禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

雑記!

2019-02-02 21:34:00 | livelove日記
夜し方、映画でも見ないか?と言うお誘いがあったのでちょっと遠いが歩いて友達の家に、遊びに行く。そこで見た映画は、最新作かジョーズの映画である。僕が子どものころからやっているジョーズの最新作で未だに作品があるんだなぁ~っと思いながら見てみるわけである。すると、気が付くことがある!見る手によっては気が付かないが、外国の映画で日本語に訳され見ているが、それでも配役のものたちのそのお芝居、言葉の掛け方が何だかアメリカの言葉の使い方だろうが、’片言’に聞こえるのである!コミュニケーションを図ろうとするとき、相手と意思を疎通させるのでそれを知ってコミュニケーションを図るのが筋だが、この映画の俳優さんたちにはそれが感じられない。お芝居事態も、何だか俳優としてお芝居を演じるには言葉同様’片言’風で、これじゃあ巨大サメジョーズにやられてしまうよなぁ~と言う実感を持つ。

映画を見終わった後、送ってくれると言うので車で家まで送って貰う途中、僕は友達にこう尋ねられる。

友達:僕は、アドラーの本を読んでいるけどそこにはコミュニケーションが生きる’主’だ!と書かれているんだけど、どう思う?
さな:(多少笑いながら)コミュニケーションも大事だけど、もう片方にある個人レベルアップさせる作業も必要だよね!
友達:あ~そうだよね!

今どきは、コミュニケーションが主体の世の中で、コミュニケーションが出来ないとダメだ!みたいな風潮がある。こんなのは完全嘘っぱちの3流役者感覚だと知る僕は、この辺の世の中の感覚コミュニケーション主義!となる傾向に、ある弱点を知っているのである。世の中が、個人のレベルアップ!作業を言って知っていない場合、コミュニケーション主体!などと言っても嘘っぱち、僕は今の世の中が、働くが中心だったり、女男が同権で何だか性別の差を越えて対等に付き合おうとしたり、無理からぬ誤解を生んでいると分かっている。これは、世の中の殆どの人々が自身が本当にやりたいことに挑戦し、活動しているものたちとは違う、単なる勤勉家だったり勤労家だったりするところからやって来る軋轢である。単なる勤勉家、勤労家が殆どで運営する世の中は、どうしても何だかレベルの高そうに見える’コミュニケーション主体’となる世の中になってしまうわけだ!(コミュニケーションが出来なければダメだ!と言う感覚)

個人のレベルをアップさせようと頑張る一項目を完全無視し、(特に相手主体の)コミュニケーション主義!を唱えているものは完全3流役者である!
いやぁ~、難しいのだ!自分が一個人の人生を送ると言うのは!いやいや、ここまでにするが個人を動かす原動力、この行動力の源なしに進む人生と言うのは差し当たり限度あり!の人生である!世の中が動かないのは、この辺個人が主体的な行動を取れない自分と言うものを各人が持っているからである・・。雑談・世間話とそれに毛が生えたようなお喋りの技能を持っているだけの今の人民のレベルは、僕は打開するには今のコミュニケーションが出来なければダメ!みたいな悪習を止めねばならないだろう。いやぁ~、難しい!!だって、みな(勇気も出ないが)勉学と仕事で得るコミュニケーション(お喋り)能力があれば良い!と思っているのだもの!

言葉の使い方・方言によるお笑い考!

2019-02-02 15:43:32 | livelove日記
僕は、例えば人を笑わせると言う事に関し、僕が住む新潟県長岡市特有のお笑い表現、これがあると思っている。
さな:長岡市って独特の方言、言い回しこれがあって独特だけど、この方言って言うもの例えば東京においては標準語がメインになって、あまり感じられないよね。僕から見ると方言豊かな地方ほどお笑いに関する度量が高い!こう思うけど、例えば東京のお笑いと思われる(私的)ネプチューンの原田君の’は~らだたいぞうです!’は、長岡市民の僕からすると’良くわからないなぁ~!’の一言である。
僕からすると、東京市民は土地が平坦な土地柄に住んでいるので、東京人を揶揄する形で、

さな:東京市民って、その平坦な土地柄、平坦に言葉を発するよねっ!

