●川柳(かわやなぎ.せんりゅう)
★はてなキーワード > 川柳
俳句と同じく、五七五で詠む短詩。季語は含まなくても良く、諧謔・風刺・機知が目的である。
時事ニュースなどを取り込むと川柳らしくなる。風刺などを得意とする。
なお、歴史的には江戸期の前句付けから発生している。(五七五七七の「七七」を先に詠んで、それにうまく合わせた「五七五」を前句としてつけた。後に、前句のみが独立して川柳となった。)
「川柳」の名前は、この前句付けの名点者・柄井川柳から由来している。
★はてなキーワード > 川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)
落語家。1931年埼玉県生まれ。前名、三遊亭さん生。師匠の三遊亭円生の落語協会脱退騒動の際に、三遊亭門下を離れ、川柳川柳を名乗る。
日本のジャズの歴史を唄い語る新作落語「ガーコン」一本の、寄席の名物男。
著書、「天下御免の極落語」(彩流社)
★はてなキーワード > サラリーマン川柳
第一生命が主催する公募の川柳グランプリ。
略称は「サラ川(さらせん)」。正式には「サラリーマン川柳コンクール」
応募資格は特になく、サラリーマンでなくても応募が可能である。
社会情勢をリアルに表した作品が多く、毎年の優秀作品の発表には注目が集まる。
★第一生命 > サラリーマン川柳 http://p.tl/AvgE
★川柳 - はてな匿名ダイアリー http://p.tl/z7UK
ちょっと長ったらしいけど川柳 とか狂言みたいなもんだ。 周りから見たらあほらしいかもしれないけれど、はてななりの 悲しい知恵なんすよ。
★はてなキーワード > オタク川柳
株式会社インターリンクが主催するオタクに関する川柳サイトのこと。
身の回りのオタクネタ、自分のオタクネタを「5・7・5」で表現し合いネ申を決める。
開催6回目の応募総数は4万通を越えるという。
作品2012年(1~10位)
1位:一児より 二次に手をかけ 家事惨事
2位:39(三重苦) 金なし嫁なし あせりなし
3位:好きな子を 奪い合わずに 語り合う
4位:デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ
5位:国会に 政治オタクが 何故いない
6位:今日もまた 佐川の人から サイン攻め
7位:ニコ生で 神と呼ばれて 道外す
8位:海賊王? それより課長に なってパパ
9位:俺の嫁 ならば作者は 俺の義父
10位:仕様書や 取説読むより 空気読め
http://p.tl/IYDK
第7回あなたが選ぶオタク川柳|インターリンク http://www.575.cc/
★
★川柳(短詩)(せんりゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/HMfu
江戸中期に始まる17音の短詩。雑俳(ざっぱい)の一様式である前句付(まえくづけ)から、付句(つけく)の五・七・五だけが独立して詠まれるようになったもの。人の見逃しがちな、人事・世相・歴史などの断面をおもしろく指摘してみせる句風で、俳諧(はいかい)にも詠み残されたような、ごく卑俗な題材まで、諸事百般余すところなく句の対象とするところが特色である。 [ 執筆者:岩田秀行 ]
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★雑俳(ざっぱい) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/XzhX
江戸時代に行われた通俗的俳諧(はいかい)。連想形式でつながっていく長編の本格的俳諧に対し、その練習形態として、2句間のみの付合(つけあい)である前句付(まえくづけ)俳諧が行われ、それから派生した一種の懸賞文芸が雑俳である。点者(てんじゃ)の出題に対して、会所(かいしょ)(仲介者)が広く句を募り、各地の取次(とりつぎ)所を通じて集められた投句(とうく)のなかから、点者が優秀作品を選び、その入選句を刷り物にして賞品とともに投句者に配るという興行形態(万句寄(まんくよせ)・万句合(まんくあわせ)などとよぶ場合もある)をとった。雑俳書として本屋が出版するものは、この勝句(かちく)刷り物をさらに編集したものである。点者は、初期においては正式な俳諧師がこれにあたったが、やがて専門点者の輩出をみ、雑俳は俳諧の第二文芸的性格を有するものとして独立する。出題には、種々の形式が行われたが、前句付(まえくづけ)型、笠付(かさづけ)型、非付合(つけあい)型の三つに大別できる。 [ 執筆者:岩田秀行 ]
