縄文人の反乱 日本を大事に

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●   八   (八、はち、は、ぱ、や)

2012年09月13日 20時54分09秒 | 色んな情報
●   八   (八、はち、は、ぱ、や)
★8 - Wikipedia     http://p.tl/_RCt
・漢字で「八」と書くと下の方が広がる事から「末広がり」を意味し、日本では幸運とされる。
・古代の日本においては、8 は聖数とされ、また、漠然と数が大きいことを示すのにも使われた(例:八島、八雲、八咫鏡、八重桜)。
・同様に、八を用いた八十(やそ)、百八十(ももやそ)、八百万(やおよろず)等も「数が大きい」という意味で用いられる。
・第8代天皇は、孝元天皇。
・第8代内閣総理大臣は、山縣有朋。
・大相撲第8代横綱は、不知火諾右衛門。
・国道8号(新潟県新潟市~京都府京都市)。
・花札を用いて行われるゲームの1つおいちょかぶでは、8を「オイチョ」と呼ぶ。これはスペイン語の 8(ocho)が訛ったものである。
・永字八法:書をするときに必要な筆の運びなどは、「永」という字に揃っているということを指す。
・ミツバチがアラビア数字の「8」の通りに飛行活動する行為を「パルス」という。
・8の字結びは、アラビア数字の「8」の形からその名前がついた結び目。

★富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう)(八海めぐりから転送) http://p.tl/U-s5
1.富士山とそこに住まう神への信仰を行うための講社である。広義の富士講。
2.特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を組むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。狭義の富士講。通常はこちらをいう。
★忍野八海(おしのはっかい)は山梨県忍野村にある湧泉群。富士山の雪解け水が80年の歳月をかけ濾過し、湧水となって8か所の泉を作る。国指定の天然記念物、名水百選に指定されている。また新富岳百景選定地にもなっている。
・英名:Springs of Mt.Fuji
・相模川水系
・忍野八海守護神「八大竜王」

★8に関する作品   http://p.tl/7Hjs
・8マン『エイトマン』アニメ
・八つ墓村:横溝正史の推理小説、及びそれを原作とした映画やテレビドラマ。「八つ墓」とは尼子氏の落武者の人数を指している。
・南総里見八犬伝:曲亭馬琴の伝奇小説。
★8個1組の概念
・八方:北・南・東・西・北東・南東・北西・南西。四方に四隅を加えた8方位の総称。
・八卦:乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤。それぞれ方位や吉凶を表すのに用いる。
・八音:金・石・糸・竹・匏・土・革・木。原材料8種類の楽器の総称。
・八正道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。佛教において、悟りに至るための8種類の方法。
・八徳:仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌

★グーグル八分(グーグルはちぶ)http://p.tl/768p
グーグルの基準に該当するページが、Googleのデータベースから除かれ、Googleで検索しても内容が表示されない状態になることを村八分になぞらえて呼ぶ言葉である。 Googleの検閲行為とも言われる。英語では "Censorship by Google" あるいは "Google Censorship"と呼ばれる。
★グーグル八分と検索エンジン・ナショナリズム   http://p.tl/5HpM
グーグル八分のような、外国の私企業による情報の制限について危機感を持つ人々もいる。

★八咫烏 - Wikipedia   http://p.tl/gpJK
★『●カラス(烏、鴉、?、雅)●八咫烏(やたがらす、やたのからす)』 http://amba.to/NqGKrf
★『●日本神話 過去にいくつ上げておいた関係のモノをまとめて』 http://amba.to/NqGQiK
★『●八犬伝 ●犬伝説 ●忠犬』 http://amba.to/NqHqwL
★『また これも日本文化だよ』 http://amba.to/PBSr9F
★『●宗教からの派生 日本思想 生活』 http://amba.to/NqHXPp

★八正道 - Wikipedia   http://p.tl/84eM
 八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、????????????? ??????)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
★中道(ちゅうどう)http://p.tl/tiSI
仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。
苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。

★尺八 - Wikipedia   http://p.tl/QnAh
尺八(しゃくはち)は日本の伝統的な木管楽器の一種である。リードのないエアリード 楽器に分類される。中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、 鎌倉時代~江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。
★『●禅(ぜん)   ★虚無僧(こむそう)』 http://amba.to/NqJ81p
★『●「ふける」と言う言葉知っているかな』 http://amba.to/NqJbdt

★村八分 - Wikipedia   http://p.tl/ZqFX
村八分(むらはちぶ)とは日本の村落の中で掟や秩序を破った者に対して課される消極的制裁(共同絶交)行為についての俗称。(差別用語)
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。また、「八分」は「はじく」(爪弾きにする)の訛ったもので、十分のうち二分を除いたものというのは後世の附会であるとの説もある。
作家の八切止夫は村八分の語源を村八部にあると唱えている。

★八十八夜 - Wikipedia   http://p.tl/-tD_
八十八夜(はちじゅうはちや)は、雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として88日目、つまり、立春の87日後の日である。
21世紀初頭の現在は平年なら5月2日、閏年なら5月1日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により5月3日の年もある。
この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれている。茶の産地である埼玉県入間市狭山市・静岡県・京都府宇治市では、新茶のサービス以外に手もみ茶の実演や茶摘みの実演など、一般の人々も参加するイベントが行われる。

★船中八策 - Wikipedia   http://p.tl/qF7Q
船中八策(せんちゅうはっさく)は、幕末維新期、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が慶応3年(1867年)に起草した新国家体制の基本方針とされるものの俗称である。

★3年B組金八先生 - Wikipedia     http://p.tl/mULD
『3年B組金八先生』(さんねんビーぐみ きんぱちせんせい)は、TBSが1979年(昭和54年) から2011年(平成23年)までの32年間にわたって断続的に制作・放送されたドラマ。 日本の学園ドラマの代表格とも称される作品でもある。

★大八車 - Wikipedia   http://p.tl/G-b8
大八車・(だいはちぐるま)とは、江戸時代から昭和時代初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車である。代八車とも書く。
なお、同様の構造の荷車は少なくとも平安時代から使用され続けている(牛車参照)が、一般的には江戸時代からとされることが多い。
  ・名称の由来  名の由来は、諸説ある。
・一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
・車台の大きさが8尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ
・現在の滋賀県大津の八町で使われていたことから、「大津八町の車」が略され「大八車」になった

★八つ墓村 - Wikipedia   http://p.tl/TyCg
『八つ墓村』(やつはかむら)は、横溝正史著による長編推理小説。本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2010年8月現在)。9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。1977年の映画化の際、テレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ~っ!」というセリフ=キャッチコピーは流行語にもなった。

★八部衆 - Wikipedia   http://p.tl/5LEi
八部衆(はちぶしゅう)または天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)は、仏法を守護する8 神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に 帰依し、護法善神となったものである。十大弟子と共に釈迦如来の眷属を務める。

★四国八十八箇所 - Wikipedia   http://p.tl/GVyz
四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ)は、四国にある88か所の空海(弘法大師)ゆかりの札所の総称。単に八十八箇所、あるいは四国霊場と言う場合も多い。四国八十八箇所を巡拝することを四国遍路、四国巡拝などとも言う。

●   七 (七、しち、ひち、ち、なな、なー)

2012年09月13日 20時54分09秒 | 色んな情報
●   七 (七、しち、ひち、ち、なな、なー)
★7 - Wikipedia     http://p.tl/0zXu
ラテン語ではseptem(セプテム)。
「七」の訓読みは「なな」、音読みは「しち」である。だが、「しち」という読みが言いにくく、また一(いち)、四(し)、八(はち)と聞き間違いやすいことから、他の数字なら音読みする文脈でも訓読みすることが多い(70(ななじゅう)など)。ただし、「7月(しちがつ)」、「7時(しちじ)」は、聞き間違いを意識的に排除する場合を除き、音読みする。名数では、他の数字同様、後に続く語が音読みか訓読みかによって読みが決まる(「七福神(しちふくじん)」「七草(ななくさ)」など)が、希に、後に音読みが続くにもかかわらず訓読みするものもある(「七不思議(ななふしぎ)」など)。
七(しち)を「ひち」と発音する方言もある。例えば岐阜県の「七宗町」の読みは「ひちそうちょう」と公式に定められている。

★七つの大罪(ななつのたいざい)http://p.tl/38no
キリスト教の用語。七つの罪源とも呼ぶ。「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情のことを指す。

★孝霊天皇(こうれいてんのう)http://p.tl/4LEj   第7代天皇
孝安天皇51年(紀元前342年)- 孝霊天皇76年2月8日(紀元前215年3月27日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年2月19日) - 同76年2月8日(紀元前215年3月27日))。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)・大倭根子日子賦斗邇命(『古事記』)。
「ヤマトネコ」という称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古事記』)にみえ、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日本紀』)の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したとの疑いが濃厚である。[要出典]
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある。

