あおぞら文化村便り =フォト俳句 エッセイ 野菜作りと今日の一品 縄文のこと=   

何でもありの文化村から発信します。野菜作りのこと、迷シェフの今日の一品、ネイチャから路地裏まで写真三昧、そしてフォト俳句

No.57 沖縄の旅 2015.01.15-18

2025-01-26 22:09:44 | 考古学

No.56 沖縄の旅 2015.01.15-18

沖縄に行ってきました。何年ぶりでしょうか、

今回の沖縄の旅は、沖縄本島で発掘された旧石器時代の遺構や遺物、人骨などをこの目で確かめることを目的に出かけました。観光目的ではなかったので風景写真はほとんど皆無でした。

 

巡った場所は、まず初日に「沖縄県立博物館」 二日目が現地見学で「サキタリ洞(ガンガラーの谷)」「港川遺跡」「具志頭民俗資料館」「那覇市山下町第一洞穴」 三日目は久しぶりに来た那覇、街中をぶらぶら復興修復中の首里城から金城町の石畳や栄町市場、牧志市場などを巡って、息抜きをしてきました。

四日目は午後のフライトなので、海に出て、行き交う大型船やフェリー、飛び立った飛行機など、のんびり眺めていました。

 

仕事を辞めて以後、もともと興味があった人類学や考古学に少し本格的に学問として取り組むようになったのは、都内のカルチャセンターで明治大学の安蒜先生の「旧石器時代人の知恵」と題した講座を受けたことがきっかけでした。その後、縄文時代の死生観や植物利用、土偶を中心に縄文人の美意識などに興味が移り、これらを中心に取り組んできました。

 

そんな折、昨年2024年の秋、群馬県岩宿博物館で受講した講座において、4万年前に既に日本列島に住み着いていた形跡があるとの最新研究のお話がありました。概要は、長野県佐久市の香坂山遺跡のこと。かつてアフリカから出立してユーラシア大陸に拡散していった我々現生人類ホモ・サピエンス、いわゆるグレート・ジャーニーの結果、たどり着いた東アジア。香坂山で見つかった石器は、そのまま日本列島に持ち込まれたかのような姿かたちをしているというのです。

このことから、ホモ・サピエンスが日本列島にたどり着く人類の長い長い壮大な移動の旅が見えてきます。

 

この講義を聴き終わって、再び人類史の探求に思いを馳せるワクワク感が戻ってきたような新たな感覚を感じていました。

 

今回、なぜ急に沖縄に行くことにしたかというと、沖縄こそ(琉球列島こそ)日本列島の人類史における重要ポイントであり、旧石器時代の人骨や、生活を知るうえでの貝の利用など、多くの知見がここにはあるということからです。

 

古本州島(本州、四国、九州とも陸続きの島 氷河期である旧石器時代)における今の時点で一番古い人骨は、静岡県浜北市(現在の浜名市)の遺跡から出土した「浜北人」約14,000年前の更新世最後の縄文への移行時期、さらにその下層から見つかった別の人骨は旧石器時代の約18.000年前と判定されています。ほかにはほとんど出土の形跡はありません。理由は酸性土壌だからということのようです。

沖縄では山下町第一洞穴(空港近く)から36,000年前、サキタリ洞(南城町)から3万~1万年前、港川遺跡から22,000年前、ビンザアブ遺跡(宮古島)から3万年前といった具合に、他にも石垣島や久米島、鹿児島県では奄美市や種子島など旧石器時代の人骨が発掘されています。なぜ琉球列島やトカラ諸島から多く出土するか、そこには琉球特有の地質いわゆる琉球石灰岩が基盤を形成しているからなのですが、この遺跡を取り巻く地層構造を知ることも、人類史を理解する上で必須要件であるとつくづく感じた次第です。

 

とにかく、連日、歩きに歩いた那覇市内。帰ってきてからドバっと疲れが放出しました。膨大な写真撮影枚数や博物館等で収集した資料やパンフ。帰宅して1週間がたってやっと整理し始めたといった次第。

 

当分はおとなしくしていようと思っていた矢先、仙台市富沢にある「地底の森ミュージアム」で面白い企画展をやっているとの情報あり。「氷河期の景色のあと」と題した2万年前の植生や動物について、当時の環境を紹介している企画とか。

3月2日までとのことなので、少し間を置いて、それでも是非にも行ってみてみたいと思っているところです。

 

あ~あ… これじゃ身体休めること出来ないじゃん!

