縄文人の反乱 日本を大事に

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●二十四の瞳    [ 日本大百科全書(小学館) ]

2012年09月16日 19時08分51秒 | 色んな情報
●二十四の瞳    [ 日本大百科全書(小学館) ]
1.二十四の瞳
壺井栄(つぼいさかえ)の長編小説。1952年(昭和27)2月から11月までキリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載、同年12月に光文社から刊行。瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)に生まれた大石先生が新卒の女教師として島の岬の小学校に赴任、そこで受け持った12人の子供をかわいがる。しかし、第二次世界大戦の嵐(あらし)はこの小さな島の子供たちをも巻き込み、ある少女は紅灯の巷(ちまた)へ、ある少年は戦場へと行ってしまい、戦争が終わったときには大石先生も子持ちの未亡人となっていた。戦争に対する抗議に裏打ちされた、子供にも大人にも読まれる家庭小説の秀作。1955年に木下恵介(けいすけ)監督・高峰秀子主演で映画化された。舞台となった小豆島の土庄(とのしょう)港には主人公たちのブロンズ像が建てられている。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
 
2.内海(うちのみ)(香川県)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にあった旧町名(内海町(ちょう))。現在は小豆島(しょうどしま)町の一地区。小豆島の東部を占める。1951年(昭和26)草壁(くさかべ)町と安田、苗羽(のうま)、坂手、西の4村が合併して成立。57年福田村を編入。2006年(平成18)3月池田(いけだ)町と合併し、小豆島町となる。花崗(かこう)岩や集塊岩からなる山地が海に迫る。草壁、坂手、福田の各港には高松、阪神、姫路とを結ぶフェリーが発着。国道436号が通じる。苗羽付近にはしょうゆとそれを利用した佃煮(つくだに)の工場が多く、わが国屈指の産地を形成する。とくにコンブの佃煮は日本一の生産地である。奇岩怪石、渓谷美の国指定名勝寒霞渓(かんかけい)、坂手に生まれた壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳(ひとみ)』の舞台となった岬の分教場、わが国最初のオリーブ園、「島四国」の第1番札所洞雲山、大坂城石垣石切丁場跡など史跡、景勝地も多い。旧内海町の人口は1万1841(2005年国勢調査)。
[ 執筆者:新見 治 ]
 
3.木下恵介(きのしたけいすけ) (1912―1998)
映画監督。静岡県生まれ。浜松工業学校卒業。写真学校を経て1933年(昭和8)松竹に撮影助手として入るが、3年後監督部に移り、おもに島津保次郎(やすじろう)監督についた。助監督時代からよくシナリオを書き、『五人の兄妹』『素裸の家』などが他の監督で映画化された。1943年監督となり菊田一夫(かずお)の舞台劇の映画化『花咲く港』で才走った技巧をみせ、同年秋登場した黒澤明とともに日本映画に新風を吹き込んだ。以来『陸軍』(1944)、『大曽根(おおそね)家の朝』(1946)、『破戒』(1948)、『破れ太鼓』(1949)などを発表、1950年代に入ってますます活発な製作を続けた。著名な原作ものも多いがオリジナル作品も少なくなく、多くは自らシナリオを書き、悲劇も喜劇もよくした。ほとんど2人だけのオール・ロケ映画『女』(1948)、初の国産カラー『カルメン故郷に帰る』(1951)、歌舞伎(かぶき)の手法と色彩心理を導入した『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958)など新しい試みも多い。リアリズムに徹した『日本の悲劇』(1953)もあるが、『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『野菊の如(ごと)き君なりき』(1955)、『喜びも悲しみも幾歳月(としつき)』(1957)など叙情的作品が主流をなした。テレビでも「木下恵介劇場」「木下恵介アワー」などの長期シリーズで多数のドラマを提供し、心を傷める者へのいたわりの感情をよく描いた。生涯の劇場映画は中編『父』(1988)までの49本。1977年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)、1984年に勲四等旭日(きょくじつ)小綬章を受章、1991年(平成3)に文化功労者に選ばれた。
[ 執筆者:登川直樹 ]
 
4.小豆島(しょうどしま) http://p.tl/q1xI
香川県の北東部海上にある瀬戸内海第二の島。面積152平方キロメートル。備讃(びさん)瀬戸の東部に位置し、東には播磨灘(はりまなだ)を介して淡路(あわじ)島がある。小豆(しょうず)郡土庄(とのしょう)町、小豆島(しょうどしま)町からなり、属島に豊島(てしま)などがある。『日本書紀』には応神(おうじん)天皇が小豆島に遊んだという記載があり、古代の山城(やまじろ)跡などもある。古くは備前国(びぜんのくに)児島(こじま)郡に属し、江戸時代には幕府直轄地であったが、大坂町奉行(まちぶぎょう)、倉敷代官、津山藩預かりと支配体制がよく変わり、住民は苦しめられた。江戸時代には讃岐(さぬき)との関係はなかったが、1871年(明治4)東部3村が、翌年西部6村が香川県に合併された。
交通は、土庄港を中心に高松、岡山、玉野、大阪などからの定期船便があり、島内では路線バスの運行のほか定期観光バスもある。国道436号が通じる。
[ 執筆者:坂口良昭 ]
 
5.神吉晴夫(かんきはるお) (1901―1977)
出版経営者。明治34年2月15日兵庫県生まれ。東京外国語学校卒業、のち東京帝国大学仏文科に入学するが中退。1927年(昭和2)講談社入社。社長野間清治(のませいじ)のもとでおもに宣伝部門を担当。1945年(昭和20)に講談社系の光文社創立に参加、出版局長として『少年期』『二十四の瞳(ひとみ)』などのベストセラーを刊行。1954年に新書判のカッパ・ブックスを発刊、『文学入門』『欲望』『英語に強くなる本』など続々とベストセラーを刊行する。編集者はプロデューサーとして著者と共同で本をつくらなければならないという信念をもち、自らこれを「創作出版」と名づけた。1965年社長に就任。マスプロ、マスセール、マスアドによるベストセラー作法として一時期を画した。1970年光文社争議によって退社。1977年(昭和52)かんき出版を創立するが、同年1月24日死去。著書に『カッパ軍団をひきいて』などがある。
[ 執筆者:清田義昭 ]
 
6.小豆島(町)(しょうどしま)
香川県北部、小豆(しょうず)郡にある町。小豆島の東南部を占める。2006年(平成18)3月、小豆郡内海(うちのみ)町、池田町が合併して成立。町域は主として花崗(かこう)岩からなる山地が海岸に迫り、平地に乏しい。池田、草壁(くさかべ)、坂手(さかて)、福田(ふくだ)の各港と高松、姫路、阪神とを結ぶフェリーが就航。国道436号が通じる。瀬戸内海での漁業、そうめん製造、しょうゆ製造、福田地区の採石などが伝統産業で、そうめんは小豆島手延べそうめんとして著名。苗羽(のうま)付近は、しょうゆと、それを利用して第二次世界大戦後に始まった佃煮(つくだに)製造の工場が多く、コンブの佃煮の生産量は日本有数。日本におけるオリーブ栽培の発祥地とされ、観光農園の小豆島オリーブ園がある。スモモ(レッドスター)や電照ギクの栽培も盛ん。文化財、史跡、景勝地にも恵まれる。明王(みょうおう)寺の釈迦堂、池田長勝(ちょうしょう)寺蔵の木造伝池田(亀山)八幡本地仏3体、同寺が保管する銅製梵鐘はいずれも国指定重要文化財。奇岩絶景の渓谷美で知られる神懸(かんかけ)山(寒霞渓(かんかけい))は国指定名勝、岩谷(いわがたに)地区の山中や海岸に残る大坂城石垣石切丁場跡は国指定史跡。亀山八幡宮の祭礼の野外見物席として利用される「池田桟敷」、春日神社境内にある中山農村歌舞伎舞台はいずれも国指定重要無形民俗文化財で、同舞台で例年10月に演じられる歌舞伎は小豆島農村歌舞伎の名称で県指定無形民俗文化財。ほかにも小豆島八十八ヶ所霊場(島四国)の第1番札所洞雲山、坂手出身の作家壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳』の舞台となった岬の分教場、中世の星ヶ城跡、国の天然記念物に指定される誓願(せいがん)寺のソテツ、皇子(おうじ)神社社叢などの名所がある。面積95.63平方キロメートル、人口1万7257(2005年国勢調査の内海町、池田町の合算)。
[ 執筆者:編集部 ]
データ:小豆島町の要覧
面積:95.63平方キロ
総人口:1万7257人(男:8121人、女:9136人)
世帯数:6772戸
注:内海町、池田町の合算
※面積は国土交通省国土地理院『平成18年全国都道府県市区町村別面積調』、人口、世帯数は『平成17年国勢調査報告』による
 
7.児童文学(じどうぶんがく) - 日本
.1. 概説
大人が子供をおもな読者と想定して創作した文学。形式上、絵本、童話、小説、童謡、詩、戯曲などの純創作に、神話、伝説、昔話などの再話、『ロビンソン・クルーソー』のような本来大人の文学で子供によってこの分野に含まれたものの再話や、広く知識の本までをも含み込む。
[ 執筆者:神宮輝夫 ]
 
大人の文学との違い
1960年代末以降、年齢の高い子供や若者を読者とした作品は内容的に大人の文学と近いため、改めて違いが問われた。児童文学に含まれて生き続けている昔話などの伝承文学は本来口誦(こうしょう)文学であったため、表現の簡明、形式の共通性、大きな主題などの特質をもつ。さらに、伝えられる主題は語り手個人のものではなく、多数の人間の知恵の結晶として代々伝えられたものである。児童文学は小説を含めてほぼ前述の特質と共通する性質をもっている。だから、児童文学とは、筋の展開と結末についてほぼ一定の形式(あるいはパターン)があり、個人のというより人類の知恵が発見した、人間についての基本的主題を伝達する文学だともいえる。これが児童文学の中心部分を形成し、その周辺に大人の小説と性質の同じ作品が同心円的に存在している。だが、それらにしても、登場人物と状況はあくまで少年少女・若者の立場と視点から描かれているという点で、やはり大人の文学とは異なっている。

