●二十四の瞳 [ 日本大百科全書(小学館) ]
1.二十四の瞳
壺井栄(つぼいさかえ)の長編小説。1952年(昭和27)2月から11月までキリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載、同年12月に光文社から刊行。瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)に生まれた大石先生が新卒の女教師として島の岬の小学校に赴任、そこで受け持った12人の子供をかわいがる。しかし、第二次世界大戦の嵐(あらし)はこの小さな島の子供たちをも巻き込み、ある少女は紅灯の巷(ちまた)へ、ある少年は戦場へと行ってしまい、戦争が終わったときには大石先生も子持ちの未亡人となっていた。戦争に対する抗議に裏打ちされた、子供にも大人にも読まれる家庭小説の秀作。1955年に木下恵介(けいすけ)監督・高峰秀子主演で映画化された。舞台となった小豆島の土庄(とのしょう)港には主人公たちのブロンズ像が建てられている。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
2.内海(うちのみ)(香川県)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にあった旧町名(内海町(ちょう))。現在は小豆島(しょうどしま)町の一地区。小豆島の東部を占める。1951年(昭和26)草壁(くさかべ)町と安田、苗羽(のうま)、坂手、西の4村が合併して成立。57年福田村を編入。2006年(平成18)3月池田(いけだ)町と合併し、小豆島町となる。花崗(かこう)岩や集塊岩からなる山地が海に迫る。草壁、坂手、福田の各港には高松、阪神、姫路とを結ぶフェリーが発着。国道436号が通じる。苗羽付近にはしょうゆとそれを利用した佃煮(つくだに)の工場が多く、わが国屈指の産地を形成する。とくにコンブの佃煮は日本一の生産地である。奇岩怪石、渓谷美の国指定名勝寒霞渓(かんかけい)、坂手に生まれた壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳(ひとみ)』の舞台となった岬の分教場、わが国最初のオリーブ園、「島四国」の第1番札所洞雲山、大坂城石垣石切丁場跡など史跡、景勝地も多い。旧内海町の人口は1万1841(2005年国勢調査)。
[ 執筆者:新見 治 ]
3.木下恵介(きのしたけいすけ) (1912―1998)
映画監督。静岡県生まれ。浜松工業学校卒業。写真学校を経て1933年(昭和8)松竹に撮影助手として入るが、3年後監督部に移り、おもに島津保次郎(やすじろう)監督についた。助監督時代からよくシナリオを書き、『五人の兄妹』『素裸の家』などが他の監督で映画化された。1943年監督となり菊田一夫(かずお)の舞台劇の映画化『花咲く港』で才走った技巧をみせ、同年秋登場した黒澤明とともに日本映画に新風を吹き込んだ。以来『陸軍』(1944)、『大曽根(おおそね)家の朝』(1946)、『破戒』(1948)、『破れ太鼓』(1949)などを発表、1950年代に入ってますます活発な製作を続けた。著名な原作ものも多いがオリジナル作品も少なくなく、多くは自らシナリオを書き、悲劇も喜劇もよくした。ほとんど2人だけのオール・ロケ映画『女』(1948)、初の国産カラー『カルメン故郷に帰る』(1951)、歌舞伎(かぶき)の手法と色彩心理を導入した『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958)など新しい試みも多い。リアリズムに徹した『日本の悲劇』(1953)もあるが、『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『野菊の如(ごと)き君なりき』(1955)、『喜びも悲しみも幾歳月(としつき)』(1957)など叙情的作品が主流をなした。テレビでも「木下恵介劇場」「木下恵介アワー」などの長期シリーズで多数のドラマを提供し、心を傷める者へのいたわりの感情をよく描いた。生涯の劇場映画は中編『父』(1988)までの49本。1977年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)、1984年に勲四等旭日(きょくじつ)小綬章を受章、1991年(平成3)に文化功労者に選ばれた。
[ 執筆者:登川直樹 ]