みたいに映るわけである。東京民となるお笑いは言葉が平坦に映るように、お笑い手法も’平坦的!’こう映るわけである!
僕が何を言いたいか?
僕は、お笑いと言う事に関し’平坦弁’を使う東京民のお笑いは、決して平坦弁を使う事がない地方の民に受けるかどうか、と言う事に疑問の余地を挟む。ネプチューンの原田君’は~らだたいぞうです!’みたいなギャグ(東京的じゃないかもだが、、)は、一地方の一市民さなからすると、よく分からない。勢い、みたいなもんか?と思うが決して勢いで生きている訳ではない長岡市民には、伝わらないこともあるのではないか?こう、思うわけである!

一方に、お笑いなら現在もトップを走っているのか、ダウンタウンと言う存在がある。出身は兵庫尼崎と言う事で住んだことはおろか、行ったこともない僕にはどのような土地なのか分からないわけだが、ダウンタウンのお笑いを見れば兵庫尼崎と言う土地の一端が垣間見える。先ほど、土地柄でネプチューンの原田君のギャグ’は~らだたいぞうです!’が、長岡民さなには良くわからない!と書いた!勿論、お笑いが全国制覇!するには、自分の出身の土地柄だけではない、他の土地柄の感覚これも知らないと何も受けれない、こう思う訳だが、こう考えると兵庫尼崎出身のダウンタウンが、お笑い全国制覇!しているのは、ダウンタウンが地元だけの感覚でお笑いを演じているのではなく、他の地方の感覚(お笑い)も知っている!こう悟らなければならない!酒で例えると、

さな:日本随一の古酒の国兵庫剣菱が、二番目長岡吉乃川の国を笑わせることが出来る!!

と言う観点のお笑いの成果、これが見て取れる!
ダウンタウンは、剣菱の国ながら吉乃川を擁する長岡の国のこの北さなも笑ってしまうお笑いを演じるのである!東京系か?ネプチューンの’は~らだたいぞうです!’は、ちょこっと笑える程度だが、兵庫ダウンタウンのお笑いは爆笑を取ることがある!!

地方のそれぞれの言葉あるいはニュアンス等、それぞれ違いがある。生まれの方言、言葉の使い方は当然大事にしなければならないところ、僕は東京の平坦言葉(標準語)が、各地方言を擁する田舎でも人気を博すようなお笑い家になるのは、かなり難しかろうと考えるが、僕が言いたいのはそれぞれ一地方のお笑いが、方言が違う他の地方のものも笑わせようとするなら、全国制覇!を狙うべく、他の地方の言葉の使い方等も熟知しなければならないと思うのだ!
兵庫ダウンタウンのお笑いは、見てご存知の通りだ!長岡の言葉の使い方、僕から言わせると長岡は、結構ナンセンスな言葉使いが目立つ砕けた言葉使い、納得のいかないような不実な感じの非論理ギャグ!これがまかり通る地方だと思っている。(ただ最近は真面目な言葉使いをする人も長岡は確かに増えた)上に僕が書くような、

さな:(酒の対決風に!)ダウンタウンは、長岡の吉乃川酒の国から見ると、剣菱の国に帰って剣菱でも飲んでくりゃいいんじゃないか!

と言う言い方になる、独特の言い回しの一地方である!
いやぁ~、全国平定をするには自国の方言だけではない他の地方の言葉使いも習わねばならないお笑いの修行法は、全国一ダウンタウンによく現れている。つまり、方言が余り秀でていない地方と言うのは笑いを考える時には、かなり劣性に働くのではないか?方言ありきの長岡民から見ると、そう思えるが、、

人生とは?宗教による救い、これではないのだ!!

