禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

坊っちゃん!続き!!

2018-12-15 01:27:03 | livelove日記
近くの図書館から借りて来る図書『坊っちゃん』は、東京から田舎へ赴任そこで赴任先の学校で、何やらいじめを受ける当主人公が、どうやってこの世を渡って行くか?ここは、結構な難易度を誇る主人公のこの人生で、主人公は、赴任先でとある事実、これを知らぬがゆえに周りといざこざ、誤解を招く言動をする。

わたしは、先ほど、ブログ記事の中で『坊っちゃん』は、明治と言う世の中で生きるにもがく一青年のこころのうちを表に表しだす、いわば青春時代の葛藤を、キリスト教の思想を前に立ち塞がる一個人の独立を言っている(4章までの実感)と、言っている。

最後まで読むのである。すると、この図書、とある世の中の真実、これを明かそうと書き連ねられる図書、青年は、このわたしが言わない事実に直面、姥貝ているのである。周りの教師・生徒は知っているのである。

山嵐と主人公が呼ぶ、一教師は途中この一青年(主人公)の余りの考えの悪さに、助け舟を出しているのである。先の、一緒に赤シャツが’釣りに行きましょう!’と、言う赤シャツの発言もこの一青年の余りの無頓着を助けようとしているのである。主人公は、世の中のとある一真実を知らぬがゆえに、無鉄砲な発言・言動で、生きれないのである!

まあ、全て書いてしまうと『坊っちゃん』の種明かしになってしまうので、全ては書かないが、坊っちゃんと言う図書は、見る人が見ると結構怖い、出鱈目を書く新聞社と言うフレーズよりも怖い、まあちょっとしたホラー映画を見るようである。



成る程~!!ここまで!!夏目漱石の『坊っちゃん』が言っている矛盾上等!!の、書き手の真実はここまで!!いやぁ~、読書ってのは(最近よく読み始めている)結構ハラハラドキドキですねっ!!



夜分にさようなら~~!!

夏目漱石の時代小説『坊っちゃん』は何をわたしたちに訴えているか?

2018-12-15 01:26:21 | livelove日記
この間、図書館へ行って『坊っちゃん』を借りて来たと言った。4章まで読んでみた感想である。

主人公の男は、やたらに当たりに不満を述べている。自分の境遇に対しての不満とか、自分を取り巻く不満とか、要は何でもかんでも不満である。

東京育ちで地方に教師をやりに赴任する時、初めて出る東京外の様子を地元の東京が一番と、田舎に対し不満を漏らすこの男は、わたしからすると地方田舎なんて東京っ子と感じが違うの当たり前じゃん!っと、思うが、そんなこともこの物語の真意を解くヒントになっていると思われ、結局(4章まで読んだに過ぎないが)この主人公の男は、青春時代にどうも自分を取り巻く環境に馴染めず、苦闘するのである。

世の中に不平不満を言っているので、わたしからするとこの主人公の男はちょ~うひよっ子!っと思わされ、自分と言う存在に対する不満と自分が付き合っていかねばならない当たりの人間に対する不満は、この小説が書かれている時代設定、これを浮き彫りにする。当然、明治期に当たる時代は急展開を見せているアメリカのキリスト教の思想が入っている後の時代であるので、その日本人がやって行くには小さすぎるアメリカのキリスト教の思想時代に、主人公は嫌気を指す。

本当は、本国アメリカでもキリスト教の思想と言うのは嫌なんじゃないか?どの時代図書を見ても明らかだろうが、一般にキリスト教の思想が入る時代小説なんかは、どこもこの世の中に不満を漏らす輩で溢れ、’何が?(不満か?)’っと言えば、とりわけ、新約聖書に書かれる



新約のキリストの思想:自分を捨て去り、自分を取り巻く他者に尽くす、そう言った生き方・思想!!