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★俳諧(はいかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和歌、連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、詩文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきようぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~40年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から70年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★連歌(れんが) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/2CkH
平安朝時代に主として流行した短(たん)連歌と、鎌倉時代から江戸時代初期にかけて流行した長(ちょう)連歌を、その当時においては、ともに連歌とよんでいたが、一般には後者をさす。それは中世とともにおこり、中世とともに滅んだ、中世特有の詩である。 [ 執筆者:木藤才蔵 ]
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★連句(れんく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
俳諧(はいかい)用語。十七音節(五・七・五)の長句と十四音節(七・七)の短句を、一定の規則に従って交互に付け連ねる様式の詩文芸。第一句(長句)を発句(ほっく)または立句(たてく)、第二句(短句)を脇句(わきく)、第三句(長句)を第三の句といい、この三句を一括して三(み)つ物(もの)とよぶ。第二句以下を発句に対して付句(つけく)、第四句以下を三つ物と区別して平句(ひらく)、最終の句(短句)を挙句(あげく)(揚句)という。所定の句数に達したものを一巻とよぶが、一巻が百句からなる百韻(ひゃくいん)が基本形式で、千句、十百韻(とっぴゃくいん)(百韻十巻)、万句、米字(よねじ)(八八句)、五十韻(百韻の前半)、世吉(よよし)(四四句)、歌仙(かせん)(三六句)ほか多くの種類がある。連句の形式はもと連歌に準拠したもので、正しくは「俳諧之連歌」略して「俳諧」というが、俳諧の発句が独立して俳句とよばれるようになると、それと区別し、また連歌と区別するために連句と称されるに至った。
連句は一巻を貫くテーマをもたず、人生や自然の種々相を描いて句々変化を尽くすところに生命がある。連句の最小単位は付句(付ける句)、前句(付けられる句)、打越(うちこし)(前句の前の句)の三句であるが、付句の内容が打越に触れることを嫌い、三句目の転じが力説されたのはそのためである。また、一巻の模様や付け運びについても、さまざまな規約(式目(しきもく)・作法)が設けられた。同じ語彙(ごい)の重複を避けるための一座何句物、同季・同字または同種・類似の語が近接する指合(さしあい)(差合)を避けるための去嫌(さりきらい)、四季・恋・神祇(じんぎ)・釈教(しゃっきょう)等の題材を何句続けるかという句数(くかず)、とくに花・月の句を布置すべき場所を指示した定座(じょうざ)(常座)などである。連句は半折した懐紙にしたためられる。芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧で主流をなした歌仙形式は、初折(しょおり)(一の折)の表六句、同裏12句、名残(なごり)(二の折)の表十二句、同裏六句の割合であった。
付句を付けることを付合(つけあい)というが、付合の手法にもさまざまなくふうが凝らされた。連歌の式目をもとに俳諧の式目を完成させた貞門(ていもん)俳諧では、その啓蒙(けいもう)的な性格と相まって、語に語を付ける単純な「物付(ものづけ)」が主流をなし、三句目の転じは多く前句中の語を同音の他の語に転じて付ける「取成(とりなし)付」によった。貞門の付合がようやくマンネリズムに陥ると、談林(だんりん)俳諧が勃興(ぼっこう)し、貞門と共通の付けことばを用いながら、飛躍的な句意の転化と、すばやい付け運びを特徴として一世を風靡(ふうび)した。放しつつ寄せる「あしらい」、その語を抜いてそれとわかるように句を作る「ぬけ」が重用された。蕉風俳諧は元禄(げんろく)期(1688~1704)の新風の一体として、前句に似つかわしい肌合いの句を付け寄せる「移り」(映り)を主体とし、さらにそれを余情による「匂(にお)い付(づけ)」へと深化させた。
