【アーカイブ】
≪「殺しのシンフォニー」とは何だったのか?≫
通勤途上にふと考えた――あらゆる誤解を恐れず藍版でアッキー・サリエリを「恋する乙女」呼ばわりした私なので、翻って山本サリエリには如何なる要素があるのか、と。一緒に『ROM』藍版を観た人とは、直後のハイテンションで「あのアッキーの歌う『殺しのシンフォニー』は絶対!『愛しさ余って憎さ一億倍』くらいの愛情表現だよねーキャハハハ~vvv」と、おバカなトークで盛り上がってしまったが、赤版でも真面目に考える価値はあるのだろうか…。
自分が天職と信じる仕事で、人も認める高い評価を受けている。
属する組織において唯一無二と尊敬されているとする。
が。ある日、自分よりも若く、そして圧倒的に才能のある存在が現れて、
自分の自信も、社会的地位も、大切にする価値観全てを粉々に破壊しようとしたなら…
しかも当の破壊者にそんな自覚もないとしたら。
認めてしまえばよかった、という人もいるかもしれない。
だが「体制の人」サリエリは「革命児」モーツァルトとは相容れることのできない存在だった。
凡人の嫉妬など、この際意味はない。
「人より抜きん出たものを持つ人間」だからこその嫉妬があるだろう。
人間の中には、神に似た何ものかがあると同様、何か悪魔的なものもまた存在する。
ナンバー1を消せば、ナンバー2は繰り上がり、頂点に立つわけだ。
共存以外の唯一の道は「共に破滅すること」である…と断じた人もいた。
だがしかし!赤版『ROM』のサリエリ閣下のやっていることは、脚本上致し方ないとはいえ…「ホントにそれでいいんですかッ!」の連続。
そんな彼に「観てる側も悶々としたぞ!」とツッコミたくなる第二幕最終章の幕開け。サリエリとモーツァルトの物語の終わりの始まり。
* * *
モーツァルトの音楽をすっかり気に入った、時の皇帝ヨーゼフ2世(ちなみにマリア・テレジアの息子でマリー・アントワネットの長兄であるw)は、彼の願いを聞き入れて新しいオペラの作曲を命じた。
1786年4月。
ウィーンのブルク歌劇場で「フィガロの結婚」の最終リハーサルが行われた。
ここでもバレエ音楽を王立劇場で演奏するか、しないか、という前例の有無を巡り対立するモーツァルトとローゼンベルグ伯爵。アッキー・ヴォルフのヤンチャぶりも相変わらずで、皇帝の御前であっても不貞腐れた顔をしたまま、足を投げ出して横着に座り込んでいる。常に謹直優雅な佇まいで「他人事」と言わんばかりの傍観者を決め込む山本サリエリ。対極に位置する二人の間で台本作家も、楽団員も、伯爵も、皇帝すらも皆が右往左往する。
結果的に「モーツァルトの肩を持つ」形で皇帝の満足する結果を引き出したサリエリは、案の定ローゼンベルグから猛抗議を受ける。
伯爵「サリエリ!気でも狂ったのか?それとも私を失脚させたいのか!?」
サリエリは「何を血迷って」と言わぬばかりに冷たい視線で伯爵をひと撫でする。ここから続く彼の少し苛立ったような口調は、伯爵だけでなくモーツァルトにも、そして自分自身にも向けた感情の表れのようにも思えた。
サリエリ「私は貴方を救って差しあげたのですよ。貴方自身が自分で引き起こした災難から…」
伯爵「皇帝陛下の面前でモーツァルトに勝たせることでか!?ふん!全く有り難い話だ!」
サリエリ「お分かりになっていないようだが、ローゼンベルグ伯爵。彼はもう、終わりです」
「フィガロの結婚」のあらすじは、平民による愚かで貪欲な貴族への意趣返しだ。18世紀末のヨーロッパではフランスを中心に革命勃発の噂は絶えず、各国は少しでも「反動的」な作品に対して「民衆の蜂起を促すもの」と見做し、異常に敏感にならざるを得なかった。
サリエリは言葉巧みにローゼンベルグの懸念を具現化してみせる。
必要とあらば協力者の買収を講じてでも、モーツァルトの作品が「反動的」であると貴族社会に知らしめ、危険分子として放逐することを提案する。今でこそモーツァルトに好意的なヨーゼフ2世とて、反体制分子と名のついた音楽家を手元に置く愚は犯すまい、と。
但し、全てはローゼンベルグの手によってでなくてはならない、と念を押すのも忘れずに…。
サリエリ「時が来たら…もう一度皇帝のもとへ参りましょう。今度こそ陛下は我等の言葉に耳を傾けてくれるはず…」
満足げに微笑むとサリエリは伯爵の肩に軽く触れ「頼りにしていますよ」と送り出す。
モーツァルト排除をこれほど明確にサリエリが口にするのはこの場面が初めてになるが、ここに至る直前の場面が「無表情」であるが故に、私は若干の困惑を感じた。
――サリエリの本心は?――
ひとり残ったサリエリは呟く――だが皮肉なことに…素晴らしい音楽だ、と。
その言葉は、誰に向けたものだったろうか。
