三蟠軽便鉄道が取組んだ多角経営に焦点を宛てて、企業努力を振り返ってみよう。
三蟠鉄道の多角経営
短期間だった三蟠軽便鉄道の営業を多角経営と言う観点から見直してみよう。
鉄道は乗客が命、単に人や貨物を運べばよいという問題ではなかった。
多額な投資を伴う鉄道事業への進出は、投資に見合う収益体質は欠かせないので、創業当初から覚悟していたことではある。
三蟠軽便鉄道株式会社定款によると、次のように営業目的が、第2条に明確に書かれている。
第二条 当会社は軽便鉄道を敷設し一般の旅客貨物運輸の業を以って目的とす。
前項の附帯事業として水運業桟橋業築港及び娯楽機関の設備を兼営することを得。
とあり、付帯事業についても言及している。この内、水運業は東児島と三蟠間の渡し舟であろう。東児島の住民が渡し舟を利用して岡山市内へ出るには児島湾を渡り三蟠から軽便鉄道を利用するのが自然であったようだ。
最初は旅客貨物運送業と水運業だけを意識していたようだが、娯楽については具体的なイメージを持っていたのか分からない。
しかし、乗客のニーズは単なる交通の便だけではなかったことに気付いていく。
乗ること自体を愉しむ為の、納涼列車を走らせたり、宮道には海水浴場を整備することで乗客の増加が図られた。 海水浴事業に注力するや、度々広告を出して、乗客誘致に奔走した。当然に海水浴場には「貸しボート」を整備したり、「うどんや、そばや」『カキ氷』『西瓜』『アイスキャンデー』など、会社直営の飲食業にも関わってくる。 これらを兼業とすることで相乗効果が上がった。
岡山市立中央図書館敷地内にある八角園舎に展示されている当時の宮道海水浴場の様子
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海水浴場のイラスト
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宮道では夏場はもちろん、春には貝拾い、秋には魚釣り、年間を通じての観光客や沖田神社への参拝客も多い。
高島にも海水浴場を開設するや、ここにも釣り客、観光客を誘致することで乗客増を図ったことが、当時の山陽新報にも記録されている。
三蟠港からは、小豆島の土庄港への連絡が図られることから、八拾八ケ寺参拝客への便宜を図るなど客集めが大きな命題となったのである。
昭和3年3月岡山市市制40周年を記念した「大日本勧業博覧会」が3月20日から5月18日迄、岡山市内三会場に別れて開催された。
第一会場・・・ 練兵場、
第二会場・・・ 東山公園
第三会場・・・ 鹿田駅跡
東山地区の第二会場は、現在の岡山電気軌道東山終点の北側付近である。
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岡山市主催の大日本勧業博覧会のポスターから
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ここでは、竜宮城イメージの水族館が置かれると、大変賑わい、多数の入場者があった。
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博覧会が終わると、三蟠鉄道は人気だった第一会場の水族館の払い下げを受けて、三蟠駅舎南に独自で水族館を開設して営業を始めた、かなりの入場者もいたが、維持費がかさんで大失敗となる。魚は生き物であり、にわかに水族館を経営することが出来るはずも無い。見通しは甘かった。結局このことが尾を引いて三蟠鉄道の経営にかなりのダメージを与えることとなった。
もとより本業の鉄道事業が、次第にバス事業に顧客を奪われることとなり、三蟠鉄道もこれに対抗して、バス事業部を設けて、鉄道事業の不振を補う策にでた。
昭和2年からはサクラ自動車が三蟠鉄道の路線と重なる路線で営業したことで、競合し、昭和3年には三蟠鉄道(自動車部)もこれに対抗し、激しいデッドヒートを繰り広げ、昭和3年9月には三蟠鉄道が、サクラ自動車を買収するに至った。
こうして三蟠鉄道が生き残りを懸けた営業努力を重ねたものの、発動機船が京橋まであがって来る様になり、次々と乗客を奪われることになった。
