのひも。背中で斜め十文字に交差させ両肩にまわして結ぶ。
2 一方の肩から他方の腰のあたりに斜めにかける、輪にした細長いひも。「次走者に―を渡す」
3 ひもや線などを斜めに交差させること。また、そのような形や模様。
4 漢字で、「戈」などの「ノ」の部分。
5 古代、神事に奉仕するための物忌みのしるしとして肩にかけるひも。
「白たへの―を掛けまそ鏡手に取り持ちて」〈万・九〇四〉
◆「襷」は国字。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

★たすき‐がけ【×襷掛(け)】
1 たすきをかけること。また、その姿。
2 ひもや縄などを斜めに交差させてかけること。
3 子供の髪置(かみおき)の祝いに用いる麻苧(あさお)。
4 ⇒襷反(たすきぞ)り
5 「襷掛け人事」の略。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

★たすきがけ‐じんじ【×襷掛け人事】
合併した官庁・企業などが、幹部として、元の組織ごとにそれぞれの出身者を均等に就かせる人事。

◆旧組織どうしの勢力を均衡させるために行う。例えば、当期は会長・専務は旧A社から、社長・常務は旧B社から選び、次期にはこれと逆の任用を行うなど。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]


★「ジャパンナレッジ」には面白いことが書いている(有料になります)。
1.た‐すき【襷・手】-日本国語大辞典
〔名〕古代、神事奉仕の物忌みの標(しるし)として肩にかける清浄な植物繊維の紐。*書紀〔720〕神代上「天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿〈蘿、此をば比舸礙(ひかげ)と云ふ〉を以て手〈手、此をば多須枳 ...
2.たすき の の字(じ)-日本国語大辞典
(字の形から)の形の「の」の字の称。「乃」を字源とする「の」の字と区別するためにいう。襷掛けののの字。*浄瑠璃・用明天皇職人鑑〔1705〕道行「たすきのの字にたぐりかけ」 ...
3.たすき‐うし【田鋤牛】-日本国語大辞典
〔名〕「たかきうし(田掻牛)」に同じ。《季・春》[キ] ...

「たたき」

2012年09月09日 07時58分46秒 | 色んな情報
「たたき」
★たたき(たたき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
魚を材料とし、包丁でたたいたものを「たたき」というが、これは2種類に分類できる。その一つ土佐風カツオのたたきは、カツオを三枚におろし、皮付きのまま、藁(わら)、茅(かや)などを燃やして炎をカツオの両面に当てる。皮のついている面は少々焦げる程度に、肉の面は白くなる程度に加熱する。炎を当てたら、まな板に移し、ぬれたふきんをかけて冷ました後、身に塩少々をふり、酢を塗った包丁で軽くたたくと、しまって味がよくなる。刺身につくり、薬味にネギ、ダイコン、ニンニクなどを添える。もう1種のたたきは、小アジ、イワシなどの魚を下ごしらえして、包丁の刃でたたいて細かくし、ネギのみじん切りを加えたものをいう。神奈川県の湘南(しょうなん)海岸の名物であり、そのほかの地方にもみられる。[ 執筆者:多田鉄之助 ]
★たたき(たたき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
たたき土(つち)(叩き土、敲き土、三和土(たたき))で仕上げた土間。たたき土は、花崗(かこう)岩、安山岩などの風化した可溶性ケイ酸に富む土で、消石灰と水を加えて練ると硬化する性質をもつ。本来たたきとは、このたたき土に約倍量の石灰を混ぜ、水や灰汁(あく)で練ったものを三寸(約9センチメートル)厚ぐらいに土間に塗り、たたき固めたもののこと。「漆食叩(しっくいたた)き」ともいう。今日では、たたき土はほとんどセメントモルタルかコンクリートにかわっている。
また、石の表面をたたいて細かな跡をつける仕上げ方や、石を磨く場合の基礎工程、あるいは、コンクリートを打ち込む際、柱や壁の型枠の外から作業員が木槌(きづち)でたたく作業をさすこともある。[ 執筆者:中村 仁 ]
★嫁たたき(よめたたき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
新嫁の尻(しり)を棒でたたき、妊娠・出産を祈る行事。全国各地で、正月14、15日の小(こ)正月に、子供や青年たちがヌルデやクリ、ヤナギなどの木でさまざまな形の棒をつくり、新嫁のいる家々を訪れてその尻をたたいて回った。その棒をはらめ棒、嫁突き棒、嫁たたき棒などとよんだ。この種の祝い棒は、果樹の豊穣(ほうじょう)を願う成木責(なりきぜ)め、鳥や虫の害を追い払う鳥追いなど、ほかの小正月行事にも用いられ、いずれも棒に一種の呪力(じゅりょく)が秘められているとしたものである。ほかに、嫁入り婚にあたって嫁が婿の家に入る際、その尻をたたく習俗も各地にみられた。これにも妊娠・豊産を願う呪術的な意味が含められていたようである。[ 執筆者:竹田 旦 ]


