禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

聖書(ヨシュア記)

2018-12-14 19:07:05 | livelove日記
ヨシュア記の始めに、神(エホバ、ヤハウェ)はこうヨシュアに問い掛けるのである。

:注意して、わたしの僕モーセがあなたに命じた全ての律法のとおりに行うためである。そこから右にも左にもそれてはいけない。どこに行ってもあなたが賢く行動するためである。
:この律法の書があなたの口から離れてはいけない。あなたはそれを昼も夜も小声で読まなければならない。注意してそこに記されている全てのことをそのとおりに行うためである。そうすればあなたは自分の道を成功させ、賢く行動できるからである!

こうである。神はヨシュアに生きる術とし、モーセからの律法を元に行動・生きるの規範とせよ!こう言うのである。神の言葉は、絶対であるので神がそうだ!と言ったら、そうなのだが、わたしはとあるブログに書いていたのだが、聖書自体の書かれている目的と言うか、人間がそれを読んで悟る己の人生とは、

::(律法・規律からの!)自由!!

これである!と問いているのである!しかしながら、神はヨシュアに’律法を遵守するのだ!と、こう言う。
これは、どう捉えれば良いだろうか?
律法を守る事は大事だ!しかし一方で、人は(その律法から)自由!こうあることを望む!


定義
律法⇔自由

こうあるのが、わたしは聖書を見て読み取れるところである。
もしかすると、聖書と言うのは物凄く難しいことを言っていないか?この2つの相対性(対局条件)

:律法と自由!

こんなことを聖書は言っているのだとしたら、我々はこの聖書と言う書物が、異常にレベルの高い書物で、天秤に掛けられる律法と自由と言う事で、我々はいつも”律法と自由”を目の前にぶら下げながら生きていく!っと、こうなる。
どちらかと言うと、わたしは
:自由!
こちらに軍配が上がるのだと思うがどうだろうか?
聖書が、わたしが言うように
:律法と自由!
こんな大テーマに沿い書かれているのだとすれば(確かにそう言えるような・・)、聖書は、確かに神によって書かれていて、光と闇あるいは昼と夜が交互に繰り返すような2極対極条件、こんな論理論法によって書かれているのである。(万物のあり方、これに沿って書かれている)
聖書前半は、主に神から提示される”律法”これが遵守されるかどうかがみものの箇所だ!神に従ったり背いたり、生きるに当たり成功したり失敗するのは、ここでは神の律法を遵守できるかどうかに掛かっている!
わたしは聖書は、律法と自由と言う天秤のうち、自由に傾きを置く面白読み本だと思っている。ページ数、文章が難しかったり読み辛いがまた読み進めて行こうと思う。


ルールと言う覆い布の裏で息をする人間核心’自由’とは何だ?日本バージョン!!

2018-12-14 18:55:09 | livelove日記
たまたまアメリカのニューヨークの街並みが見たくなり、ウェブで見ているとニューヨークの象徴物自由の女神像が見えて来る。ニューヨークと言うかアメリカと言う国を表す大きな一つの象徴自由の女神が、居座ることで感じさせられる’自由’とは?こんなことを感じさせるのだ。



自由は、まあ辞書的に引くと他からの束縛等を受けず、自分のあるままに振る舞う事!などと書いてある。アメリカは、この自由の女神像がある通り、’自由’と言う言葉からの自身のこころのあり方’自由’を手に入れている国だろうが、されば日本は?と言うとこの自由と言う言葉に表される’自由’と言うこころを手に入れているか?と言うと、まだまだそう言うことはない!と、言い切れる。

自由とは何だろうか?わたしはちょっと前に、トムソーヤの冒険と言う本を読む。トムソーヤは、こうやって自身の自己を主張するが、それは学校や教会と言う規則で固められるルールを教えるところ、ここから自分は脱し、自らをこころの赴くままに行動する、得てしてトムソーヤの振る舞いは、自分勝手で身勝手な行動と思われがちだが、トムはそうは考えないはずである。トムは、学校・教会の束縛から自らを解き放ち、’自由’に生きたいと願う少年なのだ!何故か?と言われると、人間のちょ~う本質的な本能がそうするからだ!本質的な!である!!