4.小豆島(しょうどしま) http://p.tl/q1xI
香川県の北東部海上にある瀬戸内海第二の島。面積152平方キロメートル。備讃(びさん)瀬戸の東部に位置し、東には播磨灘(はりまなだ)を介して淡路(あわじ)島がある。小豆(しょうず)郡土庄(とのしょう)町、小豆島(しょうどしま)町からなり、属島に豊島(てしま)などがある。『日本書紀』には応神(おうじん)天皇が小豆島に遊んだという記載があり、古代の山城(やまじろ)跡などもある。古くは備前国(びぜんのくに)児島(こじま)郡に属し、江戸時代には幕府直轄地であったが、大坂町奉行(まちぶぎょう)、倉敷代官、津山藩預かりと支配体制がよく変わり、住民は苦しめられた。江戸時代には讃岐(さぬき)との関係はなかったが、1871年(明治4)東部3村が、翌年西部6村が香川県に合併された。
交通は、土庄港を中心に高松、岡山、玉野、大阪などからの定期船便があり、島内では路線バスの運行のほか定期観光バスもある。国道436号が通じる。
[ 執筆者:坂口良昭 ]
5.神吉晴夫(かんきはるお) (1901―1977)
出版経営者。明治34年2月15日兵庫県生まれ。東京外国語学校卒業、のち東京帝国大学仏文科に入学するが中退。1927年(昭和2)講談社入社。社長野間清治(のませいじ)のもとでおもに宣伝部門を担当。1945年(昭和20)に講談社系の光文社創立に参加、出版局長として『少年期』『二十四の瞳(ひとみ)』などのベストセラーを刊行。1954年に新書判のカッパ・ブックスを発刊、『文学入門』『欲望』『英語に強くなる本』など続々とベストセラーを刊行する。編集者はプロデューサーとして著者と共同で本をつくらなければならないという信念をもち、自らこれを「創作出版」と名づけた。1965年社長に就任。マスプロ、マスセール、マスアドによるベストセラー作法として一時期を画した。1970年光文社争議によって退社。1977年(昭和52)かんき出版を創立するが、同年1月24日死去。著書に『カッパ軍団をひきいて』などがある。
[ 執筆者:清田義昭 ]
6.小豆島(町)(しょうどしま)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にある町。小豆島の東南部を占める。2006年(平成18)3月、小豆郡内海(うちのみ)町、池田町が合併して成立。町域は主として花崗(かこう)岩からなる山地が海岸に迫り、平地に乏しい。池田、草壁(くさかべ)、坂手(さかて)、福田(ふくだ)の各港と高松、姫路、阪神とを結ぶフェリーが就航。国道436号が通じる。瀬戸内海での漁業、そうめん製造、しょうゆ製造、福田地区の採石などが伝統産業で、そうめんは小豆島手延べそうめんとして著名。苗羽(のうま)付近は、しょうゆと、それを利用して第二次世界大戦後に始まった佃煮(つくだに)製造の工場が多く、コンブの佃煮の生産量は日本有数。日本におけるオリーブ栽培の発祥地とされ、観光農園の小豆島オリーブ園がある。スモモ(レッドスター)や電照ギクの栽培も盛ん。文化財、史跡、景勝地にも恵まれる。明王(みょうおう)寺の釈迦堂、池田長勝(ちょうしょう)寺蔵の木造伝池田(亀山)八幡本地仏3体、同寺が保管する銅製梵鐘はいずれも国指定重要文化財。奇岩絶景の渓谷美で知られる神懸(かんかけ)山(寒霞渓(かんかけい))は国指定名勝、岩谷(いわがたに)地区の山中や海岸に残る大坂城石垣石切丁場跡は国指定史跡。亀山八幡宮の祭礼の野外見物席として利用される「池田桟敷」、春日神社境内にある中山農村歌舞伎舞台はいずれも国指定重要無形民俗文化財で、同舞台で例年10月に演じられる歌舞伎は小豆島農村歌舞伎の名称で県指定無形民俗文化財。ほかにも小豆島八十八ヶ所霊場(島四国)の第1番札所洞雲山、坂手出身の作家壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳』の舞台となった岬の分教場、中世の星ヶ城跡、国の天然記念物に指定される誓願(せいがん)寺のソテツ、皇子(おうじ)神社社叢などの名所がある。面積95.63平方キロメートル、人口1万7257(2005年国勢調査の内海町、池田町の合算)。
[ 執筆者:編集部 ]
データ:小豆島町の要覧
面積:95.63平方キロ
総人口:1万7257人(男:8121人、女:9136人)
世帯数:6772戸
注:内海町、池田町の合算
※面積は国土交通省国土地理院『平成18年全国都道府県市区町村別面積調』、人口、世帯数は『平成17年国勢調査報告』による