こうして連句は詩的達成を遂げるが、付合の契機から語や句意を疎外した結果、やがて解体へと向かうことになる。蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句をよくしたが、俳諧文学の主流は発句によって占められた。事実上連句が終末を迎えるのは、正岡子規(しき)によって「発句は文学なり、連俳は文学に非(あら)ず」(芭蕉雑談)と説かれた明治近代においてであった。連句は現在、自我への固執から近代文芸の陥った閉塞(へいそく)状況を打開する試みの一つとして、ふたたび多くの人々の関心を集めつつある。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★発句(ほっく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
連歌(れんが)・俳諧(はいかい)用語。最初は短歌の初五文字、のちに同じく上の句(五・七・五)をさしていったが、十七音節(五・七・五)の長句と十四音節(七・七)の短句を交互に付け連ねる連歌・連句が成立すると、その巻頭の長句を、第二句(脇句(わきく))以下の付句(つけく)と区別して、発句とよぶに至った。短歌の上の句と違い、完結した思想を表現しなければならず、季(き)の詞(ことば)(季語)を詠み込み、切字(きれじ)を用いることが要請された。その点、今日の俳句と異なるところはないが、脇句以下の付句を予想して制作され、百韻(ひゃくいん)なり歌仙(かせん)(三六句)なりの一巻をリードするだけの格調の高さが重んじられた点で、一線を画する。やがて独立の詩形として自覚的に制作されるようになると、連句の第一句はとくに立句(たてく)ともよばれ、発句は俳句とも称されるに至った。しかし俳句の名称が本質的な詩性の変革を伴って用いられるようになったのは、正岡子規(しき)による俳句革新運動以後である。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★あらう(あらう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
【洗う・濯う・滌う】
「洗う」は水で清める意で、転じて広く清める意に用いる(洗浄、洗心など)。「濯う」は汚れを洗い流す意で、洗よりも用途は狭く(濯足(たくそく)など)、「滌う」は洗いすすぐ意で、洗に似ているが用途はさらに狭い(滌洗(できせん)など)。以上の意味のほかに、素性を洗うなど隠れている事柄を調べただす意、冤(えん)(無実の罪)をそそぐ意、波が岸辺に寄せ返す意などがある。英語でもwashはwaterと同語根で洗いすすぐ意、cleanseには罪を清める意がある。 [ 執筆者:落合 茂 ]
ガンジス川での沐浴
1. 清めの「洗う」
エジプト、メソポタミア、インダス、中国の諸文明がそれぞれ大河の流域からおこったように、河川は文明の母といわれて、人間社会の成立と発展に密接な関係があり、宗教では水の清浄化作用に象徴的意味をもたせている。原始宗教では病気、災害、犯罪なども等しく穢(けがれ)としてとらえられ、それらから免れるため水、火、煙、香料による清めが行われたが、もっとも一般的なのは水による清めであった。
古代エジプト人にとっては、上流から肥沃(ひよく)な沖積土をもたらすナイル川は神であり、清潔好きなエジプト人は沐浴(もくよく)を清浄の行為とし、健康と長寿の秘訣(ひけつ)としてナイルの流れに身を浸した。ガンジス川を神聖視するヒンドゥー教徒は、水浴すればすべてその罪から免れるとして、1日1回ガンジスの水に浴した。またヨルダン川における聖ヨハネによるキリストの洗礼から、洗礼はキリスト教入信の儀式となった。メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスリーJohn Wesley(1703―1791)は「清潔は神に次ぐ」とさえいっている。
イスラム教徒が水に親しむのも、沐浴が罪穢(つみけがれ)からの解放にほかならないからである。聖典コーランには「清浄(タハーラ)は信仰のなかばをなす」という教祖ムハンマド(マホメット)のことばがある。タハーラは礼拝の前に穢を清めることで、小浄(ウドゥー)と大浄(グスル)に分かれ、前者は頭部、肘(ひじ)から下と膝(ひざ)から下の手足を清めること、後者は全身の水浴のことで、水のない場合には砂による小浄が許され、水の乏しい地方では空き缶1杯の水で巧みに手足を清めている。 [ 執筆者:落合 茂 ]
2. 日本での「洗う」