★七味唐辛子は唐辛子を含む7種類の材料で作られた調味料。http://p.tl/Iyb8
★7に関する作品     http://p.tl/-pHt
★7個1組の概念     http://p.tl/y0EE
★七福神(しちふくじん)http://p.tl/j8IS
 七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。
★宝船(たからぶね)  http://p.tl/Q1vv
 宝船(たからぶね)とは、七福神が乗る宝物を積み込んだ帆船、または、その様子を描いた図のこと。新年をあらわす季語でもある。
宝船には珊瑚・金銀・宝石など、様々な宝物が積み込まれているという。そのため宝船はおめでたい船とされ、この船に七福神が乗っている様子をかたどった置物などが縁起物として親しまれている。その帆には「獏」の字が書かれることもある。
また、宝船が描かれた図には
     なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
     (永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな)
という回文歌などが書かれることがあり、正月の2日にその絵を枕の下に入れて寝ると良い初夢を見ることができると言われている。
★七草(ななくさ)   http://p.tl/iX5U
 七草(ななくさ)は、人日の節句(1月7日)の朝に、7種の野菜が入った粥を食べる風習のこと。本来は七草と書いた場合は秋の七草を指し、小正月1月15日のものも七種と書いて「ななくさ」と読むが、一般には7日正月のものが七草と書かれる。現代では本来的意味がわからなくなり、風習だけが形式として残ったことから、人日の風習と小正月の風習が混ざり、1月7日に「七草粥」が食べられるようになったと考えられる。

★世界の七不思議(せかいのななふしぎ)http://p.tl/Ic8W
古典古代(古代ギリシャ・古代ローマ時代)における7つの注目すべき建造物のことである。
現在一般的には、紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンの書いた「Επτά θαύματα του αρχαίου κόσμου (世界の七つの景観)」の中で選ばれた、古代の地中海地方に存在していた7つの巨大建造物を指す。
「不思議」の意味
上記の書名で景観と訳されている θαύματα とは、ギリシア語で「必見のもの」といった意味である。つまり、本来は「怪しい」「ありえない」といった意味は含まれていない。
しかし、日本語では「世界の七不思議」などと訳されたために、現代ではオカルトブームなどと結びついて閉まっているがオカルトは消したほうが良いようだ。

★八百屋お七 - Wikipedia   http://p.tl/z0zt
幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られる。一途な悲恋として井原西鶴によって取り上げられ、後に浄瑠璃など芝居の題材となった。

★半七捕物帳 - Wikipedia   http://p.tl/HEfF
『半七捕物帳』 (はんしちとりものちょう) は、岡本綺堂による時代小説で、捕物帳連作の嚆矢とされる。
かつて江戸の岡っ引として、化政期から幕末期に数々の難事件・珍事件にかかわった半七老人を、明治時代に新聞記者の「わたし」が訪問し、茶飲み話のうちに手柄話や失敗談を聞きだすという構成で、旧幕時代の風俗を回顧しながら探偵小説としての謎解きのおもしろさを追求する趣向の小説である。作中で「捕物帳」とは町奉行所の御用部屋にある当座帳のようなもので、同心や与力の報告を書役が筆記した捜査記録をさしている。

★十七条憲法 - Wikipedia   http://p.tl/-y-o
 十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)は、憲法十七条、十七条の憲法とも言われる。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇12年4月3日(ユリウス暦604年5月6日)の条に「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されており、『日本書紀』には全17条が記述されている。この「皇太子」は、「廄豐聰爾皇子」すなわち聖徳太子を指している。
内容は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されている。儒教・仏教の思想が習合されており、法家・道教の影響も見られる。

★七不思議(ななふしぎ)http://p.tl/h_n2
神仏の奇特を説く七不思議が一方に存在したのである。  江戸にも民間説話を題材にした七不思議がある。有名な本所(ほんじょ)の七不思議、麻布(あざぶ)の七不思議がそれである。本所の七不思議には ...
★遠州七窯(えんしゅうなながま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸初頭を代表する大名茶人であった小堀遠州が指導したと伝える七つの窯。いずれも国焼で、静岡の志戸呂(しどろ)焼、滋賀の膳所(ぜぜ)焼、京都の朝日焼、大坂の古曽部(こそべ)焼、奈良の赤膚(あかはだ)焼、福岡の上野(あがの)焼、高取焼の七つの窯をさすとしたのは幕末1854年(安政1)の『陶器考』である。出雲(いずも)藩主松平不昧(ふまい)が1811年(文化8)に著した『瀬戸陶器濫觴(らんしょう)』には、高取、膳所以外に、鹿児島の薩摩(さつま)焼、熊本の肥後(ひご)焼、兵庫の丹波(たんば)焼、佐賀の唐津(からつ)焼、岡山の備前(ぴぜん)焼があげられ、一致していない。遠州七窯の概念は江戸後期におのずと決まったものらしく、一貫する根拠もない。おそらく「きれいさび」で象徴される美意識を盛り込んだ遠州好みの瀟洒(しょうしゃ)な作風で選択したのかもしれない。ただ、膳所焼、高取焼と遠州との交渉を示す文献史料があり、作風にもかかわりをもったことは十分に考えられる。 [ 執筆者:矢部良明 ]
★過去七仏(かこしちぶつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
かつてこの世に現れたといわれる七仏。毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の七仏をいう。このうち初めの三仏は、過去の住劫(じゅうごう)(荘厳劫(しょうごんごう))の末に出世し、それ以下の四仏は、現在の住劫(賢劫(げんごう))に出世したといわれる。 [ 執筆者:高橋 壯 ]

★七人塚(しちにんづか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
横死した7人を埋めた塚や墓碑の由来を語る伝説。その多くは、戦(いくさ)に敗れて落ち延びてきた武者の自刃とか戦傷死など、非業の死を伴っている。天竜川水系の山塊地に多く、愛知県北設楽(きたしたら)郡や岐阜県などに武田氏や土岐(とき)氏の落ち武者の口碑が伝えられる。名古屋市熱田(あつた)神宮の裏の七塚は平将門(まさかど)とその影武者の霊を祀(まつ)る。千葉市にあるという7基の塚は牛頭(ごず)天王を祀り、やはり将門の武者とも影武者ともいう。村境や山峡、峠などの境に多いのは、御霊(ごりょう)(横死者の霊)をもって悪霊を防ぐ境の神の祭場であるからとする柳田(やなぎた)説がある。非業の死のモチーフは、七人塚に限らず、八人塚や十三塚などにも残されている。 [ 執筆者:渡邊昭五 ]

★七部集(しちぶしゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
芭蕉俳諧(ばしょうはいかい)の展開上重要な撰集(せんじゅう)7部を選び集めた『俳諧七部集』(1732ころ成立か)の流行に倣って、後世、代表的な俳人の書7部を取り集めて一書として刊行することが書肆(しょし)の間で、あるいは弟子たちの間で盛んに行われた。それらのいくつかを列挙するならば、『其角(きかく)七部集』『雪門七部集』『蕪村(ぶそん)七部集』『暁台(きょうたい)七部集』『乙二(おつに)七部集』『道彦(みちひこ)七部集』『樗良(ちょら)七部集』『士朗七部集』『俳諧月居(げっきょ)七部集』などである。おおむねは書肆がベストセラーをねらっての刊行ではあったが、おのおのの俳人の俳風の変遷をたどるには便利である。ただ、テキストとして用いるには、書肆の杜撰(ずさん)によってまま誤脱があるので注意しなければならない。ちなみに、『蕪村七部集』は、小本2冊で1808年(文化5)に刊行されており、実際には『其雪影(そのゆきかげ)』『あけからす』『一夜四歌仙』『花鳥篇(かちょうへん)』『桃李(ももすもも)』『続あけからす』『続四歌仙』『五車反古(ごしゃほうぐ)』の8部を収めている。
なお、変わった七部集では、俳人個人のものではなく、近世流行の俳風を知らせようとの目的で編まれた『俳諧流行七部集』というのもある。 [ 執筆者:復本一郎 ]

●   七 人 の 侍

2012年09月13日 19時33分52秒 | 色んな情報
●   七 人 の 侍
★七人の侍(しちにんのさむらい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本映画。1954年(昭和29)作品。黒澤明監督。
戦国時代、野盗の襲来に悩む農民たちが武士を雇って村を守ろうとする。勘兵衛(志村喬(たかし))を指揮者とする七人の侍(稲葉義男(よしお)、加東大介(だいすけ)、千秋実(ちあきみのる)、宮口精二、木村功(いさお)、三船敏郎(としろう))は、農民たちを巧みに組織しながら、先頭にたって戦い、秋の収穫期をねらって襲ってきた野盗の群れを壊滅する。その戦いで7人のうち4人が死ぬ。「勝ったのは百姓たちだ。わしたちではない」という勘兵衛の述懐が、大地とともに生きる人間、つまり生産する人間こそが勝利者であるとする結論になる。戦闘場面では、複数のカメラと望遠レンズの効果的な使用、編集の緊密さによって、すばらしくダイナミックなアクション・シーンを生み出した。アメリカ西部劇の手法を日本の時代劇に生かし、さらに迫力を盛り上げた黒澤監督の演出力は世界的な評価を得、同年のベネチア映画祭で銀獅子(じし)賞を受賞した。また、この作品が翻案されてアメリカ西部劇『荒野の七人』(1960)がつくられたほか、多くの追随作品を生んでいる。優れた娯楽性と力強い叙事詩性とが混然と融合した、3時間27分の時代劇映画の大作である。 [ 執筆者:品田雄吉 ]