7.児童文学(じどうぶんがく) - 日本
.1. 概説
大人が子供をおもな読者と想定して創作した文学。形式上、絵本、童話、小説、童謡、詩、戯曲などの純創作に、神話、伝説、昔話などの再話、『ロビンソン・クルーソー』のような本来大人の文学で子供によってこの分野に含まれたものの再話や、広く知識の本までをも含み込む。
[ 執筆者:神宮輝夫 ]
大人の文学との違い
1960年代末以降、年齢の高い子供や若者を読者とした作品は内容的に大人の文学と近いため、改めて違いが問われた。児童文学に含まれて生き続けている昔話などの伝承文学は本来口誦(こうしょう)文学であったため、表現の簡明、形式の共通性、大きな主題などの特質をもつ。さらに、伝えられる主題は語り手個人のものではなく、多数の人間の知恵の結晶として代々伝えられたものである。児童文学は小説を含めてほぼ前述の特質と共通する性質をもっている。だから、児童文学とは、筋の展開と結末についてほぼ一定の形式(あるいはパターン)があり、個人のというより人類の知恵が発見した、人間についての基本的主題を伝達する文学だともいえる。これが児童文学の中心部分を形成し、その周辺に大人の小説と性質の同じ作品が同心円的に存在している。だが、それらにしても、登場人物と状況はあくまで少年少女・若者の立場と視点から描かれているという点で、やはり大人の文学とは異なっている。
[ 執筆者:神宮輝夫 ]
8.高峰秀子(たかみねひでこ)(1924―2010)
女優。本名松山秀子。北海道函館(はこだて)生まれ。1929年(昭和4)5歳で松竹蒲田(かまた)作品『母』の子役でデビュー、数多くの作品に可憐(かれん)な容貌(ようぼう)とすなおな演技で活躍。1937年PCL(東宝の前身)へ転じ、『綴方教室(つづりかたきょうしつ)』『馬』などに好演。第二次世界大戦後はフリーとなり、『宗方姉妹(むねかたきょうだい)』『カルメン故郷に帰る』『稲妻』『雁(がん)』『女の園(その)』などに出演、とくに『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『浮雲』(1955)では絶妙の演技をみせた。1955年(昭和30)木下恵介(けいすけ)の助監督松山善三と結婚、彼の第1回監督作品『名もなく貧しく美しく』(1961)にも主演。その後も、映画・テレビで活躍を続けた。著書に『巴里(ぱり)ひとりある記』(1953)、自伝『わたしの渡世日記』(1976。エッセイスト・クラブ賞受賞)など。
[ 執筆者:長崎 一 ]
9.壺井栄(つぼいさかえ)(1900―1967)
小説家、童話作家。旧姓岩井。明治33年8月5日香川県小豆島(しょうどしま)のしょうゆ樽(だる)職人の家に生まれた。学歴は小学校卒業のみ。島の郵便局などに勤めたが、1925年(大正14)上京して同郷の壺井繁治(しげじ)と結婚。プロレタリア詩人だった夫とその友人だった宮本百合子(ゆりこ)、佐多稲子(さたいねこ)などの影響で、38歳のとき処女作『大根の葉』(1938)を発表、以後小説と童話の多彩な創作活動に入った。代表作として、小説に『暦』(1940)、『妻の座』(1949)、『裲襠(うちかけ)』(1955)、大人とともに子供にも読める家庭小説に『柿(かき)の木のある家』(1949)、『母のない子と子のない母と』(1951)などがあり、『二十四の瞳(ひとみ)』(1952)は映画化されて大衆の涙をそそった。童話集に『海のたましひ』(1944)、『十五夜の月』(1947)など。社会革新の思想を内に秘めつつ庶民感情にたった暖かな作風で、多くの読者の支持を受けた。芸術選奨(1952)、女流文学賞(1955)などを受賞。昭和42年6月23日没。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
10.笠智衆(りゅうちしゅう)(1904―1993)
俳優。熊本県生まれ。1925年(大正14)東洋大学在学中に松竹キネマ蒲田(かまた)撮影所の俳優研究所第1期生として松竹に入社したが、不器用なことから大部屋で10年間下積み暮らしをした。1935年(昭和10)に小津安二郎監督にみいだされて『大学よいとこ』に準主役で出演し、以後小津監督の描く小市民の生活の哀歓を演じる主役に用いられ、『晩春』『麦秋』『東京物語』『秋刀魚(さんま)の味』などに主演した。ほかには、1948年稲垣浩監督『手をつなぐ子等』、1954年木下恵介(けいすけ)監督『二十四の瞳』、1955年『野菊の如き君なりき』、1969年から始まった山田洋次監督の寅さんシリーズ『男はつらいよ』、1990年黒澤明監督『夢』などに出演し、また、テレビドラマでも活躍した。平成5年3月16日死去。