…と、考えたのにも理由がある。山本耕史によると「日本語版の台詞で『誰かに向けての台詞なのか、そうでないのか』それに伴う立ち位置を確認したいと思う所があった。現状の日本語訳では人に向けていう感じの言葉になっていたので、誰か相手がいないと成立しにくいと感じた。フィルに確認したところ『人に向けてではないという言葉にしたい』と言われたので、今後は何か調整するかもしれない」というシーンがあったそうだ。
実際、舞台を見ていて私も同じことを時折考えることがあった。私の場合は単に台詞の言葉面云々だとか、台詞の裏を考えるというよりも、そのシーン・その人物の「心象風景」を見たい、そう思ってしまう「クセ」があるので、多少バイアスがかかってしまう表現になるのは何卒ご容赦願いたい。
↑心象風景があって、それを言葉に出すときにキャラクターの個性によってさまざまな表現になっていくのがいい。個人的には、それを可視化/3D化するのがクリエイターの仕事だと思っている。
彼は他人に対して、心のうちを口にしない。
この舞台で彼が心情を吐露するのは「歌」でしかない。
背景と化していたモーツァルト達が暗転し舞台から去る…同時に「フィガロの結婚」の軽快な音楽は連続低音の序奏に取って代わる。フランス版を聴いて、私が一番楽しみにしていたあの曲「L'Assasymphonie」だ――!
(↑テンション最高に上がった!)
山本サリエリが、まるで台詞の続きのように低く静かに歌い出す。
相変わらず良い声だ。
「夜の闇の中で 閉ざされた 耳に残る声は消えはしない 繰り返す――」
クレッシェンドのかかってきた歌声が一気に爆発する。長い髪を乱し、這い寄る不安の権化のような「苦悩」のダンサーを振り払い、彼は叫ぶ。逃げられない――行く場所など無い、と。
眠れぬ夜に響くレクイエム 冷たいこの手で
狂ったこの世界に捧げよう 憎しみのメロディーを
(L'Assasymphonie 殺しのシンフォニー)
「眠れぬ夜に響け この手を血で染めても…!」
高い舞台セットの上でのラストシーン、『運命』と『苦悩』に囲まれ倒れ込むサリエリの長身が、暗闇に飲み込まれる。
背後からの強烈な白いライトがそのシルエットを殉教者のように描き出す。全てを取り巻く黒と赤のオーロラ光。
言葉を失うほど「美しい」シーンだった。
嫉妬と煩悶という醜い感情を歌いながらも、その姿は美しかった。
観る側が「嫉妬は美しい」と錯覚してしまいそうなほどに。
今思えば、このシーンを見るために毎回お金払ったといっても過言ではない。
それだけ価値があった。
それほどに、美しかったのだ。
…駄菓子菓子!!!何かが…違う?!w
不幸にも――今頃それに気づいてしまった…orz
* * *
≪衝撃の真実!(違)≫
少し冷えた頭でよくよく考えてみると…これ(殺しのシンフォニー)は第一幕冒頭で「目を閉じれば幻のように現れ、この耳にこびりついて離れない…!あの男の音楽が…!」とサリエリ自身が呪わしげに語った「感情」とは違うのではないか?
もっと別の何かじゃないのか?
サリエリよ、その手を染めるのは…モーツァルトではなく、自分の血ではないのか?
モヤモヤモヤモヤ…(絶賛妄想中)
公式HPのコピーより。
「二人の男は、惹かれあい、傷つけあった――
モーツァルトとサリエリ。その光と影。喝采と孤独。嫉妬と羨望」
そうは言っても、ここまで来てぶっちゃけると、この脚本のモーツァルトとサリエリが「惹かれあった」とは全く!思わなかったんだよな。さらにツッコめばこの二人はお互いに「傷つけ合って」すらいない気がする…。
特にモーツァルトの場合、脚本レベルでの(音楽以外での)心情描写、特に女性以外への(爆!)が、殆どなかったせいなのかもしれないけれど。(←ほかに観た人どう思う~?と聞いてみたいくらいだ)アッキー・ヴォルフは特に音楽至上主義なのか?というほど情緒面では偏りが。
そこを中の人のキャラだの演技力だので何とな~く作り上げちゃってる(それ言ったらオシマイw)のも凄いとは思ったが…。
とにかく!気付いてしまった私は「思考の整理」のために、とりあえず分かりやすい図式を作ってみたw(注:赤版準拠)
【アッキー・モーツァルト】←才能への嫉妬と羨望←【山本サリエリ】
これは間違いない。
【山本サリエリ】←out of 眼中←【アッキー・モーツァルト】
これも、たぶん間違いない(苦笑)。
更にアッキーのモーツァルトを分析してみる。こ…これもたぶん…(冷汗)
【音楽への情熱】>>越えられない壁>>【嫁】>>【家族】>>既に空気>>【サリエリ+その他大勢】
うわああああああw
何という一方的な図式!何という残酷な現実…!(爆)
噛みあってないじゃん!!!w
あのシーンが美しすぎたせいで、逆にものすごい大事なところを脚本的に「華麗にスルー」されたことに、今頃w気が付いて地団駄踏んでる自分に涙目w
まさに「美しさは罪」だ山本サリエリ!