[ 執筆者:神宮輝夫 ]
 
8.高峰秀子(たかみねひでこ)(1924―2010)
女優。本名松山秀子。北海道函館(はこだて)生まれ。1929年(昭和4)5歳で松竹蒲田(かまた)作品『母』の子役でデビュー、数多くの作品に可憐(かれん)な容貌(ようぼう)とすなおな演技で活躍。1937年PCL(東宝の前身)へ転じ、『綴方教室(つづりかたきょうしつ)』『馬』などに好演。第二次世界大戦後はフリーとなり、『宗方姉妹(むねかたきょうだい)』『カルメン故郷に帰る』『稲妻』『雁(がん)』『女の園(その)』などに出演、とくに『二十四の瞳(ひとみ)』(1954)、『浮雲』(1955)では絶妙の演技をみせた。1955年(昭和30)木下恵介(けいすけ)の助監督松山善三と結婚、彼の第1回監督作品『名もなく貧しく美しく』(1961)にも主演。その後も、映画・テレビで活躍を続けた。著書に『巴里(ぱり)ひとりある記』(1953)、自伝『わたしの渡世日記』(1976。エッセイスト・クラブ賞受賞)など。
[ 執筆者:長崎 一 ]
 
9.壺井栄(つぼいさかえ)(1900―1967)
小説家、童話作家。旧姓岩井。明治33年8月5日香川県小豆島(しょうどしま)のしょうゆ樽(だる)職人の家に生まれた。学歴は小学校卒業のみ。島の郵便局などに勤めたが、1925年(大正14)上京して同郷の壺井繁治(しげじ)と結婚。プロレタリア詩人だった夫とその友人だった宮本百合子(ゆりこ)、佐多稲子(さたいねこ)などの影響で、38歳のとき処女作『大根の葉』(1938)を発表、以後小説と童話の多彩な創作活動に入った。代表作として、小説に『暦』(1940)、『妻の座』(1949)、『裲襠(うちかけ)』(1955)、大人とともに子供にも読める家庭小説に『柿(かき)の木のある家』(1949)、『母のない子と子のない母と』(1951)などがあり、『二十四の瞳(ひとみ)』(1952)は映画化されて大衆の涙をそそった。童話集に『海のたましひ』(1944)、『十五夜の月』(1947)など。社会革新の思想を内に秘めつつ庶民感情にたった暖かな作風で、多くの読者の支持を受けた。芸術選奨(1952)、女流文学賞(1955)などを受賞。昭和42年6月23日没。
[ 執筆者:上笙一郎 ]
 
10.笠智衆(りゅうちしゅう)(1904―1993)
俳優。熊本県生まれ。1925年(大正14)東洋大学在学中に松竹キネマ蒲田(かまた)撮影所の俳優研究所第1期生として松竹に入社したが、不器用なことから大部屋で10年間下積み暮らしをした。1935年(昭和10)に小津安二郎監督にみいだされて『大学よいとこ』に準主役で出演し、以後小津監督の描く小市民の生活の哀歓を演じる主役に用いられ、『晩春』『麦秋』『東京物語』『秋刀魚(さんま)の味』などに主演した。ほかには、1948年稲垣浩監督『手をつなぐ子等』、1954年木下恵介(けいすけ)監督『二十四の瞳』、1955年『野菊の如き君なりき』、1969年から始まった山田洋次監督の寅さんシリーズ『男はつらいよ』、1990年黒澤明監督『夢』などに出演し、また、テレビドラマでも活躍した。平成5年3月16日死去。
[ 執筆者:編集部 ]
 
●楢山節考(ならやまぶしこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
深沢七郎の短編小説。1956年(昭和31)11月『中央公論』に発表。第1回中央公論新人賞受賞作。57年中央公論社刊。主人公はおりんという老婆で、彼女の住むでは、口減らしのため老人を楢山に捨てる風習があった。おりんは捨てられる日を早めるために、自らじょうぶな前歯を石臼(いしうす)に打ち据えて折ってしまう。息子辰平(たつへい)はいやいやながらおりんを背負って楢山へ向かう。姥捨(うばすて)山伝説をもとにした特異な作品であり、日本人の心の底に沈んでいる無意識の層、民俗の闇(やみ)に深くメスを突き立てたものとして、その後の反近代的志向の呼び水ともなった。今日の物質文明の基底に潜む、人間感情の原質をとらえて、強い印象を呼び起こす。58年、木下恵介監督により、83年には今村昌平監督により映画化され、それぞれ話題となった。
[ 執筆者:笠原伸夫 ]
 
●地芝居(じしばい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .地狂言あるいは草芝居、田舎(いなか)芝居ともいう。広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、とくに素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたが、今日では黒森(山形県)、檜枝岐(ひのえまた)(福島県)、小豆(しょうど)島(香川県)などにわずかに郷土芸能として残存するにすぎない。
中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄(げんろく)期(1688~1704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。当初これを受け止めたのは、城下町や在郷町の町人であり、その祭礼などに素人芝居として歌舞伎を上演する風を生じた。元禄期に始まる那須烏山(なすからすやま)市(栃木県)の「山揚げ」や、宝暦(ほうれき)期(1751~64)にさかのぼる長浜市(滋賀県)の「曳山(ひきやま)狂言」などが現存する例である。ほぼ同時期に一部の農村でその祭礼に農民による歌舞伎の上演がみられ、18世紀中期以降急速に全国に波及した。ことに盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。地芝居の成立が、当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向を基盤にしていたことは、その演目が都市の歌舞伎そのままであったこと、さらに衣装や大道具のはでな丸本狂言の時代物に人気が集中したことなどから推して疑うべくもないが、にもかかわらず形態のうえで著しく農村的、民俗的な色彩を帯びた表現をとったところに歴史的な性格が認められる。
地芝居の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整えたものであった。なお現在、農村歌舞伎舞台は東北地方から九州地方に及ぶ広い範囲に、現存・廃絶を含めて2000以上の所在地が確認されており、地芝居の盛行が全国的なものであったことをうかがわせるとともに、その大半の建築年代が化政(かせい)期(1804~30)から明治中期であること、かつ分布の濃厚な地域が関東・中部地方であることなど、いずれも地芝居の歴史的動向を忠実に反映している。
こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。多くは名目的なものであったが、幕政改革の際などには厳格に実施され、実際に処罰を受けた事例もあって、そのため「かくれ芝居」といった非合法の上演も少なくなかった。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、活動写真(映画)など新しい娯楽の出現とともに使命を終えて衰退した。農村娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の進行で、現在ではほぼ消滅したものとみてよい。
[ 執筆者:守屋 毅 ]

●鯨尺(くじらじゃく)

2012年09月16日 18時02分51秒 | 色んな情報
●鯨尺(くじらじゃく)
★尺 - Wikipedia   http://p.tl/PO2i
尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。日本では、明治時代に1尺=(10/33)メートル(約30.303cm)と定めた。中国では、1尺=(1/3)メートル(約33.333cm)とし、また、メートルにも「尺」の字を宛てている。区別のため、前者を市尺、後者を公尺という(市制を参照)。
人体の骨格の尺骨は、この尺とほぼ同じの長さであることに由来する。
尺貫法の長さの基準となる単位であり、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。映画のフィルムやカットの長さのことを「尺」と呼ぶ[1]のもこれに由来する。それがさらに広まり、テレビ、ラジオの番組や、各種イベントなどにおいて、割り当てられた時間のことを指すようにもなった。
尺という単位は古代中国の殷の時代には既にあったとされている。「尺」という文字は親指と人差指を広げた形をかたどったものであり、元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
★鯨尺   http://p.tl/uUdb
★きものの仕立ては今も尺貫法   http://p.tl/6J1T
★鯨尺メートル換算表    http://p.tl/_eDN    鯨尺からメートルへ   メートル→鯨尺へ
★和裁用具>ものさし    http://p.tl/BXQ6
★和服の寸法について/鯨尺について     http://p.tl/vStX
★鯨尺 とは - コトバンク
・世界大百科事典 第2版
和裁用のものさし。その目盛の1尺は鯨尺尺と呼ばれ,曲尺(かねじやく)の1尺2寸5分,すなわち5/4尺に等しく,鯨尺の8寸が曲尺の1尺に当たる。1891年(明治24)制定の度量衡法により1尺が10/33mと定義されたため,鯨尺1尺は25/66mとなり,約37.9cmである。分量単位は鯨尺1/10尺の鯨尺寸,鯨尺1/10寸の鯨尺分で,倍量単位は鯨尺10尺の鯨尺丈である。これらの単位は尺貫法の廃止に伴い,1959年以降法定単位ではなくなった。
・百科事典マイペディア
和裁用のものさし。その目盛の1尺を鯨尺1尺といい,曲尺(かねじゃく)の1尺2寸5分相当である。1891年(明治24年)の度量衡では1尺=10/33mとされたから,鯨尺1尺は約38cm。
・デジタル大辞泉
江戸時代から、反物を測るのに用いられてきた和裁用の物差し。曲尺(かねじゃく)の1尺2寸5分(約38センチ)を1尺としたもの。また、その長さ。もと鯨のひげで作られた。鯨差し。
・大辞林 第三版
江戸時代から主に布地の長さを測るのに使われていた尺。1891年(明治24)に,66分の25メートル(約37.879センチメートル)をもって一尺と定めた。普通の曲尺(かねじやく)の1.25倍。1958年(昭和33)の尺貫法廃止にともない法定単位でなくなった。鯨差し。 → 呉服尺
・世界大百科事典内の鯨尺の言及.
【ものさし(物差∥物指)】より
…おもに生産工場で用いられる直尺などは日本工業規格に従って作られる。1959年1月から尺や鯨尺やインチのものさしの製造および商取引上の使用は禁止されている。しかし,尺相当目盛のものさしは77年10月から再び製造が認められ市場で見られるようになった。…
★鯨尺 京都丹後で独創的独走    http://kujirajaku.com/
2012年6月24日 - 高岡徹(高美機業場)がプロデュースする京都丹後地方の優良品販売およびマイウェイ なブログ。
★鯨尺の謎 くじらじゃくとは一体何でしょう   http://kujirajaku.com/about.html
★江戸 着物の仕立てで使う鯨尺のセンチメートル換算     http://p.tl/lMaT
★【 結 城 屋 】続きもの春秋7「曲尺と鯨尺」http://p.tl/NLXZ
★収蔵物は語る 企画展「測る・計る・量る」企画 第31回 曲尺・くじら尺   http://p.tl/yMJu
★和裁 お仕立 袋帯 和服工房小春屋さん   cmと鯨尺の換算表        http://p.tl/GfUO
★三人旅 >何?篇 >曲尺と鯨尺      http://p.tl/HWQf
★鯨尺と曲尺 『呉服えり新』 http://p.tl/oUAu
★鯨尺にお詳しいですか   http://p.tl/5Vt0
★N家の鯨尺 : g i @ n t の も そ も そ フ ロ ク
http://p.tl/r9uF http://p.tl/WWs3 http://p.tl/2jRt   http://p.tl/qYS0
★換算表&鯨尺について - 楽天市場   http://p.tl/ORhz
★鯨尺⇔cm換算: お直し和裁研究会    http://p.tl/3iZI  http://p.tl/HDwS
★鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち http://p.tl/OoY7
★尺と鯨尺 http://p.tl/Sp8Y
★曲尺(かねじゃく)・鯨尺(くじらじゃく) http://p.tl/q07e
★鯨尺で仕立てると犯罪だったかも...の話 http://p.tl/DMa6
★鯨尺メジャー http://p.tl/niOm
★鯨尺 : 布団 を考える http://p.tl/SmH0
★鯨尺物語  太地町 沖の親子鯨のお話  (正和 作)http://p.tl/6Whm
★尺(鯨尺)[長さ]  http://p.tl/ef30  寸(鯨尺)[長さ]  http://p.tl/2TMH
★男のきもの講座 読み物編|1 男のきもの入門   http://p.tl/M4o7