神道の禊(みそぎ)は『古事記』によれば伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から帰って日向(ひゅうが)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊祓(みそぎはらい)をした故事を起源とする、罪穢を洗い清めて神に近づくための行事である。禊の場所は古語で「斎用水(ゆかわ)」とよばれ、海浜や海に通じる川の淵(ふち)、大河の枝川や池、湖の入り江が神聖な場として選ばれた。古代農耕社会ではそれが五穀豊穣を祈る行事につながり、『万葉集』の「春すぎて夏来るらし白たへの衣乾したり天の香具山(かぐやま)」は、香具山にこもって禊する処女の斎衣(おみごろも)の干してある情景を詠じたもの。また「玉久世の清き河原に身祓(みそぎ)して斎(いわ)ふ命は妹が為(ため)こそ」には、「洗い」が生活の一部となり、愛の証(あかし)でもあることを示している。こうして水の豊かな自然環境のなかでは、人々はおのずときれい好きとなって洗いにいそしみ、川や泉のほとりは洗い場ばかりでなく寄合い場ともなった。
入浴も江戸時代には「銭湯で不沙汰(ぶさた)の義理を流し合い」とか「女湯で世上のあかをこすり合い」と川柳(せんりゅう)にもあるように、銭湯は上下の差別のない裸の別天地で、庶民の安直なサロンであり、いのちの洗濯場であった。また、いまも残る正月望(もち)の日(陰暦15日)の洗い初めの風習は、水で洗い清める神迎えの作法の名残(なごり)であり、七夕(たなばた)の髪洗いの風習も、神迎えをする7月の行事の一つが、のちにこの日に髪を洗うと美人になる、この日に油ものを洗うとよく落ちると言い伝えられるようになったものである。
食物でも、単に汚れを落とすだけのためでなく、苦味や毒性の含まれているものを水にさらして食することもあり、また日本独特の料理の一つとして、コイやタイなどの生身を冷水で洗い、縮ませて食べる「洗い」がある。穀物から石や砂を分離するにも、砂金、ダイヤモンドの選鉱にも水洗いは欠かせなかった。せっけんが普及して清潔が健康のために重要視されるようになっても、洗うことの清めの意味は、形を変えて現代生活のなかに息づいているといってよい。 [ 執筆者:落合 茂 ]
★はてなキーワード > 川柳
俳句と同じく、五七五で詠む短詩。季語は含まなくても良く、諧謔・風刺・機知が目的である。
時事ニュースなどを取り込むと川柳らしくなる。風刺などを得意とする。
なお、歴史的には江戸期の前句付けから発生している。(五七五七七の「七七」を先に詠んで、それにうまく合わせた「五七五」を前句としてつけた。後に、前句のみが独立して川柳となった。)
「川柳」の名前は、この前句付けの名点者・柄井川柳から由来している。
★はてなキーワード > 川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)
落語家。1931年埼玉県生まれ。前名、三遊亭さん生。師匠の三遊亭円生の落語協会脱退騒動の際に、三遊亭門下を離れ、川柳川柳を名乗る。
日本のジャズの歴史を唄い語る新作落語「ガーコン」一本の、寄席の名物男。
著書、「天下御免の極落語」(彩流社)
★はてなキーワード > サラリーマン川柳
第一生命が主催する公募の川柳グランプリ。
略称は「サラ川(さらせん)」。正式には「サラリーマン川柳コンクール」
応募資格は特になく、サラリーマンでなくても応募が可能である。
社会情勢をリアルに表した作品が多く、毎年の優秀作品の発表には注目が集まる。
★第一生命 > サラリーマン川柳 http://p.tl/AvgE
★川柳 - はてな匿名ダイアリー http://p.tl/z7UK
ちょっと長ったらしいけど川柳 とか狂言みたいなもんだ。 周りから見たらあほらしいかもしれないけれど、はてななりの 悲しい知恵なんすよ。
★はてなキーワード > オタク川柳
株式会社インターリンクが主催するオタクに関する川柳サイトのこと。
身の回りのオタクネタ、自分のオタクネタを「5・7・5」で表現し合いネ申を決める。
開催6回目の応募総数は4万通を越えるという。
作品2012年(1~10位)
1位:一児より 二次に手をかけ 家事惨事
2位:39(三重苦) 金なし嫁なし あせりなし
3位:好きな子を 奪い合わずに 語り合う
4位:デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ
5位:国会に 政治オタクが 何故いない
6位:今日もまた 佐川の人から サイン攻め
7位:ニコ生で 神と呼ばれて 道外す
8位:海賊王? それより課長に なってパパ
