縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

●ふくろ●麻袋(あさぶくろ)●巾着(きんちゃく)信玄袋●ポチ袋

2012年09月18日 22時32分56秒 | 色んな情報
●ふくろ●麻袋(あさぶくろ)●巾着(きんちゃく)信玄袋●ポチ袋
★袋 - Wikipedia     http://p.tl/-rft
袋(ふくろ)とは、物を入れる容器の基本的な形状の一つである。柔軟な素材で作られ、内容物の無いときは折りたたむなどして小さくまとめることに向く。英語のbag(バッグ)やsack(サック)で呼ばれることもある。
★歴史に見る袋   http://p.tl/jKfv
動物の胃袋や膀胱ないし魚の浮袋 土器などのかめ(→瓶) 
★巾着(きんちゃく)とは、日本古来の小物や手回り品を収納して持ち歩くための袋。http://p.tl/VCus
★麻袋(あさぶくろ)http://p.tl/7tia
ジュートなどの麻の繊維を編んで作る袋。俗に、ドンゴロス、南京袋(ナンキンぶくろ)とも呼ばれる。英語では、gunny sack または gunny bag。
★容器以外の用途   http://p.tl/9D_f
★比喩としての袋として 堪忍袋 おふくろ 袋たたきなど
★袋の形状・機能別名称     http://p.tl/Q1Qz   材料はマダマダ発展して変化する

★信玄袋【しんげんぶくろ】世界大百科事典 第2版
女持ちの手さげ袋。方形の底に織物製の胴をつけ,上端にひも通しをしつらえる。正しくは合財(がつさい)袋という。持物一切合財を入れられるという意から合財袋と呼ばれた。信玄袋の名称に対しては,信玄弁当(三つ重ねの弁当)を入れたためとか,信玄(甲斐絹(かいき)の隠語)を袋に用いたためなどというが定かではない。明治20年代まで女持ちの物入れは,タバコ入れや鼻紙袋,財布などがおもであったが,男が胴乱やかばんを用いるようになると,女持ちの袋物として考案され,明治30年代には流行の頂点を迎えた。
・百科事典マイペディアの解説.
合財(がっさい)袋とも。布製の手さげ袋で,携帯品一切合財を入れる。平底で,口をひもで締める。底を籠(かご)にしたものを籠信玄,きんちゃく形に口をしぼったものを千代田袋という。
・デジタル大辞泉の解説.
布製平底の手提げ袋で、口をひもで締めるようにしたもの。明治中期以降から流行。和服を着た女性が小物入れなどに使う。名の由来は未詳。合切袋(がっさいぶくろ)。
・大辞林 第三版の解説.
厚紙の底がつき,口をひもでくくるようにした布製の大形の手さげ袋。

★袋駅 - Wikipedia   http://p.tl/orp1
★笑い袋 - Wikipedia  http://p.tl/wl45
★有袋類 - Wikipedia  http://p.tl/3UoL
★お年玉袋 - Wikipedia http://p.tl/moA5
★レジ袋税 - Wikipedia http://p.tl/QdhW
★慰問袋 - Wikipedia  http://p.tl/oW0E
戦地にある出征兵士などを慰め、その不便をなくし、士気を鼓舞する ために、中に日用品などを入れて送った袋である。
★袋中 - Wikipedia   http://p.tl/HfES
江戸時代前期の浄土宗の学僧。陸奥国磐城郡の出身で、道号を弁蓮社 入観(べんれんじゃにゅうかん)、法諱を良定(りょうじょう)と号した。
★袋棚 - Wikipedia   http://p.tl/18o0
主に2枚ないし4枚の引違戸(袋戸と呼ぶ。多くは襖である)が つけられた比較的小さな収納棚。高さに乏しい反面、横幅または奥行きを持つ。戸(袋戸 )が付けられていることから「袋戸棚(ふくろとだな)」とも呼ぶ。
★ゴミ袋 - Wikipedia  http://p.tl/u-Z2
★防災非常袋 - Wikipedia http://p.tl/rY31 災害時にすぐに持ち出せ、必要最低限の物を 入れた、袋である。
★美袋駅(みなぎえき) - Wikipedia  http://p.tl/PwRV
★袋地 - Wikipedia   http://p.tl/ncCj
民法上は道路に接していない土地をいう。また、不動産業界 においては道路との間に細い路地状の部分を持ち、主たる敷地の大部分が道路と接し ていないような土地も含む。民法上の袋地を囲んでいる土地を囲繞地(いにょうち)といい 、袋地 ...
★袋とじ - Wikipedia   http://p.tl/TXL9
袋とじ(ふくろとじ。袋綴じ、袋綴とも)は、近年意味が三つある。 製本の方法。中国・朝鮮 ・日本で古くから行われた。 複数枚からなる書類を綴じたもの。内容の差し替えを防ぐ事 を目的とする。 雑誌・書籍のページを袋状に閉じたもの。その内部が店先で立ち読み ...
★救助袋 - Wikipedia   http://p.tl/Hh2B
避難する際に窓から降下させて、布状の袋本体の内部を 滑り降りる避難器具のひとつである。
★魚袋 - Wikipedia    http://p.tl/DyoA
魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。
石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。
★袋文字 - Wikipedia   http://p.tl/3ZYG   文字修飾の一種で、輪郭線だけがある文字を指す。白抜き文字、縁取り文字、アウトライン文字とも呼ぶ。http://p.tl/s7TQ
★鬼太郎袋(きたろうぶくろ) - 日本語俗語辞書   http://p.tl/hGBd【種類】 若者言葉
★ポチ袋(ぽちぶくろ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】 ポチ袋とは、祝儀やお年玉などを入れる、小さなのし袋。ぽち袋。
【ポチ袋の語源・由来】
ポチ袋の「ポチ」は、関西の方言で芸妓や茶屋女などに与える祝儀のことであった。
祝儀を「ポチ」と呼び始めた由来は定かではないが、非常に少ないことを「これっぽっち」というように、「ポチ」には「小さな点」や「ほんの僅か」という意味がある。
祝儀を渡す相手が、芸妓や茶屋女などであったことから少額の祝儀と考えられ、「ほんの僅かな金額」という意味で「ポチ」と呼ばれたのであろう。
また、フランス語の「プチ」を語源とする説や、「ポーチ」を語源とする説もあるが、時代的に考えて不自然である。
★耳袋. 耳侍。吉田聡風に。http://p.tl/IK_G
江戸の名奉行、根岸鎮衛の収集した奇妙な話、愉快な話、味のある話の現代語訳。