★時代劇(じだいげき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/LHh5
映画やテレビで明治時代以前の時代を扱った作品の総称である。旧劇、髷物(まげもの)、チャンバラ映画、剣戟(けんげき)映画などともいう。大部分は源平時代から江戸時代までを扱い、とくに江戸時代に集中しているが、奈良時代、平安時代などを扱った若干の作品や、明治初期を扱った作品などもこれに含めてよぶ場合もある。日本映画が産業として成り立つようになった1910年(明治43)ごろから、産業として落ち込み始める1960年代のなかばごろまで、日本で大量生産されていた映画の半分はこの時代劇だった。以後、映画では製作本数も全体のなかでの比率も低下してくるが、テレビでは今日に至るまで重要なジャンルであり続けている。 [ 執筆者:佐藤忠男 ]

★黒澤明(くろさわあきら) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1910―1998)
映画監督。東京出身。1936年(昭和11)、東宝の前進のPCLに入社。山本嘉次郎(かじろう)に師事、『姿三四郎』(1943)でデビューした。敗戦直後に『わが青春に悔いなし』(1946)、『酔いどれ天使』(1948)、『野良犬』(1949)と、第二次世界大戦後の世相と心情を活写し、日本映画の旗手となった。
1950年(昭和25)の『羅生門(らしょうもん)』はベネチア国際映画祭のグランプリに輝き、日本映画の世界への道を開いた。『生きる』(1952)、『七人の侍』(1954)ではリアリズムとヒューマニズムを、たくみな話術とダイナミックな映像で謳い上げた。1960年代に入ると、テレビ時代に対抗して、『椿三十郎』(1962)、『天国と地獄』(1963)、『赤ひげ』(1965)と、ヒット作品を連打、気を吐いた。その後低迷したが、『デルス・ウザーラ』(1975)、『影武者』(1980)、『夢』(1990)と独特な老境を明示。1985年に映画人初の文化勲章を受賞、1998年(平成10)映画監督初の国民栄誉賞を受賞した。 [ 執筆者:千葉伸夫 ]

★三船敏郎(みふねとしろう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1920―1997)
俳優。中国の青島(チンタオ)に生まれる。大連(だいれん)中学を卒業。1946年(昭和21)東宝第一期ニュー・フェイス募集で採用されて入社、翌年『銀嶺(ぎんれい)の果て』でデビューした。1948年黒澤明に認められ『酔いどれ天使』の主役に起用され、豪快な演技力をみせて一躍スターの座を獲得。以後『静かなる決闘』『野良犬』『羅生門(らしょうもん)』『七人の侍』『用心棒』などの黒澤作品に個性豊かな演技を発揮した。1962年には三船プロを設立。また『価値ある男』『レッド・サン』『1941』などの海外作品にも出演、国際的な活躍をみせた。そのほかに『蜘蛛巣城(くものすじょう)』『無法松の一生』『椿(つばき)三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『日本のいちばん長い日』『千利休 本覺坊遺文』など。 [ 執筆者:長崎 一 ]

★羅生門(らしょうもん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本映画。1950年(昭和25)公開の大映作品。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が『今昔物語集』に題材を得て書いた小説『藪(やぶ)の中』を橋本忍(しのぶ)が脚本化し、黒澤明が加筆して監督したものである。平安時代末期の京の荒れ果てた羅生門で、雨宿りをしている僧と木こりが、こもごも今見てきた裁判の経過を語る。それは一つの強姦(ごうかん)殺人事件をめぐる当事者と目撃者の四つの物語である。同じ一つの事件を4人がそれぞれ違う立場で述べると事実関係まで違ってくる。この映画は、いったい真実は何なのか、と観る者に探らせる手法をとる。三船敏郎(としろう)、京マチ子、森雅之(まさゆき)、志村喬(たかし)の名演と、宮川一夫(1908―1999)の黒白映像の粋(すい)を凝らした撮影を得て、黒澤明の映画的感覚がさえた傑作となった。1951年のベネチア国際映画祭に出品されて、欧米の巨匠たちの作品を抑えてグランプリを受賞したが、これはそれまで国際的にはほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめた映画史上の画期的な出来事であり、以後日本映画は続々と海外に進出することとなった。 [ 執筆者:佐藤忠男 ]


★『時代劇』 http://amba.to/PBSKl0
★『●演歌と時代劇と邦画の良い所』 http://amba.to/Oi3Sof
★『●剣と日本刀』 http://amba.to/OZwzsE
★『●わたしの大好きな演歌』 http://amba.to/Oi0vO5
★『お江戸日本橋』 http://amba.to/QP1qes
★『●ゆるり   ●ごゆるりと』 http://amba.to/QP1Pxx
★『◆百人一首』 http://amba.to/QP21x0 野路由紀子 うたう小倉百人一首 (一 ~ 十) 正に演歌である



★七人の侍 - Wikipedia   http://p.tl/AeOY
日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年[1])を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。

★『荒野の七人』(こうやのしちにん、原題:The Magnificent Seven)http://p.tl/H9VC
1960年のアメリカ映画。
黒澤明監督の日本映画『七人の侍』(1954年)の舞台を西部開拓時代のメキシコに移して描いたリメイク映画である。後に第二作『続・荒野の七人(1966)』(en:Return_of_the_Seven)、第三作『新・荒野の七人 馬上の決闘(1969)』(en:Guns_of_the_Magnificent_Seven)、第四作『荒野の七人・真昼の決闘(1972)』(en:The_Magnificent_Seven_Ride)などの続編が制作された。

★ 七人の侍 1954.04.26 207分 白黒 予告編の話   http://p.tl/kcFP
★『七人の侍』の組織論 (内田樹の研究室)  http://p.tl/ze2t
★七人の侍人気キャラクターランキング   http://p.tl/8JMG
★「七人の侍」真の主人公は?   http://p.tl/bs92
★『七人の侍』・日米訴訟合戦   http://p.tl/u3lc
★「七人の侍」予告編     http://p.tl/zSk4
★七人の侍たち   http://p.tl/0zXY
★七人の侍   http://p.tl/pGkF
★七人の侍   http://p.tl/PwsG
★七人の侍   http://p.tl/9w-5
★「史上最高の外国語映画100本」・・・第1位に「七人の侍」2010/06/14   http://p.tl/JBhK
★「世界に一番影響を与えた映画」 七人の侍の予告を観た外国人の反応   http://p.tl/046F
★七人の侍とは (シチニンノサムライとは) [単語記事] - ニコニコ大百科   http://p.tl/yCaC
★「若人のための日本映画入門 ・戦後黄金期編」、巨匠・黒澤明の世界    http://p.tl/vx8m
★『七人の侍:歴史への挑戦』に於ける歴史認識の誤謬に就いて       http://p.tl/gipa

★七人の侍【しちにんのさむらい】世界大百科事典 第2版
西部劇のスケールの大きさを日本映画にとり入れた黒沢明監督の時代劇。1954年製作。脚本は橋本忍,小国英雄,黒沢明による集団創作(各自別々に書いたシナリオを総合する方式)。戦国時代,貧しい農民たちが7人の侍を雇い,野武士の襲撃から村を守る物語である。複数のカメラを駆使した〈マルチカメラシステム〉とともに望遠レンズを多用し,エイゼンシテインらのソ連のサイレント映画のモンタージュを思わせるダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面がとくに高く評価され,〈アクション映画のリアリズム〉を確立した。

★七人のひととなり    http://p.tl/bJ3G
★世界映画史上の最高傑作 http://p.tl/x6c7

アメーバの読者から二人も電子辞書についてとコメント頼まれた

2012年09月13日 17時20分45秒 | 色んな情報
アメーバの読者から二人も電子辞書についてとコメント頼まれた
最初に伝えておくけれども私の高校生活は国語辞典を持って歩いていた。
今も中身は綺麗だし十分使えるよ。
時々使うかな。
製造は50年前になる。
プロフには年齢書けなかったかな。
国民年金を貰っていますから。



残念だけど電子辞書に触ったことはあるけども使えるかな。
パソコンは20年は使っているからそのへんの人には負けないけれど。
十台はパソコン作って壊しているけど。
どれが良いのか悪いのかはコメントできません。

●三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))

2012年09月13日 17時00分50秒 | 色んな情報
●三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))
★タケシ伊勢神宮 特別参拝   http://p.tl/P9Hn
幾つもの動画を見てきたけれども この動画を見て身をキオメル感じで書けた。
タケシがふざけた感じでは無くてこれから変わっていくように思える。
過去の彼の演技はふざけ過ぎが多くてまじめにして欲しかった。
 