★キタタキ(きたたき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
【木啄】white-bellied black woodpecker
[学名:Dryocopus javensis]
鳥綱キツツキ目キツツキ科の鳥。全長約45センチメートルの大形種で、頭上と下顔部が鮮赤色で、体色は黒く、胸腹部は白い。巨木林などにすみ、おもに昆虫を食べる。インド西部から中国南西部、フィリピン、ボルネオ島、ジャワ島にかけての東南アジア一円に分布するが、そこから遠く離れて朝鮮半島南部と日本の対馬(つしま)にも生息することで著名である。しかし、対馬では1920年(大正9)以後記録がなく、絶滅したものと考えられている。朝鮮半島にはまだわずかに生き残っていると思われる。どちらもこの減少は、大木のある森林がどんどん伐採されてすみ場所がなくなったためである。1923年に国の天然記念物に指定されたが、1972年(昭和47)指定解除となった。[ 執筆者:浦本昌紀
★イシタタキ⇒セキレイ(せきれい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【鶺鴒】wagtail
広義には鳥綱スズメ目セキレイ科に属する鳥の総称で、狭義にはそのうちのセキレイ属、イワミセキレイ属の鳥をさす。セキレイ科Motacillidaeにはセキレイ属Motacilla、イワミセキレイ属Dendronanthusのほか、マキバドリモドキ属Tmetothylacus、キムネタヒバリ属Macronyxi、タヒバリ属Anthusなど5属54種がいる。全世界に広く分布し、多くは畑地や開けた草地、疎林や水辺にすみ、おもに昆虫を食べる。全長は約12~22センチメートル、すんなりした体つきで、色はじみなものが多い。
イワミセキレイ属は1属1種。イワミセキレイD. indicusはウスリー地方、朝鮮半島、中国北部、インド北部などで繁殖し、冬季はインド南部、インドシナ半島、マレーシアなどで普通にみられ、少数はスンダ列島に渡る。日本では比較的少ない夏鳥として本州、九州、琉球(りゅうきゅう)諸島などから記録されており、山陰、九州北部では営巣の記録がある。セキレイ属と異なり、尾羽を左右に振って回転させる習性があり、ヨコフリセキレイともよばれる。
セキレイ属には10種の鳥がいて、そのほとんどが尾羽を上下に振る習性があるのでイシタタキ(石叩き)ともよばれる。日本でみられるセキレイ属は次のとおりである。
キセキレイM. cinereaは広くユーラシアの中部一帯で繁殖し、冬季は遠くアフリカ、インド、インドシナ半島、フィリピン、インドネシア、ニューギニア島などにも渡る種である。セグロセキレイM. grandisは日本列島でのみ繁殖する種で、寒冷地のものには冬季に温暖地へ移動するものもいるが、南限は北部琉球諸島までである。ハクセキレイM. albaは南アメリカを除く地球上に広く分布し、12亜種に分類される。日本で記録されているのは、ハクセキレイ、ホオジロハクセキレイ、タイワンハクセキレイの3亜種である。このうち、ハクセキレイは北方に分布するが、その営巣地はしだいに南下し、逆にホオジロハクセキレイは南方に分布するが、営巣地は北上の傾向にある。また、その中間に分布するセグロセキレイを、種のハクセキレイの日本列島型亜種とする学者もいる。ツメナガセキレイM. flavaの分布も広く、中央・南アメリカを除く全世界に分布し、18亜種に分類される。日本にはマミジロツメナガセキレイ、シベリアツメナガセキレイ、キタツメナガセキレイ、キマユツメナガセキレイの4亜種が記録され、キマユツメナガセキレイは北海道で繁殖の例がある。[ 執筆者:坂根 干 ]