9位:俺の嫁 ならば作者は 俺の義父
10位:仕様書や 取説読むより 空気読め
http://p.tl/IYDK
第7回あなたが選ぶオタク川柳|インターリンク http://www.575.cc/
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★川柳(短詩)(せんりゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/HMfu
江戸中期に始まる17音の短詩。雑俳(ざっぱい)の一様式である前句付(まえくづけ)から、付句(つけく)の五・七・五だけが独立して詠まれるようになったもの。人の見逃しがちな、人事・世相・歴史などの断面をおもしろく指摘してみせる句風で、俳諧(はいかい)にも詠み残されたような、ごく卑俗な題材まで、諸事百般余すところなく句の対象とするところが特色である。 [ 執筆者:岩田秀行 ]
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★雑俳(ざっぱい) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/XzhX
江戸時代に行われた通俗的俳諧(はいかい)。連想形式でつながっていく長編の本格的俳諧に対し、その練習形態として、2句間のみの付合(つけあい)である前句付(まえくづけ)俳諧が行われ、それから派生した一種の懸賞文芸が雑俳である。点者(てんじゃ)の出題に対して、会所(かいしょ)(仲介者)が広く句を募り、各地の取次(とりつぎ)所を通じて集められた投句(とうく)のなかから、点者が優秀作品を選び、その入選句を刷り物にして賞品とともに投句者に配るという興行形態(万句寄(まんくよせ)・万句合(まんくあわせ)などとよぶ場合もある)をとった。雑俳書として本屋が出版するものは、この勝句(かちく)刷り物をさらに編集したものである。点者は、初期においては正式な俳諧師がこれにあたったが、やがて専門点者の輩出をみ、雑俳は俳諧の第二文芸的性格を有するものとして独立する。出題には、種々の形式が行われたが、前句付(まえくづけ)型、笠付(かさづけ)型、非付合(つけあい)型の三つに大別できる。 [ 執筆者:岩田秀行 ]
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★俳諧(はいかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和歌、連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、詩文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきようぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~40年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から70年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★連歌(れんが) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/2CkH
平安朝時代に主として流行した短(たん)連歌と、鎌倉時代から江戸時代初期にかけて流行した長(ちょう)連歌を、その当時においては、ともに連歌とよんでいたが、一般には後者をさす。それは中世とともにおこり、中世とともに滅んだ、中世特有の詩である。 [ 執筆者:木藤才蔵 ]
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★連句(れんく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
俳諧(はいかい)用語。十七音節(五・七・五)の長句と十四音節(七・七)の短句を、一定の規則に従って交互に付け連ねる様式の詩文芸。第一句(長句)を発句(ほっく)または立句(たてく)、第二句(短句)を脇句(わきく)、第三句(長句)を第三の句といい、この三句を一括して三(み)つ物(もの)とよぶ。第二句以下を発句に対して付句(つけく)、第四句以下を三つ物と区別して平句(ひらく)、最終の句(短句)を挙句(あげく)(揚句)という。所定の句数に達したものを一巻とよぶが、一巻が百句からなる百韻(ひゃくいん)が基本形式で、千句、十百韻(とっぴゃくいん)(百韻十巻)、万句、米字(よねじ)(八八句)、五十韻(百韻の前半)、世吉(よよし)(四四句)、歌仙(かせん)(三六句)ほか多くの種類がある。連句の形式はもと連歌に準拠したもので、正しくは「俳諧之連歌」略して「俳諧」というが、俳諧の発句が独立して俳句とよばれるようになると、それと区別し、また連歌と区別するために連句と称されるに至った。