[ 執筆者:編集部 ]
●楢山節考(ならやまぶしこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
深沢七郎の短編小説。1956年(昭和31)11月『中央公論』に発表。第1回中央公論新人賞受賞作。57年中央公論社刊。主人公はおりんという老婆で、彼女の住むでは、口減らしのため老人を楢山に捨てる風習があった。おりんは捨てられる日を早めるために、自らじょうぶな前歯を石臼(いしうす)に打ち据えて折ってしまう。息子辰平(たつへい)はいやいやながらおりんを背負って楢山へ向かう。姥捨(うばすて)山伝説をもとにした特異な作品であり、日本人の心の底に沈んでいる無意識の層、民俗の闇(やみ)に深くメスを突き立てたものとして、その後の反近代的志向の呼び水ともなった。今日の物質文明の基底に潜む、人間感情の原質をとらえて、強い印象を呼び起こす。58年、木下恵介監督により、83年には今村昌平監督により映画化され、それぞれ話題となった。
[ 執筆者:笠原伸夫 ]
●地芝居(じしばい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .地狂言あるいは草芝居、田舎(いなか)芝居ともいう。広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、とくに素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたが、今日では黒森(山形県)、檜枝岐(ひのえまた)(福島県)、小豆(しょうど)島(香川県)などにわずかに郷土芸能として残存するにすぎない。
中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄(げんろく)期(1688~1704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。当初これを受け止めたのは、城下町や在郷町の町人であり、その祭礼などに素人芝居として歌舞伎を上演する風を生じた。元禄期に始まる那須烏山(なすからすやま)市(栃木県)の「山揚げ」や、宝暦(ほうれき)期(1751~64)にさかのぼる長浜市(滋賀県)の「曳山(ひきやま)狂言」などが現存する例である。ほぼ同時期に一部の農村でその祭礼に農民による歌舞伎の上演がみられ、18世紀中期以降急速に全国に波及した。ことに盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。地芝居の成立が、当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向を基盤にしていたことは、その演目が都市の歌舞伎そのままであったこと、さらに衣装や大道具のはでな丸本狂言の時代物に人気が集中したことなどから推して疑うべくもないが、にもかかわらず形態のうえで著しく農村的、民俗的な色彩を帯びた表現をとったところに歴史的な性格が認められる。
地芝居の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整えたものであった。なお現在、農村歌舞伎舞台は東北地方から九州地方に及ぶ広い範囲に、現存・廃絶を含めて2000以上の所在地が確認されており、地芝居の盛行が全国的なものであったことをうかがわせるとともに、その大半の建築年代が化政(かせい)期(1804~30)から明治中期であること、かつ分布の濃厚な地域が関東・中部地方であることなど、いずれも地芝居の歴史的動向を忠実に反映している。
こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。多くは名目的なものであったが、幕政改革の際などには厳格に実施され、実際に処罰を受けた事例もあって、そのため「かくれ芝居」といった非合法の上演も少なくなかった。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、活動写真(映画)など新しい娯楽の出現とともに使命を終えて衰退した。農村娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の進行で、現在ではほぼ消滅したものとみてよい。