★三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))http://p.tl/xtyU
天孫降臨の時に、天照大神から授けられたという鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。
★八咫鏡(やたのかがみ)http://p.tl/-POW
三種の神器の一つ。金属鏡であったか、石鏡であったか定かではなく、発生年代不詳。
★神鏡(しんきょう)http://p.tl/I9e4
神霊として神前にかけて祀る鏡のことであり、また三種の神器の一つである八咫の鏡のことを指す。
★咫(あた)は、中国および日本で用いられていた長さの単位である。http://p.tl/PR0m
・中国
説文解字の「咫」に、「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とある。この「周」とは円周のことであり、咫とは円周の単位であった。円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫とした[1]。従って 1 咫は 0.8 尺である。
日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。
・日本
「あた」は動詞「あつ(当)」を名詞化したもので、手を開いて測ることを意味する。具体的には手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。実際、日本書紀では「咫」と書いているものを、古事記では「尺」の字で書いているもの(八尺鏡など)がある。日本神話では、八咫鏡、八咫烏など「八咫」という長さがよく登場する。
「あた」は「さか」とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字が宛てられているが本来は「あた」である。


★八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。
八坂瓊曲玉とも書く。
大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされ、また昭和天皇の大喪の礼時に八尺瓊勾玉が入った箱を持った従者は「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と証言している。
「さか」は尺の字が宛てられているが上代の長さの単位の咫(あた 円周で径約0.8尺)のことである。ただし、ここでいう「八尺」は文字通りの「8尺」(漢代1尺約23·9センチ計算で約1.8メートル)ではなく、通常よりも大きいまたは長いという意味である。また、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙(メノウ)のことである。璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある。
昭和64年の践祚の後、今上天皇の継承した神器として皇居吹上御殿の剣璽の間に、剣(レプリカ)とともに保管されている。


★天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)http://p.tl/gZzD
三種の神器の一つ。熱田神宮の神体である。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表すという解釈もある。

★正直(しょうじき・じょうじき・せいちょく・ただしくなおき)http://p.tl/8rGf
心が素直で清らかなこと。いつわりがないことである。ここでは日本の思想における正直を解説する。
日本人の伝統的な徳目の一つである、古代の「清明心」が中世に入り武士階級を中心に発展し形成された概念。近世になると更に「誠」の精神へと発展していくことになる。一方で、石田梅岩は正直を倹約とともに商人の道をなす中心的な徳目として掲げ、正当な方法で利益を上げるのが商人における正直であり「先も立ち、我も立つ」という互助の精神を説いた。

★徳(とく)(徳目から転送) http://p.tl/FRzf
 徳(とく)は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。

★道徳(どうとく、英: morality)http://p.tl/P7tE
道徳的規範や道徳性などのこと。倫理はいくつかの意味をもち、道徳を表すことが多い。モラルとも称される。

★倫理(りんり)http://p.tl/bBBG
・道徳 - 社会慣習として成立している行為規範。
・倫理学 - 善・規範・道徳的言明といったものについて研究する学問。
・日本の高等学校における科目名。また、日本の大学入試における科目名 - 公民という教科は政治・経済、倫理、現代社会の3科目からなるが、倫理はそのひとつ(大学入試センター試験では「倫理、政治・経済」という科目も存在する)。高校倫理の学習法に関しては高等学校倫理(Wikibooks)参照。
・社団法人 倫理研究所 - 日本の社会教育団体

★三種の神器     http://p.tl/A28B

★はてなキーワード > 三種の神器
皇位継承の徴として天皇に受け継がれる三種の宝物
 
八咫鏡(やたのかがみ):伊勢神宮の神体。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あめのいわやと)に隠れたとき、伊斬許理度売命(いしこりどめのみこと)によって造られた。
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ):熱田神宮の神体。須佐之男命(すさのおのみこと)が八俣の大蛇を退治した時に尾から出た太刀。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が敵の火攻めに遭った時、この剣を以て叢(くさむら)を切り開き難を逃れたことから「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも。源平合戦の最後壇ノ浦合戦で水没し今のものは順徳天皇即位の際に改めて奉じられたというのが一般的な説。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま):天照大神が天岩屋戸に隠れたとき、玉祖命(たまのおやのみこと)によって造られた。
古語拾遺(807年成立)では、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が授かったのは鏡と剣の二種であるとされる。また690年の持統天皇即位礼では「神璽の鏡剣」を奉ったとあるが、勾玉は記載にない。このことから古来神器は剣と鏡の2種であり後に勾玉が加わったとも、逆に勾玉の方が古くから神器としてあり、後に剣と鏡が加わったとも言われる。
http://www.jinja.or.jp/faq/answer/09-02.html
 
神社本庁の説明。
http://inoues.net/mystery/3shu_jingi.html
 
伝来についてなど学問的なもの。
 
三種の神器を欠いて即位したとされる天皇
何せ神器が神器であるため精確にはどこからどこへ渡っていったのかが不明なので、最高でも定説となる。
 
壇ノ浦合戦で草薙剣が水没したという記述によるもの(『吾妻鏡』)
後鳥羽天皇
土御門天皇
正平一統まで持明院統(北朝)にあった神器は偽器という、大覚寺統(南朝)の主張によるもの
光明天皇
崇光天皇
正平一統の後、南北朝の合一までの持明院統(北朝)
後光厳天皇
後円融天皇
転じて、家電「三種の神器」
 
昭和30年代
白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機
昭和50年代(3C)
カラーテレビ、クーラー、自家用車(color TV、cooler、carでいずれも『C』で始まる単語)
2000年代(新三種の神器)
デジタルカメラ、薄型テレビ、DVDレコーダー

●   六 (ろく)

2012年09月13日 15時52分38秒 | 色んな情報
●   六 (ろく)
★六ヶ所村 - Wikipedia   http://p.tl/IIZD
六ヶ所村(ろっかしょむら)は、青森県の下北半島太平洋岸に位置する村である。
原子燃料サイクル施設などの原子力施設の他、国家石油備蓄基地や、やませを利用した風力発電基地等、エネルギー関連施設が集中している。ITER(国際熱核融合実験炉)の建設候補地として誘致を推進していたが、カダラッシュ(フランス)に建設されることが決定した。
★六ヶ所再処理工場 - Wikipedia   http://p.tl/8Yv9
日本原燃が所有する核燃料の再処理工場。
1993年から約2兆1,900億円の費用をかけて、青森県上北郡六ヶ所村弥栄平地区に建設が進められている。現在試運転中である。


★六書 - Wikipedia     http://p.tl/HvNh
六書(りくしょ)とは、漢字の造字および運用の原理を6種類に分類したもの。
すなわち、象形・指事・形声・会意・転注・仮借。
六書の具体的な内容は『説文解字』の序に従うと、以下のようなものである。
1.象形 - 物の形をかたどって字形を作ること。日・月・木・耳など。
2.指事 - 位置や状態といった抽象概念を字形の組み合わせで表すこと。上・下・本・末など
3.形声 - 類型的な意味を表す意符と音を表す音符とを組み合わせて字を作ること。江・河など
4.会意 - 象形と指事によって作られたものを組み合わせて新しい意味を表す字を作ること。信・武・林・炎など
5.転注 - 用字法の一つとする説が有力であるが、定説はない。
6.仮借 - 他の同音・類字音の字を借用すること。「わたし」の意味に「我」、「そうだ」の意味に「然」、「くる」の意味に「来」など。
このうち、1から4までが字を構成する造字の原理であり、6の仮借は既にある漢字の運用原理である。運用原理は、1から4までによって作られた文字を、他の語に転用するときの方法のことである。5の転注に関しては諸説あり、造字原理であるか、運用原理であるか、またそれとは全く違う原理であるか、定説はない。これは『説文解字』も説明不足で例字も少ないためである。
『説文解字』では、1の象形と2の指事によって作られたものは、それ以上の要素に分割できないもので、これを「文」と呼んでいる。3の形声と4の会意は、「文」と「文」を組み合わせることであり、これによって作られたものを「字」と呼んだ。当時、「文字」とは漢字全体を定義する単語であり、「漢字」という語は存在しなかった。『説文解字』とはこの「文字」を解説する書物である。

★助六 - Wikipedia     http://p.tl/vXyz
『助六』(すけろく)は、歌舞伎の演目の一つの通称。本外題は主役の助六を勤める役者によって変わる。江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、その中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。
★助六寿司      http://p.tl/DNJv
稲荷鮨と海苔巻きを折り詰めた寿司のことを「助六」という。これは助六の愛人・揚巻の名が稲荷の「油揚」と「巻寿司」に通じることを洒落た命名。
★『助六由縁江戸桜』 http://p.tl/osdq

★富嶽三十六景 - Wikipedia   http://p.tl/eq3D

★六次の隔たり - Wikipedia   http://p.tl/_hv1
六次の隔たり(ろくじのへだたり、Six Degrees of Separation)とは、人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる、という仮説で、多くの人数からなる世界が比較的少ない人数を介して繋がるスモール・ワールド現象の一例とされる。SNSに代表されるいくつかのネットワークサービスはこの仮説が下地になっている。
この仮説は後述のスタンレー・ミルグラムの実験を裏づけとして大きく広まったが、それ以前から文学作品などを通じて古くから知られていた。この仮説を描いた最古の作品はハンガリーの文学者フリジェシュ・カリンティによる1929年の小説『鎖』とされているが[1]、「六次の隔たり」という名称は、劇作家ジョン・グエアの戯曲に由来する。この戯曲は後に『私に近い6人の他人』(原題:Six Degrees of Separation)として映画化された。

★二・二六事件 - Wikipedia   http://p.tl/qkKQ
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、 日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・ 尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。