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No.54 企画展「いわきの縄文土器」行ってきました。

2024-10-09 10:41:43 | 考古学

No.54 企画展「いわきの縄文土器」行ってきました。

企画展「いわきの縄文土器」

10/6の日曜日、いわき市考古資料館に行ってきました。常磐高速道路水戸北ICから約70km、約1時間、湯元ICで一般道路に出てすぐのところにあります。日曜日なので、終日、高速料金が3割引。

 

資料館としての規模はそれほど大きくはないですが、展示物や展示方法など見るにつけ、たぶん、しっかりしたキュレーターの方が居るのだろうと思いました。

解説パネルなども子供たちにも分かり安く親しみやすい構成です。普段、展示会場ではパネルの写真を撮って、あとで整理しつつ読んでみるというスタイルなのですが、今回は来訪者も少なく、その場理解で、じっくり、実物とパネルに向かい合ってきました。

 

10月26日(土)・27日(日)は、「東北文化の日」ということで、東北6県、11月24日までの約1か月間、最北は青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から、南はいわき市、白河市「まほろん考古資料館」まで一斉に美術館、博物館などの文化施設の無料展示や様々なイベントが行われるようです。

 

どれもこれも興味ある内容のものばかりで飛んで回りたいのですが、体力と気力、時間の確保はなんとかOKなのですが、それなりに旅費と宿泊費が...トホホ! 

 

どこからか出張命令でも依頼でも、ないですかね?!

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No.52 民話の里「遠野」を訪ねて2024.05.09-11

2024-05-25 09:39:01 | 考古学

No.52 民話の里「遠野」を訪ねて2024.05.09-11

遠野(岩手県)を訪ねて 2024-05-10 / ミトノミミズクさんのサイクリングの活動データ | YAMAP / ヤマップ

ここのところ、春野菜の苗を作ったり、ソラマメやジャガイモの手入れをしたりで、遠出もできず家の周りをウロチョロしている日々が続いていました。人間の身体って(自分のことだけかもしれませんが)じっと一か所に留まっていると、モヤモヤやイライラが蓄積されてきて、そのうちに、どこかにぱあーと飛び出したくなる見たいです。そんなわけで、ぱあーと遠野(岩手県)まで車をひたすら走らせ、現地に滞在三日間、清々しい気持ちに浸ってきました。

柳田國男の「遠野物語」の世界です。

物語に登場する、ダンノハナ、デンデラ野、サムトの婆、カッパ渕…

遠景に雪形の残る早池峰山を望みながら、ひたすら、myチャリンコで終日走り捲りました。チャリに取り付けていた走行距離計が作動していなくて、推定ですが30kmくらい、町の中、水が張られた畑の脇道、猿ケ石川や小烏瀬(こがらせ)川の畔など、あらかじめ調べてあったポイントを昼飯もそこそこに訪ね回りました。

 昨年(2023年)の初頭、朝日カルチャ講座で新谷尚紀(たかのり)先生の「遠野物語と柳田國男」を受講して、近々訪ねてみたいと思ってずっと温めていた遠野。

これまで旧石器時代や縄文のいわゆる先史を中心に「ひとり研究会」をやってきましたが、ここにきて、もう35年も前のことになりますが放送大学で学んでいた民俗学、民族学、博物館学など「人間の探求」コースを思い出し、卒論ゼミの故宮田登先生(当時筑波大学教授)との懐かしい思い出もあり、ふたたび蓋を開けたという訳です。

「遠野物語」に登場する館や淵、土地の名前、遠野三山の位置確認、町と里山そして山など、かなり詳細に2満五千分の一の地図上にメモをしておいたので、この自作の“観光”案内図に沿って、20インチの折りたたみチャリを駆使して東奔西走、走り捲りました。写真の撮影枚数は約900枚、こんなにシャッター切れるのもデジタルのおかげです。フィルム時代にこんな撮り方をしていたら、とんでもない金額になってしまいます!