●♪土佐の高知の播磨屋橋で~ ぼんさんかんざし買うを見た~

2012年09月18日 22時32分56秒 | 色んな情報
●♪土佐の高知の播磨屋橋で~ ぼんさんかんざし買うを見た~
★よさこい節 女声Key Abm      http://p.tl/3qVT
★南国土佐を後にして ペギー葉山   http://p.tl/xnbd
★よさこい - Wikipedia        http://p.tl/-7Il
★よさこいは、夜さり来い(夜にいらっしゃい)という古語が変化した言葉。    http://p.tl/ZqRH
または、高知県の民謡であるよさこい節、同県のよさこい祭りの略。
他に高知県のよさこい祭りの形式を取り入れた、各地の祭り・イベント・踊りの呼称として、よさこいと呼ぶ場合がある。
よさこい節のよさこいの意味は、どの説に従うかによって解釈が異なる(よさこい節の項参照)。
★南国土佐を後にして ペギー葉山 - YouTube      http://p.tl/2k-A
★よさこい節 高知県民謡         http://p.tl/nVYB
★紅羅坊名丸:ペギー葉山 土佐国(とさのくに)         http://p.tl/kWR1
★はりまや橋奇譚(毒にも薬にもならない話16)          http://p.tl/OJCV
★よさこいって何 「よさこい鳴子踊り」って何?        http://p.tl/d6uD
★胸おどるよさこい祭り ペギー葉山      http://p.tl/QDRq
★南国土佐 よさこい鳴子おどり・坂本龍馬   http://p.tl/IAoA
★よさこい祭り生い立ち            http://p.tl/jJI1
★日本一周の旅 - )高知 「よさこい節」    http://p.tl/VMmk
★南国土佐を後にして - Wikipedia       http://p.tl/pMm5
★よさこい祭り - Wikipedia          http://p.tl/uuX3
★初回放送:2010年2月19日「よさこい節~南国土佐をあとにして」  http://p.tl/0QjK
★「落語ネタの不思議なお話……・・茄子娘」  http://p.tl/Bsix
★高知・・・・はりまやばし橋・・・・≪坊さんかんざし買うを見た≫ http://p.tl/oQgW
★うるめしま: 秋の高知のはりまや橋。「見てがっかりする」    http://p.tl/Of8K
★まずはじめに  土佐の維新の志士列伝 0人目         http://p.tl/69eN
★よさこい祭り - よくある質問と回答        http://p.tl/kSZN
★2008年演奏の模様 http://p.tl/IY_t
★よさこい節に歌われた僧、純真   http://p.tl/bAMe
★純真お馬の恋物語 - 水瓶座の時代へ - Yahoo!ブログ http://p.tl/f221

●箪笥(たんす)タンス●油団(ゆとん)●

2012年09月18日 21時18分46秒 | 色んな情報
●箪笥(たんす)タンス●油団(ゆとん)●
★たんす(たんす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【箪笥】   http://p.tl/Wlv3
収納用家具の代表的なもので、衣服、小道具、書類などを整理保管するための箱類の総称である。箪笥の語源は、中国の食料を入れる円形または弓形の竹製の箱から出ている。収納する品物によって、茶だんす、食器だんす、書類たんすなどとよばれるが、普通には衣類収納のための衣装たんすをさす。
[ 執筆者:小原二郎 ]
目次
1.日本のたんす
2.西洋のたんす
3.現代のたんす
4.材料・生産.
★箪笥(たんす) - Wikipedia     http://p.tl/EvQG
たんす. 和箪笥. 簞笥(たんす)とは、衣類や道具を収納するための、引き出しや扉を備え た家具。通常は木製で、一人では持ち運べない大型のものが多い。 助数詞として、棹( さお)という語を使って数える。
★油箪(ゆたん)http://p.tl/EwEI
箪笥や長持などにかけられるカバー。油単とも表記される。現代では特に桐箪笥用のカバーを指すことが多い。
元々は「物を包むために使われる油を引いた布や紙」を指し、風呂敷や敷物の一種であった。
時代が下るにつれ意味が変化し、特に箪笥・長持のカバーを指す名称として使われるようになった。 婚礼調度の一つだった時期もあった。
★ゆ‐たん【油単】
1 ひとえの布や紙に油をしみ込ませたもの。湿気や汚れを防ぐため、調度や器物の覆いまたは敷物・風呂敷などに用いた。
2 たんす・長持(ながもち)などを覆う布。ふつう、木綿で作られ、定紋や唐草などを染め出したもの。
★ゆたんづつみ【油単包み】
昔、旅人などが持った油単で包んだ携行品。
★油団(ゆとん、ゆたん)は、日本の伝統工芸品の一つ。
幾重にも貼り重ねた和紙の表面に荏胡麻油を、裏面に柿渋[3]を塗って作られる(漆が用いられることもある)。
暑さをしのぐため、夏場に畳の上に敷く(俳句の夏の季語にもなっている)。100年以上使い続けることができる場合もある。
★油団(ゆとん)についてその歴史など レファレンス協同データベース   http://p.tl/Oy1o
★防水加工紙     http://p.tl/8Jcg
★『●和紙と紙   ●越前和紙』 http://p.tl/6Os7
★『●ゆとん●油団●通販私はしてません 何故私の処にアクセス一日200超えてます』 http://amba.to/Ql0pt4
★『●油団(ゆとん)●   夏の風物詩』 http://amba.to/Ql0soI
★『●油団(ゆとん)●』 http://amba.to/Oi1SfD
★『「油団(ゆとん)」。「未来に伝えたい10の知恵」』 http://amba.to/Ql0yfY
★『福井県に伝わる夏の風物詩、「油団(ゆとん)」。和紙の敷物』 http://amba.to/Ql0z3y