★すごろく - Wikipedia      http://p.tl/ei5P
すごろく(雙六・双六)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づけるボードゲーム。
★盤双六の弊害   http://p.tl/b966

★六価クロム - Wikipedia   http://p.tl/NIW2
六価クロム(ろっかクロム)は、クロムの化合物のうち、酸化数が +6 の Cr(VI) を含むものの総称である。
六価クロムは極めて強い毒性を持つ。代表的な六価クロムの二クロム酸カリウムの致死量は約0.5-1グラムである。六価クロムは非常に強い酸化能力を持つ不安定な物質で、有機物と接触するとその有機物を酸化して、自身は三価クロムに変わる性質がある。六価クロムの強い毒性はこの性質に由来するものであり、自然界に通常は存在しないのもこのためである。この性質は皮をなめすのに利用されて来た。

★兼六園 - Wikipedia   http://p.tl/Vtm3
石川県金沢市にある日本庭園。国の特別名勝であり、日本三名園の一つに数えられる。
★日本三名園(にほんさんめいえん)http://p.tl/ce8J
優れた景勝を持つ三つの日本庭園、金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園の総称である。
なおこの三園の選定理由として、いわゆる雪月花の雪に兼六園、月に後楽園、花に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。ただし、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の大名庭園であり、この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である枯山水や露地(茶庭)など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない。

★日本三景(にほんさんけい)とは、日本の3つの名勝地のことである。http://p.tl/ynkg
日本三景は以下の3つの名勝地を指す(番号は上掲されている画像の数字と対応)。
全て海(沿岸)にある風景となっており、各々古くから詩歌に詠まれ、絵画に描かれていた。
1.松島 … 宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海(地図)
2.天橋立 … 京都府宮津市にある砂嘴(地図)
3.厳島(宮島) … 広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした島(地図)
江戸時代前期の1643年(寛永20年)に、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳興、丹後天橋立、安芸厳島為三処奇観」と書き記した。これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる。
日本三景碑(天橋立)その後、1689年(元禄2年)に儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行(きしきこう)』(丹波丹後若狭紀行)において、天橋立を旅したくだりで天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記している。これが「日本三景」という言葉の文献的な初出とされ、貝原が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている[1]。
日本三景を雪月花にあてる場合、「雪」は天橋立[2]、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島をあてている。
★日本三景観光連絡協議会   http://nihonsankei.jp/
★日本三大一覧は、日本を代表する三つのものの一覧。http://p.tl/PdK6

★御三家(ごさんけ)http://p.tl/7HdD
ある分野で最も有力な、または有名な3者の総称。
江戸時代の徳川将軍家の御三家になぞらえた表現である。

★三羽烏(さんばがらす)http://p.tl/vC0N
ある特定の分野における優れた3名の人を指す。古くは漫才などで用いられた言葉である。
また、日本における証券用語では、株価チャートの一つであるローソク足において、3本連続で終値が始値より安くなる黒三兵のことを三羽烏とも呼ぶ。

★ビッグスリー(Big three・Big 3)http://p.tl/CCQV
、ある分野のうち頂点の、あるいは代表的なライバル関係である3者を総称して言う言葉である。類義語として「御三家」「三巨頭」「三本柱」「三強」がある。
有名なものにウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリン、ハリー・S・トルーマンの3人グループの別名「ポツダム三巨頭」がある。
★三人娘(さんにんむすめ)http://p.tl/cMxS
主に若手の同世代の女性歌手3人の総称、もしくはその3人によるユニット活動である。

★電化製品の三種の神器(さんしゅのじんぎ)http://p.tl/ojq8
戦後日本において、新時代の生活必需品として宣伝された3種類の耐久消費財である。
歴代天皇に伝わる三種の神器になぞらえた呼称は、新しい生活・消費習慣を表すマスコミ主導のキャッチコピーであり、豊かさや憧れの象徴でもある。そのため、「三種の神器」と呼ばれ始めた時点での、当該製品群の普及率はそれほど高くない。

●   六 (ロク)(ろく)

2012年09月13日 11時08分36秒 | 色んな情報
●   六 (ロク)(ろく)
★6 - Wikipedia   http://p.tl/zFFk
英語でsix(シックス)、ラテン語でsex(セクス)。なお、紙片や球体などに印字される場合、9との混同を避けるために「6」のように下線を引いて区別されることがある。
★六曜(ろくよう・りくよう)http://p.tl/Tiz1
六曜(ろくよう・りくよう)は、暦注の一つで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種をいう。
日本では、暦の中でも有名な暦注の一つで、一般のカレンダーや手帳にも記載されていることが多い。今日の日本においても影響力があり、「結婚式は大安がよい」「葬式は友引を避ける」など、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。
六輝(ろっき)や宿曜(すくよう)ともいうが、これは七曜との混同を避けるために、明治以後に作られた名称である。
★七曜(しちよう)http://p.tl/GAAs
肉眼で見える惑星の火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月を合わせた7つの天体のことである。
七曜星とも言う。
★週(しゅう)とは、7日を1周期とする時間の単位である。http://p.tl/AjYP
7日のそれぞれは曜日と呼ばれ、日本語ではそれぞれ七曜の名を冠して月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日と呼ばれる。
★曜日(ようび)http://p.tl/EVsf
本来七曜(7つの天体)が守護するとされる日のことをいい、曜日が循環する7日の組の事を週と呼ぶ。
日本語では現在でも各曜日を、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日のように七曜の名を冠して呼ぶが、地域によっては、後に曜日の名に番号、土着の神、イベント等が当て嵌められ、七曜との関係は忘れられている。これについては後述の「各国語での曜日の名称」を参照。
★日本の週間一覧(にほんのしゅうかんいちらん)は、日本において○○週間と呼ばれるものを一覧にしたものである。http://p.tl/gbxb
主に、官公庁が所管の一定の施策を集中して推進・啓発するために設けている場合が多い。
月毎に、日付順に列記している。 本一覧から除外しているものは、次のとおりである。
個人的なもの。
ごく一地方でのみ有効となるもの。
企業や業界団体などが商品の販売目的で制定したような「週間」のうち、単発で終わっているものや、事実上利用されていないもの。
期間が1ヶ月以上のもの。(→日本の月間一覧)
★365日では日と暦に関するページへのメタリンクを示す。http://p.tl/az5h
★その他   http://p.tl/l5Ql
・西向く侍(にしむくさむらい)→ 二四六九士 から、ひと月の日数が31日以外の月名(小の月)をまとめたもの。士は漢字を分けると「十」と「一」になるため、11月を表している。江戸時代、大小暦によって広められたものの一つといわれる。また、11が2本の刀を現しているともいるともされる。
・三十日は九月(Thirty days hath September)→ 英語圏における、小の月を覚えるための詩(文章)
★旬(じゅん)、假(け/か)旬 (単位)  http://p.tl/P-qq
旬(じゅん)は、時間の単位の1つで、10日間のことである。旬間(じゅんかん)ともいう。
概説 [編集]1つの月を3つに分けた期間のことも「旬」と呼び、1日から10日までを上旬(じょうじゅん、初旬(しょじゅん)とも)、11日から20日までを中旬(ちゅうじゅん)、21日から月末までを下旬(げじゅん)という。上旬・中旬は10日間であるが、下旬は月によって変わり、旧暦(中国暦や和暦)では9日間または10日間、新暦(グレゴリオ暦)では原則として10日間か11日間で2月のみ8日間か9日間である。
「旬」という単位は中国の夏朝には既に存在しており、甲骨文に「旬間」の文字が見える。旬の起源は、古代に十干で日を表していたことによるものと考えられる。
これを転用して、10年間(十年紀)のことを旬年(じゅんねん)ともいう。また、10ヶ月のことは旬月(じゅんげつ)[1]という表現もある。
フランスで1793年11月24日から1805年12月31日まで(グレゴリオ暦)施行されたフランス革命暦では、旬と同様、1ヶ月が10日ずつの3つのデカード (décade) に分けられた。デカードは、旬または週と訳される。なおフランス革命暦では、1ヶ月は常に30日なので、デカードも常に10日である。
日本には五十日(ごとおび)の習慣があり、これに沿って給料日などが設けられている。
古代メソポタミアに登場したアッシリアには5日間を単位とする週に類似する制度があった。
・注釈
1.^ 10日間、1ヶ月のことを「旬月」とする場合もある。転じて、「わずかな日数」という意味もある。
・関連項目
 ・旬刊   http://p.tl/SkiG
★逐次刊行物 http://p.tl/x7df
逐次刊行物(ちくじかんこうぶつ)とは出版物の一種で、同一標題の元に終期を定めずに刊行される分冊刊行物である。代表的な物に雑誌・新聞・年鑑がある。

