三蟠鉄道研究会

今はなき岡山の三蟠軽便鉄道の歴史を探り、後世に伝承していくための活動をしています。

三蟠軽便鉄道開通の背景

2018-08-14 21:45:27 | 三蟠軽便鉄道の設立の背景

三蟠軽便鉄道を生んだ土壌と歴史的な背景


ここで過去をひもとき黄蕨の国の先進性について振り返ってみたい
三蟠軽便鉄道が開通できた背景、そして鉄道沿線・周辺地域とはいったいどんな地域だったのか

明治43年6月12日宇野線開通に伴い、それまで岡山市の表玄関とされていた三蟠港は、
宇野港にその地位を奪われ、上道郡内の住民、特に旭川東岸住民は危機感を増すことになりました。
富国強兵を標榜した明治に、鉄道は重要なインフラであり、
国の産業振興施策の一環として、明治43年8月3日施行された、軽便鉄道法と
続く軽便鉄道補助法が制定され、軽便鉄道敷設への気運が急速に高まりました。
上道郡内では平素郡内の各村長が定期的に郡役所に集い、コミュニケーションをとる場があり、
沿線、周辺の村長たちが発起人となり、大正3年2月1日三蟠鉄道株式会社を設立しました。
国が民間鉄道を奨励したことで、全国的に鉄道敷設の機運が高まったとはいえ、
三蟠軽便鉄道が驚異的なスピードで開業にこぎつけたことを説明しきれるものではない。
住民たちがいかにこの地を誇りに想い、鉄道敷設に向け、連帯して立ち上がったからに他ならない。
この恵まれた土壌と文化が根付いた歴史を紐解いてみたい。

岡山県南は古代吉備の国の中心地、古くから卓越した人物がたびたび登場している。strong>
黄蕨の穴海と古墳時代前半の推定海岸線





全国に先駆けて先覚者が多くそだった背景には何があったのか
きっと古代から気候温暖な晴れの国。山と海の幸がふんだんな黄蕨(吉備)は、
目指していた葦原の国(楽園)だったに違いありません。
縄文時代末期から、渡来人が相次いで大陸から移住するようになりました。
当時は海路が中心で交通の要衝たる地域は多くの渡来人が、住み着いたのです。
当時の岡山平野は穴海と呼ばれる大きな海でしたが、児島も文字通り島であり、
現在の小豆島よりやや大きな島だったようです。
古代の瀬戸内航路の本航路は児島の北側でした。穴海の周辺は渡来人が多く住み、
穴海を通じて物資や食料などを運ぶには好都合だったと思われます。
巨大な文化圏が生まれたとしても自然なことだったと思います。
 中国山脈のおかげで高梁川、旭川、吉井川の県内三大河川の水は豊富で、
しかもとてもきれいな水です。この美味しくて腐らない水は、その後遣隋使、
遣唐使の時代にも飲料水として、船に積み込まれたに違い有りません。
航海には相当の日数を要し、航海技術も未熟だった時代、文字通り命をつなぐ水として
小野妹子、吉備真備、和気清麻呂、阿倍仲麻呂も吉備の美味しい水を積んで
旅立ったことでしょう。
 既に4世紀には大挙して渡来したと言われる騎馬民族の秦族が上陸したのは、
現在の東児島地区の可能性が高いと筆者は考えています。
秦一族が製鉄の技術や治山治水の技術を持ち込んだ結果として、
黄蕨(吉備)の国を造り、そして邪馬台国を造ったと思います。
秦氏の足跡と見られる痕跡が児島を中心として、現岡山県南各地に見られるからです。
 例えば、製鉄技術は、高温を必要とするので農機具や日本刀をはじめとした
様々な鉄器や陶器、煉瓦も生み出しています。

空を飛んだ浮田幸吉にみる先進性
江戸末期、八浜の表具師浮田幸吉は、空飛ぶ鳥を見て、
若い頃から空を飛ぶことを夢見ていました。
表具師の材料と技術経験を生かして、竹を骨組みとして紙と布を張り合わせ、
柿渋を塗って強度を持たせ翼を作って準備しました。
1785年夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がって、僅かながら滑空して川原に落下
したとされ、日本で初の飛行をしている。因みにライト兄弟の飛行より早かったとされ、大記録です。
当時の備前岡山藩の藩主池田治政は町民を騒がせたという罪で所払いとされ、
浮田幸吉は放浪の旅を続け、駿河の国に移り住んだといわれています。
没後150年経過して、平成9年、旧備前岡山藩池田家の末裔、池田隆政により、
開拓者精神にあふれた浮田幸吉の偉業が見直され、所払いは許されている。