●織物(おりもの)

2012年09月16日 13時57分34秒 | 色んな情報
●織物(おりもの)
★一人前(いちにんまえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
1人の男や女が成人後に備えているはずとされる心身、技能、力量などの総称。各種の職場をはじめスポーツや芸能方面でも漠然と人並みの能力というほどの意味で用いられることもあるが、村落社会では古来共同労働を組むうえで一定以上の労働力が要請され、1人前の標準作業量をはっきりと設ける場合が多かった。その標準量を一人役(いちにんやく)、一手役(いってやく)、ワッパカ仕事などとよび、農作業をはじめ各種作業についていちいち男女別に1日どれだけと決めた所も珍しくない。たとえば、男は田打ちならば1反(10アール)、物を背負う力では四斗俵1俵(約60キログラム)、女は男の半人前から7、8分で、田植ならば7畝(せ)(7アール)、機(はた)織りでは1反(鯨尺で約8.5メートル)といったぐあいであった。農家の奉公人や職人の徒弟などにはその作業量がとくに厳しく求められた。
また一人前を年齢で定める場合があり、男は数え年15歳、女は13歳とする例が多かった。これは、若者組、娘組の年齢集団に加入し、あわせて元服(げんぷく)祝、鉄漿(かね)付け祝など成年式をあげるころでもあった。一人前になれば、村落社会の一員として祭礼や村寄合、村仕事に正式に参加することが許され、また結婚の資格が与えられた。 [ 執筆者:竹田 旦 ]
★織物(おりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/RaEr
紡績した糸を使って経糸(たていと)を平行に並べ、それに対して直角に緯糸(よこいと)を一定の法則に従って交錯させ、平面をつくりあげたものの総称。これをつくるときには織機を使い、手動あるいは機械的操作によって織り出されるが、織機を使わずに手先だけで組み合わせ、織物と同じような組織に構成するときには、織物ではなく編組(へんそ)である。
★絹織物(きぬおりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/n9G0
絹糸、あるいは玉糸(繭のなかに2匹以上のカイコが入ったものから糸を引いたもの)、柞蚕(さくさん)・天蚕(てんさん)・エリ蚕などの野蚕糸、紡ぎ糸・絹紡糸など紡績した糸を使って織物としたものの総称。これを大別すると、生糸をそのまま使い織り上げてから精練漂白する生絹(きぎぬ)織物(または単に生絹・生(き)織物・後染めともいう)と、生糸を糸のまま精練漂白したのち製織する練絹(ねりぎぬ)織物(または単に練織物・先練ともいう)とに分けられる。絹を練るのは、生糸のままでは、繊維の表面に膠質(こうしつ)のセリシンが付着して平滑でなく、光沢がないので、これを除去し、絹本来の手ざわりが滑らかで、光沢のあるフィブロインを露出させる必要がある。したがって、製織する前と後のいずれかで精練漂白し除去することは、織物自体の性質を変えてしまうことになる。
★尺(しゃく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
尺貫法の長さの単位。中国、朝鮮半島および日本を通じて用いられてきた。起源は、文字の示すように、手を広げて物に当てた長さである。『大戴礼(だいたいれい)』の孔子の言にも「手を布(し)きて尺を知る」とある。今日の尺は中国でも日本でも30センチメートルを超えているが、人の手幅は平均20センチメートル程度で、いまの6寸ほどであるから、数千年の間に長さの基準が変化したのである。その変化のありさまは時間的、地域的に異なるが、要約すれば、発生以来音律および公式用として公定されたものと、土木建築用、土地丈量用および裁衣用とに分かれて変化してきた。このうち土木建築用の曲尺(かねじゃく)は、周代に発生して以来技術とともに伝承されて、変化がなく今日に至っている。隋(ずい)代には音律、公式用の小尺と建築用の大尺とが公定されて大小尺制となり、唐に受け継がれて日本の大宝律令(たいほうりつりょう)(701)に採用された。しかしこれより前に、大尺で1尺2寸の高麗尺(こまじゃく)が土地用に用いられていたとみられている。律令の小尺は、まもなく実用されなくなり、一般に曲尺が用いられるようになった。室町時代以後、裁衣用に1尺2寸の呉服尺が、江戸時代には1尺2寸5分の鯨尺(くじらじゃく)が現れて民間に用いられた。1874年(明治7)枡座(ますざ)の枡に用いられていた尺(33分の10メートル)が平均に近い曲尺として採用され、今日に至っている。しかし、1959年(昭和34)にメートル法に統一され、現在では取引・証明上の計量には用いてはならないことになっている。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★人絹(じんけん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
人造絹糸を略したもので、レーヨンともいう。繊維素を原料として化学的操作によって製造する連続糸で、1884年、フランス人シャルドンネChardonnetによって完成された。製造には、(1)ビスコース法、(2)銅安法、(3)酢酸法、(4)硝化法などがあるが、このうちビスコース法によるものの生産量が多い。性能は、均質な長繊維であるため、光沢・繊度が自由に変えられて、滑りやすく、汚れがつきにくく、染色性のよいことが特徴である。利用範囲は広い。 [ 執筆者:角山幸洋 ]
★綿織物(めんおりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
綿糸を原料とした織物の総称で、綿布ともいう。生地(きじ)綿織物は生地糸で織ったままのもので、精練、漂白などの処理を施してない綿布である。黄褐色を呈し、小さく砕かれた綿実の殻などが付着した粗布(そふ)、細布(さいふ)、天竺(てんじく)など。加工綿織物には晒(さらし)綿布と色綿布がある。漂白するにはさらし粉が多く使われ、綿花に含まれている天然色素を抜き去り純白にする。色綿布は先染(さきぞ)め、後(あと)染め、捺染(なっせん)に分かれる。先染織物は織る前に糸染めされたもので、経緯(たてよこ)糸の一部または全部を染色した綿糸で織ったものである。経縞(たてじま)・緯(よこ)縞織物はだいたいにおいて先染めであり、絣(かすり)織物も先染織物である。一方、後染織物とは布の状態で染浴に浸して一色に染めたものであるから、無地織物ともいう。最後の捺染織物は模様を染め付けたプリントもので、外着用にはもっともよく用いられる。
また織物幅により小幅、広幅織物に分類される。わが国の和服用綿布は、一般に36センチ(鯨尺九寸五分)を標準として、着尺(きじゃく)物(小幅物)という。これに対して、シャツ地、洋服地などは、ヨーロッパ式の織物幅(広幅物)であり、通常、着尺の2~3倍(約76~114センチ)である。 [ 執筆者:並木 覚 ]
★紡毛織物(ぼうもうおりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .woollen fabric
比較的短い羊毛類を紡績した、けばの多い紡毛糸を使って織った毛織物の総称。もともと毛織物は1種類のみであったが、紳士用などの高級品にあてる梳毛(そもう)織物を分けることにより優劣の2種類の織物に分化することになった。それは不要になった毛をなんとか再利用することから始まった。そのため使用繊維は、まず原毛の段階で、梳毛織物と紡毛織物に使用するものとに選別するが、後者の短繊維を使用することとし、それを主体にして、その他の雑繊維を混紡することで補っている。そのため織物を構成する繊維は、互いに錯綜(さくそう)して種々の方向に配列しているので、外観は毛羽立ち、光沢も乏しいけれども、柔軟性をもち、縮絨(しゅくじゅう)性にも富んでいるので、縮絨、起毛を施して、織り立てたときの外観を変えるように仕上げる。梳毛織物よりも安価であるので、柄・色調に重点を置く婦人子供服地に使われ、スコッチ、ツイード、フラノ、メルトン、ベロア、羅紗(らしゃ)、毛布などがある。
[ 執筆者:角山幸洋 ]
★麻織物(あさおりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/odUs
アサは、アマ(亜麻、リネン)、タイマ(大麻)、チョマ(苧麻、一名カラムシ。変種はラミー)、コウマ(黄麻、ジュート)などの総称で、これらの草皮繊維を紡いで織ったものを麻織物という。わが国では麻布または布ともいい、フジ、コウゾなどの樹皮繊維からなる織物を含めてさすことがある。もとタイマ、チョマが主要な繊維で、明治以後アマ、コウマが移入され、繊維の種類は豊富となった。
★チョマ(ちょま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
【苧麻】ramie、China grass
[学名:Boehmeria nivea Gaud.]
イラクサ科の多年草。英名はラミー。東南アジア原産。茎から靭皮(じんぴ)繊維をとるために栽培される。植物学的には同種の野生のものが西日本に帰化しており、ナンバンカラムシの名がある。根株から多数の直立性の茎を出し、高さ1~2メートルとなる。葉は互生し、卵形で先はとがり、長さ約10センチ、縁(へり)には鋸歯(きょし)があり、葉柄は長い。夏、葉腋(ようえき)から花穂を出し、多数の小花を開く。株分けか挿木で増殖し、収穫は夏場を中心に年に2、3回、熱帯では約6回刈り取れる。葉の裏面に白毛が密生するシロチョマと白毛のないミドリチョマとがある。シロチョマは古くから日本、中国などの温帯で栽培され、繊維は良質であるのに対し、ミドリチョマはマレーやインドなどの熱帯で栽培されるが、品質は劣る。茎からとった繊維は長く、しかもじょうぶで水にも強く、織物にするほか、ロープ、網、農作物を入れる袋などの材料とする。