★(宿曜経から転送)   http://p.tl/2Rkt
『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』 (もんじゅしりぼさつきゅうしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくすくようきょう)とは、宿曜道の所依の教典の一つ。一般には『宿曜経』 (すくようきょう、しゅくようきょう)と略称される。上下二巻。
文殊菩薩とリシたちが、二十七宿や十二宮、七曜などの天体の動きや曜日の巡りをもとに、日や方角等の吉凶を読み解く方法を説き明かした物であるとされる。ただしこれは伝説に過ぎず、実際にはインド占星術の入門書とも言うべき内容である。
不空金剛が759年に中国で訳出したとされる。ただし、原典があったかについては疑わしく、恐らく不空が自分の知っているインド占星術の知識を、弟子の史瑶や楊景風に口述筆記させた物と思われる。 一説には、下巻が史瑶による初訳本、上巻が楊景風による改定修注版であるともいい、実際、下巻の方がより元のインド占星術に近い内容である。
日本では空海がこの経をもたらし、曜日が知られるようになった。
★すくよう‐きょう〔スクエウキヤウ〕【宿曜経】   http://p.tl/Q-Zf
仏典。2巻。唐の不空訳。七曜・十二宮・二十八宿の関係によって一生の運命や1日の吉凶を判断する方法を説いたもの。しゅくようきょう。[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

★六曜と吉凶 - 日の吉凶を表す暦注「六曜」 -   http://p.tl/poZW
★暦注計算 (月ごとに主な暦注を計算・表示します)http://p.tl/9VHy


★古今和歌六帖(こきんわかろくじょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和歌の類題別私撰(しせん)集。略して『古今六帖』とも。編者・成立年代未詳。兼明(かねあきら)親王、源順(したごう)の編とする説もある。貞元(じょうげん)・天元(てんげん)年間(976~983)の成立といわれる。『万葉集』から『古今集』『後撰集(ごせんしゅう)』のころまでの歌約4500首を収める。天象、地儀、人事、動植物の4項目を、さらに516題に細分し、それぞれの題にその例歌を分類配列している。後世の俳諧(はいかい)歳時記のように、分類された題のもとにその例歌を掲げているのであり、その構成法などから、古来、作歌のための手引書といわれてきた。もとより平安時代の和歌は、たとえば「蛍」といえば火、「吉野」といえば桜か雪などというように、歌のことばが一定の連想作用を促すことばとして発達していた。人々がこうした手引書をもとに、歌ことばを通して作歌法を学んだらしいことは想像にかたくない。 [ 執筆者:鈴木日出男 ]

★月と六ペンス(つきとろくぺんす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .The Moon and Sixpence
イギリスの作家サマセット・モームの長編小説。1919年刊。作者が強く心をひかれていた画家ゴーギャンをモデルにした作品。ロンドンの株式仲買人の平凡な事務員だった主人公ストリックランドは、ある日突然、17年間も生活をともにした妻と2人の子供を捨てて、パリへ行ってしまう。それは、ただ絵を描きたいという理由からだけだった。その後さらにタヒチに行き、30歳も年下の先住民の娘アタと同棲(どうせい)し、「癩(らい)」を病みながらも、金のためでもなければ、他人に見せるためでもなく、ただひたすら絵を描き続ける。金は芸術家の第六感だとうそぶいたモームが、純粋な芸術への郷愁を満足させるために書いた作品といえよう。題名の「月」は芸術創造の狂気を、「六ペンス」は平凡な俗世間をさすものと考えられる。発表と同時に反響をよび、モームの作家的地位を不動のものとした。 [ 執筆者:瀬尾 裕 ]

★木六駄(きろくだ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
狂言の曲名。太郎冠者(かじゃ)狂言。奥丹波(たんば)に住む主人は、都の伯父へ歳暮として牛につけた木六駄と炭六駄を持って上るよう、太郎冠者(シテ)に命じる。酒樽(さかだる)まで持たされた冠者は12頭の牛を追い、激しく雪の降る坂道を登って行く。やっと老の坂(おいのさか)の峠の茶屋に着くが、酒がないので土産(みやげ)の酒樽を開いて茶屋と酒宴を始め、「鶉舞(うずらまい)」を舞ったあと、酔うままに、木一駄は茶屋にやり、あと五駄は自分の小遣いにするため換金を頼み、炭六駄だけを都へ届ける。主人からの書状を見て不審がる伯父に、冠者は最近木六駄と改名したので、「木六駄に、炭六駄のぼせ申し候じゃ」とごまかそうとするが、結局嘘(うそ)がわかって追い込まれる。以上は和泉(いずみ)流の筋で、大蔵流では老の坂など地名を特定せず、ことに山本東次郎家の筋立ては非常に違っているが、いずれも、実際には登場しない多くの牛を追って雪の峠道を登って行く冠者の演技が見どころ。 [ 執筆者:小林 責 ]

★許六(きょりく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1656―1715)
江戸中期の俳人。森川氏。本名百仲(ももなか)、通称五介(ごすけ)、別号五老井(ごろうせい)・菊阿仏(きくあぶつ)。近江(おうみ)彦根藩井伊直澄(いいなおずみ)の家臣で、宝蔵院流の槍(やり)を得意とし、狩野(かのう)派の絵画や漢詩にも通じるなど、多芸の人であった。俳諧(はいかい)は初め貞門、談林に学んだが、『冬の日』『猿蓑(さるみの)』などをみて蕉風(しょうふう)の閑寂美にひかれるようになり、1692年(元禄5)江戸出府のおり、ついに面接の機を得て芭蕉(ばしょう)に入門した。芭蕉晩年の新風の体得者を自任した許六は、自ら「正風血脈(けちみゃく)の門人」と称して血脈説を唱え、また句作の方法として取合(とりあわ)せ論を力説するなど、蕉風理念の究明に鋭い直観力を示して、彦根風の一派を形成したが、とくに師の没後の蕉風混迷期に次々に著した『篇突(へんつき)』『宇陀法師(うだのほうし)』『俳諧問答』『歴代滑稽(こっけい)伝』などの俳論書は評価が高い。なお、芭蕉をはじめ蕉門俳人の文章を集めて『本朝文選(もんぜん)』を編纂(へんさん)したことも俳文史上特筆されねばならない。
十団子(とをだご)も小粒になりぬ秋の風
[ 執筆者:堀切 實 ]

★喜多六平太(きたろっぺいた) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1874―1971)
能のシテ方、喜多流14世宗家。母は12世喜多能静(のうせい)の三女。旧幕臣宇都野鶴五郎の二男として東京に生まれる。幼名千代造。1881年(明治14)7歳で喜多宗家を継ぎ、のち六平太を名のる。号は能心。流儀再興に辛苦し、芸術面でも一貫した指導者に恵まれなかったが、独自の芸風を打ち立てた。とりわけ、気迫の強さ、鮮烈な技(わざ)、表現の自在など、追随を許さぬ名人であり、能界最長老として後進の指導にあたった。1947年(昭和22)日本芸術員会員。53年文化勲章受章。55年重要無形文化財保持者に認定。73年に再建された喜多能楽堂は、彼の名をとって14世喜多六平太記念能楽堂と命名された。養子に15世宗家喜多実(みのる)がいる。なお六平太は流祖喜多七大夫(しちたゆう)の幼名で、12世能静もこれを称し、現在喜多長世も16世六平太を名のる。 [ 執筆者:増田正造 ]

★大島伴六(おおしまばんろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1588―1657)
槍術(そうじゅつ)大島流の祖。美濃(みの)(岐阜県)の人。通称雲平(うんぺい)、名は吉綱(よしつな)。隠居したのちは、伴六、安心と号した。明暦(めいれき)3年11月没、70歳。
[ 執筆者:渡邉一郎 ]

★井戸村与六(いどむらよろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
戦国時代末から近世初頭の近江(おうみ)国坂田郡(滋賀県米原(まいばら)市)箕浦(みのうら)の土豪。父は井戸村左京亮光慶といって北近江の戦国大名浅井長政の家臣であった。浅井氏滅亡後、兄小二郎秀勝はなおも武士化の道を模索するが、弟与六は箕浦に居住し地主的経営に乗り出していった。1591年(天正19)与六は太閤検地(たいこうけんち)を前に「作職書付(さくしきかきつけ)」を作成、太閤検地によって否定されそうになった「作合(さくあい)」とよばれる中間搾取の特権を維持しようとしている。このことが太閤検地の政策基調を論ずる際の焦点となり、井戸村与六の名が広く知られるようになった。与六の土地を請作(うけさく)し、作職を扶持(ふち)された農民は27名を数える。 [ 執筆者:小和田哲男 ]

★作合(さくあい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
近世初期の有力農民が、領主と直接生産小農民との間にあって中間搾取する形態。幕藩制社会では、領主―農民の一元的関係が確立していて、田畑の生産物は、その生産活動に必要な部分を生産農民が取り、残りを領主がすべて収取するのを原則とした。しかし、太閤(たいこう)検地段階から近世初期にかけては、持高(もちだか)の零細な小農民に自立しがたいものが多かった。そこで、多くの高をもつ有力農民ないし土豪は、自分の持高の若干を小農民に耕作させて、彼らの自立を助けながら収取し、その収取分から領主へ年貢を納めて、なお手元に若干を残した。この残分が中間搾取分であり、作合とよばれた。作合は一種の小作料である。 [ 執筆者:宮川 満 ]