★箪笥(たんす)ミニ百科     http://p.tl/3Y7g
★図解 箪笥(タンス)各部の名称  http://p.tl/2LZG

★タンス預金 - Wikipedia     http://p.tl/2n9N
タンス預金(タンスよきん)とは、金融機関に預けられず、家庭内に保管されている現金の こと。 タンスに仕舞われることが多いことから名付けられているが、家庭内ですぐに 引き出せるのであればどこにしまわれていてもタンス預金と同等に扱われる。

★船箪笥(タンス)     http://p.tl/sFdb
★タンス・箪笥(たんす)の意味・語源・由来を解説。
【意味】たんすとは、衣類・小道具などを整理・保管するための箱状の家具。多くは木製。引き出しや開き戸を設ける。
【たんすの語源・由来】
室町時代の『文明本節用集』に「担子 タンス 箱也」とあり、古くは「担子」と書いた。
中国で「担子」は、天秤棒の両端にかけた荷物の意味で、日本では持ち運び可能な箱を表した。
江戸時代、引き出し式のたんすが作られるようになった頃から、「箪笥」の字が当てられるようになった。
「箪笥」も中国からの語で、古く中国では、円形の竹の器を「箪(たん)」、方形のものを「笥(し)」といい、合わせて「箪笥(たんし)」ともいった。
中国での「箪笥」は、飯などを入れる小さな器「櫃」をいう。
たんすの数え方は「一棹」「二棹」と「棹」を用いるが、これはたんすの両脇に金具をつけ、棹を通して担いで運べるようにしていたためである。

★タンスからの移染(調査結果) 東京都福祉保健局 「ホルムアルデヒド」という物質  http://p.tl/5gsQ

●木魚(もくぎょ、杢魚とも)●おりん「鈴」(りん)

2012年09月18日 18時25分52秒 | 色んな情報
●木魚(もくぎょ、杢魚とも)●おりん「鈴」(りん)
★もく‐ぎょ【木魚】
1 読経のときにたたいて鳴らす木製の仏具。丸くて中空で、表に魚鱗(ぎょりん)を彫刻してある。布などで先端を包んだ棒で打つ。
2 禅寺で庫裏(くり)につるし、食事時に打ち鳴らした魚形の木の板。
★もくぎょいり‐あいかた〔‐あひかた〕【木魚入り合方】
歌舞伎下座音楽の一。寺・墓場や寂しい野原などの場面で、合方に木魚の音を加えたもの。
★もくぎょ‐こう【木魚講】
1 葬儀費に充てる目的で、平生から各人が金銭を出し合う講。葬儀の際には、講中の一人が大きな木魚にひもをつけて首からかけて打ち鳴らし、大勢の講中がこれに合わせて念仏を唱え野辺送りをした。
2 妊娠していること。
「―になったのでお袋が怒り出し」〈伎・上野初花〉
★木魚(もくぎょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
読経(どきょう)や唱題(しょうだい)などの調子をとるために用いる仏具。一般にクスノキなどの木を材料とし、球形の内を空洞にして表面の一部に魚鱗(ぎょりん)の彫刻をしてある。小蒲団(ふとん)の上に置き、先端に布を巻いた棒で打ち鳴らす。もともと禅院で大衆を集める合図として打ち鳴らした魚鼓(ぎょく)(魚板(ぎょばん))から発展し、団扇(うちわ)形に変化し、さらに二頭一身の竜が向き合って一つの珠(たま)を含む形となり、木魚とよばれるようになった。中国では明(みん)代ころに現在みられるような形となり、日本では室町時代の遺品もあり、当時から使われていたようであるが、江戸時代の初めに渡来した隠元隆(いんげんりゅうき)が請来したともいわれている。おもに禅宗、天台宗、浄土宗などで使用する。浄土宗では一時、宗義に反するとして使用が禁じられたが、現在は念仏を唱えるときに重用されている。
木魚は楽器としても多く用いられた。中国では清(しん)代乾隆(けんりゅう)帝(在位1735~95)のころ民俗楽器として用いられ、日本では江戸時代、「木魚入合方(いりあいかた)」として歌舞伎下座(かぶきげざ)音楽に取り入れられた。第二次世界大戦後にはアメリカのジャズ・ドラマーによって、小形の木魚がそのままドラム・セットに加えられ、近年は形を変えてウッド・ブロックとしてドラム・セットに編入されている。
[ 執筆者:中尾良信 ]
★木魚(もくぎょ、杢魚とも)とは、仏具・楽器の一種である。http://p.tl/clc6
★木魚達磨(もくぎょだるま)http://p.tl/iqWU
鳥山石燕による妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪で、木魚の付喪神。
木魚が変化してだるま状になった姿として描かれており、解説文では木魚と同じ仏具の妖怪である払子守の同類とされる。
木魚は本来、魚が昼夜問わず目を開けたままであることから、修行僧に対して不眠不休の修行を説くために作られたものである。また、だるまの顔の元となった達磨も、眠らずに9年間修行したと伝えられている。それらのことから、不眠をテーマとして木魚とだるまを合成して描かれた創作妖怪とされる。


★おりんでは出ていない
★鈴 (仏具) http://p.tl/57p9
鈴(りん、れい)とは、仏具の1つである。
「鈴」(りん)とは、仏具の1つ。「錀」とも書く。「鈴台」などとともに用いる。

★鈴(すず)
音を出す道具のひとつ。土器や金属、陶器などでできた中空の外身の中に小さな玉が入っており、全体を振り動かすことで音を出すもの。
似たものに鐘があるが、鐘は人間が舌や撞木を動かして音を生じさせるものである。鐘の場合、舌や撞木は人間が触れることができ、紐やワイヤーで鐘の外身あるいは鐘の置かれた建造物とつながれている。
鈴の場合は鐘とは異なり、中の玉は外身にくるまれており人間が触れることはできず外身ともどこともつながれてはいない。
英語では鐘も鈴も「bell」と呼ぶ。
鈴は、縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれる。マメや木の実の種子が殻や鞘とはくっついておらず何処にもつながれていないのに外殻とともに成長するというのは、人間にとってこのうえなく神秘的であった。