以下の画像2枚は表具師浮田幸吉が京橋の欄干から飛んだ(飛び降りた)時に使われた翼など表具  

岡山市南区の藤原元太郎記念館に保管されている









東児島の宮浦地区の石工集団の歴史
三蟠港対岸の宮浦地区は、現在岡山市南区となっているが、
かつての児島郡内である。かつて江戸末期、全国屈指の石工集団がいた地区でした。 
石工集団とは現在のゼネコンに相当する大規模な土木集団であり繁栄を極めていました。
セメントやコンクリートのない時代、全国に出張し大規模な橋や城づくりを手がけていたのです。
幕末の頃、当時の西欧列強各国は日本に開国を求めて、黒船を中心に頻繁に列島沿岸部に近づき、
幕府は全国の大名に命じて、迎え撃つ体制をとりました。
当時備前岡山藩も幕府の求めに応じて、国防のため千葉の房総半島に援軍を送っています。
また、江戸末期の日米和親条約締結に伴い箱館(現函館)を開港し徳川家定の命により
築造された五稜郭の石積みは、宮浦地区の井上喜三郎が請け負ったものでです。
この五稜郭は江戸末期に蝦夷地の箱館府(現函館市)に築造された稜堡式の城郭で
ヨーロッパ風、星形となっている。
 当時の宮浦に石工集団が居たからこそ、
三蟠軽便鉄道の線路敷きとなる道床も速やかに敷設整備できたという側面も忘れてはならない。

沖新田の開墾
備前岡山藩藩主だった池田光政、綱政当時に津田永忠に命じて造営した現岡山県南
に位置する広大な沖新田を、後に三蟠軽便鉄道が駆け抜けました。
備前岡山藩は、表玄関が三蟠港であり、歴代の藩主は、この地を重要視した経緯もあり、
住民たちは誇りを持って日常生活を営んでいました。
沖新田はまさに、藩主が威信と命運を賭けて成し遂げた大事業だったが、
極めて広大な土地が造営できて、
石高も大いに上がり、藩の財政も豊かになったことは言うまでもありません。 
現在の沖田神社には産土神として沖田姫が祀られている。日本古来の生贄文化が、
この地にも美談として語り継がれています。

倉安川の造営
沖新田の開墾と相俟って、津田永忠は、藩主の命を受け、
次々と大事業を成し遂げていくことになるが、中でも、操山の南麓に旭川下流域から
吉井川中流域まで総延長約20kmに及ぶ大運河を作ったことでも有名です。
つまり吉井川との接続地点に設置した倉安川吉井水門は、運河の出入り口となって、
船通しの閘門(こうもん) 施設なのです。
岡山藩主池田光政が延宝7(1679)年に、津田永忠に命じて掘削に当たらせ、
1年間で完成したものです。
その目的は、岡山藩が17世紀後半に干拓 した倉田・倉富・倉益の三新田への
灌漑用水の供給、和気・赤磐・上道3郡の年貢米の 輸送、岡山城下へ出入りする
高瀬舟の水路整備などであり、通過地域にちなんで倉安川と名付けられている。
倉安川から沖新田へ流れる水路が、
田園地帯を潤す農業用水に地域住民は歓喜したことでしょう。
 この閘門式運河の造営技術は全国に先駆けたばかりか、
世界的に有名なスエズ運河やパナマ運河より、早い時期に竣工していたのです。

国産自動車第1号制作の山羽虎夫 氏

国産自動車第1号が、岡山、三蟠間(6キロ)を走ったのは、明治37年5月7日だった。
その製作を担当した山羽虎夫、佐々木久吉、両氏の苦心もさることながら
其の発註者たる森房造、楠健太郎、両氏の卓越した見識も見落としてはならない。


日本で最初の国産自動車は国清寺三蟠間を走った

山羽虎夫の国産自動車第1号となった木炭自動車



偶々、50周年にあたるを以て、東京自研社主唱して醵金、
岡山の有志者その紀念日に除幕式を行う。・・とある。(1954年孟春 岡長平識)
 因みに、陸蒸気を模したのか、太い煙突の有る木炭車だった。
そのレプリカは現在トヨタ自動車本社に展示されている。

トヨタ自動車本社に展示の山羽虎夫の国産自動車第1号



以上は一例ですが、岡山県内は古くから開拓精神旺盛で、先覚者も多く、
常に全国に先駆けての先進性を持ち、気候風土、地の利と相俟って岡山県人の心の中に
郷土を愛する県民性が育まれていったと考えています。