ルールと言うのがある。自由に対する反対的な見方、言葉だ!このルールと自由、この両者ではどちらが人間にとって大事なのか?と言われれば実は、人間’自由’を勝ち取ることの方が、よっぽどルールを押し付けるより大事なのである。

ルールと言うのはあって、人間が生活をするにはあるいは共同で生活をするには欠かせないものと思いがちである。わたしが上に書くちょ~う本質的な本能とは、人間の特に女子からやって来る「性」から見た本能であるが、人間は始めこのちょ~う本質的な本能に従うことが難しく、覆うようにルールを作りたがる。

アメリカに自由の女神と言う自由と言う産物の象徴があると言った。と言う事は、アメリカは過去にこの国として’自由’を獲得する出来事、転機があったことを意味するが、何があったか?は良いとしてアメリカ人と言う民族は、この自由の女神を一つとっても個人に’自由’と言う感覚を刷り込ませている。

何から自由になったか?アメリカは1700年代、イギリス(重商主義)からの独立を求めた戦争で戦争に勝ち、アメリカの独立(自由)を手に入れた出来事があった。これは何か、と言えば人民が足かせによる人民抑圧からの解放、これを求めて戦った戦いであっただろうが、つまり簡単に言えばアメリカと言う国は(イギリスの抑圧から)、人民を解放する!これを差して戦い、人民を解放したのだ。これは、何を言っているのか?と言えば、人間が人間に課すルールや了解、こんなものからの人間としての解放、これをアメリカは一度経験し、国として独立、これは実を言うと人間が人間らしく生きる上で欠かせない衝動’自由’これの獲得に架けた一連の人民解放である。わたしは、上に女性の「性」と言うものに、人間が最初従うことが難しく、ルールや行動を束縛してしまうことがあると言っている。人間が人間らしく生きるには、この’自由’と言うキーワードが絶対に必要なのだ。アメリカの自由の女神を見ると、わたしはアメリカが人民が過去にこの人間が必ず携帯する’自由’これを先に手に入れているとわたしは感じるのだ。

日本は、今このアメリカの自由の女神像にあるような’自由’と言う国としての産物があるだろうか?日本は、まだアメリカが経験したような過去の人民独立、解放と言うような’自由’は手に入れていない。何となく今を過ごしていると言う日本人としてのアイデンティティがないだろうか?わたしが、この記事で何が言いたいか?と言うと、わたしがアメリカ自由の女神像を見て思う、日本人としての’自由(独立)’これを果たさねばならないと言う事だ!何か?と言えば、恐らく最初に見える個人的な独立は、日本人が日本人自らに課してしまった足かせ、これを外さねばならない。その足かせは、女性が自らの「性」を自ら封じ込める、わたしは良くブログで日本人(女子)は性に大らかだ!と書いていてわたしも納得だが、その通り、日本人女子は自らの「性」を自ら封印してしまっているのである。この封印を解かねば日本人(女子)の(ルールや規律からの)独立はないだろう。

何を?と言う本音を言うが、日本人女子は日本人女子が必ず持つ「性」からの衝動〇ナニー、これを封印してしまったのである!女性は、〇ナニーをしない!などと世間で言われるように、日本人女性は「性」を封印したのだ!もしかすると、日本人はこの女性の生理現象〇ナニーを自ら解放することで、個人個人がアメリカが持った人民独立の精神が言うように、自らを解き放つことが出来るかもしれない。

恐らくいつの時代も国としてのあり方は、女性が持つ性、これの解放、ここに核心があるように思う。アメリカ民族がその民族の解放(自由)をアメリカ独立革命で示したように、日本は女性の「性」の解放、これに架かって国としての大きな独立’自由’の獲得があるのではないか?こう思うのである。