[ 執筆者:守屋 毅 ]
1.二十四の瞳
壺井栄(つぼいさかえ)の長編小説。1952年(昭和27)2月から11月までキリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載、同年12月に光文社から刊行。瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)に生まれた大石先生が新卒の女教師として島の岬の小学校に赴任、そこで受け持った12人の子供をかわいがる。しかし、第二次世界大戦の嵐(あらし)はこの小さな島の子供たちをも巻き込み、ある少女は紅灯の巷(ちまた)へ、ある少年は戦場へと行ってしまい、戦争が終わったときには大石先生も子持ちの未亡人となっていた。戦争に対する抗議に裏打ちされた、子供にも大人にも読まれる家庭小説の秀作。1955年に木下恵介(けいすけ)監督・高峰秀子主演で映画化された。舞台となった小豆島の土庄(とのしょう)港には主人公たちのブロンズ像が建てられている。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
2.内海(うちのみ)(香川県)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にあった旧町名(内海町(ちょう))。現在は小豆島(しょうどしま)町の一地区。小豆島の東部を占める。1951年(昭和26)草壁(くさかべ)町と安田、苗羽(のうま)、坂手、西の4村が合併して成立。57年福田村を編入。2006年(平成18)3月池田(いけだ)町と合併し、小豆島町となる。花崗(かこう)岩や集塊岩からなる山地が海に迫る。草壁、坂手、福田の各港には高松、阪神、姫路とを結ぶフェリーが発着。国道436号が通じる。苗羽付近にはしょうゆとそれを利用した佃煮(つくだに)の工場が多く、わが国屈指の産地を形成する。とくにコンブの佃煮は日本一の生産地である。奇岩怪石、渓谷美の国指定名勝寒霞渓(かんかけい)、坂手に生まれた壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳(ひとみ)』の舞台となった岬の分教場、わが国最初のオリーブ園、「島四国」の第1番札所洞雲山、大坂城石垣石切丁場跡など史跡、景勝地も多い。旧内海町の人口は1万1841(2005年国勢調査)。
[ 執筆者:新見 治 ]
3.木下恵介(きのしたけいすけ) (1912―1998)
映画監督。静岡県生まれ。浜松工業学校卒業。写真学校を経て1933年(昭和8)松竹に撮影助手として入るが、3年後監督部に移り、おもに島津保次郎(やすじろう)監督についた。助監督時代からよくシナリオを書き、『五人の兄妹』『素裸の家』などが他の監督で映画化された。1943年監督となり菊田一夫(かずお)の舞台劇の映画化『花咲く港』で才走った技巧をみせ、同年秋登場した黒澤明とともに日本映画に新風を吹き込んだ。以来『陸軍』(1944)、『大曽根(おおそね)家の朝』(1946)、『破戒』(1948)、『破れ太鼓』(1949)などを発表、1950年代に入ってますます活発な製作を続けた。著名な原作ものも多いがオリジナル作品も少なくなく、多くは自らシナリオを書き、悲劇も喜劇もよくした。ほとんど2人だけのオール・ロケ映画『女』(1948)、初の国産カラー『カルメン故郷に帰る』(1951)、歌舞伎(かぶき)の手法と色彩心理を導入した『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958)など新しい試みも多い。リアリズムに徹した『日本の悲劇』(1953)もあるが、『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『野菊の如(ごと)き君なりき』(1955)、『喜びも悲しみも幾歳月(としつき)』(1957)など叙情的作品が主流をなした。テレビでも「木下恵介劇場」「木下恵介アワー」などの長期シリーズで多数のドラマを提供し、心を傷める者へのいたわりの感情をよく描いた。生涯の劇場映画は中編『父』(1988)までの49本。1977年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)、1984年に勲四等旭日(きょくじつ)小綬章を受章、1991年(平成3)に文化功労者に選ばれた。
[ 執筆者:登川直樹 ]
4.小豆島(しょうどしま) http://p.tl/q1xI