★敲打器(こうだき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
敲(たた)いたり、打ったり、割ったりするのに用いられた石器。ヨーロッパ、アフリカの旧石器時代の礫器(れっき)など、人間の初期の生活から使われた重量感のある石器の総称である。石塊に粗雑な剥離(はくり)を施し製作されたものであるが、その方法により、礫器pebble tool、片刃の粗製石器chopper、両刃の粗製石器chopping tool、握斧状石器hand-axe、鉈(なた)状石器cleaverなどの種類があるが、全体としては機能分化があまりみられず、いわゆる「万能石器」であったとも考えられている。
日本では群馬県岩宿(いわじゅく)遺跡、同権現山(ごんげんやま)遺跡での石斧(せきふ)の発見以来、先土器時代のいくつかの遺跡で検出されているが、それらについてとくに注目されるのは、刃部の磨かれている例が存在することである。ヨーロッパにおける旧石器時代の敲打器はすべて打製のものであり、磨製石器の出現は新石器時代以降であることを考えると、その特殊性が注目される。[ 執筆者:戸沢充則 ]

★鉢叩(はちたたき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中世において、家々の門に立って喜捨(きしゃ)を乞うた門付芸(かどつけげい)の一種。鉢扣、鉢敲とも書く。声聞道(しょうもんどう)の一つで、鹿の角をつけた鹿杖(かせづえ)をつき、瓢箪(ひょうたん)を撥(ばち)で叩きながら念仏や無常和讚(わさん)を唱えて踊った。なぜ鉢叩と呼ばれたかは不詳。空也(くうや)上人の念仏踊りに発するといわれ、とくに11月13日の空也忌より除夜の晩まで、洛中を勧進(かんじん)し葬所を巡った。上杉本「洛中洛外(らくちゅうらくがい)図屏風」には、京都六条長講堂の門の側に筵(むしろ)を敷き、瓢箪を叩く二人連れの鉢叩の姿が描かれており、筵の上には喜捨された銭がみえる。
彼らはまた茶筅(ちゃせん)をつくり笹(ささ)に差して売り歩いたが、狂言『鉢叩』は、「都の春の鉢叩き、叩き連れたるひと節を、茶筅召せ」とはやしながら北野社の末社紅梅殿(こうばいでん)(瓢(ひさご)の神)に参籠して歌い舞う様子を伝える。近世には「鉢屋」「茶筅」として賤視された。[ 執筆者:丹生谷哲一 ]

★磨石(すりいし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
名称を最広義に理解すれば、擦痕(さっこん)、研磨痕の認められる石はすべて磨石ということができる。しかし普通は、主として石皿とセットになって、石皿の上で植物質のものを磨(す)りつぶす機能をもったものが多い。そのため磨石は一定の形態的なまとまりを備え、球状に近いもの、分厚い楕円(だえん)状あるいは円形状のもの、柱状をなすものなどがある。磨りつぶす機能のほかに敲石(たたきいし)としてあわせて使用されたために、一部に敲打痕(こうだこん)のある磨石もある。磨石は縄文時代にもっとも広く認められるが、旧石器時代にも類例がある。
日本列島以外の東アジア・西アジアの新石器時代では、棒状の磨石を、平らな板状の石に磨りあわせて穀物を磨りつぶしたため、磨石がくびれをもった石棒状を呈し、板状の石が磨り減って鞍(くら)状のカーブを呈することが多い。縄文時代の縁をもつ石皿と磨石のセットに対して、こうした例を鞍形石臼saddle quernと棒状磨石のセットという。[ 執筆者:小野 昭 ]


★たたき【×叩き/×敲き】
1 打つこと。また、その人。「太鼓―」
2 (「三和土」とも書く)叩き土に石灰や水をまぜて練ったものを塗り、たたき固めて仕上げた土間。のちにはコンクリートで固めた土間。「玄関の―」
3 カツオをおろして表面を火であぶり、そのまま、あるいは手や包丁の腹でたたいて身を締めてから刺し身状に切ったもの。薬味や調味料を添える。
4 「たたきなます」の略。
5 生の魚肉・獣肉などを包丁の刃でたたいて細かくした料理。
6 石の表面をたたいてならし細かい槌(つち)のあとを残す仕上げ方。石工(いしく)の語。
7 俗に、強盗のこと。「―に入る」
8 江戸時代の刑罰の一。罪人の肩・背・尻をむちで打つもの。重敲き(100打)と軽敲き(50打)があった。
9 江戸時代、正月や祭礼などに手拍子をとり、早口に文句を唱えながら門付けをした芸人。たたきのよじろう。よじろう。
10 義太夫節の曲節の一。9の唱えごとの節を取り入れたもの。
11 落語や講釈で、前座を務める者。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]