こうした郷土を思う心は、新たな課題が生まれたときにも、その力を如何なく発揮され、
その都度、見事に課題を克服してきました。
三蟠軽便鉄道が設立から短期間に開通にこぎつける事が出来たのも、
地域住民が先駆者の業績に思いを馳せたからに違いありません。
国からの民間鉄道敷設奨励に、その必要性を感じた住民達は、忠義を重んじ、
そのプライドを賭けての大事業を強い結束力と行動力を持って、
驚異的なスピードで開業にこぎつけたのです。
きっと先人たちをお手本にしたに相違ありません。
会社設立は大正3年2月1日、開通できたのが大正4年8月11日ですから、
その間1年6ヶ月余りです。鉄道は村々を越えて、当然のことながら広域的な事業展開になります。
それでも各村長が全く未経験な鉄道事業に取組む事に、全くとまどいもなく踏み込めたのか不思議です。
それには課題解決のため、上道郡の郡役場に郡内の村長たちが集うことが出来た
という時代背景も忘れてはなりません。



山陽新報に見る三蟠軽便鉄道営業広告

2018-08-13 12:35:04 | 新聞記事
山陽新報に見る三蟠軽便鉄道営業広告続報

以下に三蟠軽便鉄道の営業広告の一部を紹介します。
本業の鉄道運賃収入増加の為、乗客数の増加を図る為の広告です。
 再三に亘って、運賃割引など、山陽新報に紙面広告をしています。
春には新緑、又、秋には紅葉を愉しむ旅行へのお誘い、釣マニアへの季節季節のご案内、
夏には高島や宮道、松ケ鼻海水浴場へのご案内、納涼地へのご案内、
納涼列車へのお誘い、三蟠水上煙火大会(花火)など、あの手この手で勧誘しています。

海水浴場も 三蟠軽便鉄道が経営していますが、こうした企業努力にも拘わらず、
営業成績は伸び悩み、自動車部の創設など多角経営へと
企業努力した様子が覗えます。

大正8年10月13日金光山の秋色一日旅行の好適地、児島湾の沙魚一日御清遊の好時期




大正10年 5月 1日春もつとに新緑を装う高島は遊覧の客を待つ



 
大正11年 7月22日高島納涼場開始




大正11年 8月 7日高島三蟠海水浴と汽車大割引




大正11年10月21日釣遊家の好福音




大正12年 7月11日宝伝鹿忍海水浴行きの御便利




大正12年 7月22日一日清遊の好適地高島海水浴場開始




大正12年 8月 3日三蟠鉄道の納涼列車




大正12年 9月22日魚釣ご案内
 三蟠のはぜ、高島のちぬ、北浦郡のがざみ、 目下好魚季 





大正13年 8月13日いよいよ明16日夜 三蟠水上煙火大会




昭和 3年 4月29日自動車部営業開始三蟠鉄道




昭和 3年 7月20日宮道、松ケ鼻、高島海水浴開始

昭和 3年 7月21日宮道海水浴場案内三蟠鉄道






鉄道用地関係帳簿

2018-08-11 06:03:55 | 支配人だった吉田茂が保管していた帳簿
鉄道用地関係帳簿

三蟠軽便鉄道が敷設認可を経て、開業する間はとても多忙な時期だったと思われます。
路線は始発三蟠駅から、最初は桜橋駅までですが、線路用地が長く、
また当時は三蟠村、平井村そして岡山市と村々を跨り、線路を敷設しなければなりません。
線路用地とする土地は、殆ど農地ではありましたが、ごく短期間で線路敷とする用地買収
を済ませ、開業にこぎつけることが至上命題だったと思われます。
線路用地だけではありません。
敷設作業には倉安川や農業用水路などへの鉄橋架設工事があります。
道床整備には、両脇への石積み、盛り土と合わせ、道床の両サイドに排水路を配し
造営には困難を極めたはずです。
加えて駅舎や乗降場の建設も同時並行的に進められた事と思います。
その苦労の跡が、用地台帳や地籍形状図面と言う形で残されています。
用地台帳は行政区画単位に別冊で残されています。
ここでは、用地台帳の表紙、そして地籍・地籍形状図面の一部を紹介します。