これがある。この他者本願主義となるキリスト教の思想は、自己を中心に自分の人生を歩もうとする普通の一般人の足元をぐら付かせる思想の持ち主たちで、あたかも自分たちが絶対に正しい!とばかりに、その思想を押し付ける。大抵の世の中に不満を持つものってのは、この他者本願主義の人間の言い掛かりに’不満’を持つのではないか?もしかすると、夏目漱石の時代小説『坊っちゃん』も、そんなアメリカのキリスト教の思想が入った明治期、その下らん他者本願主義の思想に真っ向嫌気を指している主人公の姿を浮き彫りにする。

恐らく、この日本にも入ったキリスト教的考え方、他者本願主義に主人公の男は’不満’を言っているのである!決して、聖書等が言う、神様に対して仕えている自分(人間)と言う事ではなく、そのキリストが言う他者主義が嫌なのだ!

日本にも、神様はいて古事記等に出ている天照大神とかの神様、この日本人としての信仰心は日本にも、当然あるが、神道的に神様に直接個人個人が仕えているうちは、問題など起きないのである。他者主義思想のアメリカキリスト教が、性に合わないものがいるのである。(わたしがトムソーヤの冒険を読んだとき、やはり主人公が身の上の出来事に当たっている実際は、キリスト教が言う教会、学校教育に対するトムソーヤの反発なのである!わたしはやはりこのトムソーヤの冒険を読んで、聖書と言う書物が旧約的にではなく、新約的に’’自由!’’これをうたって言っている神なる書物だったと思っている)



『坊っちゃん』は、(4章を読んだまでだが)やはり遠まわしに日本に外国の思想が流入した結果起こる窮屈な世間(自分)これに苛まれる主人公の苦悩が描かれる。本来、若人にある青春と言うのは、苦悩の時代なんかではなく、それは薔薇色の得も言われぬ快楽に満ちる時代である!それを知っているわたしは、この主人公の苦悩がわかると、どこかに間違った時代設定が為されていると分かるわけである。

どこに、雁字搦めの足枷が付いているのか判断が難しい。しかし、確実に主人公の心身を蝕んでいく世間体と言うのは、あるわけである。

やはり、こう言いたいのではないか??この物語『坊っちゃん』が言いたいのは、自身を覆う見えない強敵!世間を相手にする他者本願主義!からの脱却!!これを持って、坊っちゃんの主人公は、この明治期と言う難ゲーのクリア!こう捉えることが出来る!それは、即ち何か?と申せば、主人公が闇の中姥貝て失っているだろう個人の尊厳の中枢を受ける’’自由!’’と言う名の正義である!!きっと、(最後まで読めば分かるが)主人公は、こう自問自答して姥貝ていた!!自分とは、’’自由!’’と言う一存在で、これを犯してはならないと言う世間に対する強烈な反発である!!

こまっごま論!

2018-12-15 01:25:36 | livelove日記
わたしはこれでも世の中をよく見ているわけである。よって、いろいろ気が付くことも多い。今日も、お医者さんが終わり、近くのアピタデパートへ行って椅子があるので座って、休んでいるとそのうちにこう気付き始めるのである。カルディでコーヒーを貰い、飲んでもう一度一休みしていると、たった今入ったカルディコーヒーのお店の店員さんもそうだが、仕事がこまっごま小さいなぁ!!っと、気が付くわけである!よくよく見渡すと、デパートアピタなんかは、カルディのような小売店ばかりで、世の中、小売店しかないことに気が付くのである!わたしは、咄嗟に、

さな:「小売店業(売り子)なんか、(小さすぎて)できないなぁ~っ!」

っと言うのである。

今どきは、このような小売店が目白押しの世間で、一般の世間人は小売店業が性に合う、小売り子さんたちである。

もう一度言うが、わたしは小売業が、’小さすぎて!’出来ないのである。やって来るお客に、

:いらっしゃいませ!!大根100円とポテトチップス100円、合計200円のお会計で~す!

みたいなお客業(所謂接客業)が、小さすぎて出来ないのである!競馬で例えると、(ないが)800mの新馬に出走しているようなものである!