日本では古くから縮(ちぢみ)や上布(じょうふ)に利用される。粗繊維を灰汁(あく)に浸(つ)けて水洗いし、雪上にさらして精製すると光沢が出て美しい。布を織ってさらすのが縮、さらした糸で織ったものが上布で、産地により越後(えちご)上布や小千谷(おぢや)縮などとよばれる。 [ 執筆者:星川清親 ]
★紡錘車(ぼうすいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .spindle whorl
繊維に撚(よ)りをかけ糸を紡ぐ用具。テスリツムとよばれる。直径6~7センチ、重さ50~70グラムほどの木製のはずみ車に、長さ約30センチの鉄製の軸棒をつけたもの。軸棒の先端を鉤(かぎ)状に曲げ、そこに繊維の端をかけ、木の台上にテスリツムをのせ、テシロという木片で軸棒をこすって回転させると撚りがかかり、糸ができるので、それを巻いていく。新石器時代以降、世界各地で使用され、日本では弥生(やよい)時代以降に土・石製や骨・角(つの)製のものが用いられ、『石山寺縁起』絵巻などにも使用状況が描かれている。江戸初期ごろ、木綿を紡ぐ糸車が中国から伝来して以来、とってかわられるが、漁村や山村などでは、麻やイラクサなどの繊維に撚りをかけるのに、昭和初年まで使用されてきた。
[ 執筆者:木下 忠 ]
★はずみ車(はずみぐるま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
回転速度のむらをなくすために取り付けられた車。フライホイールflywheelともいう。蒸気機関、内燃機関などでは蒸気圧、ガス圧の変動やピストン・クランク機構などによって一サイクル間の駆動力のむらは、そのままでは除去できない。機械はその回転中は、なるべく円滑に回転するのが望ましい。そこで、駆動と負荷との差によって発生する回転速度の変動を少なくするために、はずみ車が使われる。通常、直径、重量とも大きな車を使い、運動のエネルギーを多く吸収保有するので、最大負荷に耐えるようエネルギーを利用する。たとえば打抜き機械、鍛造機械では電動機の出力を打撃時に最大にしておくと、無負荷状態で出力のむだが生ずるので、電動機出力を一サイクルの平均抵抗力にしておき、軸にはずみ車を取り付けてこれに運動エネルギーを吸収させ、このエネルギーを打撃時に利用する方法がとられる。
[ 執筆者:中山秀太郎 ]
★糸車(いとぐるま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
紡車(ぼうしゃ)、糸繰車(いとくりぐるま)、糸撚(いとより)車、早糸(はやいと)車とも称し、手で車を回転させながら、糸を紡いだり撚りかけをする道具。また緯(よこ)糸を管(くだ)に巻く管巻車(くだまきぐるま)(緯巻(よこまき)車)にも使用する。構造は一方の柱に竹製(木製のものもある)の大きな車を取り付け、他方には紡錘(つむ)を装置し、これを早糸で連結しておく。車を手で回転させながら短繊維の場合では牽引(けんいん)したのち撚りかけをし、誘導する手の位置を紡錘の軸と直角にして巻き取る。準長繊維(靭皮(じんぴ)繊維)では、すでに績(う)んであるから、糸車では撚りかけをし紡錘に巻き取るだけである。この車の大きさには大小2種あり、大きいものは麻、小さいものは木綿に使用したが、現在では混用している。地域的特徴は、関東地方のものは木製のものが多く、近畿地方のものは後ろ足がついて糸車全体が前方に傾斜している。中国地方以西のものは車が大きく、紡錘との距離が短い。 [ 執筆者:角山幸洋 ]
★振袖(ふりそで) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
長着の袖で丈の長いもの。または、その袖のついた長着のことをいい、未婚女性の盛装として用いられる。袖付けを短くして、その下の振り八つ口をあける。その部分が振れ動くのでつけられた名称である。江戸時代には脇(わき)あけともいった。
振袖着用は、古くは鎌倉時代の絵巻物『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』にみられるが、江戸時代になってその名が一般化した。男女児と若い女性が着たもので、とくに子供は体熱を発散させるために振りをあけた。女性は18歳になると、振りを縫いふさいで留袖にしていた。しかし文化年間(1804~18)になると、帯幅が1尺5分(鯨尺なので約40センチメートル)と広くなり、ふさいでいると帯を締めるのに差し支えるので、18歳を過ぎても振りのある袖が用いられるようになった。そのため、脇あけの振袖、脇ふさぎの留袖という本来の意味を失って、袖丈の長いものを振袖、短いものを留袖というようになり、さらに留袖は既婚者の礼装をさしていうようになった。
近世初期の袖幅は20センチメートル内外と狭く、丈は曲尺(かねじゃく)の1尺5寸(約45センチメートル)、両袖用尺は6尺となり六尺袖ともよばれ、これを大振袖ともいった。袂(たもと)の丸みは20センチメートルぐらいに大きくそいだので、そぎ袖といわれ、形が似ているところから、長刀(なぎなた)袖、鶯(うぐいす)袖などの名もつけられた。袖丈はしだいに長くなり、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の裁縫書では、袖丈73センチメートル内外、享和(きょうわ)年間(1801~04)には95~102センチメートル、嘉永(かえい)年間(1848~54)には106センチメートルが一般の袖丈となった。この寸法がほぼ定着して、明治・大正・昭和に至った。現在は袖丈105センチメートルを大振袖、95センチメートルを中振袖、85センチメートルぐらいのものを小振袖という。
黒振袖は五つ紋をつけて花嫁衣装に用い、色物または白地の振袖は婚礼のお色直しや、未婚女性の盛装として用いる。これには五つ紋のほか、三つ紋、一つ紋をつけることも、紋を略すこともある。生地(きじ)は縮緬(ちりめん)や紋綸子(もんりんず)で、絵羽模様を染め、刺しゅう、摺箔(すりはく)、絞りなどを施した華麗なものが多い。少女用には友禅模様も用いる。
[ 執筆者:岡野和子 ]
★綿織物(めんおりもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
綿糸を原料とした織物の総称で、綿布ともいう。生地(きじ)綿織物は生地糸で織ったままのもので、精練、漂白などの処理を施してない綿布である。黄褐色を呈し、小さく砕かれた綿実の殻などが付着した粗布(そふ)、細布(さいふ)、天竺(てんじく)など。加工綿織物には晒(さらし)綿布と色綿布がある。漂白するにはさらし粉が多く使われ、綿花に含まれている天然色素を抜き去り純白にする。色綿布は先染(さきぞ)め、後(あと)染め、捺染(なっせん)に分かれる。先染織物は織る前に糸染めされたもので、経緯(たてよこ)糸の一部または全部を染色した綿糸で織ったものである。経縞(たてじま)・緯(よこ)縞織物はだいたいにおいて先染めであり、絣(かすり)織物も先染織物である。一方、後染織物とは布の状態で染浴に浸して一色に染めたものであるから、無地織物ともいう。最後の捺染織物は模様を染め付けたプリントもので、外着用にはもっともよく用いられる。
また織物幅により小幅、広幅織物に分類される。わが国の和服用綿布は、一般に36センチ(鯨尺九寸五分)を標準として、着尺(きじゃく)物(小幅物)という。これに対して、シャツ地、洋服地などは、ヨーロッパ式の織物幅(広幅物)であり、通常、着尺の2~3倍(約76~114センチ)である。
[ 執筆者:並木 覚 ]
★紋付(もんつき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/0Bh2
主として長着や羽織に家紋(定紋(じょうもん))をつけたもの。紋服ともいう。礼装として用いる。かつては、たんす、長持などの油単(ゆたん)や袱紗(ふくさ)などにも家紋をつけることが行われた。古くは公家(くげ)、武家社会に限って着用されたが、江戸時代中期になると、財力を蓄えた富裕な町人、歌舞伎(かぶき)役者などにもしだいに広がった。一般に礼服として定まったのは、明治維新後に裃(かみしも)が廃止されてからである。男子は黒羽二重(くろはぶたえ)染抜き五つ紋付の羽織と対(つい)の長着に、仙台平(せんだいひら)の袴(はかま)が正装である。夏は平絽(ひらろ)で、吉凶とも同じ。女子は黒縮緬(ちりめん)染抜き五つ紋付裾(すそ)模様の二枚襲(かさね)。下着は白羽二重であるが、最近はこれを略し、付け比翼が一般的である。凶事には黒無地とし、夏は平絽を用いる。男児の5歳の祝い着には、黒、褐色(かちいろ)(濃紺)などの羽二重染抜き五つ紋付熨斗目(のしめ)模様の長着と羽織を対で着て、袴をつける。
[ 執筆者:岡野和子 ]
★浴衣(ゆかた) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/22xv
木綿の浴衣地でつくられた単衣(ひとえ)の長着。家庭での湯上がりのくつろぎ着のほか、夏祭り、縁日、盆踊り、夕涼みなど夏の衣服として着用される。街着にはならないが、夕方の散歩着としては着用する。浴衣は肌襦袢(はだじゅばん)を用いず素肌に着て、素足下駄ばきとし、草履(ぞうり)は履かない。女子は半幅帯を締め、普通の着物よりやや短めに着る。男子は兵児帯(へこおび)を締める。足袋(たび)は履かない。