★仏具(ぶつぐ)http://p.tl/Deg4
仏教の儀式で使用される日用品とは異なる特殊な道具、あるいは僧侶などの聖職者が使用する装飾品の事である。法具、法器とも言う。
★仏具の一覧     http://p.tl/OOMV

★香合(こうごう)(香盒から転送)   http://p.tl/3mns
香を収納する蓋付きの小さな容器。茶道具の一種であり、また仏具の一種でもある。香蓋とも書かれるが当て字。また合子(ごうす、ごうし)ともいう。

★香炉(こうろ)http://p.tl/Gx93
固体状の香料を加熱し、香気成分を発散させる目的で用いる器である。日本の仏具において灯明(燭台)・花瓶(花立て)とともに三具足(五具足)のひとつとされる。同様の目的に使われる、器と呼べる形状を持たないもの、すなわち香立て(こうたて)も、ここで取り上げる。

●太公望(たいこうぼう)

2012年09月18日 14時54分04秒 | 色んな情報
●太公望(たいこうぼう)
★呂 尚(りょ しょう)http://p.tl/htIq
紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。一般的には、太公望(たいこうぼう)という呼び名でも知られる。
太公望という別名は、一般的には渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公 (祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来 ... 一方、中国 で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスである。
★史上最も有名な奥さんに逃げられた人・太公望   http://p.tl/WMkb
★太公望(たいこうぼう)の意味・語源・由来を解説。
【意味】 太公望とは、釣りをする人。釣り好きな人。
【太公望の語源・由来】
太公望は、周代の政治家であった呂尚(りょしょう)の別名。
出典は中国の『史記(斉世家)』。
呂尚は大変な釣り好きで、渭水(いすい)という川で釣りをしていたところ、周の文王に「我が太公(周の祖)がんでいた賢人だ」と見いだされたという故事から、呂尚の釣り好きにちなんで、釣り人や釣り好きな人を「太公望」と呼ぶようになった。
★はてなキーワード > 太公望
姓は姜、氏は呂、名は尚。生没年は未詳だが、紀元前11世紀に活躍したとされる。
『詩経』では師尚父と呼ばれ、太公望という呼び名は『孟子』(前300年頃成立)以降に広く行われたらしい(意地の悪い言い方をすれば師尚父と太公望が同一人物という保証はない)。また、姜子牙は古い文献や史書の類には見えず、説話化を押し進めるに当たって新たに創作された称謂である。
『史記』等の説話では、渭水のほとりで釣りをしているところを周の文王に見出され(釣り人を太公望と呼ぶのはこれが典故である)、その子武王を助けて殷王朝を打倒したことになっている。
また、周王朝創建後は齊に封じられたという(が、これは単なる系譜上の作為であるという説もある)。
後軍師として尊ばれ、その手になるという兵書が多く偽作された。また、仙道の実現者ともされた。
★太公望呂尚 - e-taigongwang     http://p.tl/KWH8
★太公望  覆水盆に返らず      http://p.tl/cf1H
★太公望とは - 語彙          http://p.tl/YepW
★釣り(つり)あるいは魚釣り(さかなつり)http://p.tl/O-QT
釣り針、釣り糸、釣り竿などの道具を使って、魚介類などの生物を採捕する行為、方法のことである。
英語ではAngling(アングリング)あるいはPole fishing ポール・フィッシングなどと言われる。
★釣り名人の代名詞として良く知られる、太公望の釣りの対象は魚ではなくて「天下」でした。http://p.tl/Hz8n

★賢聖障子(けんじょうのしょうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
皇居、紫宸殿(ししんでん)の母屋(もや)の北側、玉座の後方に立てられる9枚の襖(ふすま)障子で、中国殷(いん)代より唐代までの賢臣32名の肖像が描かれているので名づけられた。中央の間に文書を負う亀(かめ)と、獅子狛犬(ししこまいぬ)を描き、その左右4枚の1枚ごとに4名ずつ描く。各人上方に色紙形の枠内に名前と徳行才能の賛詞が記されている。おこりについては『帝王編年記』に弘仁(こうにん)年間(810~824)、『皇年代記』に陽成(ようぜい)帝の代(在位876~884)、『古今著聞集(ちょもんじゅう)』に寛平(かんぴょう)年間(889~898)とあって一定ではないが、平安時代の初めころと推定され、現存のものは寛政(かんせい)年間(1789~1801)に造営したときに描かれたものである。なお、32名の人物は、馬周、房玄齢、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、諸葛亮(しょかつりょう)、伯玉(きょはくぎょく)、張良、第伍倫(だいごりん)、管仲(かんちゅう)、劉()禹(りゅうう)、子産、蕭何(しょうか)、伊尹(いいん)、傅説(ふえつ)、太公望(たいこうぼう)、仲山甫(ちゅうざんぽ)、李勣(りせき)、虞世南(ぐせいなん)、杜預(どよ)、張華、羊(ようこ)、揚雄(ようゆう)、陳寔(ちんしょく)、班固(はんこ)、桓栄(かんえい)、鄭玄(じょうげん)、蘇武(そぶ)、倪()寛(げいかん)、董仲舒(とうちゅうじょ)、文翁、賈誼(かぎ)、叔孫通(しゅくそんとう)である。 [ 執筆者:郷家忠臣 ]