これが藍版だと、ちゃんと双方向に感情が行き交うのが見て取れるのだけれども(アッキーの『恋する乙女』力がそれだけ半端ないということなのか?!w)赤版…なんという救いようのない図式なんだ…藍版の中川サリエリの言ってた「運命は残酷だ」ってこのことだったの?
可哀想なサリエリ、絶望してどうかなっちゃう気がする…
と思ってから、ハッとした。
もう既にどうかなってるし!
そして今一度紐解いてみる「惹かれあい、傷つけあった」という言葉。
観劇した人の感想で、ハッとさせられるものがあったので少し引用させていただくと…。
「なぜか気になりました、特に惹かれるという言葉。
気になって意味を再度調べて見たら、面白いことがわかりました。
惹かれるという意味は、物事、思想、作品、仕事などに対する関心、興味を指す。
人物的な関心だと、魅かれるという字の方になるらしい。
モーツァルトには音楽しか見えてない。それを真っ直ぐに演じたのはアッキー。
アッキーのモーツァルトは音楽に惹かれ、傷つき、
山本サリエリはそんな名声も地位も関係なく、音楽一筋、
しかも自分より才能がある彼に惹かれ、傷つき、
それが最後「勝利の代償」へと…」
これは読んで心が震えた。あの言葉の選ばれた理由は、ここにあったのかもしれない、と。
もちろん!音楽に生きる人間が、より美しいもの、より素晴らしいものに心惹かれる、その深い『業』のようなもの…をもっと感じられるような脚本だったら良いのだろうけれど、これはロックオペラだから。やはり心情は台詞の芝居ではなく、歌唱寄りの表現になってしまうのだろう。(芝居もさりながら「滑舌が悪いのが舞台に致命的だ!」とフィルに酷評されたジョージさんだが、レオポルドの持つあの「問答無用!」な古い頑固な父親の威厳・存在感を歌で…という意味では「許せる」範囲だと思ったのも、ひょっとしたらこのあたりなのかもしれない…w)
そういう眼を持ちながら今少し舞台を追いたい。
次に歌われるのは『勝利の代償』――何やらタイトルが保元の乱みたいなニホヒがするが気にしないことにする。
モーツァルトが(サリエリの思惑通り)ローゼンベルグ伯爵の策略により失脚し、サリエリ一派が再びウィーン宮廷の音楽シーンの中心となる場面。
それを祝う音楽関係者や貴族たちの集まりの中には、歌姫カヴァリエリや台本作家ダ・ポンテの顔も見える。伯爵が得意満面の笑みを湛えてサリエリを舞台の中心にいざなう。
伯爵「全て物事が収まるべきところに収まるのは本当に気分がいい。まったく、本当に…」
小ネタだが、2月10日のプレビュー公演では(この直前に「レクイエム作曲依頼のシーン」がある→サリエリの妖しさ満点の変装&元の衣装に早着替え、が生じる)サリエリが舞台に出てきた時、間に合わなかったのか?演出か?手にしたままのロングジャケットをひらり!と羽織ろうとする場面があった。
が!運悪くキマらなかったらしく、珍しくもたもたっとwジャケットに袖を通す山本サリエリの姿を見ることになった。ちなみに翌日の赤版公演では最初から羽織って出て来たので、幻のNGシーンであるw
ご機嫌の伯爵は「ご紹介しよう!皇帝陛下の任命により宮廷楽長に就任した、我らが友!アントニオ・サリエリ~♪」と拍手を求める。
微妙な表情ながらも「この場にモーツァルトが居ないのが残念だ」と意地悪く諷する声には「彼のことは、そっとしておきましょう」とたしなめるサリエリ。
しかし、話題にしたくない雰囲気はありありである。一人の貴族が「古くからの弟子も皆モーツァルトを見限って、彼のもとを去ったとか。いやサリエリ殿、貴方がみんな浚って行ってしまったのでは?」と無遠慮に言えば、これまでの彼らしからぬ、感情を露わにした神経質な視線で威嚇する。
ここぞとばかりに繰り広げられるモーツァルトに対する誹謗中傷(サリエリは加わることなく無言で聞き流しているが)に堪えかねたダ・ポンテが「おやめください!」と声を荒げ、伯爵、そして仕事相手でもあるサリエリをも睨みつけるシーンでは、ダ・ポンテの表情に痛いところを突かれた体で顔を伏せる。その足元には「苦悩」の二人が枷のように絡み、サリエリの懊悩を楽しみ、味わい尽くすかのような淫靡な視線を投げかけている。
感情が、これまでの抑制を越えて迷走し始める。常に隙のない立ち姿の、あの妖艶優美な余裕に満ちた「山本サリエリ」はもう舞台にはいない。あるのは、嫉妬と懊悩、取るべき手段をとったにも拘らず結果を受け入れられない自分への嫌悪感、絶望に塗れる、一人の男。