▲曲尺(かねじゃく)・鯨尺(くじらじゃく)の製造・販売を許可することを決める(1977)9月16日

2012年09月16日 13時10分11秒 | 色んな情報
▲曲尺(かねじゃく)・鯨尺(くじらじゃく)の製造・販売を許可することを決める(1977)9月16日
★計量行政審議会  経済産業省産業技術環境局知的基盤課計量行政室 http://p.tl/phv0
★日本工業標準調査会 - 経済産業省(Adobe PDF)http://p.tl/Ba49  http://p.tl/ZSXW

★度量衡(どりょうこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/IShm
長さ、面積、体積および質量の単位、標準、ならびにこれらの計量器について定められた慣習や制度をいう。英語のweights and measuresにあたる。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★田舎間(いなかま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸時代に主として江戸で建築や土地を測るのに用いられた、曲尺(かねじゃく)6尺(182センチメートル)を1間(けん)とする寸法。京都を中心とする近畿地方で用いられた京間(きょうま)に対していう。江戸末期に関東地方では広く用いられるようになっている。 [ 執筆者:平井 聖 ]
★かね尺(かねじゃく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
(1)明治政府によって33分の10メートルと規定された尺貫法の基本単位。曲尺(かねじゃく)とも表記する。
(2)直角に折れ曲がった金属製の建築用物差し。曲尺(きょくしゃく)、曲金(まがりがね)、差し金(がね)などともいう。漢字では「矩」と書く。
道具としてのかね尺は、建築部材の寸法や角度を、計算することなく機械的に割り出し、墨入れできる工具として、中国の周代に魯班(ろはん)がつくりだしたものとされ、このため中国では魯班尺とよぶ。長いほうを長手(ながて)または長腕(ながうで)、短いほうを短手(妻手)(つまて)または短腕(つまうで)という。表面の正規の尺目盛り(表目)の裏に、その1.414()倍の伸び目盛りが目盛ってある。これを裏目とよぶ。この二つにより必要な寸法や角度を割り出す。さらに中国の古いかね尺には、この裏目、つまり表目の1尺4寸1分を10等分し、それに順次「財、病、離、義、官、劫(こう)、害、本、財、病」と記したものがある。日本の江戸時代のものは、これと違って、表目の1尺2寸を8等分し、各部分に「財、病、離、義、官、劫、害、吉」の8字が刻んである。これらは、門扉の寸法数値に関する中国の占星術的な宿曜道(すくようどう)による呪術(じゅじゅつ)的なもので、後代につけられたものらしく、この文字目盛りを魯班尺という場合もある。
短手の裏には表目のπ(パイ)分の1倍の目盛りがつけられている。これで丸材の直径を測れば、そのまま円周の長さが求められる。直角に曲がった角を矩(かね)の手といい、正確に直角が出されている。材料は鉄または真鍮(しんちゅう)であったが、現在はすべてステンレス鋼製である。部材に押し付けて墨入れするため、適当な弾力が必要である。江戸時代までは主として難波(なにわ)(大坂)で伝承的につくられ、名人といわれた又四郎の名をとって又四郎尺ともよんだ。かね尺は建築用として職人たちに伝承されたから、中国、朝鮮および日本を通じて1尺の長さはそう大きく変化していない。江戸時代のものも、ほとんど現行の尺と一致している。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★物差し(ものさし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
物の長さを計る器具の総称。物差しは物を差し計る意である。人類が最初に使い始めた計器で、また今日でも広く使われている。普通、木、金属または骨などの板または棒に目盛りをつけたもの(直尺(ちよくしやく))をいうが、両端間の長さを基準とした端面尺もある。金属や繊維製のテープに目盛りをつけて巻き取れるようにしたものが巻尺で、紐(ひも)や縄に単位長さごとに標識をつけた巻尺は間縄(けんなわ)とよばれる。また単位長さの針金を両端の鐶(かん)でつなぎ合わせた測量用の物差しは連(れん)尺またはチェーンとよばれる。直尺を二つ直角に組み合わせた金属製の建築用の物差しは曲(きよく)尺、差し金(がね)、まがりがね、かねじゃくなどとよばれるが、これには本来の直尺のほかに、建築に必要な寸法や角度を割り出す特別な目盛りがついている。直尺の一端に当て板を設け、別に直尺に沿って動く遊標を設け、この間に物を挟んで計るものを挟み尺といい、計る対象物によって特別につくられたものは玉尺、ロープ尺などと用途の名でよばれることがある。挟み尺の遊標の部分に副尺をつけ、主尺の目盛りを10分割あるいは20分割して読み取れるようにしたものをノギスという。
マイクロメーター、ダイヤルゲージなども目盛りをもつ長さを計る道具であるが、これらは一般に物差しとはいわず測定工具あるいは精密測定器の分類に属させている。両端面の間の寸法を精密に仕上げたバーゲージ、ブロックゲージも同様である。
物差しはまた古来材料によってよばれるものがあった。竹尺、鉄尺、象牙(ぞうげ)尺、鯨(くじら)尺などがそれである。また用途によってよばれるものも多い。文(もん)尺は足袋(たび)の文(もん)数を計るもの、呉服尺は呉服用、酒造尺は酒の仕入れ桶(おけ)の中の酒の量を液面の位置を計って出すもの、溢引尺(あびきざし)も酒造尺の一種である。地面、布、電線などに沿ってローラーを回し、その回転数から長さや料金を出すものも、物差しの一種であるが、計量法ではこれらを回転尺とよんでいる。伊能忠敬(ただたか)が測量に用いた量程車や現在のタクシーメーターもこれに属する。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★巻尺(まきじゃく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
使用しないときは巻枠に巻き込んで格納して携行する長い物差し。金属製、繊維製および竹製などがある。金属製には針金状のものとテープ状のものが、繊維製には紐(ひも)状とテープ状のものがある。竹製は竹を細く割って接(は)ぎ合わせたものである。いずれも単位長さごとの目盛りまたは標識をもつ。
巻尺の歴史は古く、ピラミッドの建設に紐状の巻尺を使っている図が残っている。初期のものはすべて紐、縄、竹のひごで、日本では測量用のものは間縄(けんなわ)または竹縄(たけなわ)とよばれ、また田地用のものは水縄(みずなわ)ともよばれた。
最高級のものには測量用基線巻尺がある。これは、温度による膨張収縮のない25メートルほどの合金の針金尺で、両端のみに目盛りがあり、測地基線の設定に用いられる。一般に用いられる測量、建設用のものは鋼製のテープ状で、必要に応じ温度および張力の補正を行う。200メートルが最長であるが、特別な用途にはもっと長いものもつくられる。日常用の短いものには、テープを樋(とい)状にして、立てて使えるコンベックスルールがある。
繊維製は麻などの天然繊維が用いられていたので、温度・湿度による変化が大きかったが、最近はガラス繊維にかわり、精度・耐久性とも向上した。竹縄は第二次世界大戦前まで水田などに用いられたが、いまはつくられない。一般用にはJIS(ジス)(日本工業規格)が設けられ、また計量法の規定もあって精度が定められている。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★計量法(けいりょうほう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
計量の安全確保のために必要な事項を定めた法律。1951年(昭和26)6月7日法律第207号として公布、52年3月1日から施行された。その後数次の改正を経て今日に至っている。基本的には1891年(明治24)制定の「度量衡法」を踏襲し、対象とする物象の状態の量が、度量衡3量から大幅に増加された。「計量法」と改めたのはそのためである。1993年(平成5)には、計量単位をすべて国際単位系(SI)へ統一する改正が行われ、99年9月30日までに、これまで国際単位系と食い違っていた一部の単位の切り替えを実施した。
内容を大別すると、計量単位とその規制、計量器に関する事業の規制、計量の安全確保、計量器の検定・検査である。対象となる物象の状態の量は72種類(1999年現在)で、これを法定計量単位としている。これらはすべてメートル法によっており、第8条で、取引、証明には法定計量単位以外は使ってはならないとしている。これが日本のメートル法による統一の根拠である。
対象となる計量器は温度計、電力量計など18器種であるが、これらは状勢により改廃される。ここにあげられた計量器を製造する者は経済産業大臣の登録を、修理する者および政令で定められる計量器を販売する者は都道府県知事の登録を受けなくてはならない。製造および修理事業者は、一定の検査設備を備え、かつ製造の場合は社内検査規程を届け出てこれを守らなければならない。これは、まず製造、修理の段階で必要な性能を確保するためである。
計量の安全確保の内容は、家庭用計量器の製造時における基準適合義務、体温計など政令で定める計量器の検定品以外の販売禁止、計量器の使用の制限、商品の量目誤差、計量器の用途や使用方法の制限等である。検定はとくに必要と認められるもので、政令で定められたものについて行われる。このうち商用秤(はかり)などは使用中のものについて定期検査が行われるが、計量法に定められた事項一般については立入検査を行うことができる。違反に対しては罰則が設けられている。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★計量器(けいりょうき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「計量法」によれば、「計量をするための器具、機械または装置」と定義されている。同法によれば、計量とは同法に掲げられた78種類(1984年現在)の物象の状態の量を計ることとあるので、とくに計器や計測器などと区分できない。しかし一般に計量器といえば、秤(はかり)や枡(ます)のような商業用のものをさす習慣があるので、種類や構造にかかわらず、取引や証明の安全確保を目的とする計量法の対象となるものということになろう。対象となる計器は第12条に列記され、1984年現在、直尺、秤など20器種。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ] 
★秤(はかり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/W2-O
物の質量を計る器具・機械の総称。語源は和語の「はかるもの」で、漢語では衡または称である。計量法では質量計という。英語では天秤(てんびん)やさお秤(ばかり)の類をbalance、そのほかをscaleという。一般に計ろうとする物に作用する地球重力加速度による力を、分銅またはおもり(錘)のそれとつり合わせるか、または力による弾性体の変形または変位に変える構造になっている。種類はきわめて多く、分類の方法にもいろいろあるが、天秤、さお秤、台秤、ばね秤、その他に大別される。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★枡(ます) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
決まった体積の容器または決まった体積の位置を示す指標や、一定体積を定める装置をもつ計量器であるが、普通は単位体積を盛り切って計るものをいう。円筒形、方形、台形など各種の形のものがあるが、日本では明治以前の枡はすべて方形であり、円筒形が認められたのは明治以後である。枡の語源は古代朝鮮語ともいわれるが、はっきりしたことはわからない。人間が物差しに次いで古くから用いてきた計量器で、穀物を租税として徴収し、あるいは売買に使う道具であるところから、古来各国とも厳重な規制を設けてきた。しかし実際は、収納量を増加するために権力による改変が行われ、一般に年月とともに容量は増大している。たとえば現在の1升は漢の時代のそれの10倍近くにもなっている。
日本の枡の単位は石、斗、升、合、勺ですべて中国起源であるが、大宝律令(たいほうりつりょう)において制度とされたものは唐のそれである。基本の枡は升で、制定当時の大きさはいまの4合説、6合説その他があって一定しない。律令制の崩壊とともに一定の制はなくなり、荘園(しょうえん)、寺社の私制枡が横行し、歴代、統一の政策はとられたが成功しなかった。室町時代末期には平均いまの8合ほどに増大していたと推定される。豊臣(とよとみ)秀吉は、いわゆる太閤(たいこう)検地を行ったが、収穫量の算定を統一するため枡の統一を行った。一升枡は方5寸、深さ2寸5分のもので、当時一般に普及していたものより2合ほど増したものである。これを京升という。その後寛文(かんぶん)年間(1661~73)のことと思われるが、方を1分詰め、深さを2分増した、6万4827(六四八二七、いわゆる「むしやふな」)立方分のものに改められて明治に至っている。江戸幕府は、これらの枡の製作、販売および取締りを江戸と京都の枡座に専管させた。
江戸枡座は樽屋藤左衛門(たるやとうざえもん)で東33か国を、京都は福井作左衛門で壱岐(いき)、対馬(つしま)を含む西33か国を管掌した。種類は一合、二合半、五合、一升、五升、七升および一斗で、穀用と液用の木地(きじ)枡があり、穀用五合以上には対角線に沿って弦鉄(つるがね)がつけられたが、この弦鉄の体積は容量に見込まれていなかった。したがって穀用は正規の体積より弦鉄分だけ小さいのである。これが明治になって修正されたので、穀用五合以上のものの寸法は江戸時代のものと差がある。明治になって円筒形の枡が認められ、また枡の定義も改められて各種の形状のものがつくられるようになった。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★天秤(てんびん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
左右の腕の長さの等しい天秤ざおの両端に皿を吊(つ)り、品物の質量を分銅の質量と比較する秤(はかり)。天秤には使用目的に応じて、微量天秤、化学天秤、上皿天秤などがある。現在天秤と称されるものはかならずしも両腕の等しいさおのものばかりではない。不等比のさおで分銅を内蔵し自動的に質量を指示するものを直示天秤、さおの傾きを電磁気力でつり合わせるものを電磁天秤と称している。
人間が最初に用い始めた秤で、現在も最高級の秤はこれに属する。紀元前3000年ごろのエジプトの壁画に表れた天秤は、先細りで軽くじょうぶにつくられたさおをもち、水平を定める装置もついている。古代エジプトの薬法の最小単位は約0.7グラムであるので、天秤の感度はこの10分の1としても、0.1グラムに達したと思われる。分銅には最初石が用いられ、しばしば動物の形につくられていた。天秤による計量には人の恣意(しい)的な操作を入れる余地がないので、正邪を計る神の道具とされた。このため、正義の女神とされるアストライアまたはテミスの像は天秤を捧(ささ)げており、西洋の裁判所には天秤が置かれている。仏教にも同様な説話がある。古代エジプトでは、すでに青銅をつくる過程で天秤が用いられた。青銅は銅と錫(すず)の一定質量比率でもっとも硬い合金となる。天秤の支点、重点にナイフエッジが用いられるようになったとき、その精度は飛躍的に改良された。以後、天秤は冶金(やきん)と化学の有力な道具となり、いろいろな科学の定理や法則の発見に貢献した。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]
★さお秤(さおばかり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
てことおもりによって質量を計るはかりの総称。狭い意味では目盛りざおが1本の秤をいい、上皿(うわざら)さお秤を含む。このうち、日本で古くから使われてきた棒状のさお秤を棒秤とよぶ。天秤(てんびん)に対する分類名称であるが、秤が多様化した今日では主として棒秤をさすようになった。棒状といってもさおの断面は円形に限らず、長方形断面のものもある。「計量法」ではこの棒秤を「質量の目盛りのある1個の直線形のてこを使用し、そのてこに沿って、おもりまたはこれにかわる力点移動装置を移動させることにより、つり合いを得させる手動秤であって、にらみ装置のないもの」としている。にらみ装置とは、さおが水平になったことを指示する部分のことである。
ヨーロッパでは、棒秤はローマ時代に発明されたため、いまでもローマ秤という。中国でさお秤が出現した時期は周の時代と推定される。西洋には、おもりを使わず、さおの先を重くし、支点を移動させてつり合わせるものがあり、これをビスマーとよぶ。中国および日本では、古くはさおに金属を使わず、木、角(つの)、骨などを用いた。江戸幕府はこの棒秤の製作、修理、販売および取締りを江戸と京都の秤座(はかりざ)に独占的に扱わせた。 [ 執筆者:小泉袈裟勝 ]