用地台帳平井村之部




用地台帳岡山市の之部と三蟠村之部



地籍・地籍形状図面
地籍・形状図面には鉄道用地として提供される部分が赤枠表示されています。



地籍・地籍形状図面




三蟠村耕地切図から六番字八割



三蟠村耕地切図



会計帳簿と日記帳

2018-08-08 09:21:02 | 支配人だった吉田茂が保管していた帳簿
総勘定元帳など会計帳簿と日記帳

この総勘定元帳は黒表紙で402頁あり、全勘定科目の明細が記載されています。
勘定科目毎に日付、摘要 借方 貸方 借或貸 差引残高が
日を追って記録されています。しかしこの総勘定元帳には
会社設立から、清算業務終了まで全期間分の記録が残されているわけではありません。
また、摘要欄には明細の記載は殆ど無く日記帳と書かれている。
摘要欄が狭いため、記載が困難だったと思われますが、
日記帳の該当頁をみれば、明細が分かることになります。
よって、日記帳は会計帳簿の一部となり、両方を照らし合わせて初めて
取引の実態が分かることしになります。
勘定科目は以下の通りです。
 建設費            資本金
 水運興業費          鉄道財団担保借入金
 自動車興業費         借入金
 水族館興業費         法定積立金
 三蟠運輸株式払込金      減価償却積立金
 仮出金            従業員退職給与積立金
 貯蔵物品           船価減価償却積立金
 未収入金           仮受金
 立て替え金          未払金
 預金             未払配当金
 現金             身元保証金
 鉄道営業費          畜産借越金
 自動車営業費         前期繰越金
 水族館営業費         鉄道営業収入
 各事業興業営業費       自動車営業収入
 建設営業費          水族館営業収入
 各事業団営業費        各事業団営業収入
 借入金利子          雑損
 物品販売営業費        雑役
 海水浴設備費         物品販売営業収入
 有価証券           清算収入
 清算費            寄付金
                清算配当金支払未済金





ここからは総勘定元帳の一部頁を紹介します。
勘定科目一覧を見る如く多くの営業科目があり多角経営を展開しているが、
その中で、一部の頁を覗いてみましょう。
自動車営業費勘定(P172)




海水浴設備勘定(P34)





各事業興業営業費勘定(P206)



水族館営業費勘定(P108)



用地代金及補償金支払簿 大正3年12月




同上用地代金及補償金支払簿の中身の一部




領収書及日記帳綴、昭和6年~7年




日記帳綴 昭和7年6月1日~9年5月31日及び
 昭和6年8月起 三蟠鉄道清算人会決議録綴




伝票綴 昭和9年12月より10年5月31日まで及び出金伝票の一部




伝票綴 昭和10年6月起










三蟠軽便鉄道の三蟠駅舎も手がけた福島の江川三郎八

2018-08-04 19:38:35 | 福島県との不思議なご縁

 三蟠軽便鉄道の三蟠駅舎も手がけた福島の江川三郎八

福島県と岡山県にしか見られない江川三郎八の作品
しかも国の重要文化財級の建造物が福島と岡山にだけ残されているのか、不思議です。

岡山には江川三郎八研究会が、江川三郎八の偉業を後世に伝えようと活発に活動されています。
江川三郎八研究会のリーフレットから、その概要を見てみましょう。


江川三郎八について
会津藩士江川家の三男として生まれ、長兄は戊辰戦争で亡くなりました。
13歳で遠縁の大工棟梁へと弟子入りし,堂宮大工の技術を習得
明治20年に福島県に採用され、建築技師として活躍、そして岡山県からの招聘で
明治35年岡山県へ移住し、岡山県でも様々な建築を手がけました。
県会議事堂や郡役所、警察署など官公庁をはじめ、
学校・神社・病院、洋式橋など幅広い分野に及びます。
岡山県庁退職後も各方面からの委嘱を受け、
金光教本部の造営、天満屋などの商業建築や個人住宅の設計にも携わったといわれます。 
               (江川三郎八研究会の資料参照)

なぜ福島と岡山なのでしょうか。
 そこで、歴代岡山県知事(官選)一覧を調べてみると
第4代岡山県知事 吉原三郎(よしはらさぶろう)
   《自明治33年1月19日~至明治35年2月10日》、 
第5代岡山県知事 檜垣直右《(ひがきなおすけ)
   《自明治35年2月10日~至明治39年7月28日》  
共に福島県から移住して岡山県知事を務めた方です。
江川三郎八が岡山県からの招聘を受けたのは、まさに第5代岡山県知事 檜垣直右の時代
 であり、県知事が江川三郎八の建築技量を高く評価したということでうなずけます。

ここにも又、岡山県と福島県の古くからの不思議なご縁を感じざるを得ません。
三蟠軽便鉄道は沼尻鉄道との犬島が取り持つご縁で、廃線後、蒸気機関車一両が
福島へ転籍したご縁を思うとき、いままた新たに不思議なご縁が確認できました。
三蟠鉄道廃線後ばかりではなく、開業当時にも三蟠駅舎の設計に江川三郎八が
関わっていたことが分かったのは、まさにびっくりぎょうてんです。

なお、江川三郎八の建築様式の特徴のひとつとして「トラス構造」があります。
三蟠軽便鉄道開通当時の三蟠駅駅舎にも、その特徴が鮮明に残されています。




福島県と岡山県に建築された江川式建物の位置




福島県と岡山県に現存する主な江川式建築




旧 旭東小学校附属幼稚園舎(1908)




福島県師範学校




福島大林署カ (1901、のち福島市役所)




岡山警察署