彼はその感情をどう扱ってよいかも分からず、呆然と立ち尽くす。
自分が何をしたのか、ようやく理解した…とでも言おうか。
※観客席のワタクシ (* ̄∀ ̄*)oO(だんだんイイ感じに壊れてきたぞw) ←ヲイ
信じられるものなど無い 哀れな道化師さ
勝利なんて意味など無い 自分は騙せない
(Cho.) くだらないことは気にしないで 勝利を歌えばいいだけさ
上辺だけの栄光など 捨ててしまえばいい
才能など何もないと 思い知らされたから
(Cho.) くだらないことは気にしないで 陽気に歌えばいいだけさ
心の奥から聞こえる 自分を嗤う声
鏡の中から聞こえる 自分を嗤う声
(Victime de ma victoire 勝利の代償)
救いを求めあちこちに視線を投げるサリエリ。その先には群衆に紛れて彼の行く手を阻むように立つ『運命』と『苦悩』たちの薄笑いが見えている。サリエリは殆ど錯乱状態でパーティー会場を飛び出し、舞台を駆け降り、崩れ落ちる。
それだけではない。いきなりナイフを取り出して自ら手首を切りつけ、胸元に突き立てようとする狂乱状態である(この試みは全て『苦悩』の二人に阻止されてしまうのだが。彼らにとって寄生宿主であるサリエリを死なせるわけにはいかない。彼の懊悩、煩悶こそが彼らの居場所を作っているのだから)。
そうか、そうだったのか!全てが…ようやく繋がったよw
藍版サリエリは『恋する乙女』だが、
赤版サリエリは『かなわぬ想い』(というか全く相手にされてない悲劇)だったのか!
再び。分かりやすく図式化するとこうなる。
モーツァルト【音楽への情熱と天与の才能】>>>>越えられない壁>>>>【今ここ】サリエリ
そこが原因だったのか!
だから!ほとんど嫌がらせ?で
レクイエムなんぞ発注したり
(仕上がりは念入リニナ!)
生活苦のモーツァルト家に
大金100ダカット恵んでやったり
(名目は作曲依頼料)
涙目でストーカーみたいに
病床に見舞いに行ったり
(さすがに嫁にキレられたw)
挙句の果てにはレクイエムの楽譜を
ナイショで持って帰っちゃったり
(形見ですかそれは!ついでに抱きしめて泣かないでくださいw)
…するんですねッ!!
分かりますサリエリ先生!!!!!
落ち着け自分。まあ座れ。
そしてカミュ先生に氷の棺を作ってもらえ。
そこに永久に入ってろw
で。
モーツァルトを誰よりも認め、その才能に惹かれつつ、
音楽の神の申し子たる相手にその想いは通じない。
そして、相手を全否定することでしか、自分を維持できなかったサリエリ。
サリエリの不幸は、あの楽譜に並ぶ音符の向こうに、
自分が絶対に到達しえない「至高の美」を見てしまったこと。
あ る 意 味 悲 恋 だ な w (爆)
↑
もー、そういうオチつけるのやめようよ~wと自分の良識が全力で止めているが気にしない。
決して敵わない相手を全力で破滅させてはみたが、最後の瞬間に後悔して赦しを請うんですか!?だとしたら中川サリエリのような「脇の甘さ」がないキャラだからこそ、山本サリエリのほうがより深刻。
「嗤う声………地獄に…堕ちる…と…」 (Victime de ma victoire 勝利の代償)
掠れた涙声で歌い終え膝をつく山本サリエリの姿は、滑稽を通り越して哀れですらある。あれが第二幕序盤つい数十分前まであれほどに圧倒的で自信にあふれていた人間の姿なのか。佇まいも振る舞いも全てが美しく、自信に満ちた視線だけで観客の心を奪った男と同じ人間なのか。
『苦悩』に取り巻かれ、よろめき立ち上がると山本サリエリは肩を落として歩き出す。その足取りの重さ。急激に劇場の空気が重苦しく変わり、嫌でも私の胸に『終わり』の予感を突きつけた。
でもまあ、地獄に堕ちそうなのは…こんなレビュー書いてるこの私だがな!(再爆) ←相変わらず反省はしたが後悔はしていない。
* * *
次はオーラスw
愛ゆえに?容赦ないツッコミ大会になると思います。
イメージ壊されたくない人は読まないように、ってもう遅いかw
≪「殺しのシンフォニー」とは何だったのか?≫
通勤途上にふと考えた――あらゆる誤解を恐れず藍版でアッキー・サリエリを「恋する乙女」呼ばわりした私なので、翻って山本サリエリには如何なる要素があるのか、と。一緒に『ROM』藍版を観た人とは、直後のハイテンションで「あのアッキーの歌う『殺しのシンフォニー』は絶対!『愛しさ余って憎さ一億倍』くらいの愛情表現だよねーキャハハハ~vvv」と、おバカなトークで盛り上がってしまったが、赤版でも真面目に考える価値はあるのだろうか…。