遠野に住んでいる人たちとの会話も楽しかったです。このような会話ができるのも多分チャリを使って、いつでもストップできる、「こんにちは」と気軽に声をかけ、また、かけられる。そんなことが、いとも自然にでてくるからでしょう。

元祖「明けがらす」遠野名産の和菓子。三センチ四方、7㎜程度の厚みのあるお菓子で、米粉とクルミ、外側は求肥が巻いてあり、焦がしのような食べ物です。店舗に入ってしばし和服を召したおかみさんとお話をすることができました。大繁盛していた頃の遠野の町、祭のことや、民話のこと、柳田国男様のこと、そしていまの遠野が抱える悩みなど、まるで井戸端で隣のおばちゃんと話をしている感覚です。

たくさんの収穫があった遠野行でした。

高清水山頂から眼下に望む遠野盆地には、稲作の準備で張られた水がきらきら朝日に輝いていました。

その奥には六角牛(ろっこうし)山、北には霊峰早池峰山。

忘れることのない有意義な三日間を過ごした遠野を後に、帰りはひたすら海道筋の「三陸道」を一気に南下。

仙台東道路を突っ走り常磐道に入り、ああ、戻ってきたなと、何か素晴らしいことを成し遂げたような気持で無事、自宅にたどり着きました。

 

#遠野 #柳田国男 #明けがらす #早池峰山 #民話 #かっぱ #おしらさま

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No.42 オジロワシと縄文人  2023.12.10

2023-12-14 17:08:33 | 考古学

No.42 オジロワシと縄文人  2023.12.10

山梨県立考古博物館では、シリーズものの講義として「館長講座」を年に4回開催しています。今年の第3回講義が12月9日にありました。オンラインで受講できるので甲府市の現地まで出向くこともなく、自宅の勉強机に座りPCを開きます。PCの音声は少し小さいので、ブルーツース機能を使って単体のスピーカーに接続して聞きます。さらに臨場感をもたせるために画面を大きくして見たいので、PCとTVをコード接続して画像転送します。講義資料はあらかじめ送付されたメールの添付資料をプリントアウトして手元に用意しておきます。そしてゆったり気分で、脇にコーヒーカップを置いて90分の講義を楽しんでいます。

 今回のテーマは、「金正遺跡と石棒儀礼」 

金正遺跡(きんせいいせき)は北杜市にある国指定の縄文後期(4,400年前~)から晩期(3,000年前~2,700年)にかけての、特に祭祀を行った遺跡として高い価値をもっています。

配石遺構と言われる石を用いた石棺墓や住居群、石棒(男性器を表現した遺物)、大量のイノシシの殺戮(供犠)があったことを思わせる骨の出土など、縄文時代の儀式を探るうえで貴重な遺物が見つかっています。

講義資料の中に、興味ある部分がありました。供犠に使われたと思われるトリです。出土場所はなんと私の住んでいる水戸市の隣り町、ひたちなか市の「三反田しい(虫辺に見るという字)塚貝塚」

オジロワシの全身骨格を実測した図です。

講義終了後、ひょっとしたらということで、「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」にオジロワシの遺物の情報を聴くべく電話したところ、なんとケースに入って展示されているとのこと。

 さっそく翌日(10日の日曜日)出向きました。自宅からはおおむね15キロメートル、車で30分程度の距離です。

ありました、ありました。靴を脱いでスリッパに履き替え通路をまっすぐ進んだその先にガラスのケースに入った「オジロワシ」の骨格が! 感激です。

 このオジロワシ、住居址の人骨と近い距離に埋葬された形で発掘されたようです。ただし大きな特徴として頭部がありません。

このことは、金正遺跡や千葉県茂原市の下太田貝塚などの「イノシシ」の供犠に見られる頭部を切り取っているのと共通点があります。

 ここ三反田しい塚貝塚でも、供犠としてトリが供されたことが想定されます。

11時過ぎに当調査センターを訪れたのですが、他に来訪者は私ひとり。そのため学芸員の女性の方から様々なお話、情報をたくさん得ることができました。さらにはオジロワシが発掘されたときの報告書のコピーもいただくことができました。ありがとうございました。

