フスマは紙でできていて、
鍵もかからず、音も筒抜け
です。しかし、日本人は、
それをドアにも匹敵する
厳然たる「隔て「」として
過ごしてきました。
襖や障子で生活する中で、
絶えず隣室を思いやり、人
の気持ちを察しながら育ち、
細やかさと同時に他を
おもんばかりすぎる程の
感受性を訓練されてきまし
た。
意思の具体的な表示がなく
ても、襖が閉まっていれば
「入ってほしくないのだな」
と察し、
ヒソヒソ話が聞こえれば
「聞いてほしくないのだな」
と察するという、名人芸と
でも言うべき
「阿吽の呼吸での察し」と
「思いやり」の文化を築いて
きたと言えます。
他とは厳然と区切られて、音
も聞こえにくいドアの文化の
中で、物事をはっきりさせな
がら育った欧米人たちと違い
ます。
しかし、この頃では、団地や
マンションなどのドア文化の
中で、しかも鍵っ子として育
った人たちが多くなっていま
す。
ひょっとしたら、日本流の
コミニケーションが通用しな
くなったのは、こんなところ
にも一因があるのかも知れま
せん。
鍵もかからず、音も筒抜け
です。しかし、日本人は、
それをドアにも匹敵する
厳然たる「隔て「」として
過ごしてきました。
襖や障子で生活する中で、
絶えず隣室を思いやり、人
の気持ちを察しながら育ち、
細やかさと同時に他を
おもんばかりすぎる程の
感受性を訓練されてきまし
た。
意思の具体的な表示がなく
ても、襖が閉まっていれば
「入ってほしくないのだな」
と察し、
ヒソヒソ話が聞こえれば
「聞いてほしくないのだな」
と察するという、名人芸と
でも言うべき
「阿吽の呼吸での察し」と
「思いやり」の文化を築いて
きたと言えます。
他とは厳然と区切られて、音
も聞こえにくいドアの文化の
中で、物事をはっきりさせな
がら育った欧米人たちと違い
ます。
しかし、この頃では、団地や
マンションなどのドア文化の
中で、しかも鍵っ子として育
った人たちが多くなっていま
す。
ひょっとしたら、日本流の
コミニケーションが通用しな
くなったのは、こんなところ
にも一因があるのかも知れま
せん。