自分が天職と信じる仕事で、人も認める高い評価を受けている。
属する組織において唯一無二と尊敬されているとする。
が。ある日、自分よりも若く、そして圧倒的に才能のある存在が現れて、
自分の自信も、社会的地位も、大切にする価値観全てを粉々に破壊しようとしたなら…
しかも当の破壊者にそんな自覚もないとしたら。
認めてしまえばよかった、という人もいるかもしれない。
だが「体制の人」サリエリは「革命児」モーツァルトとは相容れることのできない存在だった。
凡人の嫉妬など、この際意味はない。
「人より抜きん出たものを持つ人間」だからこその嫉妬があるだろう。
人間の中には、神に似た何ものかがあると同様、何か悪魔的なものもまた存在する。
ナンバー1を消せば、ナンバー2は繰り上がり、頂点に立つわけだ。
共存以外の唯一の道は「共に破滅すること」である…と断じた人もいた。
だがしかし!赤版『ROM』のサリエリ閣下のやっていることは、脚本上致し方ないとはいえ…「ホントにそれでいいんですかッ!」の連続。
そんな彼に「観てる側も悶々としたぞ!」とツッコミたくなる第二幕最終章の幕開け。サリエリとモーツァルトの物語の終わりの始まり。
* * *
モーツァルトの音楽をすっかり気に入った、時の皇帝ヨーゼフ2世(ちなみにマリア・テレジアの息子でマリー・アントワネットの長兄であるw)は、彼の願いを聞き入れて新しいオペラの作曲を命じた。
1786年4月。
ウィーンのブルク歌劇場で「フィガロの結婚」の最終リハーサルが行われた。
ここでもバレエ音楽を王立劇場で演奏するか、しないか、という前例の有無を巡り対立するモーツァルトとローゼンベルグ伯爵。アッキー・ヴォルフのヤンチャぶりも相変わらずで、皇帝の御前であっても不貞腐れた顔をしたまま、足を投げ出して横着に座り込んでいる。常に謹直優雅な佇まいで「他人事」と言わんばかりの傍観者を決め込む山本サリエリ。対極に位置する二人の間で台本作家も、楽団員も、伯爵も、皇帝すらも皆が右往左往する。
結果的に「モーツァルトの肩を持つ」形で皇帝の満足する結果を引き出したサリエリは、案の定ローゼンベルグから猛抗議を受ける。
伯爵「サリエリ!気でも狂ったのか?それとも私を失脚させたいのか!?」
サリエリは「何を血迷って」と言わぬばかりに冷たい視線で伯爵をひと撫でする。ここから続く彼の少し苛立ったような口調は、伯爵だけでなくモーツァルトにも、そして自分自身にも向けた感情の表れのようにも思えた。
サリエリ「私は貴方を救って差しあげたのですよ。貴方自身が自分で引き起こした災難から…」
伯爵「皇帝陛下の面前でモーツァルトに勝たせることでか!?ふん!全く有り難い話だ!」
サリエリ「お分かりになっていないようだが、ローゼンベルグ伯爵。彼はもう、終わりです」
「フィガロの結婚」のあらすじは、平民による愚かで貪欲な貴族への意趣返しだ。18世紀末のヨーロッパではフランスを中心に革命勃発の噂は絶えず、各国は少しでも「反動的」な作品に対して「民衆の蜂起を促すもの」と見做し、異常に敏感にならざるを得なかった。
サリエリは言葉巧みにローゼンベルグの懸念を具現化してみせる。
必要とあらば協力者の買収を講じてでも、モーツァルトの作品が「反動的」であると貴族社会に知らしめ、危険分子として放逐することを提案する。今でこそモーツァルトに好意的なヨーゼフ2世とて、反体制分子と名のついた音楽家を手元に置く愚は犯すまい、と。
但し、全てはローゼンベルグの手によってでなくてはならない、と念を押すのも忘れずに…。
サリエリ「時が来たら…もう一度皇帝のもとへ参りましょう。今度こそ陛下は我等の言葉に耳を傾けてくれるはず…」
満足げに微笑むとサリエリは伯爵の肩に軽く触れ「頼りにしていますよ」と送り出す。
モーツァルト排除をこれほど明確にサリエリが口にするのはこの場面が初めてになるが、ここに至る直前の場面が「無表情」であるが故に、私は若干の困惑を感じた。
――サリエリの本心は?――
ひとり残ったサリエリは呟く――だが皮肉なことに…素晴らしい音楽だ、と。
その言葉は、誰に向けたものだったろうか。
…と、考えたのにも理由がある。山本耕史によると「日本語版の台詞で『誰かに向けての台詞なのか、そうでないのか』それに伴う立ち位置を確認したいと思う所があった。現状の日本語訳では人に向けていう感じの言葉になっていたので、誰か相手がいないと成立しにくいと感じた。フィルに確認したところ『人に向けてではないという言葉にしたい』と言われたので、今後は何か調整するかもしれない」というシーンがあったそうだ。
