今日の昼頃、顕彰会のお姉さんがぼくんちへやって来る。一緒に、顕彰会館へ行ってビデオ放映を見ませんか?と言うので僕は、快諾とは行かないまでも承知し、迎えに来るので一緒に車で顕彰会館まで行くのである。お姉さんは、外で待ち合わすが、僕は中へ入りやっているビデオ放映を眺め始める!
いつもの光景なのである。ビデオ放映は、各人のその生い立ちや顕彰会へ入信後の自分のあった道筋を述べて淡々と進むのだが、僕は予てからこの顕彰会引いてはビデオ放映となるものが個人の’人生’においては、なんの意味も為さない!これを知っているのである。顕彰会へ入信、ビデオ放映等を見ているものは人生で何か迷い、救いを求めるがようにやって来るのかもしれない。その’生きる’あるいは’人生’で、救いを求めているだろう一般の信者は、僕から言わせれば、
’ここは、行き止まりだよ!’
と言う、そう言う小道、僕は周りのものに
’ここは、行き止まり!’
を指示するごとく、考えやるのである。
ビデオ放映は30分くらいで見るのを止め、外に出てお姉さんが車で待つ場所まで歩いて行く。僕は、思うのである。
さな:おみゃ~ら、(これじゃあ)競馬で言う[新馬]競走の意味も一生分からないじゃん。おみゃ~ら、競馬場に出走するとか以前に、牧場で過ごす競走馬にもなれない牧場脇に咲く花、もっと言えば牧場脇に咲く花の近くに転がっている’石っころ!’これじゃん!顕彰会へ行ったっておみゃ~らの人生’石っころ!’ここから一切変わらないよ!
顕彰会館を外に出、僕の横を通り過ぎるものを見て僕は、
さな:歩く’石っころさん!’っと言われる始末。同様通り過ぎるサラリーマンのお兄さんを見ても僕は’歩く石っころ!’さん!っと分かるので、歩道ではない中央道路を過ぎ去る同様車の運転を為さるみなさんも’動く石っころ!’、まだ何もしてないがぁぁってっ!っと、言われるお粗末さんである。顕彰会へ連れて行ってくれるお姉さんは、車の中で僕に世間話し、話し掛ける!何かやろうかと思い、顕彰会のお姉さん(リーダー)をやっているのかもしれないが、僕からするとその何かやってやろうとする顕彰会お姉さんも、’動く石っころ!’ここから抜け出せない。
僕は、面白そうなので宗教の一部であるキリスト教エホバの証人さんの会館に通っていたことがある。
顕彰会とこのエホバの証人を比べると(双方ともに固いが、、)、エホバの証人さんは(前も書いたが)服装一つを取るが、女性がきちんとスカートを履いている。対す、顕彰会のお姉さんは女性なのにズボンを履いているこの固さである!どちらも、何かやろう!として通っているなら(あるいは救いを求めて通っているなら)中に入ってみると良く分かる通り、(まあ僕から言わせるとだが)何もない!っと分かる救いとは別の’行き止まり!’の空間である。
競馬の話しをした!競馬の競走区分に[新馬]とある通り、各競馬馬は最初求めて[新馬]へ出走する。人生、この競馬[新馬]競走へも出走出来ないものが多いのだ!難易度の高い地球と言う台地の上に降り立っている人間は、人生で進むべく道を探し求める如く、顕彰会館へやって来るが、人生とは救いを求めて念仏を唱える、こうではないのである・・・。
いやぁ~、仏教で悟りを開くと人間生きるの本質を知る!と、悟りを開くあるいは開こうとするものは思うかもしれない。
違うのである!!
人生は、仏教の悟りによって大きく寄与し自らの存在の証明となる!これではないのだ!
実は、人生と言うのはある。人間が生まれその行き道で自分と言う存在を確固たる認められ、自分の生業とその業に励む人生と言うのはある。皆これが分からないのだ!サラリーマンやOL等の仕事が人生ではないはずだ!かと言って仏教ごとや他の宗教と同じ、人間としてのあり方を求める、または仏教語’悟り’への道、こんなのも人間が持つ人生、これではない!