★紫宸殿(ししんでん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「ししいでん」とも読む。平安宮内裏(だいり)の正殿。南殿(なでん)、前殿(ぜんでん)ともいう。元日(がんにち)、白馬(あおうま)などの節会(せちえ)や天皇・皇太子の元服など大小各種の儀式や公事(くじ)が行われ、天皇が病気であったり、大極殿(だいごくでん)の焼失などの特別の場合には、即位式が行われることもあった。
内裏の南中央に位置し、入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶ)きで、東西9間、南北2間の母屋の四面に廂(ひさし)、周囲に簀子(すのこ)(縁(えん))がある南向きの建物。母屋は天井を張らない化粧屋根裏になっている。儀式のときには母屋の中央に帳台(ちょうだい)や倚子(いし)を置き、天皇の座とした。母屋と南廂、東廂との間は間仕切りがなく、西は壁で、北廂との間には儀式のときに賢聖障子(けんじょうのしょうじ)が立てられた。これは絹張りの襖(ふすま)障子で、高御座(たかみくら)の真後ろにあたる1間には動物の絵が、残りの左右各4間には諸葛亮(しょかつりょう)、太公望(たいこうぼう)、蘇武(そぶ)ら計32人の中国の名臣の肖像が描かれていた。
南廂はやはり儀式の場で、東廂は通路、北廂は御後(ごご)ともいわれ儀式の際に装束や食事などを調える準備室となり、西廂は御膳を納めておく御膳宿(おものやどり)であった。南廂中央には「紫宸殿」の額が掲げられ、その下に、儀式の場となる南庭に続く18段の階があり、南庭には東に左近桜(さこんのさくら)、西に右近橘(うこんのたちばな)が植えられていた。
平安遷都当時の紫宸殿は、約160年後の960年(天徳4)に焼失し、以後の火災で規模は順次縮小された。また平安中期から発生した里内裏(さとだいり)では、寝殿が紫宸殿にあてられたが、清涼殿を兼ねる場合もあった。本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されず、紫宸殿も里内裏に残るのみとなる。南北朝期以後、内裏として固定した土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(現在の京都御所)でも、紫宸殿の形は造営のたびに変化したが、江戸後期の1790年(寛政2)平安内裏を復原した形で造営され、火災後も同じように再建されて現在に至っている。 [ 執筆者:吉田早苗 ]

★斉(せい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国、周代の侯国。姜(きょう)斉ともいう。周の文王に用いられて、武王の殷(いん)の討滅を助けた太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が営丘(えいきゅう)(現在の山東省益都(えきと)県付近)に封ぜられたのに始まるとされる。7代目献公(けんこう)のときから都を臨(りんし)(現在の山東省博(しはく)市東方)に移し、以後都は変わらなかった。紀元前7世紀初頭ごろから勢力を伸ばし、桓公(かんこう)(在位前685~前643)が即位すると、名宰相管仲(かんちゅう)の補佐の下で富国強兵策を推進し、前651年には覇者となり、周辺の小国を併合し、衛(えい)国を復興させ、楚(そ)の侵入を阻止し、斉を一躍強国にした。桓公以後は覇者とはならなかったが、晋(しん)、楚と並ぶ大国として君臨した。しかし、前5世紀以後は有力貴族の台頭や内乱によって国内は混乱し、前379年、有力貴族の田敬仲(でんけいちゅう)が康公(こうこう)にかわって公位についた。 [ 執筆者:太田幸男 ]

★釣り(つり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/XEH8
一般的に釣りは、その目的から職漁としての釣りと、趣味、レジャーのそれとに大別される。前者は漁業というべきであり、趣味として楽しむ釣り人(アングラーangler)の釣り、あるいはゲーム・フィッシングとは、やはり区別してとらえるべきだろう。本項では、趣味としての釣りについてのべる。 [ 執筆者:森 秀人 ]

★覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
いったん盆からこぼれた水はふたたび盆に返ることはないとの意で、一度離別した夫婦は元の鞘(さや)に収まることはないことや、一度しでかしてしまったことは取り返しがつかないことのたとえとして用いられる。中国、周の呂尚(りょしょう)(太公望)は読書に熱中して暮らしを顧みないので、妻の馬は愛想を尽かし、離縁をして家を出てしまったが、のちに太公が斉(せい)に封ぜられると、復縁を求めてやってきた。すると太公は一盆の水をとり、それを傾けて水を地上にこぼして、元のとおりに水を盆に戻すことができたなら、希望に応じようといった、とある『拾遺記』などの故事による。 [ 執筆者:田所義行 ]

★武経七書(ぶけいしちしょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国の7種の兵法書。春秋時代呉(ご)の将軍孫武(そんぶ)の『孫子(そんし)』、戦国時代魏(ぎ)の将軍呉起(ごき)の『呉子(ごし)』、春秋時代斉(せい)の大司馬(だいしば)田穣苴(でんじょうしょ)の『司馬法』、唐初の将軍李靖(りせい)の『李衛公問対(りえいこうもんたい)』、秦(しん)の国尉(こくい)尉繚(うつりょう)の『尉繚子』、秦の隠者黄石公(こうせきこう)の『三略』、周創業の功臣太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)の『六韜(りくとう)』をさし、略して『七書』ともいう。いずれも宋(そう)代に武官養成のテキストとして選ばれ、武人の経典として権威づけられることになった。 [ 執筆者:篠田雅雄 ]

★六韜三略(りくとうさんりゃく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)、後者は黄石公(こうせきこう)の撰述(せんじゅつ)と伝え、併称して韜略(とうりゃく)の書という。いずれも後世の偽書であるが、宋(そう)代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く読まれてきた。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)韜13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)韜8編・犬(けん)韜10編、計3巻60編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢(の)ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。 [ 執筆者:渡邉一郎 ]

■中世古城跡の歴史-文化財■

2012年09月18日 12時18分27秒 | 色んな情報
■中世古城跡の歴史-文化財■
★浮世絵     http://p.tl/KrUb
★八王子城の歴史 http://p.tl/z2Vs
★「データベースれきはく」http://p.tl/pVvQ
★井原 今朝男|研究者一覧|研究活動|国立歴史民俗博物館 http://p.tl/btcS
★21 第一部-Ⅴa.indd - 国立歴史民俗博物館(Adobe PDF)http://p.tl/570j
★史跡巡りとお城関係のHP   http://p.tl/pPwy
★参考資料一覧 郷土史関係 城跡ほっつき歩き http://p.tl/0nqA
★かわら版 新聞錦絵 江戸読本 日本の歴史 雑学の世界  http://p.tl/eSea 
★  「雑学の世界・補考」   http://p.tl/f5at
★大河原氏館 東秩父村 上田朝直 上田 宗調 上田案独斎 上田家菩提寺   http://p.tl/d_up
★房総の魅力500選 〔歴史〕/千葉県   http://p.tl/SkUa
★三田市/香下寺 中世古文書    http://p.tl/o-zG
★三田市/歴史・文化 http://p.tl/P61b
★大隅・高木城(城郭放浪記) http://p.tl/862U
★群馬県立歴史博物館年報(Adobe PDF)http://p.tl/J7nm
★こちら(PDF) - 群馬県立歴史博物館(Adobe PDF)http://p.tl/SFnl
★(津島の歴史-本文)http://p.tl/43Ry
★【はじめに】 私は近年、 歴史的・民俗的景観、 すなわち民俗学的 見地を ...(Adobe PDF)http://p.tl/vhtL
★ 広島大学図書館 > レファレンス(参考調査) > 主題別学術情報リンク集 - 哲学、歴史 http://p.tl/2_eo
★「羽黒神社」を訪問 http://p.tl/DCUS
★人間文化研究機構 統合検索システム « 国立国会図書館サーチについて   http://p.tl/Ek_h
★考古/博物館美術館情報 Museum-net   http://p.tl/K34S
★関東/博物館美術館情報 Museum-net   http://p.tl/PWgR
★福島県立博物館 リンク集 福島県内の博物館   http://p.tl/RIQH
★福島県博物館連絡協議会所属館 中通り地方   http://p.tl/0VFU
★伊勢国太平記/文献総覧     http://p.tl/Flef
★都道府県史の目録 (中世編 上)(Adobe PDF)http://p.tl/kQKI
★熊本県 あさぎり町-文化財   http://p.tl/bA_x
★人間文化研究機構 データベース台帳 NDC順インデックス   http://p.tl/Dtn7