●アヘン(あへん)【阿片】

2012年09月16日 09時20分54秒 | 色んな情報
●アヘン(あへん)【阿片】
★アヘン(あへん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【阿片】opium
モルヒネなどを含む代表的な麻薬の一種。ケシ科のケシPapaver somniferum L.の花が散ってから約10日後、果(さくか)が未熟なうちに特殊なナイフで縦に浅く切り傷をつけ、にじみ出てきた乳液がしばらくして固まってくると、これをへらでかき取って集め、弱く加熱乾燥させたものがアヘンである。これを塊状としたものが生アヘンであり、この生アヘンを粉末とし、モルヒネの含有量を9.5~10.5%に調整したものが日本薬局方のアヘン末である。黄褐色ないし暗褐色で特異なにおいがあり、強い苦味を有する。この医薬用のアヘンに対して吸煙用のアヘンは、生アヘンを水に溶かして不溶分を除去し、蒸発濃縮してエキス状としたもので、特別のきせるを用いて小さなランプの火で発煙させ吸煙する。 [ 執筆者:幸保文治 ]

 目次
 1.成分
 2.歴史
 3.あへん法.
 
1. 成分
アヘンは主成分としてアヘンアルカロイドを含み、そのほかメコン酸や樹脂、粘液などが含まれる。20種以上のアヘンアルカロイドのうち、おもなものはモルヒネ、コデイン、テバイン、パパベリン、ノスカピン(旧称ナルコチン)、ナルセインなどである。これらはフェナントレン誘導体(モルヒネ、コデイン、テバインなど)とベンジルイソキノリン誘導体(パパベリン、ノスカピン、ナルセインなど)の2群に大別され、薬理作用が異なる。このうち麻薬に指定されているのは前者で、後者のグループは非麻薬である。臨床上は、両者を併用すると単独使用より効果的な場合があるので、アヘン中のすべてのアルカロイドを抽出し精製して塩酸塩としたものが使われる。これが日本薬局方のアヘンアルカロイド塩酸塩(略称オピアル)である。
アヘンは中枢神経を麻痺(まひ)させ、鎮静、鎮痙(ちんけい)、鎮痛、鎮咳(ちんがい)、止瀉(ししゃ)(下痢止め)、催眠および麻酔補助の目的で使用される。効果はモルヒネと同様であるが、作用は緩やかで遅い。副作用として悪心、嘔吐(おうと)、頭痛、めまい、便秘、皮膚病、排尿障害、呼吸抑制、昏睡(こんすい)など慢性中毒をおこし、廃人同様になる。その感受性は個人差が大きい。常用量はアヘン末として1回0.03グラム、1日0.1グラムで、劇薬および麻薬である。製剤にはアヘン末、アヘン散(10%)、アヘンチンキ、アヘン吐根散(とこんさん)(ドーフル散)などがあり、アヘンアルカロイド塩酸塩を用いた注射薬にはアヘンアルカロイド塩酸塩注射液(オピアル、パンオピン)、アヘンアルカロイド・アトロピン注射液(オピアト、パンアト)、アヘンアルカロイド・スコポラミン注射液(オピスコ、パンスコ)、弱アヘンアルカロイド・スコポラミン注射液(弱オピスコ、弱パンスコ)があり、これらは「麻薬及び向精神薬取締法」で規制されている。
アヘンはモルヒネ、コデインなどアヘンアルカロイド系麻薬の製剤原料であり、アヘン、ケシ、ケシガラは「あへん法」によって栽培、製造、輸入、売買、取扱い、所持に規定があり、一般には売買も使用も禁止されている。 [ 執筆者:幸保文治 ]
 