香川県の北東部海上にある瀬戸内海第二の島。面積152平方キロメートル。備讃(びさん)瀬戸の東部に位置し、東には播磨灘(はりまなだ)を介して淡路(あわじ)島がある。小豆(しょうず)郡土庄(とのしょう)町、小豆島(しょうどしま)町からなり、属島に豊島(てしま)などがある。『日本書紀』には応神(おうじん)天皇が小豆島に遊んだという記載があり、古代の山城(やまじろ)跡などもある。古くは備前国(びぜんのくに)児島(こじま)郡に属し、江戸時代には幕府直轄地であったが、大坂町奉行(まちぶぎょう)、倉敷代官、津山藩預かりと支配体制がよく変わり、住民は苦しめられた。江戸時代には讃岐(さぬき)との関係はなかったが、1871年(明治4)東部3村が、翌年西部6村が香川県に合併された。
交通は、土庄港を中心に高松、岡山、玉野、大阪などからの定期船便があり、島内では路線バスの運行のほか定期観光バスもある。国道436号が通じる。
[ 執筆者:坂口良昭 ]
5.神吉晴夫(かんきはるお) (1901―1977)
出版経営者。明治34年2月15日兵庫県生まれ。東京外国語学校卒業、のち東京帝国大学仏文科に入学するが中退。1927年(昭和2)講談社入社。社長野間清治(のませいじ)のもとでおもに宣伝部門を担当。1945年(昭和20)に講談社系の光文社創立に参加、出版局長として『少年期』『二十四の瞳(ひとみ)』などのベストセラーを刊行。1954年に新書判のカッパ・ブックスを発刊、『文学入門』『欲望』『英語に強くなる本』など続々とベストセラーを刊行する。編集者はプロデューサーとして著者と共同で本をつくらなければならないという信念をもち、自らこれを「創作出版」と名づけた。1965年社長に就任。マスプロ、マスセール、マスアドによるベストセラー作法として一時期を画した。1970年光文社争議によって退社。1977年(昭和52)かんき出版を創立するが、同年1月24日死去。著書に『カッパ軍団をひきいて』などがある。
[ 執筆者:清田義昭 ]
6.小豆島(町)(しょうどしま)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にある町。小豆島の東南部を占める。2006年(平成18)3月、小豆郡内海(うちのみ)町、池田町が合併して成立。町域は主として花崗(かこう)岩からなる山地が海岸に迫り、平地に乏しい。池田、草壁(くさかべ)、坂手(さかて)、福田(ふくだ)の各港と高松、姫路、阪神とを結ぶフェリーが就航。国道436号が通じる。瀬戸内海での漁業、そうめん製造、しょうゆ製造、福田地区の採石などが伝統産業で、そうめんは小豆島手延べそうめんとして著名。苗羽(のうま)付近は、しょうゆと、それを利用して第二次世界大戦後に始まった佃煮(つくだに)製造の工場が多く、コンブの佃煮の生産量は日本有数。日本におけるオリーブ栽培の発祥地とされ、観光農園の小豆島オリーブ園がある。スモモ(レッドスター)や電照ギクの栽培も盛ん。文化財、史跡、景勝地にも恵まれる。明王(みょうおう)寺の釈迦堂、池田長勝(ちょうしょう)寺蔵の木造伝池田(亀山)八幡本地仏3体、同寺が保管する銅製梵鐘はいずれも国指定重要文化財。奇岩絶景の渓谷美で知られる神懸(かんかけ)山(寒霞渓(かんかけい))は国指定名勝、岩谷(いわがたに)地区の山中や海岸に残る大坂城石垣石切丁場跡は国指定史跡。亀山八幡宮の祭礼の野外見物席として利用される「池田桟敷」、春日神社境内にある中山農村歌舞伎舞台はいずれも国指定重要無形民俗文化財で、同舞台で例年10月に演じられる歌舞伎は小豆島農村歌舞伎の名称で県指定無形民俗文化財。ほかにも小豆島八十八ヶ所霊場(島四国)の第1番札所洞雲山、坂手出身の作家壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳』の舞台となった岬の分教場、中世の星ヶ城跡、国の天然記念物に指定される誓願(せいがん)寺のソテツ、皇子(おうじ)神社社叢などの名所がある。面積95.63平方キロメートル、人口1万7257(2005年国勢調査の内海町、池田町の合算)。
[ 執筆者:編集部 ]
データ:小豆島町の要覧
面積:95.63平方キロ
総人口:1万7257人(男:8121人、女:9136人)
世帯数:6772戸
注:内海町、池田町の合算
※面積は国土交通省国土地理院『平成18年全国都道府県市区町村別面積調』、人口、世帯数は『平成17年国勢調査報告』による
7.児童文学(じどうぶんがく) - 日本