どうも、このこまっごまする昨今の世間事情は、昨今の人間さんがどこも’(器が)小さい!’からやって来た現象だろうが、どう言うわけだろう?っと、小考えてみると、こう答えが分かって面白いのである。

恐らくである。売り子をするにも’動機’があるはずである。小さいが、自分の身の丈に合う良い職業と感じて、みな選んでいるはずである!その身の丈に合う自分の動機は、人々が小さいころか生まれつきか持つ自分の自意識の獲得、目覚め、所謂’自我’これを基準・中心に据えて動いている、これの働く動機が根本を為すので、わたしには’小さく’見えるのである!小売店業くらいのレベルだと、’自我’が精一杯の身の丈で、職業的にはいやはや小さいのである。

何故、そうなったのだろうか?

みたいな大きな世間の行く末もわたしには分かるのであるが、所謂昔々世間が殿さま商売となる江戸の時代、町人なんかは、殿さま(将軍)を中心に動き、世の中の器の大きさなんかは殿さまの器量の度合いによって、世間の大きさが変わるわけである。

普段、我々が動き易いのは、この江戸とかの将軍(殿さま)制なのである!!大きい人が、一番上に立って、将軍業をすれば、世の中大きく動くのである!今どきは、この将軍のような大きな人間が単独で動かす世の仕組みではなく、議会制民主主義と言う、各世間から集められる小さな器の集団で出来上がる世間なので、殿さまが手腕を振るう大きな世間にはならないのである。



わたしは、今日の朝くらいに所謂’大奥’についての私見の記事を書く。いわず、日本の(裏に見える)屋台骨である江戸の大奥である!普段、世間に殿さま稼業があって、上からその器で世間を見下げる仕組みの世の中だと、必然的に’大奥’のような女性が牛耳る世間と言うものが出来上がり、つまりわたしはこの上から見下げる殿さま制度に見直すと言うのは、ある一点、あの事象を認めなけれなならない!っと、申すのである。あの事象の中身は書かないが、あの事象を認めると必ず世間に’大奥’が、発生、世の中をコントロールするのである!!



物事の本質、中心から考えると、今世間が小さいのは、日本に’大奥’がないからである!よって、みな一様に小さく、明治時代に諸外国の思想(=キリスト教)を取り入れた日本は、価値的に小さい価値観キリスト教の価値観を取り入れたのである!(外国は、日本より物事の器と言うのは、小さいのだ)



せまっぜま感覚の世の中(小売店目白押し!)は、わたし(JRA競馬研究家)にとっては、非常にせまっ苦しい、小さい世の中である!!もっと、大きな世間の仕事や仕組みが出来ればなぁ~っと、わたしは思うのだが、どうやれば良いだろう!?みな周りばかり気にせず、個人(自分)をもっと認めるところから始めるべきだろうか??

いつまでもアイドルじゃいられんけんねっ!!

2018-12-15 01:24:55 | livelove日記
たまたまウェブを徘徊していると、長谷川京子ちゃんの私服に対する記事が載っている。記事は、長谷川さんの私服に対する評価・コメントが載せてあるのだが、多かれ好反応に見える。ただ、この私服に対し、’(着ていた)トレーナーがダサい!’などと言うコメントがあったりする。

一方である。同じように私服に対し辛辣なコメントを寄せられると言う浜崎あゆみさんがいて、見てみるのである。別に、好きな服を着ているんだろうと言うわたしの見解の中で、こう言ったものが見え隠れしているのも分かるのである!それは、2人とも(とっくかもだが)所謂おんなのこが初めに辿り着くアイドル稼業、こんなものをいつかやっていると、いつしかこう思い始め、



::いつまでもかわいこばかりを演じるアイドルばかりじゃいられないな



こう思い始めるのも確かなのである。

わたしはブログでよく、



アイドル=みんなのアイドル!!

ロックンローラー=自分「1」を認めるロッカー!