実際、舞台を見ていて私も同じことを時折考えることがあった。私の場合は単に台詞の言葉面云々だとか、台詞の裏を考えるというよりも、そのシーン・その人物の「心象風景」を見たい、そう思ってしまう「クセ」があるので、多少バイアスがかかってしまう表現になるのは何卒ご容赦願いたい。
↑心象風景があって、それを言葉に出すときにキャラクターの個性によってさまざまな表現になっていくのがいい。個人的には、それを可視化/3D化するのがクリエイターの仕事だと思っている。
彼は他人に対して、心のうちを口にしない。
この舞台で彼が心情を吐露するのは「歌」でしかない。
背景と化していたモーツァルト達が暗転し舞台から去る…同時に「フィガロの結婚」の軽快な音楽は連続低音の序奏に取って代わる。フランス版を聴いて、私が一番楽しみにしていたあの曲「L'Assasymphonie」だ――!
(↑テンション最高に上がった!)
山本サリエリが、まるで台詞の続きのように低く静かに歌い出す。
相変わらず良い声だ。
「夜の闇の中で 閉ざされた 耳に残る声は消えはしない 繰り返す――」
クレッシェンドのかかってきた歌声が一気に爆発する。長い髪を乱し、這い寄る不安の権化のような「苦悩」のダンサーを振り払い、彼は叫ぶ。逃げられない――行く場所など無い、と。
眠れぬ夜に響くレクイエム 冷たいこの手で
狂ったこの世界に捧げよう 憎しみのメロディーを
(L'Assasymphonie 殺しのシンフォニー)
「眠れぬ夜に響け この手を血で染めても…!」
高い舞台セットの上でのラストシーン、『運命』と『苦悩』に囲まれ倒れ込むサリエリの長身が、暗闇に飲み込まれる。
背後からの強烈な白いライトがそのシルエットを殉教者のように描き出す。全てを取り巻く黒と赤のオーロラ光。
言葉を失うほど「美しい」シーンだった。
嫉妬と煩悶という醜い感情を歌いながらも、その姿は美しかった。
観る側が「嫉妬は美しい」と錯覚してしまいそうなほどに。
今思えば、このシーンを見るために毎回お金払ったといっても過言ではない。
それだけ価値があった。
それほどに、美しかったのだ。
…駄菓子菓子!!!何かが…違う?!w
不幸にも――今頃それに気づいてしまった…orz
* * *
≪衝撃の真実!(違)≫
少し冷えた頭でよくよく考えてみると…これ(殺しのシンフォニー)は第一幕冒頭で「目を閉じれば幻のように現れ、この耳にこびりついて離れない…!あの男の音楽が…!」とサリエリ自身が呪わしげに語った「感情」とは違うのではないか?
もっと別の何かじゃないのか?
サリエリよ、その手を染めるのは…モーツァルトではなく、自分の血ではないのか?
モヤモヤモヤモヤ…(絶賛妄想中)
公式HPのコピーより。
「二人の男は、惹かれあい、傷つけあった――
モーツァルトとサリエリ。その光と影。喝采と孤独。嫉妬と羨望」
そうは言っても、ここまで来てぶっちゃけると、この脚本のモーツァルトとサリエリが「惹かれあった」とは全く!思わなかったんだよな。さらにツッコめばこの二人はお互いに「傷つけ合って」すらいない気がする…。
特にモーツァルトの場合、脚本レベルでの(音楽以外での)心情描写、特に女性以外への(爆!)が、殆どなかったせいなのかもしれないけれど。(←ほかに観た人どう思う~?と聞いてみたいくらいだ)アッキー・ヴォルフは特に音楽至上主義なのか?というほど情緒面では偏りが。
そこを中の人のキャラだの演技力だので何とな~く作り上げちゃってる(それ言ったらオシマイw)のも凄いとは思ったが…。
とにかく!気付いてしまった私は「思考の整理」のために、とりあえず分かりやすい図式を作ってみたw(注:赤版準拠)
【アッキー・モーツァルト】←才能への嫉妬と羨望←【山本サリエリ】
これは間違いない。
【山本サリエリ】←out of 眼中←【アッキー・モーツァルト】
これも、たぶん間違いない(苦笑)。
更にアッキーのモーツァルトを分析してみる。こ…これもたぶん…(冷汗)
【音楽への情熱】>>越えられない壁>>【嫁】>>【家族】>>既に空気>>【サリエリ+その他大勢】
うわああああああw
何という一方的な図式!何という残酷な現実…!(爆)
噛みあってないじゃん!!!w
あのシーンが美しすぎたせいで、逆にものすごい大事なところを脚本的に「華麗にスルー」されたことに、今頃w気が付いて地団駄踏んでる自分に涙目w
まさに「美しさは罪」だ山本サリエリ!