日記

2018-12-14 18:54:44 | livelove日記
昔(4年前くらい)顕彰会のお姉さんが家にやって来て、’一緒にお題目唱えませんか~?’っとくるので、まあ顕彰会館に入り、お題目を唱えるとは、どう言ったものか知りたかったので、それ以来顕彰会のお世話を頂いているのである。今日も、やって来て一緒に今日は、ビデオ放映があると言うので、遥々やって来ては、顕彰会館へ向かって車を走らせるのである。(迎えに来てくれて、一緒に車で向かう)

顕彰会の代表浅井先生は、今日は

:お題目をどうやって唱えるか?

みたいな講義をビデオの中で、おっしゃられるのである。話す言葉は、ちょ~う難しくて殆ど耳に入って来ないものだが、それでも一生懸命聞いていると、こんなことを言っているのが分かるのである。それは、南無妙法蓮華経と唱え、日蓮上人と一体になることによって、我々は仏になるんだ、と言うことである。成る程、浅井先生の言っている言葉は結局は、このようなことを言いたいわけだ!と思い、わたしは長々小難しいことを話す浅井先生のお心が、良く分かり、わたしは途中浅井先生の話す仏法の内容が、前に読んだ’神の素粒子ヒッグス’の中の’ヒッグス’と同様、付き合いは切れないいわば、(女性に対する)現男性の言葉なんだなぁ~っと、思ってはいたが、ちょっと最後まで良く聞いていると、’そういうことか!’っと、4年ほども顕彰会にお世話になって、やっと顕彰会が何をやっているのか?知るのである。要は、人間が解脱か何かして’仏’になる!と言うお話しだ!



迎えに来たお姉さんが家まで送ってくれ、わたしは家路に着くのだが、わたしは顕彰会のみならず、キリスト教系のエホバの証人にも参加、お話しを聞いている身であるので、浅井先生のお話しや家路に着く途中のお姉さんの仏法、お題目の話しなどは、’どこも(どこの宗教も)、同じようなことを言っているなぁ~!それぞれの宗教の言い分、わたしにはそれぞれ正しいが各々の宗教者にとっては、わたしのとこの宗教が絶対正しい!と言う感覚は、どこも同じだなぁ~’っと、露思うのである。

顕彰会とエホバの証人では、わたしはきちんとその宗教の内容を教えてくれるエホバの証人の方が、分かり易く、分があると思っているが、確かに神様エホバを教えるエホバの証人と、仏教系の日蓮上人の教えを説いている顕彰会では、神様に対する見方が異なり、より簡単なエホバの証人が優勢なのは否めないところだ!



神の素粒子ヒッグスを教える物理学者の言い分が聞いていられないのと似ていて、多少顕彰会の仏法の教えは、聞くに難し過ぎるくらいである。

Boiler Room(Yaejiさん編)

2018-12-14 18:53:48 | livelove日記
続きで、もう一つBoiler Roomの映像を見る。今度は、Yaejiさんと言う方のDJ映像である。これも、ニューヨークでやったDJの映像であるようだが、気になったのでわたしはそのYaejiさんのことを調べてみることに。すると、このYaejiさんわたしが見る映像と同様の、音楽音源が多種に渡ったDJのスタイルで、わたしが3年前から自宅でDJを始めてやっているジャンルレスなフリーDJスタイル、これと似ていて興味を持ったのである。いやぁ~、ニューヨーク在住で、今どきの多種に渡ったDJスタイルと言うのは、Yaejiさんのような感じになるのだろうが、わたし自身は新潟長岡在住で、中央に信濃川なんていう河川が流れると、同じ多種に渡るDJと言えど、掛ける音楽のスタイルは違ったようになると思ったわけである。Yaejiさんは、個人的なことは勿論あるだろうが、割と抑えた感じのスローで、浮遊感のある気持ちの良い音楽を掛けるDJだったけれども、わたしは個人的にも、長岡市民としても、もっとアッパーで感じは、とても上がるような選曲に違いを見せていると思う。

わたしは長岡市民だけれども、長岡市民のDJってのは、掛ける音楽は割と派手、こう言ったもののようである!