★太閤検地(たいこうけんち) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/D46j
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の行った検地。天正(てんしょう)の石直(こくなお)し、文禄(ぶんろく)の検地ともいう。太閤とは関白を辞めた人の尊称であるが、秀吉は1591年(天正19)関白を養子秀次(ひでつぐ)に譲ったのち、好んで太閤と称したのでそれが秀吉の別称ともなり、彼の実施した検地も太閤検地とよばれるようになった。もちろん秀吉が太閤と称してからの検地のみでなく、それ以前の検地も含まれる。この太閤検地は、わが国土地制度上の一大変革であり、政治・経済・社会・文化などに多大の影響を与えた。 [ 執筆者:宮川 満 ]

● 百 科 事 典  3

2012年09月13日 11時08分36秒 | 色んな情報
● 百 科 事 典  3
★百科事典(ひゃっかじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
あらゆる自然的・人工的な事物、現象、事項および行動に関して解説を行い、さらに具体的に理解を助けるために挿画、地図、写真、図、表などを添えて、それらの項目を五十音(またはイロハ順)あるいはアルファベット順に配列した事典。近年は特定分野ないし一事項についての総合事典を「百科」と命名する傾向も現れている。中国語の場合には機械的な配列ができないので分類配列を行い、類書(るいしょ)と称する。類語として百科辞典、百科事彙(じい)、百科全書などがある。
百科事典とは英語でエンサイクロペディアencyclopaedia、アメリカ英語でencyclopedia、フランス語でencyclopdie、ドイツ語ではEnzyklopdieであり、いずれもギリシア語のegkklios paideiaを語源としたものである。これはegkklios(円環をなす、円満な)とpaideia(教育)の合成されたもので、全円的に集めた知識の教育の意であり、ギリシア哲学者の教育の理想を示したものであった。その理想はアリストテレスがアテネ郊外リケイオンに学校を開いて実現に努めた。また、彼は全知識の体系的著述も行い、それらのうち論理学、形而上(けいじじょう)学、政治学、文芸学、心理学および自然科学は残存して、その思想は現代まで影響力をもっている。 [ 執筆者:彌吉光長・紀田順一郎 ]
★百科事典(ひゃっかじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .目次 百科事典
1.西洋          http://p.tl/VT82
中世、 近代、 現代
 
2.中国          http://p.tl/bDXx
類書、 九通、 現代、 その他
 
3.日本          http://p.tl/JNKw
古代~中世、 江戸時代、 近代、 現代
 
4.百科事典の構造と種類   http://p.tl/bdEg
百科事典の利用法、 百科事典の電子化
.
★ソビエト大百科事典  [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/Ri4z
Большая Советская Энциклопедия(キリル文字)、Bol'shaya Sovetskaya Entsiklopediya(ラテン文字)
ソ連を代表する百科事典。
[ 執筆者:彌吉光長・宮本立江 ]

★アメリカーナ百科事典(あめりかーなひゃっかじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
Encyclopedia Americana
アメリカに育ったアメリカ的百科事典の代表。ドイツ系政治学者リーバーFrancis Lieber(1800―1872)がドイツの『ブロックハウス百科事典』Die Brockhaus Enzyklopdie7版を基に、アメリカの事項を加えて16巻として、1829~1833年に出版。のち1918~1920年版を30巻に拡大、1923年には編集と発行にアメリカ的合理性を発揮した。すなわち、従来十数年ごとに全体を新執筆原稿で埋めたため、巨額の投資を行い、10年で回収したが、科学技術の先端技術は変化するものの、歴史、芸術、文学、宗教などは変化しないということから、毎年必要に応じた改訂だけで、いつも新鮮な知識を売り込み、投資も少額ですむこと、旧版所有者には改訂の年鑑を売り込むことなど、経営と編集の改革で成績をあげた。また数字や綴字(つづりじ)の徹底的校訂で信用され、大事典と認められた。1943年、大項目に小項目を多く加え、6万項目とした。また、増ページしても巻数は変更しない。
この事典の特色は、(1)アメリカ諸州の事情を詳細に記述した、(2)現存の有名人・有力者の伝記を多くした、(3)国際的大国、大都市に力を入れた、(4)オペラ、文学、名句に力を入れた、(5)科学技術の最新情報を入れた、(6)アメリカ向けの実用性を図った、などである。第二次世界大戦後アメリカーナ百科事典社は買収され、グロリア・インターナショナルになった。[ 執筆者:彌吉光長 ]

★イタリアーナ百科事典(いたりあーなひゃっかじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
Enciclopedia italiana di scienze, lettere ed arti.
イタリアの文化を誇り、ファシズムを強調するために文部大臣の主唱で編集された百科事典。1929年から39年までに36巻で完結。その後の世界的な変動は補遺によって補っている。補遺版は1938~62年までに7巻ある。国内外の大家に執筆させ、自由に評論させたので、文化史上では高く評価される。ミケランジェロやダ・ビンチなどの項目解説はそのまま単行本としても出版された。都市の歴史も数十ページを費やしたものが多い。第二次世界大戦後も、イタリアにはこれに勝る文化的百科事典はない。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★ブリタニカ百科事典  [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/TvJG
Encyclopaedia Britannica
国際的な英語の百科事典。最初はイギリスで、のちアメリカで発行されている。1768~71年にエジンバラの銅版画家のベルAndrew Bell(1726―1809)が印刷業者のマックファーカーColin Macfarquharと共同で、100分冊各冊6ペンスで百科事典を発行したのが始まりである。この時代のイギリスは、ちょうどブルジョアジーの勃興(ぼっこう)期にあったため、この事典は紳士の教養を要求する階層に支持されて成功し、完成後は2200ページを三巻に製本して初版とした。一流学者の44論文と単行本からの抜粋からなったものである。その後、第9版は東洋学者スミスWilliam Robertson Smith(1846―94)の編集で外国人学者にも寄稿させて有名になり、第10版(1902~03)は本巻24巻に索引と補遺11巻をつけた全35巻として刊行され、ビクトリア女王時代を代表する百科事典となった。これは、丸善によって日本にも輸入され、『大英百科全書』として広くわが国の学者に知れ渡った。第11版はケンブリッジ大学出版局が引き受けて29巻とし、初めてインディア・ペーパーに印刷し、1910~11年に発行した。この版も第9版とともに各国学者の執筆協力を得ており、その水準の高さで世界的に有名になった。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★ブロックハウス百科事典  [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/f6au
Der Grosse Brockhaus
ドイツを代表する百科事典。旧西ドイツのブロックハウス社発行。1808年、ドルトムント生まれの書籍商ブロックハウスFriedrich Arnold Brockhaus(1772―1823)は、破産した出版社の『家庭百科事典』Frauenzimmer-Lexikonの著作権を買収し、11年に『会話事典』Brockhaus' Konversations-Lexikonと命名して6巻で完成、さらに補遺2巻を加えた。翌年第2版に着手、その小項目主義を徹底させ、また説明も平易で図版も多かったので大いに歓迎され、その翻訳が数か国で行われて国際的にも有名になった。29~33年に、アメリカでリーバーFrancis Lieber(1800―72)が『アメリカーナ百科事典』Encyclopedia Americana16巻を発行したが、大部分はブロックハウスの翻訳であり、それにアメリカの事項を加えたものであった。また、59~68年にイギリスでチェンバーズWilliam Chambers(1800―83)が『チェンバーズ大百科事典』Chambers's Encyclopaedia10巻を発行したが、これもブロックハウスの10版によっており、それにイギリス関係事項を加えたものであった。そのほか、ブロックハウスの小項目主義と平易な解説を模倣したものにアメリカの『新国際百科事典』The New International Encyclopaedia(1902)、オランダの『ウィンクラー・プリンス百科事典』Grote Winkler Prins(1870~82)があり、ロシアではエフロンがブロックハウスとの共同出版による『ブロックハウス・エフロン百科事典』Entsiklopedicheskii Slovar'、(1890~1907)82巻・補遺4巻を発行した。また、フランスのラルースLarousseやドイツのマイヤーMeyersの百科事典にも、その影響がみられる。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★ラルース百科事典  [ 日本大百科全書(小学館) ] . 
フランスを代表する百科事典。ラルース出版社Librairie Larousse発行。創始者のラルースは1850年『フランス語辞典』Dictionnaire de la langue franaiseを出版し、好評であったため、52年友人と共同で出版社を設立、国語教科書や文法書に新工夫を加えたものなどを発行して歓迎された。彼はこれをもとに国民教育的発想から百科事典の大衆化を企て、小項目主義で図版を多く採用した『19世紀世界(万有)百科事典』Grand dictionnaire universel du XIXe sicle全15巻(1866~76、のち78、88に補遺2巻)を刊行した。完成1年前に彼自身は没したが、後継者がその意志を受け継いで今日の発展の基礎を築いた。
 
ラルース百科事典の代表的なものは、第二次世界大戦後に出版された2種の新改訂版であろう。すなわち、『大ラルース百科事典』Grand Larousse Encyclopdiqueと『大百科事典』La Grande Encyclopdieである。前者は全10巻(1960~64)、補遺2巻(1969、75)で小項目主義をとり、収録項目16万5000、挿画、写真、地図などを多く用い、平易な記述を特色としており、1982年からまた新たに改訂版を編集中である。
 