これが藍版だと、ちゃんと双方向に感情が行き交うのが見て取れるのだけれども(アッキーの『恋する乙女』力がそれだけ半端ないということなのか?!w)赤版…なんという救いようのない図式なんだ…藍版の中川サリエリの言ってた「運命は残酷だ」ってこのことだったの?
可哀想なサリエリ、絶望してどうかなっちゃう気がする…
と思ってから、ハッとした。
もう既にどうかなってるし!
そして今一度紐解いてみる「惹かれあい、傷つけあった」という言葉。
観劇した人の感想で、ハッとさせられるものがあったので少し引用させていただくと…。
「なぜか気になりました、特に惹かれるという言葉。
気になって意味を再度調べて見たら、面白いことがわかりました。
惹かれるという意味は、物事、思想、作品、仕事などに対する関心、興味を指す。
人物的な関心だと、魅かれるという字の方になるらしい。
モーツァルトには音楽しか見えてない。それを真っ直ぐに演じたのはアッキー。
アッキーのモーツァルトは音楽に惹かれ、傷つき、
山本サリエリはそんな名声も地位も関係なく、音楽一筋、
しかも自分より才能がある彼に惹かれ、傷つき、
それが最後「勝利の代償」へと…」
これは読んで心が震えた。あの言葉の選ばれた理由は、ここにあったのかもしれない、と。
もちろん!音楽に生きる人間が、より美しいもの、より素晴らしいものに心惹かれる、その深い『業』のようなもの…をもっと感じられるような脚本だったら良いのだろうけれど、これはロックオペラだから。やはり心情は台詞の芝居ではなく、歌唱寄りの表現になってしまうのだろう。(芝居もさりながら「滑舌が悪いのが舞台に致命的だ!」とフィルに酷評されたジョージさんだが、レオポルドの持つあの「問答無用!」な古い頑固な父親の威厳・存在感を歌で…という意味では「許せる」範囲だと思ったのも、ひょっとしたらこのあたりなのかもしれない…w)
そういう眼を持ちながら今少し舞台を追いたい。
次に歌われるのは『勝利の代償』――何やらタイトルが保元の乱みたいなニホヒがするが気にしないことにする。
モーツァルトが(サリエリの思惑通り)ローゼンベルグ伯爵の策略により失脚し、サリエリ一派が再びウィーン宮廷の音楽シーンの中心となる場面。
それを祝う音楽関係者や貴族たちの集まりの中には、歌姫カヴァリエリや台本作家ダ・ポンテの顔も見える。伯爵が得意満面の笑みを湛えてサリエリを舞台の中心にいざなう。
伯爵「全て物事が収まるべきところに収まるのは本当に気分がいい。まったく、本当に…」
小ネタだが、2月10日のプレビュー公演では(この直前に「レクイエム作曲依頼のシーン」がある→サリエリの妖しさ満点の変装&元の衣装に早着替え、が生じる)サリエリが舞台に出てきた時、間に合わなかったのか?演出か?手にしたままのロングジャケットをひらり!と羽織ろうとする場面があった。
が!運悪くキマらなかったらしく、珍しくもたもたっとwジャケットに袖を通す山本サリエリの姿を見ることになった。ちなみに翌日の赤版公演では最初から羽織って出て来たので、幻のNGシーンであるw
ご機嫌の伯爵は「ご紹介しよう!皇帝陛下の任命により宮廷楽長に就任した、我らが友!アントニオ・サリエリ~♪」と拍手を求める。
微妙な表情ながらも「この場にモーツァルトが居ないのが残念だ」と意地悪く諷する声には「彼のことは、そっとしておきましょう」とたしなめるサリエリ。
しかし、話題にしたくない雰囲気はありありである。一人の貴族が「古くからの弟子も皆モーツァルトを見限って、彼のもとを去ったとか。いやサリエリ殿、貴方がみんな浚って行ってしまったのでは?」と無遠慮に言えば、これまでの彼らしからぬ、感情を露わにした神経質な視線で威嚇する。
ここぞとばかりに繰り広げられるモーツァルトに対する誹謗中傷(サリエリは加わることなく無言で聞き流しているが)に堪えかねたダ・ポンテが「おやめください!」と声を荒げ、伯爵、そして仕事相手でもあるサリエリをも睨みつけるシーンでは、ダ・ポンテの表情に痛いところを突かれた体で顔を伏せる。その足元には「苦悩」の二人が枷のように絡み、サリエリの懊悩を楽しみ、味わい尽くすかのような淫靡な視線を投げかけている。