と言う風に書く。要するに、アイドルばかりをやっているといつしか自分と言うものが薄っぺらく見え始める時が気て、止めようと思う時が来るのである。そうすると、もっと上の自分になろうと努力するので、音楽で言うとロックを聞き始める自分もロックンローラーとなるのである!

このコメント者は、まだまだ自分が(おんなのこ気取りの)アイドルおんなのこなのである!上にアイドルもやると流石に自分が「1」もないようなお客任せの自分に嫌気が差し、脱アイドルを図るのはもはや仕方がない世の中の常識であるだろうが、長谷川さんや浜崎あゆみちゃんの恰好(かっこよく見えるが、、)を見ていると、そこらへんのおんなのこではもはや通用しない、個人のセンスが光っている一ファッションに(とっくに)見えるのである!

何が気に入らんのだろう?

と、小思うと、ここら辺先ほど日本のわたしが江戸にあった大奥の世界の記事で書いたように、日本の奥座敷、日本人(女子)とは?みたいな基本感覚これも欠如した現代人っぽい感覚だなぁ~っと、我思うのである。日本って、明治以降入っただろう西欧の女性感覚淑女みたいな国じゃないぞ!!淫乱だったり、根がスケベみたいな国、これが日本だぞ!こんな基本的な日本女子感覚も欠如した現代女子のファッションの物言い、まあわたしからすると処女の寝言がこの記事に書いてある長谷川京子ちゃんや浜崎あゆみちゃんのファッションに対する物言いに見える。



GUCCIって書いてあるスウェットがダサいんだと!わはは!!

新参舞

2018-12-15 01:24:20 | livelove日記
江戸の大奥、こないだ借りて来た図書「江戸」のいろは大奥編を読んでいると、こんな習わし

:新参舞

と言うのが出て来る。見ると、大晦日に新参者のおんなに裸になって踊らせると言う大奥ならではの年越しの行事である。

大奥は、おんなしかいないわけである。この大奥は、ご覧の通り普段は全く’男っ気’はないわけである(あはは!笑う)!その男子禁制の場で、おんなたちが大晦日、新参者を対象にこの新参舞を躍らせると言うのは、考えればどう言うことか?あからさまに分かるわけである!取り敢えず、この’いじめ’に見える新参舞は、大奥のおんなにとっては、たいそうな自分の欲求のはけ口、これと見合うたいそうな良い!大晦日の行事なのである。(おんなしかいないところがミソ!)



まあ大奥には各地からそれは色んな女性が駆け付け、入って来ていると思われるが、そんなおんなにとっても考えることは一つ、’あれ!(○ロ)’しかないわけである。色んな女性がいる、と書くのはおんなと言うものが、性癖で所謂簡単に女性以外でも分かる言葉で書くSとM、こんな振り分けがあるのも確かなわけである。このSとMと言えば、言葉で書けば、



:いじめっ子(=S)

:いじめられっ子(=M)



と、こう呼べることがある。

新参舞は、このSとMの女子の両方が躍っただろうが、基本的におんなの華と言うのは、いじめられっ子(=M)に寄るところが大きく、新参舞は、SおんながMおんなに出す大晦日ならではのきつ~いお仕置きなのである。(あるいはおんなの華、MおんなにSおんなが出す一年のお仕事納、そのご足労を労って出すSおんなの一足早いお年玉、これがこの大晦日新参舞の中身なのである!!)



新参舞は、(何も取柄のない)外側から見るとただの’イジメ’に見えるそうである!!大奥は、多くのおんなの欲望が渦巻くのである!この新参舞は多くの欲望渦巻く大奥で、一年の大ラスを占めるおんな行事新参舞である!外側に出て来る新参舞の中身とはもっと別の意味、あるいは嗜好があるのかもしれない。

新参舞と言う裸踊り、なるほど、この辺に日本のおんなの素性・本性が隠れる本当の日本があるのかもしれない!いやぁ~、日本ほどおんなの痴態・醜態が目に余る国はないかもしれませんね!

ではでは~!!