■中世古城跡の歴史■

2012年09月18日 07時07分16秒 | 色んな情報
■中世古城跡の歴史■
★武州の城、埼玉県と東京都の古城と史跡巡り情報   http://p.tl/myah
★リンクサイト/近江の城郭   http://p.tl/Y0np
★近江の城郭          http://p.tl/WcJh
★東日本   史跡めぐり >   http://p.tl/5Wod
★ 城・史跡めぐり >       http://p.tl/5Wod
★   ■戦国時代とは■    http://p.tl/FLsl
★    奥武蔵研究会     http://p.tl/_wmW   http://p.tl/iUgS
★武州の城(Adobe PDF)     http://p.tl/sz6G
★中世の古城址-歴史散歩写真集  http://p.tl/AHji
★肥前名護屋城と各大名の陣城  http://p.tl/sZ26
★全国地域「江戸歴史散歩」   http://p.tl/JfeC
★城 - Wikipedia        http://p.tl/70VG
城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防衛拠点として設けられた構造物。戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の集積場所でもある。主要な城は指揮官の居所であり、政治や情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。城郭ともいう。
 
ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と砦のような戦闘拠点とを区別し、ドイツ語では Stadtmauer と Burg、英語では city wall と castle として区別する。城という文字は中国では前者の城壁都市を意味していたが、日本においては城壁都市が普及しなかったこともあり、主に後者の意味で使用される。
 
一般的には城には次の機能がある。
・防衛機能
 不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。
・支配の拠点
 領地支配の象徴としたり、敵地への支配地拡大の前線基地とする。
・君主の住居
 通常の領主の生活の場であり、住民達の拠点でもある。
★日本     http://p.tl/XaEI
・“しろ”の語源
★城(き)は、城を表す古語。上代特殊仮名遣ではキ乙類。http://p.tl/BMtT
★城柵(じょうさく)http://p.tl/Jg37
7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)が築いた軍事的防御施設である。
現代の歴史学では特に北東と南西の辺境に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。個々の城柵は、「多賀柵」など「柵」の字を付ける場合と、「多賀城」など「城」の字を付ける場合があり、城も柵も「き」と呼んでいた。北東は蝦夷、南西は隼人に対する備えとして置かれ[注 1]、対朝鮮・中国の城に比べると防備が弱く、行政施設としての性格が強いのが特徴である。
なお、前九年の役、後三年の役で安倍氏や清原氏が軍事拠点として設置した柵は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここで言う「城柵」には含めない。
★城柵の景観    http://p.tl/JzvZ
★養老律令(ようろうりつりょう)http://p.tl/GVNk
古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した[1]。因みに、制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。

★軍団 (古代日本)   http://p.tl/euwb
 軍団 (ぐんだん) は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。
★日本の軍事史(にほんのぐんじし)http://p.tl/dwAo
古代中央集権政府における徴兵制の崩壊後、長期間にわたる武士による武力の独占を経て、明治維新後の近代的徴兵制に基づく国民軍の成立と帝国主義による対外戦争に特徴づけられる。日本は第二次世界大戦で総力戦を経験して軍民ともに壊滅的な損害を蒙り敗戦した。敗戦後、アメリカ軍を主体とする連合国軍に占領された後に、日本国憲法によって自衛を除いた武力行使および砲艦外交を禁じられた自衛隊を創設し、現在に至る。

★日本の合戦一覧     http://p.tl/5U8m
日本史上でおこった武力を以って行った主要な争いの一覧である。概ね、「役」は戦争、「戦い」や「合戦」は一つの場所で短期間行った争いのこと、「乱」や「変」は国内で行われた内戦に当たる争い、「寇」は海外からの侵略と取られた場合に付けられる。また、暴動やテロなどの武力を伴った衝突などは「事件」と呼ばれる。
なおこの項目では主に公的な団体(国家、武装勢力、宗教団体、政治団体など)が絡む出来事、或いは多数の市民・民衆が集合的に暴行・脅迫・破壊などの暴力的な大規模な活動を行った事例について羅列する。

★一揆(いっき)http://p.tl/hkEY
日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のAufstandの訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。

★打ちこわし(うちこわし)http://p.tl/eeGz
江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。[1]主に都市部において、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。
都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703年)に長崎で発生し、享保18年(1733年)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。

★健児(こんでい)http://p.tl/pZXS
奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
8世紀初頭に本格運用され始めた律令制においては、国家の軍事組織として全国各地に軍団を置くこととしていた。軍団は3~4郡ごとに設置されており、正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった。天平6年4月23日(734年)に出された勅(天皇の命令)には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、健児は元々、軍団兵士の一区分だったと考えられている。天平10年(738年)には、北陸道と西海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止することとなった。

★防人(さきもり)http://p.tl/bj_5
古代中国や、日本の飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。
★日本の防人   http://p.tl/f3T1
★防人歌(さきもりのうた) http://p.tl/Xbl9
大化の改新の後、九州沿岸の守りについた防人が詠んだ歌である。