2. 歴史
ケシは地中海沿岸地方の原産であった。紀元前1500年代の『エーベルス・パピルス』に、幼児がひどく泣くときはケシのシロップを与えるとよいと書かれていて、アヘンケシの薬効はきわめて古くから知られ、ギリシアでは紀元前後から麻酔剤として使用された。アヘンは中枢神経を大脳から下向的に麻酔させ、脊髄(せきずい)から上向的に興奮させる作用をもっている。1世紀から12世紀まではアヘンは小アジアの産物であったが、喫飲用としてブドウ汁、甘草などの浸出液と調合して嗜好(しこう)品としてつくりあげられた。アヘンはアラビア人によりペルシア、インド、さらに中国に広められた。ケシが初めて移植されたのは唐代であり、花が美しいので観賞用に栽培され、その種子は御米(ぎょべい)とよばれ、粥(かゆ)にして食用に供された。ケシの乾燥果皮つまりケシガラは、中国では罌粟殻(けしがら)ないし粟穀(ぞくこく)とよばれ、北宋(ほくそう)時代の11世紀から薬用に供された。元代の朱震亨(しゅしんこう)の『本草衍義補遺(ほんぞうえんぎほい)』によれば、その薬効は瀉痢(しゃり)(激しい下痢)を止め、久(きゅうがい)(慢性の咳(せき))を治すというのが主要なものとされた。ケシの未熟果実から採取した乳汁を乾燥したものがアヘンであるが、明(みん)代の『医林類証集要』(1482)にみえる記事が中国ではもっとも古いアヘンの製造を伝えていて、そこに阿芙蓉(あふよう)という名で瀉痢止めの処方が記されている。
中国ではアヘンopiumを初め阿芙蓉(オフーユン)o-fu-jungと音写した。アラビア語のアフィユムafioum、ペルシア語のアフィユンafiounなどの音に近く、のちに、阿片o-p'ien、鴉片ya-p'ienとよばれた。李時珍(りじちん)は『本草綱目』(1578年脱稿、1596年刊行)のなかで、阿芙蓉は彼の時代より少し前に天方国(アラビア)から中国に紹介されたと書き、その製法、薬効を記述し、同時に房中術に用いられた事実を指摘している。吸煙の風習が始まったのは17世紀の清(しん)代だとされるが、1729年にたばこにアヘンを混ぜて飲むことを禁じた、最初の吸煙禁止令が福建の巡撫(じゅんぶ)、劉世明(りゅうせいめい)によって発せられた。1765年(乾隆30)の『本草綱目拾遺』で趙学敏は、アヘン吸煙(鴉片烟)の風習が蔓延(まんえん)していると書き、鴉片館すなわちアヘン窟(くつ)についても言及するとともに、アヘンは1~2回これを吸うとやめられなくなり、その結果、肉体的、道徳的な退廃がおこり、「破家喪身」(家を破産させ身体を破滅させる)に至る者が出ると述べ、その吸飲の風習は最初に台湾でみられたとしている。当時、アヘンはルソンなどでつくられて中国へ持ち込まれたとされ、年間200箱(1箱は約60キログラム)を超えなかったが、1757年にイギリス東インド会社がインドのアヘン専売権を握ると、中国への輸入は急増し、1000箱に達したのは1780年、5000箱を超えたのは1816年のことであった。清朝政府の厳重な防止策にもかかわらず、1820年代には毎年1万6877箱にも増加し、その結果、イギリスとの間にアヘン戦争(1840~1842)が起こった。南京条約(ナンキンじょうやく)の締結によってアヘン戦争が終わったあとも、インドからのアヘンはそれまで以上に流入し続け、1850年には5万6839箱、1880年には9万6839箱に増大した。
輸入アヘンは、東インド会社の中国名である公班衙(こうはんが)によって公烟(こうえん)、公膏(こうこう)、公土(こうど)、公班土(こうはんど)などとよばれたが、インド北東部産などの高級品質のものは大土(おおど)と称され、輸入品はまた洋土(ようど)、洋烟(ようえん)などとよばれた。中国内地でもケシの栽培は広がり、産地名によって川土(四川(しせん)省産)、南土(雲南(うんなん)、桂州(けいしゅう)産)、西土(甘粛(かんしゅく)、陝西(せんせい)、山西産)などとよばれた。清朝政府は1906年(光緒32)に10年計画でケシの栽培を禁止するとともに、アヘン吸煙を取り締まり、また1909年に上海(シャンハイ)でイギリスなどとの間で国際会議を開き、中国全土でケシの栽培が根絶されるまでは、上海と広東(カントン)だけをインド・アヘンのために開放するという国際協定を結んで、アヘン輸入を中止しようと努力した。
日本へは江戸時代の初めにもたらされた『本草綱目』によって、阿芙蓉という名でその薬用が伝えられた。18世紀の西川如見(にしかわじょけん)の『増訂華夷通商考(ぞうていかいつうしょうこう)』(1708)や寺島良安の『和漢三才図会』(1713)にはアヘンの輸入や薬用の記事がみえるが、江戸時代末期まではアヘンを吸煙した事実は文献などには現れない。明治政府は1870年(明治3)に阿片煙禁止の布告を発し、1875年に薬用アヘンの取締法をつくった。
イギリスの作家ディ・クウィンシーの『阿片常用者の告白』(1822)やフランスの作家コクトーの『アヘン』(1930)は、アヘン吸煙の体験をもとにした作品である。 [ 執筆者:橋本敬造 ]
 
3. あへん法
あへん法は1954年(昭和29)に制定された法律(昭和29年法律第71号)で、その後、必要に応じて法改正が行われた。同法によれば、医療および学術研究の用に供するアヘンの供給の適正を図るため、国がアヘンの輸入、輸出、収納および売渡を行い、あわせて、ケシの栽培、アヘンおよびケシガラの譲渡、譲受、所持、吸食等について必要な取締りを行うことを目的とする。これらに違反する行為は、同法第8章(51条以下)の罰則が科される。これらの行為は、刑法上の「あへん煙に関する罪」(136条から141条)ともかなり重複がみられるが、その場合には、刑の重い罪によって処罰される(あへん法56条)。 [ 執筆者:名和鐵郎 ]

★アヘン - Wikipedia   http://p.tl/Mb8s
アヘン(阿片、鴉片)は麻薬の一種で、ケシ(芥子)の実から生産される。
アヘンの名は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(a piàn, アーピエン)を日本語読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。

★阿片戦争 - Wikipedia   http://p.tl/3uZH http://p.tl/sVqy http://p.tl/mlGx
阿片戦争(アヘンせんそう、英: First Opium War, First Anglo-Chinese War)は、清と イギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、 アヘンの密輸が原因となった戦争である...

★ケシとアヘン(阿片)のお話 http://p.tl/gFir
アヘンの原料植物ケシPapaver somniferumについて

★「アヘン戦争」の舞台裏   http://p.tl/DcOI
アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態
★世界史講義録  第102回  アヘン戦争(前編)http://p.tl/LytZ  (後編) http://p.tl/GMo5
★中国史(第27回 アヘン戦争)     http://p.tl/14Nn
★アヘン戦争 どう伝わったか     http://p.tl/ECBj
★アヘン帝国 --- 汚れた歴史      http://p.tl/beX5
★ねずさんの ひとりごと 阿片戦争   http://p.tl/-4ZS
★日本のアヘン政策の時代背景     http://p.tl/Esxn
★太平洋戦争への道          http://p.tl/7l8j

★アロー戦争(アローせんそう、英語:Arrow War)http://p.tl/d7xa
1856年から1860年にかけて清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなった。きっかけとなったのはアロー号事件だが、戦争の目的からアヘン戦争に続く第二次アヘン戦争(en:Second Opium War)とも呼ぶ。

★三角貿易 - Wikipedia     http://p.tl/K4Oh
事態打開を図るため、インドでアヘンを製造し、清へ密輸する活動が活性化した。 こうした政策が推進されたのは、「外国にお金が出て行くと損だ」という重商主義的な 見方にイギリスが囚われていたためである。
★欧州、西アフリカ、西インド・北米の三角貿易(奴隷貿易)http://p.tl/MNyf
★万国阿片条約(英語: International Opium Convention)http://p.tl/Oh4m
ハーグにて1912年1月23日に調印された初の薬物統制に関する条約である。アヘンをはじめモルヒネや、ヘロイン、コカイン、大麻などが条約の統制対象となった。1911年からの1912年にかけてのハーグにおける万国阿片会議にて条約は調印され 、ヴェルサイユ条約を通して批准され、1924年から1925年にかけてのジュネーヴ国際阿片会議にて条約を補足する協定が作成された。
1946年の「千九百十二年一月二十三日にヘーグで、千九百二十五年二月十一日、千九百二十五年二月十九日及び千九百三十一年七月十三日ジュネーヴで、千九百三十一年十一月二十七日にバンコックで並びに千九百三十六年六月二十六日にジュネーヴで締結された麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」を経て、1961年の麻薬に関する単一条約に万国阿片条約は引き継がれた。

★ケシ - Wikipedia     http://p.tl/c_sj
日本では Opium poppy など Opium 産生植物はあへん法で栽培が原則禁止されて いる種に指定されており、厚生労働大臣の許可を得 ... その間に帝国の退廃を映して 利用法も麻薬用へと変貌を遂げ、大航海時代を経てアヘン原料として世界各地に広まっ た。