連句は一巻を貫くテーマをもたず、人生や自然の種々相を描いて句々変化を尽くすところに生命がある。連句の最小単位は付句(付ける句)、前句(付けられる句)、打越(うちこし)(前句の前の句)の三句であるが、付句の内容が打越に触れることを嫌い、三句目の転じが力説されたのはそのためである。また、一巻の模様や付け運びについても、さまざまな規約(式目(しきもく)・作法)が設けられた。同じ語彙(ごい)の重複を避けるための一座何句物、同季・同字または同種・類似の語が近接する指合(さしあい)(差合)を避けるための去嫌(さりきらい)、四季・恋・神祇(じんぎ)・釈教(しゃっきょう)等の題材を何句続けるかという句数(くかず)、とくに花・月の句を布置すべき場所を指示した定座(じょうざ)(常座)などである。連句は半折した懐紙にしたためられる。芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧で主流をなした歌仙形式は、初折(しょおり)(一の折)の表六句、同裏12句、名残(なごり)(二の折)の表十二句、同裏六句の割合であった。
付句を付けることを付合(つけあい)というが、付合の手法にもさまざまなくふうが凝らされた。連歌の式目をもとに俳諧の式目を完成させた貞門(ていもん)俳諧では、その啓蒙(けいもう)的な性格と相まって、語に語を付ける単純な「物付(ものづけ)」が主流をなし、三句目の転じは多く前句中の語を同音の他の語に転じて付ける「取成(とりなし)付」によった。貞門の付合がようやくマンネリズムに陥ると、談林(だんりん)俳諧が勃興(ぼっこう)し、貞門と共通の付けことばを用いながら、飛躍的な句意の転化と、すばやい付け運びを特徴として一世を風靡(ふうび)した。放しつつ寄せる「あしらい」、その語を抜いてそれとわかるように句を作る「ぬけ」が重用された。蕉風俳諧は元禄(げんろく)期(1688~1704)の新風の一体として、前句に似つかわしい肌合いの句を付け寄せる「移り」(映り)を主体とし、さらにそれを余情による「匂(にお)い付(づけ)」へと深化させた。
こうして連句は詩的達成を遂げるが、付合の契機から語や句意を疎外した結果、やがて解体へと向かうことになる。蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句をよくしたが、俳諧文学の主流は発句によって占められた。事実上連句が終末を迎えるのは、正岡子規(しき)によって「発句は文学なり、連俳は文学に非(あら)ず」(芭蕉雑談)と説かれた明治近代においてであった。連句は現在、自我への固執から近代文芸の陥った閉塞(へいそく)状況を打開する試みの一つとして、ふたたび多くの人々の関心を集めつつある。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★発句(ほっく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
連歌(れんが)・俳諧(はいかい)用語。最初は短歌の初五文字、のちに同じく上の句(五・七・五)をさしていったが、十七音節(五・七・五)の長句と十四音節(七・七)の短句を交互に付け連ねる連歌・連句が成立すると、その巻頭の長句を、第二句(脇句(わきく))以下の付句(つけく)と区別して、発句とよぶに至った。短歌の上の句と違い、完結した思想を表現しなければならず、季(き)の詞(ことば)(季語)を詠み込み、切字(きれじ)を用いることが要請された。その点、今日の俳句と異なるところはないが、脇句以下の付句を予想して制作され、百韻(ひゃくいん)なり歌仙(かせん)(三六句)なりの一巻をリードするだけの格調の高さが重んじられた点で、一線を画する。やがて独立の詩形として自覚的に制作されるようになると、連句の第一句はとくに立句(たてく)ともよばれ、発句は俳句とも称されるに至った。しかし俳句の名称が本質的な詩性の変革を伴って用いられるようになったのは、正岡子規(しき)による俳句革新運動以後である。 [ 執筆者:乾 裕幸 ]
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★あらう(あらう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