YaejiさんのDJは、とてもかっこよくとても良い選曲で、聞いていて飽きないのである。先ほどの、Rich MedinaさんのDJもわたしは非常に楽しく、面白く、ニューヨーク市民の仲良しさも伝わって、とても良いDJショーを見たような気がしたが、この次のYaejiさんのDJライブもとても良いものを見せてくれたのである。



いやぁ~、とてもかっこよく、わたしも体力作りをしながら、もっと音楽の幅を広げ、もっと音楽を沢山聞いて、良い音楽DJになって行こうと思う所存である!!

Boiler Room(Rich Medina)

2018-12-14 18:52:53 | livelove日記
Boiler Roomから、通知が来る。

少ししてYOUTUBE上でやっているBoiler Roomのライブ映像(録画)に切り替え、見てみると今日は届いたメッセージは、

:Rich Medina

さんのライブDJ映像である。NYCとあるので、ニューヨーク市の映像かと思うが、わたしは自宅でDJをやっているので(機材は一切ない。音源を持って来てパソコン上操作)こんなBoiler Roomから届くライブの映像は、好きでよく見るのである。今日は、このRich MedinaさんのライブDJは、音楽はノスタルジックな感じの静かで、聞いていて心地よい音楽の映像である。聞いていて思うのである。それは、このライブで届いて来る映像(MIXTAPEと言う場処だろうか?レコード屋)で、店を尋ねるお客(まあ世間は人々の想いで出来ているので)が、それは日本と違って落ち着いていて、日本によくある’和気あいあい’と言う感じとは、ちょっと違う大人の雰囲気、今の日本人からすると’どうやったら、あんな感じの(落ち着いた(仲の良い))雰囲気になるのだろう?’と言う疑問を持つこのライブ映像で届く映像である。

いやいや、歴史が違うのである。日本は世界の中でも中心的な役割を演じる国であると思うが、その反対側でアメリカと言う国は、とっても大きな存在を持つ歴史の深い国、そう言った感じを受ける。

人の歴史が深いのではないか?国などもその国に住む人が各々で作ってゆくところがあるので(つまり人々の多様な想いだ)、アメリカと言う国は、既に人としての歴史が深いのである。(学校の歴史の授業の常識では図れないのが、この人類と言う人間の歴史ではないか?)

どうやるのだろう?いやいや、人間生きると言う行為はあるのである。生きると言っても、各人それぞれが一人生でやっていることにはそれぞれ想いがあるだろうが、人生、生きるはそれぞれで’ここまででわたしの一人生はある!’と言うような、生きる範囲と言うものがあるような気がするのである。わたしは、人など生まれると所謂’輪廻’を含む永久と言う時間の歴史を持つ、と考えるので、その永遠と言う時間の中で、人はそれぞれ生きる歴史を刻むのである。

わたしはその中で、生きると言う個人の範囲があると思っているのだ!

ある一定のその生きるの範囲をクリアすると、わたしは各人が持つ感覚上において、’自分は、生きるを(全て)やり遂げた!’となる、そう言った領域があると思っている。つまり、このライブの映像は、それに似た’生きる’と言う範囲で、その生きる範囲を多大に超えた生きる歴史を見せている映像がこのBoiler Roomの映像だと思っている。



個人の生きるにおける自分の辞書とも言える生きる全ての範囲と言うものはあると思っている。輪廻と言うと、想像上の問題で個人的な権限に限られるだろうが、わたしから見るとアメリカと言う国は、この輪廻と言う概念、これに触れて見せている類稀な国、そう言った印象を受けるわけである。

日本では、このBoiler RoomのようなライブDJをやってのけられる実力はまだないと思われる。とってもかっこよく、見ていて痺れるDJプレイ映像だったので、ここに書いておこう。