感情が、これまでの抑制を越えて迷走し始める。常に隙のない立ち姿の、あの妖艶優美な余裕に満ちた「山本サリエリ」はもう舞台にはいない。あるのは、嫉妬と懊悩、取るべき手段をとったにも拘らず結果を受け入れられない自分への嫌悪感、絶望に塗れる、一人の男。
彼はその感情をどう扱ってよいかも分からず、呆然と立ち尽くす。
自分が何をしたのか、ようやく理解した…とでも言おうか。
※観客席のワタクシ (* ̄∀ ̄*)oO(だんだんイイ感じに壊れてきたぞw) ←ヲイ
信じられるものなど無い 哀れな道化師さ
勝利なんて意味など無い 自分は騙せない
(Cho.) くだらないことは気にしないで 勝利を歌えばいいだけさ
上辺だけの栄光など 捨ててしまえばいい
才能など何もないと 思い知らされたから
(Cho.) くだらないことは気にしないで 陽気に歌えばいいだけさ
心の奥から聞こえる 自分を嗤う声
鏡の中から聞こえる 自分を嗤う声
(Victime de ma victoire 勝利の代償)
救いを求めあちこちに視線を投げるサリエリ。その先には群衆に紛れて彼の行く手を阻むように立つ『運命』と『苦悩』たちの薄笑いが見えている。サリエリは殆ど錯乱状態でパーティー会場を飛び出し、舞台を駆け降り、崩れ落ちる。
それだけではない。いきなりナイフを取り出して自ら手首を切りつけ、胸元に突き立てようとする狂乱状態である(この試みは全て『苦悩』の二人に阻止されてしまうのだが。彼らにとって寄生宿主であるサリエリを死なせるわけにはいかない。彼の懊悩、煩悶こそが彼らの居場所を作っているのだから)。
そうか、そうだったのか!全てが…ようやく繋がったよw
藍版サリエリは『恋する乙女』だが、
赤版サリエリは『かなわぬ想い』(というか全く相手にされてない悲劇)だったのか!
再び。分かりやすく図式化するとこうなる。
モーツァルト【音楽への情熱と天与の才能】>>>>越えられない壁>>>>【今ここ】サリエリ
そこが原因だったのか!
だから!ほとんど嫌がらせ?で
レクイエムなんぞ発注したり
(仕上がりは念入リニナ!)
生活苦のモーツァルト家に
大金100ダカット恵んでやったり
(名目は作曲依頼料)
涙目でストーカーみたいに
病床に見舞いに行ったり
(さすがに嫁にキレられたw)
挙句の果てにはレクイエムの楽譜を
ナイショで持って帰っちゃったり
(形見ですかそれは!ついでに抱きしめて泣かないでくださいw)
…するんですねッ!!
分かりますサリエリ先生!!!!!
落ち着け自分。まあ座れ。
そしてカミュ先生に氷の棺を作ってもらえ。
そこに永久に入ってろw
で。
モーツァルトを誰よりも認め、その才能に惹かれつつ、
音楽の神の申し子たる相手にその想いは通じない。
そして、相手を全否定することでしか、自分を維持できなかったサリエリ。
サリエリの不幸は、あの楽譜に並ぶ音符の向こうに、
自分が絶対に到達しえない「至高の美」を見てしまったこと。
あ る 意 味 悲 恋 だ な w (爆)
↑
もー、そういうオチつけるのやめようよ~wと自分の良識が全力で止めているが気にしない。
決して敵わない相手を全力で破滅させてはみたが、最後の瞬間に後悔して赦しを請うんですか!?だとしたら中川サリエリのような「脇の甘さ」がないキャラだからこそ、山本サリエリのほうがより深刻。
「嗤う声………地獄に…堕ちる…と…」 (Victime de ma victoire 勝利の代償)
掠れた涙声で歌い終え膝をつく山本サリエリの姿は、滑稽を通り越して哀れですらある。あれが第二幕序盤つい数十分前まであれほどに圧倒的で自信にあふれていた人間の姿なのか。佇まいも振る舞いも全てが美しく、自信に満ちた視線だけで観客の心を奪った男と同じ人間なのか。
『苦悩』に取り巻かれ、よろめき立ち上がると山本サリエリは肩を落として歩き出す。その足取りの重さ。急激に劇場の空気が重苦しく変わり、嫌でも私の胸に『終わり』の予感を突きつけた。
でもまあ、地獄に堕ちそうなのは…こんなレビュー書いてるこの私だがな!(再爆) ←相変わらず反省はしたが後悔はしていない。
* * *
次はオーラスw
愛ゆえに?容赦ないツッコミ大会になると思います。
イメージ壊されたくない人は読まないように、ってもう遅いかw