.1. 概説
大人が子供をおもな読者と想定して創作した文学。形式上、絵本、童話、小説、童謡、詩、戯曲などの純創作に、神話、伝説、昔話などの再話、『ロビンソン・クルーソー』のような本来大人の文学で子供によってこの分野に含まれたものの再話や、広く知識の本までをも含み込む。
[ 執筆者:神宮輝夫 ]
大人の文学との違い
1960年代末以降、年齢の高い子供や若者を読者とした作品は内容的に大人の文学と近いため、改めて違いが問われた。児童文学に含まれて生き続けている昔話などの伝承文学は本来口誦(こうしょう)文学であったため、表現の簡明、形式の共通性、大きな主題などの特質をもつ。さらに、伝えられる主題は語り手個人のものではなく、多数の人間の知恵の結晶として代々伝えられたものである。児童文学は小説を含めてほぼ前述の特質と共通する性質をもっている。だから、児童文学とは、筋の展開と結末についてほぼ一定の形式(あるいはパターン)があり、個人のというより人類の知恵が発見した、人間についての基本的主題を伝達する文学だともいえる。これが児童文学の中心部分を形成し、その周辺に大人の小説と性質の同じ作品が同心円的に存在している。だが、それらにしても、登場人物と状況はあくまで少年少女・若者の立場と視点から描かれているという点で、やはり大人の文学とは異なっている。
[ 執筆者:神宮輝夫 ]
8.高峰秀子(たかみねひでこ)(1924―2010)
女優。本名松山秀子。北海道函館(はこだて)生まれ。1929年(昭和4)5歳で松竹蒲田(かまた)作品『母』の子役でデビュー、数多くの作品に可憐(かれん)な容貌(ようぼう)とすなおな演技で活躍。1937年PCL(東宝の前身)へ転じ、『綴方教室(つづりかたきょうしつ)』『馬』などに好演。第二次世界大戦後はフリーとなり、『宗方姉妹(むねかたきょうだい)』『カルメン故郷に帰る』『稲妻』『雁(がん)』『女の園(その)』などに出演、とくに『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『浮雲』(1955)では絶妙の演技をみせた。1955年(昭和30)木下恵介(けいすけ)の助監督松山善三と結婚、彼の第1回監督作品『名もなく貧しく美しく』(1961)にも主演。その後も、映画・テレビで活躍を続けた。著書に『巴里(ぱり)ひとりある記』(1953)、自伝『わたしの渡世日記』(1976。エッセイスト・クラブ賞受賞)など。
[ 執筆者:長崎 一 ]
9.壺井栄(つぼいさかえ)(1900―1967)
小説家、童話作家。旧姓岩井。明治33年8月5日香川県小豆島(しょうどしま)のしょうゆ樽(だる)職人の家に生まれた。学歴は小学校卒業のみ。島の郵便局などに勤めたが、1925年(大正14)上京して同郷の壺井繁治(しげじ)と結婚。プロレタリア詩人だった夫とその友人だった宮本百合子(ゆりこ)、佐多稲子(さたいねこ)などの影響で、38歳のとき処女作『大根の葉』(1938)を発表、以後小説と童話の多彩な創作活動に入った。代表作として、小説に『暦』(1940)、『妻の座』(1949)、『裲襠(うちかけ)』(1955)、大人とともに子供にも読める家庭小説に『柿(かき)の木のある家』(1949)、『母のない子と子のない母と』(1951)などがあり、『二十四の瞳(ひとみ)』(1952)は映画化されて大衆の涙をそそった。童話集に『海のたましひ』(1944)、『十五夜の月』(1947)など。社会革新の思想を内に秘めつつ庶民感情にたった暖かな作風で、多くの読者の支持を受けた。芸術選奨(1952)、女流文学賞(1955)などを受賞。昭和42年6月23日没。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
10.笠智衆(りゅうちしゅう)(1904―1993)
俳優。熊本県生まれ。1925年(大正14)東洋大学在学中に松竹キネマ蒲田(かまた)撮影所の俳優研究所第1期生として松竹に入社したが、不器用なことから大部屋で10年間下積み暮らしをした。1935年(昭和10)に小津安二郎監督にみいだされて『大学よいとこ』に準主役で出演し、以後小津監督の描く小市民の生活の哀歓を演じる主役に用いられ、『晩春』『麦秋』『東京物語』『秋刀魚(さんま)の味』などに主演した。ほかには、1948年稲垣浩監督『手をつなぐ子等』、1954年木下恵介(けいすけ)監督『二十四の瞳』、1955年『野菊の如き君なりき』、1969年から始まった山田洋次監督の寅さんシリーズ『男はつらいよ』、1990年黒澤明監督『夢』などに出演し、また、テレビドラマでも活躍した。平成5年3月16日死去。