【洗う・濯う・滌う】
「洗う」は水で清める意で、転じて広く清める意に用いる(洗浄、洗心など)。「濯う」は汚れを洗い流す意で、洗よりも用途は狭く(濯足(たくそく)など)、「滌う」は洗いすすぐ意で、洗に似ているが用途はさらに狭い(滌洗(できせん)など)。以上の意味のほかに、素性を洗うなど隠れている事柄を調べただす意、冤(えん)(無実の罪)をそそぐ意、波が岸辺に寄せ返す意などがある。英語でもwashはwaterと同語根で洗いすすぐ意、cleanseには罪を清める意がある。 [ 執筆者:落合 茂 ]
ガンジス川での沐浴
1. 清めの「洗う」
エジプト、メソポタミア、インダス、中国の諸文明がそれぞれ大河の流域からおこったように、河川は文明の母といわれて、人間社会の成立と発展に密接な関係があり、宗教では水の清浄化作用に象徴的意味をもたせている。原始宗教では病気、災害、犯罪なども等しく穢(けがれ)としてとらえられ、それらから免れるため水、火、煙、香料による清めが行われたが、もっとも一般的なのは水による清めであった。
古代エジプト人にとっては、上流から肥沃(ひよく)な沖積土をもたらすナイル川は神であり、清潔好きなエジプト人は沐浴(もくよく)を清浄の行為とし、健康と長寿の秘訣(ひけつ)としてナイルの流れに身を浸した。ガンジス川を神聖視するヒンドゥー教徒は、水浴すればすべてその罪から免れるとして、1日1回ガンジスの水に浴した。またヨルダン川における聖ヨハネによるキリストの洗礼から、洗礼はキリスト教入信の儀式となった。メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスリーJohn Wesley(1703―1791)は「清潔は神に次ぐ」とさえいっている。
イスラム教徒が水に親しむのも、沐浴が罪穢(つみけがれ)からの解放にほかならないからである。聖典コーランには「清浄(タハーラ)は信仰のなかばをなす」という教祖ムハンマド(マホメット)のことばがある。タハーラは礼拝の前に穢を清めることで、小浄(ウドゥー)と大浄(グスル)に分かれ、前者は頭部、肘(ひじ)から下と膝(ひざ)から下の手足を清めること、後者は全身の水浴のことで、水のない場合には砂による小浄が許され、水の乏しい地方では空き缶1杯の水で巧みに手足を清めている。 [ 執筆者:落合 茂 ]
2. 日本での「洗う」
神道の禊(みそぎ)は『古事記』によれば伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から帰って日向(ひゅうが)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊祓(みそぎはらい)をした故事を起源とする、罪穢を洗い清めて神に近づくための行事である。禊の場所は古語で「斎用水(ゆかわ)」とよばれ、海浜や海に通じる川の淵(ふち)、大河の枝川や池、湖の入り江が神聖な場として選ばれた。古代農耕社会ではそれが五穀豊穣を祈る行事につながり、『万葉集』の「春すぎて夏来るらし白たへの衣乾したり天の香具山(かぐやま)」は、香具山にこもって禊する処女の斎衣(おみごろも)の干してある情景を詠じたもの。また「玉久世の清き河原に身祓(みそぎ)して斎(いわ)ふ命は妹が為(ため)こそ」には、「洗い」が生活の一部となり、愛の証(あかし)でもあることを示している。こうして水の豊かな自然環境のなかでは、人々はおのずときれい好きとなって洗いにいそしみ、川や泉のほとりは洗い場ばかりでなく寄合い場ともなった。
入浴も江戸時代には「銭湯で不沙汰(ぶさた)の義理を流し合い」とか「女湯で世上のあかをこすり合い」と川柳(せんりゅう)にもあるように、銭湯は上下の差別のない裸の別天地で、庶民の安直なサロンであり、いのちの洗濯場であった。また、いまも残る正月望(もち)の日(陰暦15日)の洗い初めの風習は、水で洗い清める神迎えの作法の名残(なごり)であり、七夕(たなばた)の髪洗いの風習も、神迎えをする7月の行事の一つが、のちにこの日に髪を洗うと美人になる、この日に油ものを洗うとよく落ちると言い伝えられるようになったものである。
食物でも、単に汚れを落とすだけのためでなく、苦味や毒性の含まれているものを水にさらして食することもあり、また日本独特の料理の一つとして、コイやタイなどの生身を冷水で洗い、縮ませて食べる「洗い」がある。穀物から石や砂を分離するにも、砂金、ダイヤモンドの選鉱にも水洗いは欠かせなかった。せっけんが普及して清潔が健康のために重要視されるようになっても、洗うことの清めの意味は、形を変えて現代生活のなかに息づいているといってよい。 [ 執筆者:落合 茂 ]