★武士(ぶし)http://p.tl/2Fuh
10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については物部氏の名に求めるなど諸説がある。
同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者など[* 1])。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士[* 2]はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする。

★国衙軍制(こくがぐんせい)http://p.tl/D8mq
日本の古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)成立した国家軍事制度を指す歴史概念。律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で成立したとされる。また国衙軍制は、軍事貴族および武士の発生と密接に関係していると考えられている。

★軍事貴族(ぐんじきぞく)http://p.tl/Wq5F
日本の古代後期から中世最初期にかけて出現した軍事専門の貴族をいう。成立期の武士の母体となった。桓武平氏、清和源氏、秀郷流藤原氏などが代表的な軍事貴族である。

★武士団(ぶしだん)http://p.tl/TN79
主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた[1]。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。

★北面武士(ほくめんのぶし)http://p.tl/Z44f
院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

★武家(ぶけ)http://p.tl/EVVp
日本における軍事を主務とし貴族階級の官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。現代では武士一般を指すこともある[1]。

★公家(くげ)http://p.tl/LeRl
日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。
公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家と呼ぶようになった。

●談義本【だんぎぼん】●滑稽本【こっけいぼん】●当世下手談義【いまようへただんぎ】

2012年09月18日 07時07分16秒 | 色んな情報
●談義本【だんぎぼん】●滑稽本【こっけいぼん】●当世下手談義【いまようへただんぎ】
★滑稽本『150m先で溺れている人の為の藁』 http://amba.to/OU5plr http://ameblo.jp/kokkeibon/
★談義本【だんぎぼん】世界大百科事典 第2版   http://p.tl/XXph
江戸時代の1752年(宝暦2)から89年(寛政1),寛政改革で弾圧されるまで流行した風刺的な小説の総称。当時〈教訓本〉〈よみ本〉〈談義本〉などといわれたが,実際は1752年の静観坊好阿(じようかんぼうこうあ)の《当世下手談義(いまようへただんぎ)》から始まった小説であるから,〈談義本〉という呼称が適当であろう。《下手談義》は宝暦の世相を風刺した滑稽小説であるが,大きな反響を呼び,《教訓雑長持》《当風辻談義》などの後続作を生んだ。
・世界大百科事典内の談義本の言及.
【戯作】より
…江戸中期に知識人の余技として作られはじめた新しい俗文芸をいう。具体的には享保(1716‐36)以降に興った談義本,洒落本(しやれぼん)や読本,黄表紙,さらに寛政(1789‐1801)を過ぎて滑稽本(こつけいぼん),人情本,合巻(ごうかん)などを派生して盛行するそのすべてをいう。またその作者を戯作者と称する。…
【諸神本懐集】より
…真宗僧存覚の著した談義本。奥書によると,元亨4年(1324)1月12日,仏光寺了源の要請により,当時流布していた一本を添削して製作したという。…
 
・デジタル大辞泉
江戸時代、宝暦(1751~1764)から安永(1772~1781)ごろにかけて多く刊行された滑稽(こっけい)な読み物。宝暦2年刊の静観坊(じょうかんぼう)好阿の「当世下手談義(いまようへただんぎ)」に始まる。談義僧・講談師などの口調をまね、おかしみの中に教訓をまじえ、社会の諸相を風刺した。滑稽本の先駆をなす。談義物。
・百科事典マイペディア
江戸時代の小説の一種。談義は仏教の説法の意であったが,江戸期には芸能化して世相を風刺する滑稽な咄(はなし)によって評判を得た談義僧が輩出した。その談義の影響を受けて発生した風刺的な滑稽(こっけい)教訓書。
・大辞林 第三版
江戸時代,宝暦(1751~1764)から寛政(1789~1801)・享和(1801~1804)にかけて流行した滑稽な読み物。1752年刊の静観房好阿作「当世下手談義(いまようへただんぎ)」に始まる。談義僧の口調をまね,滑稽味と教訓性とを合わせもち,社会を風刺した。滑稽本の先駆。談義物。

★滑稽本【こっけいぼん】世界大百科事典 第2版   http://p.tl/RmMF
江戸後期の小説形態の一種。〈滑稽本〉とは明治以後の文学史用語で,江戸時代は人情本とともにその書型から〈中本(ちゆうほん)〉と呼ばれた。十返舎一九作《東海道中膝栗毛》(初編1802)以後明治初年までの滑稽諧謔を旨とする作品を指すが,文学史上は,中本の源流とみなしうる宝暦・明和(1751‐72)のころの,笑いを内包する教訓的作品をもふくめている。 文学史上,滑稽本の最初は1752年(宝暦2)刊の静観房好阿(じようかんぼうこうあ)作《当世下手談義(いまようへただんぎ)》とされ,当時の町の生活,風俗を批判,教訓するものであるが,説経僧の語り口を採用しておのずと笑いをかもし出す。
・世界大百科事典内の滑稽本の言及.
…半紙本と小本(こほん)との中間の寸法。近世後期の絵入り小説たる草双紙類は多くこの形態をとるが,そのなかでもとくに滑稽本,人情本の異称ともなる。【宗政 五十緒】。…
 
・デジタル大辞泉
江戸後期、文化・文政期(1804~1830)を中心に行われた小説の一種。江戸の町人の日常生活に取材し、主として会話を通じて人物の言動の滑稽さを描写した。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、式亭三馬の「浮世風呂」「浮世床」など。中本(ちゅうぼん)。
・百科事典マイペディア
江戸後期の小説形態の一種。その書型から人情本とともに中本(ちゅうほん)と呼ばれた。江戸町人生活を誇張・諧謔(かいぎゃく)・機知をもって描く。源流は宝暦ごろ流行の談義本。
・大辞林 第三版
江戸後期の小説の一。江戸を中心として流行した,滑稽を主とする小説。気質物(かたぎもの)・談義本(だんぎぼん)を継ぎ,文化・文政期(1804~1830)に最盛。町人の日常生活を題材とし,多く対話文でつづる。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」,式亭三馬の「浮世風呂」「浮世床」が代表的作品。