[ 執筆者:編集部 ]
●楢山節考(ならやまぶしこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
深沢七郎の短編小説。1956年(昭和31)11月『中央公論』に発表。第1回中央公論新人賞受賞作。57年中央公論社刊。主人公はおりんという老婆で、彼女の住むでは、口減らしのため老人を楢山に捨てる風習があった。おりんは捨てられる日を早めるために、自らじょうぶな前歯を石臼(いしうす)に打ち据えて折ってしまう。息子辰平(たつへい)はいやいやながらおりんを背負って楢山へ向かう。姥捨(うばすて)山伝説をもとにした特異な作品であり、日本人の心の底に沈んでいる無意識の層、民俗の闇(やみ)に深くメスを突き立てたものとして、その後の反近代的志向の呼び水ともなった。今日の物質文明の基底に潜む、人間感情の原質をとらえて、強い印象を呼び起こす。58年、木下恵介監督により、83年には今村昌平監督により映画化され、それぞれ話題となった。
[ 執筆者:笠原伸夫 ]
●地芝居(じしばい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .地狂言あるいは草芝居、田舎(いなか)芝居ともいう。広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、とくに素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたが、今日では黒森(山形県)、檜枝岐(ひのえまた)(福島県)、小豆(しょうど)島(香川県)などにわずかに郷土芸能として残存するにすぎない。
中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄(げんろく)期(1688~1704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。当初これを受け止めたのは、城下町や在郷町の町人であり、その祭礼などに素人芝居として歌舞伎を上演する風を生じた。元禄期に始まる那須烏山(なすからすやま)市(栃木県)の「山揚げ」や、宝暦(ほうれき)期(1751~64)にさかのぼる長浜市(滋賀県)の「曳山(ひきやま)狂言」などが現存する例である。ほぼ同時期に一部の農村でその祭礼に農民による歌舞伎の上演がみられ、18世紀中期以降急速に全国に波及した。ことに盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。地芝居の成立が、当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向を基盤にしていたことは、その演目が都市の歌舞伎そのままであったこと、さらに衣装や大道具のはでな丸本狂言の時代物に人気が集中したことなどから推して疑うべくもないが、にもかかわらず形態のうえで著しく農村的、民俗的な色彩を帯びた表現をとったところに歴史的な性格が認められる。
地芝居の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整えたものであった。なお現在、農村歌舞伎舞台は東北地方から九州地方に及ぶ広い範囲に、現存・廃絶を含めて2000以上の所在地が確認されており、地芝居の盛行が全国的なものであったことをうかがわせるとともに、その大半の建築年代が化政(かせい)期(1804~30)から明治中期であること、かつ分布の濃厚な地域が関東・中部地方であることなど、いずれも地芝居の歴史的動向を忠実に反映している。
こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。多くは名目的なものであったが、幕政改革の際などには厳格に実施され、実際に処罰を受けた事例もあって、そのため「かくれ芝居」といった非合法の上演も少なくなかった。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、活動写真(映画)など新しい娯楽の出現とともに使命を終えて衰退した。農村娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の進行で、現在ではほぼ消滅したものとみてよい。
[ 執筆者:守屋 毅 ]