さて、僕は競馬家として今日と言う土曜日、土曜競馬をちょっとやってみる!人生とは、これなのだ!何を言っているか、まだ殆どのものは分からない!人生とはあるのである!意を決し飛び込む向こう側に大きく広がる大海原、人生とはあるわけである!今日の顕彰会、ビデオ放映を見て宗教に50年も参加、自身の半人生を語っている信者のスピーチを聞き、やはりここは僕と言う競馬家が一言言わないと、一切生まれて変わらぬ人生を送る者がいる!と言うことを知り、僕は一筆印すわけだが、、、
いつもの光景なのである。ビデオ放映は、各人のその生い立ちや顕彰会へ入信後の自分のあった道筋を述べて淡々と進むのだが、僕は予てからこの顕彰会引いてはビデオ放映となるものが個人の’人生’においては、なんの意味も為さない!これを知っているのである。顕彰会へ入信、ビデオ放映等を見ているものは人生で何か迷い、救いを求めるがようにやって来るのかもしれない。その’生きる’あるいは’人生’で、救いを求めているだろう一般の信者は、僕から言わせれば、
’ここは、行き止まりだよ!’
と言う、そう言う小道、僕は周りのものに
’ここは、行き止まり!’
を指示するごとく、考えやるのである。
ビデオ放映は30分くらいで見るのを止め、外に出てお姉さんが車で待つ場所まで歩いて行く。僕は、思うのである。
さな:おみゃ~ら、(これじゃあ)競馬で言う[新馬]競走の意味も一生分からないじゃん。おみゃ~ら、競馬場に出走するとか以前に、牧場で過ごす競走馬にもなれない牧場脇に咲く花、もっと言えば牧場脇に咲く花の近くに転がっている’石っころ!’これじゃん!顕彰会へ行ったっておみゃ~らの人生’石っころ!’ここから一切変わらないよ!
顕彰会館を外に出、僕の横を通り過ぎるものを見て僕は、
さな:歩く’石っころさん!’っと言われる始末。同様通り過ぎるサラリーマンのお兄さんを見ても僕は’歩く石っころ!’さん!っと分かるので、歩道ではない中央道路を過ぎ去る同様車の運転を為さるみなさんも’動く石っころ!’、まだ何もしてないがぁぁってっ!っと、言われるお粗末さんである。顕彰会へ連れて行ってくれるお姉さんは、車の中で僕に世間話し、話し掛ける!何かやろうかと思い、顕彰会のお姉さん(リーダー)をやっているのかもしれないが、僕からするとその何かやってやろうとする顕彰会お姉さんも、’動く石っころ!’ここから抜け出せない。
僕は、面白そうなので宗教の一部であるキリスト教エホバの証人さんの会館に通っていたことがある。
顕彰会とこのエホバの証人を比べると(双方ともに固いが、、)、エホバの証人さんは(前も書いたが)服装一つを取るが、女性がきちんとスカートを履いている。対す、顕彰会のお姉さんは女性なのにズボンを履いているこの固さである!どちらも、何かやろう!として通っているなら(あるいは救いを求めて通っているなら)中に入ってみると良く分かる通り、(まあ僕から言わせるとだが)何もない!っと分かる救いとは別の’行き止まり!’の空間である。
競馬の話しをした!競馬の競走区分に[新馬]とある通り、各競馬馬は最初求めて[新馬]へ出走する。人生、この競馬[新馬]競走へも出走出来ないものが多いのだ!難易度の高い地球と言う台地の上に降り立っている人間は、人生で進むべく道を探し求める如く、顕彰会館へやって来るが、人生とは救いを求めて念仏を唱える、こうではないのである・・・。
いやぁ~、仏教で悟りを開くと人間生きるの本質を知る!と、悟りを開くあるいは開こうとするものは思うかもしれない。
違うのである!!
人生は、仏教の悟りによって大きく寄与し自らの存在の証明となる!これではないのだ!
実は、人生と言うのはある。人間が生まれその行き道で自分と言う存在を確固たる認められ、自分の生業とその業に励む人生と言うのはある。皆これが分からないのだ!サラリーマンやOL等の仕事が人生ではないはずだ!かと言って仏教ごとや他の宗教と同じ、人間としてのあり方を求める、または仏教語’悟り’への道、こんなのも人間が持つ人生、これではない!
さて、僕は競馬家として今日と言う土曜日、土曜競馬をちょっとやってみる!人生とは、これなのだ!何を言っているか、まだ殆どのものは分からない!人生とはあるのである!意を決し飛び込む向こう側に大きく広がる大海原、人生とはあるわけである!今日の顕彰会、ビデオ放映を見て宗教に50年も参加、自身の半人生を語っている信者のスピーチを聞き、やはりここは僕と言う競馬家が一言言わないと、一切生まれて変わらぬ人生を送る者がいる!と言うことを知り、僕は一筆印すわけだが、、、