★談義本・滑稽本       http://p.tl/zSbW
★江戸期の小説の種類     http://p.tl/xH3f
★当世下手談義【いまようへただんぎ】世界大百科事典 第2版   http://p.tl/GKaB
談義本。静観房好阿(じようかんぼうこうあ)作。1752年(宝暦2)刊。5巻。談義とあるが仏教的な談義ではなく,当時の江戸の風俗を叙しつつ教訓的な意図でこれを風刺したものである。いままでの小説が主として関西を題材にしたのに対し,これは初めて江戸を題材にし江戸言葉を採り入れたので,最初の江戸小説として多大の反響を呼び,いわゆる談義本の始祖となる。歌舞伎,町人の身持,葬式のぜいたく,開帳,きおい組,虚説の流行,豊後節などを批判している。

★静観房好阿【じょうかんぼう・こうあ】朝日日本歴史人物事典
生年: 生没年不詳
江戸時代の談義本作者。はじめは摩志田好話,静観堂好話と名乗って,『御伽空穂猿』などの奇談小説を刊行したが,その後,宝暦2(1752)年に『当世下手談義』,翌年に『教訓続下手談義』を著し,狭義の談義本の開祖とされる。好阿には,この談義本2冊を含み,合わせて8冊の著述がある。『当世下手談義』は,狭義の談義本の出発点であるというだけでなく,以後の江戸戯作活況の契機ともなった。また,建部綾足をはじめ,談義本作者伊藤単朴,仏教長編説話作者西向庵春帳子などとの関係も指摘されている。その素性については,江戸両国の淡雪豆腐屋日野屋の隣に住む手習師匠山本善五郎であるという説,また,律宗から浄土宗に転じた談義僧が還俗し,大坂薩摩堀の医師積慶堂徳孤子となり,その後諸国を経歴,元文(1736~41)ごろから江戸で著述をなし,宝暦(1751~64)半ばごろには京都へ帰った人物であるという説などがある。
(樫澤葉子)
【当世下手談義】より
…談義本。静観房好阿(じようかんぼうこうあ)作。1752年(宝暦2)刊。…
 
・デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-? 江戸時代中期の戯作(げさく)者。
宝暦2年刊行の「当世下手(いまようへた)談義」は談義本流行の先駆けとなった。経歴は江戸で手習師匠をしていた山本善五郎,あるいは大坂の医師積慶堂徳孤子という説があり,明和6年(1769)4月2日,72歳で死去したともいわれる。別号に摩志田好話(ましだ-こうわ),静観堂好話。著作はほかに「怪談御伽童(おとぎわらわ)」「豊年珍話談」など。

★談義僧【ダンギソウ】デジタル大辞泉
仏教の教義をおもしろく平易に説き聞かせる僧。また、経典などを解釈して聞かせる僧。説教する僧。
・大辞林 第三版
仏教の教義をわかりやすく説く僧。おもしろおかしく説教をする僧。 「-すわると顔を十しかめ /柳多留初」
 
★談義・談議【だんぎ】大辞林 第三版
1. 自由に考えを述べ合い議論すること。 「世相-」 「選挙-」 「教育-」
2. 〘仏〙 経典や法義を説くこと。説法。また,問答。 「建仁寺の本願の-の座にのぞみて /沙石五・古活字本」
3.(「お談義」の形でも用いられる)堅苦しい,つまらない話。また,訓戒・小言。 「へたの長(なが)-」 「野々宮さんの所へ行つて,御-を聞いて来い /三四郎漱石」
4. 相談してうまく処理すること。話し合いをすること。談合。 「日比-申し侍りつる事,大将軍には一向に憑(たの)み奉る /盛衰記4」
 
★古典出典一覧(あ行) - 凡例 - 大辞泉 【事典・辞書サイトkotobank】http://p.tl/VoFm
★平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』 明治写) http://p.tl/_CXG
★戯作研究  中野三敏 (Adobe PDF) http://p.tl/eBoh
★Title 真宗談義本『御傳鈔演義』について : 近世語研究(その九) Author(s ...(Adobe PDF) http://p.tl/rI1S
★[出版史]中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』http://p.tl/An9X
★続々・はてしないトイレ談義(改訂版)http://p.tl/jrKC
★博 士 (教 育 学) 教 博 第 69 号 平 成 20 年 1 月 23 日 学 位 規 則 第 4(Adobe PDF)http://p.tl/NWXX
★松山壽一『音楽と政治-プラハ東独紀行とオペラ談義』 [本]   http://p.tl/WjtG
★和本江戸談義本の始祖「当世下手談義」1冊 静観房好阿絵入    http://p.tl/lD0O
★教訓もの 談義本の定義           http://p.tl/WBrv
★「談義本」に関連した動画の一覧      http://p.tl/wnBs

★談義本(だんぎぼん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
享保(きょうほう)(1716~36)のなかばごろから安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~89)ごろまで、主として庶民教化を看板に掲げて、種々の社会風俗の微細な欠陥を笑いを交えて指摘し、描写するのを旨とした滑稽本(こっけいぼん)の一群をいう。基本型は半紙本四冊から五冊の藍色(あいいろ)表紙。初期は徳川吉宗(よしむね)の享保の改革政治に従った庶民童蒙(どうもう)教化運動の一端として位置し、増穂残口(ますほざんこう)の『艶道通鑑(えんどうつがん)』による世相批判や佚斎樗山(いっさいちょざん)の『田舎荘子(いなかそうじ)』に発する教訓寓話(ぐうわ)の形式をとるが、静観坊好阿(じょうかんぼうこうあ)作『当世下手(いまようへた)談義』(1752)によって仏教談義の舌講調が文章に採用され、世俗卑近の話題が豊富に取り上げられるに至って、その滑稽な内容と表現は大いに歓迎されて江戸を中心に流行し、談義本の名がある。さらに伊藤単朴(たんぼく)作『銭湯新話(せんとうしんわ)』などが続くが、やがて内容の教訓性よりも世相一般の穴探しのほうへと趣向が移り、ますます滑稽性を増大させて、滑稽本の世界を生み出す母体となる。後期江戸小説の出発点でもある。 [ 執筆者:中野三敏 ]