三蟠鉄道の多角経営
短期間だった三蟠軽便鉄道の営業を多角経営と言う観点から見直してみよう。
鉄道は乗客が命、単に人や貨物を運べばよいという問題ではなかった。
多額な投資を伴う鉄道事業への進出は、投資に見合う収益体質は欠かせないので、創業当初から覚悟していたことではある。
三蟠軽便鉄道株式会社定款によると、次のように営業目的が、第2条に明確に書かれている。
第二条 当会社は軽便鉄道を敷設し一般の旅客貨物運輸の業を以って目的とす。
前項の附帯事業として水運業桟橋業築港及び娯楽機関の設備を兼営することを得。
とあり、付帯事業についても言及している。この内、水運業は東児島と三蟠間の渡し舟であろう。東児島の住民が渡し舟を利用して岡山市内へ出るには児島湾を渡り三蟠から軽便鉄道を利用するのが自然であったようだ。
最初は旅客貨物運送業と水運業だけを意識していたようだが、娯楽については具体的なイメージを持っていたのか分からない。
しかし、乗客のニーズは単なる交通の便だけではなかったことに気付いていく。
乗ること自体を愉しむ為の、納涼列車を走らせたり、宮道には海水浴場を整備することで乗客の増加が図られた。 海水浴事業に注力するや、度々広告を出して、乗客誘致に奔走した。当然に海水浴場には「貸しボート」を整備したり、「うどんや、そばや」『カキ氷』『西瓜』『アイスキャンデー』など、会社直営の飲食業にも関わってくる。 これらを兼業とすることで相乗効果が上がった。
岡山市立中央図書館敷地内にある八角園舎に展示されている当時の宮道海水浴場の様子
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海水浴場のイラスト
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宮道では夏場はもちろん、春には貝拾い、秋には魚釣り、年間を通じての観光客や沖田神社への参拝客も多い。
高島にも海水浴場を開設するや、ここにも釣り客、観光客を誘致することで乗客増を図ったことが、当時の山陽新報にも記録されている。
三蟠港からは、小豆島の土庄港への連絡が図られることから、八拾八ケ寺参拝客への便宜を図るなど客集めが大きな命題となったのである。
昭和3年3月岡山市市制40周年を記念した「大日本勧業博覧会」が3月20日から5月18日迄、岡山市内三会場に別れて開催された。
第一会場・・・ 練兵場、
第二会場・・・ 東山公園
第三会場・・・ 鹿田駅跡
東山地区の第二会場は、現在の岡山電気軌道東山終点の北側付近である。
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岡山市主催の大日本勧業博覧会のポスターから
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ここでは、竜宮城イメージの水族館が置かれると、大変賑わい、多数の入場者があった。
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博覧会が終わると、三蟠鉄道は人気だった第一会場の水族館の払い下げを受けて、三蟠駅舎南に独自で水族館を開設して営業を始めた、かなりの入場者もいたが、維持費がかさんで大失敗となる。魚は生き物であり、にわかに水族館を経営することが出来るはずも無い。見通しは甘かった。結局このことが尾を引いて三蟠鉄道の経営にかなりのダメージを与えることとなった。
もとより本業の鉄道事業が、次第にバス事業に顧客を奪われることとなり、三蟠鉄道もこれに対抗して、バス事業部を設けて、鉄道事業の不振を補う策にでた。
昭和2年からはサクラ自動車が三蟠鉄道の路線と重なる路線で営業したことで、競合し、昭和3年には三蟠鉄道(自動車部)もこれに対抗し、激しいデッドヒートを繰り広げ、昭和3年9月には三蟠鉄道が、サクラ自動車を買収するに至った。
こうして三蟠鉄道が生き残りを懸けた営業努力を重ねたものの、発動機船が京橋まであがって来る様になり、次々と乗客を奪われることになった。