 この調査センターは、「虎塚古墳」の壁画が見つかったことでも重要な場所で、さらには今年「十五郎穴(じゅうごろうあな)横穴群」が国指定の史跡になることが決まりました。

前方後円墳の虎塚古墳の内部石室には、色鮮やかな彩色が施されています。

また、7世紀初めの古墳時代末期に作られた十五郎穴横穴群の一つ一つの穴は、身分の高い人の墓です。墓からは正倉院宝物にある太刀と同形のものなどが出土しているとのことです。

 調査センターや十五郎穴の周りは、畑あり藪あり、のどかな風景です。すぐ近くには北関東自動車道路が海側に見えます。

 東側およそ1キロメートル先は、広大な太平洋。遺跡の有るところは標高差20メートル程度の台地上です。周囲の一段低いところには谷地が広がっています。貝輪などの装飾品も多数出土していて、豊かな縄文の生活が垣間見えます。

 日溜まりのベンチに腰を下ろし、ここに来る途中で買ったサンドイッチを頬張りながら、遺跡を独り占めしている今の自分。「幸せだなあ」と加山雄三よろしく鼻の下をこすりながら大空を仰いでいました。

 

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No.40 見てきました「星降る中部高地の縄文世界」特別展

2023-09-06 16:46:31 | 考古学

No.40  見てきました「星降る中部高地の縄文世界」特別展

山梨県立考古博物館で開催された「黒曜石ネットワークによる物流と人流」というサブタイトルの特別展、見てきました。

8月27日(日)、今年の猛暑のさ中、それも全国トップレベルの高温記録を出している甲府市へ。

現地に早朝に着くべく夜間走行、日中の暑さを避ける意味でも正解でした。

車のリア部分はいつでも横になれるようにしつらえているので、PAに入るたびにちょこちょこごろ寝。

自称、マイカーを「動くバンガロー」と呼んでいます!

何なら超軽量山岳用テント一式積載しているので、野っ原でもあればいつでも10分程度設営完了。今回はその必要はなかったですが。

水戸→常磐道→つくばJCT→圏央道→八王子JCT→中央道→上野原IC  ここで高速道路とお別れして、甲州街道国道20号を走ることにしました。一度この街道を走ってみたかったのです。

高速を降りる直前の上野原PAで2時間弱の仮眠、空が薄明るくなってきた午前4時30分頃に一般道路に出ました。6時頃に勝沼にある釈迦堂縄文遺跡博物館の駐車場に車を入れ、30分程度休憩して甲府市郊外の山梨県立考古博物館には7時30分頃無事到着しました。

9時開館なので、それまでの間、少しウロチョロし、また仮眠をして時を過ごしました。

 

展示室に入ると、いきなり黒曜石がドーンと目に飛び込んできました。黒光りして迫力満点。

展示の仕方も分かり安く、サブタイトルにもあるように物流・人流を主体に縄文人の当時の地域間を交流する姿が目に映るように理解でき、なかなかの展示だなあと感心しました。

 

昼 

さて何を食おうか そうそう その前にいつも愛飲しているワインのサドヤを覗いてみよう それと武田神社だな

というわけで、市内に向けて車を走らせました。

が、

サドヤさんではあいにく車を止める場所が満車で外観だけ見て素通りです。

では、武田神社へ

ところが、さすが観光スポット、この暑いのに大勢の人、駐車場もかなり離れたところまでいかねばならず、まあ、鳥居と雰囲気だけ見たからいいや

さて飯か、午後1時だ

といって市街地に戻るのももどかしく、結局のところ、国道沿いにあった名前忘れましたが「ラーメン屋」に。

外の気温、半端じゃない、10m歩くのもしんどいほど!

 

早々に帰途に着きました。

のんびり走行

甲府→国道411号大菩薩ライン・青梅街道→奥多摩湖→青梅IC→圏央道→つくばJCT→常磐道→水戸IC

午後7時 無事帰着と相成りました。往復約550キロメートル!

 

一体全体、縄文の勉強にいったのか、それともまるでドライブだったのか、とにかくその晩は熟睡・爆睡でした。

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