★アヘン戦争阿修羅     http://p.tl/aauq
どうして汝らの国でさえ吸食しないアヘンをわが国に持 ち込み、人の財を騙し、人の命を 害するのか? [1,p152] 1839年2月4日、林則徐はこのような書面をアヘン商人達に つきつけ、積み荷のアヘンをすべて供出するように命じた。こ の時のイギリス貿易監督 官 ...
★芥子(ケシ) Opium poppy  http://p.tl/Kvp6
★アヘンと世界史(Adobe PDF) http://p.tl/aIJd

●海馬(かいば)●タツノオトシゴ【海馬・竜の落子】★海馬島(かいばとう)

2012年09月16日 07時01分43秒 | 色んな情報
●海馬(かいば)●タツノオトシゴ【海馬・竜の落子】★海馬島(かいばとう)
★海馬(かいば) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
ウマのような大きな海産動物の意。セイウチ(海象)、アシカ(海驢)、ジュゴン(儒艮)にも用いられるが、最近は胡櫞にかえてトドの漢名として定着しつつある。タツノオトシゴの異名でもある。 [ 執筆者:伊藤徹魯 ]
★タツノオトシゴ(たつのおとしご) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/KLIp
【海馬・竜の落子】seahorse
硬骨魚綱ヨウジウオ目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科Hippocampinaeの海水魚の総称。全長18センチ以下の小形魚で、ウミウマともよばれ、英名はシーホース(海馬の意味)。吻(ふん)は管状で、口はその先端で斜め上方に小さく開く。体は側扁(そくへん)して輪状をした硬い骨質板で覆われる。頭と胴体はほぼ直角。尾部は長く伸びて尾びれはなく、その先端は内側にくるりと巻いて、これで藻に巻き付いたりする。
★海馬島(かいばとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
南樺太(からふと)の西能登呂(のとろ)(クリリオン)岬西方約80キロメートルの海上にある小島。旧称(アイヌ名)トドモシリ島。フランス人探検家ラ・ペルーズの命名およびロシア名はモネロンМонерон/Moneron島。ロシア連邦サハリン州の所属。南北に長く約7キロメートル、面積16平方キロメートル。中央に台南岳(438メートル)がそびえる。下部は第三紀層の堆積(たいせき)岩、上部は火山岩よりなる。季節により、トド(海馬)、アシカのほか、エトピリカなどの海鳥も多く生息する。第二次世界大戦前は樺太庁本斗(ほんと)支庁に属し、海馬村の人口は751(1942)であった。古丹(こたん)、鴎沢(かもめざわ)などの漁村があって、ニシン、タラ、ナマコ、コンブなどを産した。1983年(昭和58)9月、付近の海域で大韓航空機撃墜事件が発生した。 [ 執筆者:渡辺一夫 ]
★樺太(からふと) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/tedP
北海道の北に、南北に長く連なる島。ロシア名サハリンСахалин/Sahalin。東はオホーツク海、西は日本海に囲まれる。大陸とはタタール海峡によって隔てられ、その最狭部にあたる間宮(まみや)海峡(ネベリスコイ水道)は幅7.3キロメートルしかなく、水深も浅い。北海道との間は宗谷海峡によって隔てられ、その幅は約40キロメートルである。南北948キロメートル、東西は最大部160キロメートル、最狭部27キロメートル。面積は7万6400平方キロメートルで、北海道(本島7万8073平方キロメートル)よりもわずかに小さい。ロシア連邦のサハリン州は、千島列島および周辺の諸島を含めて面積8万7100平方キロメートル、人口59万1000(2001)。中心都市は南端部の豊原(とよはら)(ユージノ・サハリンスク)で、人口17万9900(1999)。現在の住民の約8割はロシア人であり、ウクライナ人(6%)、朝鮮人(5%)、ベラルーシ人、モルドバ人などが住む。ほかに少数のギリヤーク(ニブヒ)、ウイルタらも住む。北緯50度以南の南樺太は1905年(明治38)から45年(昭和20)まで日本が領有していたため、第二次世界大戦前は約38万人の日本人が居住していた。朝鮮人の居住者は、日本を通じてやむなく移住させられ、残留した人たちである。 [ 執筆者:外川継男・渡辺一夫 ]
★モネロン島(もねろんとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
Остров Монерон(キリル文字)、Ostrov Moneron (ラテン文字)
南樺太(からふと)(サハリン)南西部沖合いにある海馬(かいば)島の別名。
[ 執筆者:編集部 ]

★海馬(かいば)http://p.tl/hVht
1.seahorseの訳語。
  1.タツノオトシゴのこと。かいばではなく、うみうまと読む場合もある。
  2.セイウチのこと。また、トドなどを含む、アシカのことを指すこともある。
  3.ジュゴンの誤称。
2.脳の部位。タツノオトシゴに似た形なのでこのように呼ばれる。短期記憶を司る。=海馬体・海馬 (脳)
3.ギリシア神話の生物については、ヒッポカンポス参照。
4.日本人の姓の一つ。現在宮城県に多く東松島市に特に多い。
  ・海馬ゆう(芸名)
  ・海馬瀬人(漫画『遊☆戯☆王』の登場人物)
5.地名
  ・海馬島
  ・海馬村

★タツノオトシゴ   http://p.tl/xZ7A
タツノオトシゴ(竜の落とし子)は、トゲウオ目ヨウジウオ科タツノオトシゴ属 Hippocampus に分類される魚の総称。狭義にはその中の一種 Hippocampus coronatus の標準和名としても用いられる。およそ魚には見えない外見と、オスが育児嚢で卵を保護する繁殖形態が知られた分類群である。
日本の別名はウミウマ、カイマ、ウマノコ(日本各地)、ウマノカオ(富山)、リュウノコマ(神奈川県三崎)、ウマヒキ、リュウグウノコマ(和歌山)、ウマウオ、タツノコ(高知)などがある。英名でも"Seahorse"(シーホース : 海の馬)と呼ばれる。

★セイウチ(海象、Odobenus rosmarus)http://p.tl/9oPs
哺乳綱ネコ目(食肉目)セイウチ科セイウチ属に分類される鰭脚類。本種のみでセイウチ科セイウチ属を形成する。名はロシア語でトドを意味する「シヴーチ」 (сивуч) に由来する。
★トド(Eumetopias jubatus)http://p.tl/aSGJ
哺乳綱ネコ目(食肉目)アシカ科トド属に分類される食肉類。本種のみでトド属を構成する。
★ジュゴン(Dugong dugon)http://p.tl/bDzz
哺乳綱カイギュウ目(海牛目)ジュゴン科ジュゴン属に分類される哺乳類。本種のみでジュゴン属を構成し、現生種では本種のみでジュゴン科を構成する。


★海馬島は、島の名前。
・海馬島 (樺太) - 樺太庁 本斗郡 海馬村に属す海馬島(かいばとう)・露名はモネロン島
・海馬島 (根室市) - 北海道 根室市に属す海馬島(とどじま)。北方領土である歯舞群島の島の一つ。
・海馬島 (猿払村) -宗谷郡 猿払村に属す海馬島(とどじま)
・海驢島 - 礼文郡礼文町に属す島。海馬島と略表記されることがある。

★海馬島 (樺太)   http://p.tl/LMZz
海馬島(かいばとう、トドモシリ)は、樺太島(サハリン)の南西端にある無人島である。晴れた日には、利尻島や礼文島、宗谷岬からも見ることができる。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を参照のこと。現在はロシア連邦がサハリン州のモネロン島(Остров Монерон)として実効支配している。
★海馬村(かいばむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村である。http://p.tl/B4re
・海馬島からなる。人口は昭和16年(1941年)度末には751人。終戦直後にソ連軍が上陸した際、略奪、暴行を恐れた全戸が島より脱出した。
・東部の北古丹地区に村役場があった。
・法的には 1949年6月1日、国家行政組織法の施行をもって消滅した。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照。

★樺太庁(からふとちょう)http://p.tl/0W1i
(ロシア語: Префектура Карафуто)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。
この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。

★北方領土(ほっぽうりょうど)、北方四島(ほっぽうよんとう)http://p.tl/zVXc
北方地域 - 日本の各種の法令において使用される用語で、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島、その他内閣総理大臣が指定する「北方の地域」を指す。なお、郵政民営化まで、国際郵便料金の分野(郵政省の官報告示など)で、「北方諸島」との用語が使用されていた。
北方領土問題 - 上記「北方地域」を巡る領土問題。「北方領土の問題」と捉えるか「北方の領土問題」と捉えるかなど、解釈に争いの余地がある。

★北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい) http://p.tl/f5zL
(ロシア語: Проблема принадлежности южных Курильских островов)は、北海道根室半島の沖合にあり、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々、すなわち北方領土に対して、日本が返還を求めている領土問題。


★領土問題(りょうどもんだい)http://p.tl/l8Tg
ある地域がどの国家の領域に属するかをめぐって、国家間での争いが起きることである。
よく領土問題の原因になるのが、その土地にある石油などの天然資源や、国境付近にある川、農地、重要建造物である。また、その土地を始めに占有した国家が領有を明確にしていなかったり、付近に他の国家がありながらもその国家の了解を得ていなかったりといった歴史的経緯も、原因になりやすい。
領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。
「国際法」も参照

★国際法(こくさいほう)   http://p.tl/iQaG
英: International Law, Law of Nations、西: Derecho Internacional、仏: Droit international public, Droit des gens)とは、国際社会(「国際共同体」(仏: la communauté internationale、西: La comunidad internacional、英: International Community)を規律する法をいう。国際公法(英: Public International Law、西: Derecho Internacional Público)ともいう。国家がその主権において自国内に制定する「国内法」と対比される。なお、その主要な法源は条約と国際慣習法である。