一方、後者は20巻(1971~76)、索引(1978)、補遺(1981)からなり、知識を総合・評価的に知らせることを目ざしている。大項目主義をとり、収録項目8000余であるが、さらにそれらの項目に関連する重要事項を掲げて、体系的に解説、挿画、地図、年表等も大きく、楽しいものにしている。また執筆陣も、学際的な知識と最新の学問の水準を伝えるため、国立科学研究センターの研究者を中心に、広く協力者を集めている。人名項目も同様なシステムで、フランスの人物はもとより、たとえば、ドイツの演出家、劇作家であるブレヒトBertolt Brechtの項をみると、7ページにわたり、人と作品の展開を紹介・論評するほか、関連事項として彼が妻とともにつくった劇団「ベルリーナー・アンサンブル」Berliner Ensembleのテキストの分析とその協力者の略伝などもあげている。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★小学館(株)(しょうがくかん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
総合出版社。1922年(大正11)相賀(おおが)武夫(祥宏)が、日本で初めての学年別学習雑誌を創案して創業。1927年(昭和2)教師対象の学年別教育雑誌を創刊。1932年全国小学校児童の作品を公募、優秀作品を表彰。1952年(昭和27)作品コンクールを再開。1959年『週刊少年サンデー』を創刊した。一方、1956年『図説日本文化史大系』を刊行して一般書分野に進出。1962年『日本百科大事典』を発行して、平凡社の『国民百科事典』とともに百科事典ブームをつくった。続いて日本で最初のカラー版百科事典『世界原色百科事典』、『日本古典文学全集』『原色日本の美術』『日本国語大辞典』『日本大百科全書』『世界美術大全集』などを刊行。学年別学習雑誌、教育誌から出発した出版活動は、週刊・月刊誌をはじめ、絵本から辞典まで書籍の広い分野に及ぶ。近年は単行本出版にも力を入れ、1997年(平成9)には文庫に進出、文芸書やコミックスのヒット作は映画やドラマ等とのメディアミックスで話題をよんだ。電子出版にも積極的で、辞書事典や娯楽系コンテンツのDVD-ROM発売や、雑誌・コミックスのネット配信サービスに対応するなどしている。小学館児童出版文化賞のほか、小学館漫画賞、小学館ノンフィクション大賞などを主宰。集英社、祥伝社などを含めた小学館グループは講談社グループと並ぶ日本の出版界の二大勢力となっている。 [ 執筆者:小林一博 ]

★日本国語大辞典(にほんこくごだいじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
国語辞典のうちで、もっとも詳細な総合辞典。小学館が国語学者をはじめ諸分野の学者の協力により出版したもの。初版(全20巻)は1972~76年(昭和47~51)に、その縮刷版(全10巻)が79~81年(昭和54~56)に発刊され、2000~2001年(平成12~13)には第2版(全13巻)が、02年(平成14)には第2版別巻が刊行されている。初版は全項目45万で、国語、方言、外来語のほか、仏教語、歴史用語、動・植物名など専門分野にわたる項目も含め、さらに人名、地名、その他固有名詞約5万を採録して、国語辞典に百科事典の要素を加えている。記述は歴史的に構成され、意義の変遷に力を注ぎ、それにあげた引用例は75万例で古典から近代文学に及び、ことに記録、古文書、仏典からの引用や例が特色となっている。また、語源に関する古来の諸説の摘録やそれらの古辞書への掲載例などのほか、語音やアクセントの歴史なども添えるなど、言語学的研究辞典としても完璧(かんぺき)を期している。第2版では、項目数が50万に増補され、用例数も100万例に達した。用例には出典の成立年または刊行年が表示され、語誌、上代特殊仮名遣い、古辞書の表記、同訓異字の解説などが新たに加えられた。別巻には、漢字索引、方言索引、出典一覧が収められている。 [ 執筆者:彌吉光長

★大日本国語辞典(だいにほんこくごじてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
国語辞書。上田万年(かずとし)、松井簡治(かんじ)著。本文4冊、索引1冊。本文は1915~19年(大正4~8)、索引は29年(昭和4)刊、28~29年(昭和3~4)修正版、39年(昭和14)修訂版(5冊)、52年(昭和27)縮刷版(一冊本)刊。冨山房(ふざんぼう)発行。上代から大正年代に至る国語、漢語、外来語20余万語を、歴史的仮名遣いの五十音順に配列し、振り仮名で発音を示し、とくに上代、中古、近世語につき豊富な用例を示す。語釈は簡明で、語源説等は少なく、中世の語は比較的簡略であるが、空前の優れた国語大辞典として、後刊の『大言海(だいげんかい)』(1932~37年、冨山房刊)とともに、不朽の価値を有する。『日本国語大辞典』20冊(初版1972~76年、小学館刊)の母胎となった。 [ 執筆者:築島 裕 ]

★辞典(じてん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/Q2MV
ことばや文字をある視点から整理して配列し、その読み方、意味などを記した書物(日本国語大辞典など)をいう。辞書、辞彙(じい)、字典、字彙、字引などともいう。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★百科全書(ひゃっかぜんしょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .Encyclopdie   http://p.tl/ADqq
明治初期に、あらゆる学問の組織的な総集または百科事典の意味に用いられたことば。現在では、フランスのディドロ編と、明治初期文部省編の百科事典をさしていうことが多い。 [ 執筆者:彌吉光長 ]

★和漢三才図会(わかんさんさいずえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸時代の図解入り百科事典。正徳(しょうとく)2年(1712)序、寺島良安(てらじまりょうあん)編で大坂杏林堂(きょうりんどう)より刊行。105巻81冊。全体を天文、人倫から草木まで96類に分かって、和漢の事物を収容し、平易な漢文で各事物に簡明な説明と図を入れている。各事項は、広く国内を旅行して実地踏査し、種類、製法、用途、薬効などを明記して客観的、合理的な解説を施し、図解は分析的である。ただ、神社仏閣の場合には歴史よりも縁起をとり、公卿(くぎょう)や有職(ゆうそく)は伝承のままを記さざるをえなかったと凡例に記している。その明解、正確さによって発行から約200年間、明治時代に至るまで広く実用された。編者の良安は大坂の医師で、法橋(ほっきょう)和気仲安(わけちゅうあん)の高弟。「天地人を知って医術は生かせる」という師の教えに従って記録したものを、明(みん)の王圻(おうき)の『三才図会』106巻の体裁によったという。 [ 執筆者:彌吉光長 ]
★寺島良安(てらじまりょうあん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
生没年不詳。江戸中期の医家。大坂高津の人。字(あざな)は尚順、杏林堂(きょうりんどう)と号した。御城入医師となり、法橋(ほっきょう)に叙せられたが詳しい経歴は不明。和漢の学に通じ、医業のかたわら中国の王圻(おうき)の『三才図会』に倣って、1712年(正徳2)『和漢三才図会』105巻を編纂(へんさん)した。これは日本における最初の百科事典というべき著作である。ほかに『済生宝』(1722)、『通俗三才諸神本紀』(1723)などがある。 [ 執筆者:内田 謙 ]

★Yahoo!百科事典トップ > 言語・民族 > 文化人類学 > 遊び(あそび)    http://p.tl/7ETI
遊び
1.遊びの本質
遊びの非日常性、 遊びの分類、 童戯の効用
2.日本の童遊び
童遊びの実態、 伝承遊びの史的背景、 伝承遊びの近代化、 伝承遊びの変遷過程
.
★14.iモード     http://p.tl/_VXX
... (3)データベース系 グルメ情報、辞書、百科事典、地図情報、乗換え案内など。 (4)エンターテインメント系 占い、ゲーム、着信メロディー(着メロ)配信、待受画面の配信など。 ...

★15.アガーニー   http://p.tl/K1d6
... これだけを携えるようになったといわれる。文学上の傑作であるばかりでなく、アッバース朝以前のアラブ人の歴史、社会、教育、音楽などを知るうえで百科事典的著作でもある。1868年エジプトで印刷、公刊されて以来 ...

★16.アシェット   http://p.tl/02Hu
... アメリカの百科事典出版の大手グロリアGrolierの買収(1988)によりマルチメディアへの道を開くなど、その発展拡張は止まるところがない。1980年代に ...

★18.イブン・シーナー http://p.tl/DzmV
... は、膨大な医学百科事典である。そこには、医学の一般原理、器官の病気、局所的な病気、薬剤が扱われているが、多くの点でアリストテレスやガレノスに似たところがある。

★19.ウィトルウィウス http://p.tl/Ny1i
... 建築に関する包括的な論文であるだけでなく、当時の技術と科学の百科事典的な存在であった。全10巻を各巻ごとにみると、第1巻が建築の原理、2巻が建築の歴史、材料、3巻がイオニア式神殿、4巻がコリント式 ...

★20.宇田川榕菴    http://p.tl/i_jB
... ショメル百科事典を和訳し『厚生新編(こうせいしんぺん)』を書くほか、多数の蘭書を訳述した。 ... これより前、1817年にショメル百科事典を読んで、西洋には実用的な本草(ほんぞう)学と ...

★葛飾北斎(かつしかほくさい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(全10件)http://p.tl/2nxC
(1760―1849)