2019-02-02 14:43:17 | livelove日記
今日の昼頃、顕彰会のお姉さんがぼくんちへやって来る。一緒に、顕彰会館へ行ってビデオ放映を見ませんか?と言うので僕は、快諾とは行かないまでも承知し、迎えに来るので一緒に車で顕彰会館まで行くのである。お姉さんは、外で待ち合わすが、僕は中へ入りやっているビデオ放映を眺め始める!
いつもの光景なのである。ビデオ放映は、各人のその生い立ちや顕彰会へ入信後の自分のあった道筋を述べて淡々と進むのだが、僕は予てからこの顕彰会引いてはビデオ放映となるものが個人の’人生’においては、なんの意味も為さない!これを知っているのである。顕彰会へ入信、ビデオ放映等を見ているものは人生で何か迷い、救いを求めるがようにやって来るのかもしれない。その’生きる’あるいは’人生’で、救いを求めているだろう一般の信者は、僕から言わせれば、
’ここは、行き止まりだよ!’
と言う、そう言う小道、僕は周りのものに
’ここは、行き止まり!’
を指示するごとく、考えやるのである。

ビデオ放映は30分くらいで見るのを止め、外に出てお姉さんが車で待つ場所まで歩いて行く。僕は、思うのである。

さな:おみゃ~ら、(これじゃあ)競馬で言う[新馬]競走の意味も一生分からないじゃん。おみゃ~ら、競馬場に出走するとか以前に、牧場で過ごす競走馬にもなれない牧場脇に咲く花、もっと言えば牧場脇に咲く花の近くに転がっている’石っころ!’これじゃん!顕彰会へ行ったっておみゃ~らの人生’石っころ!’ここから一切変わらないよ!

顕彰会館を外に出、僕の横を通り過ぎるものを見て僕は、

さな:歩く’石っころさん!’っと言われる始末。同様通り過ぎるサラリーマンのお兄さんを見ても僕は’歩く石っころ!’さん!っと分かるので、歩道ではない中央道路を過ぎ去る同様車の運転を為さるみなさんも’動く石っころ!’、まだ何もしてないがぁぁってっ!っと、言われるお粗末さんである。顕彰会へ連れて行ってくれるお姉さんは、車の中で僕に世間話し、話し掛ける!何かやろうかと思い、顕彰会のお姉さん(リーダー)をやっているのかもしれないが、僕からするとその何かやってやろうとする顕彰会お姉さんも、’動く石っころ!’ここから抜け出せない。

僕は、面白そうなので宗教の一部であるキリスト教エホバの証人さんの会館に通っていたことがある。
顕彰会とこのエホバの証人を比べると(双方ともに固いが、、)、エホバの証人さんは(前も書いたが)服装一つを取るが、女性がきちんとスカートを履いている。対す、顕彰会のお姉さんは女性なのにズボンを履いているこの固さである!どちらも、何かやろう!として通っているなら(あるいは救いを求めて通っているなら)中に入ってみると良く分かる通り、(まあ僕から言わせるとだが)何もない!っと分かる救いとは別の’行き止まり!’の空間である。


競馬の話しをした!競馬の競走区分に[新馬]とある通り、各競馬馬は最初求めて[新馬]へ出走する。人生、この競馬[新馬]競走へも出走出来ないものが多いのだ!難易度の高い地球と言う台地の上に降り立っている人間は、人生で進むべく道を探し求める如く、顕彰会館へやって来るが、人生とは救いを求めて念仏を唱える、こうではないのである・・・。

いやぁ~、仏教で悟りを開くと人間生きるの本質を知る!と、悟りを開くあるいは開こうとするものは思うかもしれない。
違うのである!!
人生は、仏教の悟りによって大きく寄与し自らの存在の証明となる!これではないのだ!
実は、人生と言うのはある。人間が生まれその行き道で自分と言う存在を確固たる認められ、自分の生業とその業に励む人生と言うのはある。皆これが分からないのだ!サラリーマンやOL等の仕事が人生ではないはずだ!かと言って仏教ごとや他の宗教と同じ、人間としてのあり方を求める、または仏教語’悟り’への道、こんなのも人間が持つ人生、これではない!
さて、僕は競馬家として今日と言う土曜日、土曜競馬をちょっとやってみる!人生とは、これなのだ!何を言っているか、まだ殆どのものは分からない!人生とはあるのである!意を決し飛び込む向こう側に大きく広がる大海原、人生とはあるわけである!今日の顕彰会、ビデオ放映を見て宗教に50年も参加、自身の半人生を語っている信者のスピーチを聞き、やはりここは僕と言う競馬家が一言言わないと、一切生まれて変わらぬ人生を送る者がいる!と言うことを知り、僕は一筆印すわけだが、、、